囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

「思い上がり」に喝 12

2020年06月30日 | 雑観の森/心・幸福・人生

 

まずは公明正大、清廉潔白を貫いてこそ ~ 「名奉行の代名詞」の話 の巻】

 


徳川家康が浜松から駿府に移る際、

板倉勝重を駿府の奉行に据えようとした。

ところが勝重がいうには

「そのような重任に就けるものではありませぬ」。

固く辞退したが、家康は頑として聴き入れない。

そこで勝重

「では帰宅しまして、家内とよく相談のうえ

お答え申し上げます」といい、邸に戻った。


諮ったところ、奥方は大いに驚いて

「わたしに ご相談されるということは

まことに不審に堪えませぬ。

わたしは 公のことについては

全て申し上げる身分ではございませぬ」。


すると勝重

「いや、そうではない。

とかく重職にあると、

内謁ということが行われがちである。

事の敗れるというのは、これより始まるのだ。

そなたが、いっさい公事には触れぬこと。

他人からの苞苴(ほうしょ=ワイロ)は決して受けぬこと。

この二つを、固く誓うならば、この職をお承け致そう」

と持ち掛けた。

その結果、ようやく奉行就任に至った。

 

         ◇


古くから、清廉な政治家は

内謁ということを、

深く戒めた。

足元がぐらついては

何も成し得ぬ

としたものである。

 

 

内謁(ないえつ)
①内々の謁見。内謁見
②奥向きに取り入ること。内々の頼み


板倉勝重(いたくら・かつしげ) 安土桃山~江戸前期の旗本、大名。優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件・訴訟を裁定し、名奉行と言えば世人誰もが勝重を連想した。幼少時に出家して浄土真宗・永安寺の僧となったが、家康の命で還俗して武士となり、家督を相続。主に施政面に従事し、1586年に家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行となり、のちに江戸町奉行、京都所司代と出世して辣腕を振るった。

 



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