【対局中に「不要の会話を禁じている」のは何故か ~ 芸の静謐について の巻】
■当ブログ「カベ突破道場」名誉師範で本拠地同好会元会長の
S十段格から、以前に聞いた話
ある大会で、対局相手が「投げた」(負けを認めた)ところ、
Sさんが「まだ(勝負を)諦める必要はないでしょう」旨を言った。
きっと、いつもの親切心だったと、わたしは思う。
しかし相手は気色ばんで「余計なことは、いわないでほしい」
と言い放ったそうだ。
極端な話だが、ずっと気になっていた。
というのは、なぜ対局中に不要の会話を禁じているのかについて、
いま一つ、胸にストンと落ちる説明を聞いたことがなかったからだ。
■たとえば、相手の着手について
「そんな手はないやろ」「それはダメダメ、こうやれば潰れだよ」など
こういう言質は反則である。
話術で局勢を変えようとするのは卑怯というわけである。
まともな碁会所なら「出入り禁止処分」になる。
わたしのお気に入りの囲碁サロンでも同様の措置がなされた。
いや、この措置がなされたから、お気に入りになった
と言った方が正確である。
■だが、わたしはもっと深いところに、
その意味があるのではないか、と思う。
例えば、茶の湯の利休。
芸事の力を“武器”に傀儡師(くぐつし)となり天下人を操り、
わずか二畳の空間「茶室」で武将連中と相まみれる。
緊迫した心理戦の勝負とでもいえようか。
この静謐の時空は、
乱世末期に世の平安を願うための
茶人という立場での「道の追求」だったのであろう。
真剣勝負にあって、たわいのないおしゃべりは
邪魔以外に何者でもなく、筋悪であったに違いない。
こうして、多くの芸事でも、その一瞬一瞬に「口舌不要」となった。
つまり勝負という面より、精神性を重んじる道に分け入った、
とみるべきではないか。
囲碁将棋が、
ほかの賭け事や偶然性に依存したゲームとは一線を画し
別の道を歩んだのはこうした理由だったと思うのである。
千利休(1522~91年) わび茶(草庵の茶)の完成者で、「茶聖」といわれる。天下人・豊臣秀吉の側近であり、多くの大名にも影響力を持った。やがて秀吉と不和が生じ、最後は切腹に追い込まれた。その真相については諸説あり、定まっていない。
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日本棋院 公式ホームページより
囲碁の基本:対局のルール・流れ <対局中のおしゃべり>
囲碁は別称「手談」ともいわれ、
盤上で一手一手意味のあるコミュニケーションをしているので、
対局中、おしゃべりをする必要がありません。
親しい友人等と打つ時などユーモアのある会話、
相手をなごませる会話をしながらの碁は、時には楽しいものですが、
お互いの思考の邪魔にならない程度にしましょう。
また、一番困るのは観戦者の口出しです。
「アッ!」とか「ウッ!」と言われただけでも対局者は気になるし不快です。
観戦者は対局中の碁に関することを絶対言ってはいけません。
簡単なマナーなので守って気持よく対局を始めましょう。