御城碁(おしろご) 江戸時代、囲碁家元四家を代表する棋士が、徳川将軍の御前で披露した対局。寛永3(1626)年ごろに始まり、毎年1回、御城将棋とともに2局ないし3局打たれた。幕末の元治元(1864)年に中止となるまでの230年余り続いた。大坂冬の陣の吉例にちなんで「11月17日」に御城将棋とともに行われるように定められたのは、吉宗が将軍だった享保元(1716)年から。全536局、出仕棋士67人。本因坊秀策が嘉永2(1849)年~文久元(1861)年に記録した19戦無敗が有名。御城碁に出仕することは最高の名誉であり、その棋譜は耳目を集めた。江戸後期には市井にも囲碁ブームが広がり、江戸の華とまでいわれるほどに盛んになった。
【疫病に倒れた本因坊秀策 ~ 天下の檜舞台「御城碁」というドラマのキセキ の巻】
本因坊秀策の史上最強説は「御城碁19連勝」が支えである。
のちに本因坊道策(前聖)、本因坊丈和(後聖)に並び称されるのは
棋力のみならず、人格に優れたことも加味されてのことである。
無敵の源泉は平明秀麗な碁風と、兄弟子・秀和同様に正確な形勢判断。
呉清源、趙治勲など最強棋士が、その棋譜を並べに並べたことは
広く知られ、今もプロにとって最善のお手本であり続けている。
1862(文久2)年、
江戸でコレラが大流行し本因坊家内でもコレラ患者が続出した。
秀策は秀和が止めるのも聞かず、患者の看病に当たり、
当人が感染し、そのまま34歳で死去した。
そして、まもなく。
御城碁は中止・消滅した。
江戸城火災を理由に沙汰止みとなっていたところだったが
海外列強の開港を迫る動きに、それどころではなくなったのである。
ほどなく明治維新となり、
幕府という強大なパトロンを失った碁界は冬の時代に入った。
秀和が名人位に就くことなく、この世を去ったのはこの頃である。