『空』(くう)について
空(くう)という言葉から、空虚(くうきょ)という言葉が浮んできます。自分は高校生の頃、どこか心のなかに空虚感のようなものを感じていました。思えば、自分という小さな殻に閉じこもっていたのです・・・・。
それが社会人となり、ふと、「般若心経」に出会ったのでした。その「魔訶般若波羅蜜多心経」は、亡き父が持っていた『御嶽山肝要集』のなかにも載っていました。そして、ようやくというか、この歳になり、「般若心経」について自分なりに考えてみようと思いました。
『般若心経の読み方』ひろさちや著より。
あらゆる物質的存在は空にほかならず、空がそのまま物質的存在にほかならない。物質的存在がすなわち空、空が物質的存在なのだ。知ったり、感じたり、判断したり、意欲したりするわれわれの精神作用も、これまた同じく空である。
すべてが「空」なのだ。「色即是空。空即是色。」それが真に理解できたとき、われわれは、大いなる精神の自由を獲得できるであろう。
と、あったのですが、この「色即是空。空即是色。」がどうしても、わからない自分でした。
ところが、先日、『禅 現代に生きるもの』紀野一義著のなかの「色即是空 空即是色」に関する文に出会い、目から鱗でした・・・・。
以下、『禅 現代に生きるもの』より。
仏教で「虚空」という言葉を使うとき、われわれが虚空という字を見て感じるような空しい感じとは違って、これは時間と空間を超えた世界を指している。仏教でいう場合の虚空は、非常に力強い、大らかなものである。
ところが、これが芸術の世界になると、空しい、せつない世界を指すことになる。「般若心経」の中に「色即是空 空即是色」とあるが、この「空即是色」と還って来るときの「空」が「虚空」に対応する仏教の「空」である。
「色」とは「形のあるもの」「この世の存在しているもの」という意味であるが、自分の今のこの在り方を一度徹底的に否定してみようという生き方が「色即是空」である。このときの「空」は、「そうではない、そうではない」と徹底的に否定して行くはたらきをあらわすことばである。
こうして徹底的に自分の在り方を否定して行って、自分というものが全くなくなってしまったときに、突然からりと大きないのちの世界がひらけて来て、その大らかないのちの中に生かされている自分をもう一度発見する方向が「空即是色」の風光である。その意味で、「空即是色」というときの「空」は仏のいのちの世界であるといってよい。
「空」はひと口にいえば、仏のいのちであり、仏のはからいであり、大いなるいのちそのものである。そういう大いなるいのちそのものが、われわれを生み、生かし、そしてわれわれに死を与える。死によってわれわれはその大いなるいのちの中にふたたび帰って行くのである。
「空」という字を書いてみせると、今の若い人たちは「そら」とか「むなしい」とか「からっぽ」とか読むが「くう」とはなかなか読まない。昔の仏教者はすぐ「くう」と読んだ、そのへんからしてもう大分違っている。
宗教の世界と芸術の世界は非常によく似た世界であって、しかも全く違っている。芭蕉のような生涯を送る人は必ず「色」の世界を流転する。
続けて、宗教の世界と芸術の世界の違いについて書いているのですが、芸術の世界も奥深く、宗教の世界も奥深く、人が宗教の世界に入って「空」を掴むことは生半可では出来ないと思った私ではあります。
改めて、「色即是空 空即是色」の心で、日々過ごしてしていけたらなと・・・・。本年も様々なブログから教えられたり元気をもらいました。来年もよろしくお願いいたします。