【まずは公明正大、清廉潔白を貫いてこそ ~ 「名奉行の代名詞」の話 の巻】
徳川家康が浜松から駿府に移る際、
板倉勝重を駿府の奉行に据えようとした。
ところが勝重がいうには
「そのような重任に就けるものではありませぬ」。
固く辞退したが、家康は頑として聴き入れない。
そこで勝重は
「では帰宅しまして、家内とよく相談のうえ
お答え申し上げます」といい、邸に戻った。
諮ったところ、奥方は大いに驚いて
「わたしに ご相談されるということは
まことに不審に堪えませぬ。
わたしは 公のことについては
全て申し上げる身分ではございませぬ」。
すると勝重は
「いや、そうではない。
とかく重職にあると、
内謁ということが行われがちである。
事の敗れるというのは、これより始まるのだ。
そなたが、いっさい公事には触れぬこと。
他人からの苞苴(ほうしょ=ワイロ)は決して受けぬこと。
この二つを、固く誓うならば、この職をお承け致そう」
と持ち掛けた。
その結果、ようやく奉行就任に至った。
◇
古くから、清廉な政治家は
内謁ということを、
深く戒めた。
足元がぐらついては
何も成し得ぬ
としたものである。
内謁(ないえつ)
①内々の謁見。内謁見
②奥向きに取り入ること。内々の頼み
板倉勝重(いたくら・かつしげ) 安土桃山~江戸前期の旗本、大名。優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件・訴訟を裁定し、名奉行と言えば世人誰もが勝重を連想した。幼少時に出家して浄土真宗・永安寺の僧となったが、家康の命で還俗して武士となり、家督を相続。主に施政面に従事し、1586年に家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行となり、のちに江戸町奉行、京都所司代と出世して辣腕を振るった。