『ふるさとについて 2 』
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ある日の佐久市の広報です。
「佐久市で生まれ育った人」と「佐久市に移住してきた人」四人が佐久市の魅力について話されていました。以下、抜粋です・・・・。
暮らしやすいまち。当たり前にある美しい景色、美味しい食べ物。ありのままの佐久でいい・・・・などです。
「スーパーや病院、駅が近くにあって暮らしやすい佐久での生活に慣れてしまうと、もう他では暮らせない感じがします。それに暑がりなので、夏に暮らしやすいのはとてもありがたいです。」
「五稜郭の桜が好きで毎年来ている県外の友人がいますが、地元に住んでいると当たり前にあるので逆に行ったことがない人も多いですよね。」
「生活の中で目に入る景色が、本当に絵になるんです。はっとするほど美しい景色が当たり前のようにそこにあるのが佐久の魅力ですね。」
「やっぱり浅間山の景色ですかね。見るとほっとします。あとは、平尾山から見る佐久の景色が好きなのですが、佐久が街になってきたなと感じます」
「佐久は移住者も地元民も意見を言いやすく、住みやすいまちを目指してより良くしていこうという姿勢を感じます。佐久の風土が良いからだと思います。」
「自分がもっと歳をとった時に住みにくいまちにはしたくないので、佐久で世界が成り立つような、そんなまちづくりが出来たらうれしいです。」
そんな、佐久市の市民憲章(平成22年4月1日制定)です。
佐久市は、浅間・荒船・八ヶ岳・蓼科の雄大な山なみと、千曲の清流、満天の星に抱かれ、豊かな自然や先人の築いた歴史と伝統に育まれた、美しい高原のまちです。わたくしたちは、このかけがえのないふるさとを受け継ぎ、輝く未来へ躍進する、明るく住みよいまちをつくるため、ここに市民憲章を定めます。
一 豊かな自然を大切にし、清らかで環境にやさしいまちをつくります。
一 歴史と伝統に親しみ、教養を深め、文化の薫り高いまちをつくります。
一 働くことに誇りと喜びを持ち、産業の発展する活力あるまちをつくります。
一 心身ともに健康で、互いの命を尊重し合い、安心して暮らせるまちをつくります。
『佐久・わが市(まち)』
作詞:山川 啓介、作曲:神津 善行(昭和56年7月5日)です。
一
八ヶ岳 浅間 荒船 蓼科
山々は優しく 今日も見守る
のびやかに育ち すこやかに生きる
この市(まち)の仲間を すべての生命を
ああわが市(まち)佐久 大空に愛された
ああわが市(まち)佐久 美しいふるさと
二
やすらぎをたたえ 千曲は流れて
花たちを咲かせて 人をうるおす
あたたかい瞳 満ち足りた心
一人ずつわけあう ひとつの幸せ
ああわが市佐久 ぬくもりが優しさが
ああわが市佐久 あふれてるふるさと
三
まろやかな大地 歴史が息づき
新しい希望が 空を見上げる
ここに住む誇り 抱いている胸は
知っている抱いている 世界の広さも
ああわが市佐久 しなやかな樹のように
ああわが市佐久 のびてゆくふるさと
ちなみに、日本で海から一番遠い地点は、北緯36度10分25秒 東経138度35分1秒。佐久市と群馬県南牧村との県境付近に位置し、「雨川ダム」の南東約2,200mの尾根近くの地点ということ。この地点は標高約1200mの山中にあり、海岸線まで約115kmの地点となります。
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『ふるさとについて』ということで、とりとめなく書いてきた私です。
少し長いですが、『落梅集』(小諸にて)より、寂寥です。
「寂寥」
岸の柳は低くして
羊の群の絵にまがひ
野薔薇の幹は埋もれて
流るゝ砂に跡もなし
蓼科山の山なみの
麓をめぐる河水や
魚住む淵に沈みては
鴨の頭の深緑
花さく岩にせかれては
天の鼓の楽の音
さても水瀬はくちなはの
かうべをあげて奔(はし)るごと
白波高くわだつみに
流れて下る千曲川
あした炎をたゝかはし
ゆふべ煙をきそひてし
駿河にたてる富士の根も
今はさびしき日の影に
白く輝く墓のごと
はるかに沈む雲の外
これは信濃の空高く
今も烈しき火の柱
雨なす石を降らしては
みそらを焦す灰けぶり
神夢さめし天地の
ひらけそめにし昔より
常世につもる白雪は
今も無間の谷の底
湧きてあふるゝ紅の
血潮の池を目にみては
布引に住むはやぶさも
翼をかへす淺間山
あゝ北佐久の岡の裾(すそ)
御牧が原の森の影
夢かけめぐる旅に寝て
安き一日もあらねばや
高根の上にあかあかと
燃ゆる炎をあふぐとき
み谷の底の青巖(あおいは)に
逆まく浪をのぞむとき
かしこにこゝに寂寥(さびしさ)の
その味ひはにがかりき
あな寂寥(さびしさ)や其の道は
獸の足の跡のみか
舞ひて見せたる大空の
鳥のゆくへのそれのみか
さてもためしの燈火(ともしび)に
若き心をうかゞへば
人の命の樹下蔭(こしたかげ)
花深く咲き花散りて
枝もたわゝの智慧の実を
味ひそめしきのふけふ
知らずばなにか旅の身に
人のなさけも薄からむ
知らずばなにか移る世に
仮の契りもあだならむ
一つの石のつめたきも
万(よろず)の聲をこゝに聴き
一つの花のたのしきも
千々の涙をそこに観る
あな寂寥(さびしさ)や吾胸の
小休もなきを思ひみば
あはれの外のあはれさも
智慧のさゝやくわざぞ是
かの深草の露の朝
かの象潟(さきがた)の雨の夕
またはカナンの野辺の春
またはデボンの岸の秋
世をわびびとの寝覚めには
あはれ鶉(うずら)の声となり
うき旅人の宿りには
ほのかに合歓(ねむ)の花となり
羊を友のわらべには
日となり星の数となり
麦に添ひ寝の農夫には
はつかねずみとあらはれて
あるは形にあるは音(ね)に
色ににほひにかはるこそ
いつはり薄き寂寥(さびしさ)よ
いづれいましのわざならめ
さなりおもては冷やかに
いとつれなくも見ゆるより
深き心はあだし世の
人に知られぬ寂寥(さびしさ)よ
むかしいましが雪山の
仏の夢に見えしとき
かりに姿は花も葉も
根もかぎりなき薬王樹
むかしいましがげん湘(げんしょう)の
水のほとりにあらはれて
楚に捨てられしあてびとの
熱き涙をぬぐふとき
かりにいましは長沙羅(ちょうさら)の
鄂渚(がくしよ)の岸に生ひいでて
ゆふべ悲しき秋風に
香(にほ)ひを送るけいの草
またはいましがパトモスの
離れ小島にあらはれて
歎きたふるゝひとり身の夢
冷たき夢をさますとき
かりに面(おもて)は照れる日や
首はゆふべの空の虹
衣はあやの雲を着て
足は二つの火の柱
黙示をかたる言の葉は
高きらつぱの天んの声
思へばむかしの北のはて
船路侘しき佐渡が島
雲に恋しき天つ日の
光も薄く雪ふれば
びらんの風は吹き落ちて
梵音声(ぼんおんしょう)を驚かし
岸うつ波は波羅蜜(はらみつ)の
海潮音をとどろかし
朝霜ふれば袖閉ぢて
衣は凍る鷲の羽
夕霜ふれば現し身に
八つのさむさの寒苦鳥
ましてや国の罪人の
安房の生れのあまが子を
あな寂寥(さびしさ)や寂寥や
ひとりいましにあらずして
天にも地にも誰かまた
そのかなしみをあわれまむ
げに昼の夢夜の夢
旅の愁いにやつれては
日も暖かに花深き
空のかなたを慕ふとき
なやみのとげに責められて
袖に涙のかゝるとき
汲みて味ふ寂寥の
にがき誠の一雫
秋の日は遠しあしたにも
高きに登りゆうべにも
流れをつたひ独りして
ふりさけ見れば島影の
天の鏡に舞ふかなた
思ひを閉す白雲の
浮べるかたを望めども
都は見えず寂寥よ
来りてわれと共にかたりぬ
・この「寂寥」ですが、古希を過ぎた私は、改めて、生きることはときに寂しさであると思うのです・・・・。
『落梅集』を刊行した藤村は、明治32年から38年にかけてであり、藤村、28歳から34歳にかけてのことで、その藤村の若き時代に、このような「寂寥」の詩を書いていたことには驚きでした。でも、藤村の文学作品を通して小諸の町や千曲川や浅間山を見るにつけ、私は藤村が描いたふるさとに生活していることをうれしく思います。
ふるさと。それは誰もが感じる郷愁であり、幼い日々の想い出ででもあり、幾つになっても変らず、心が安らぐ場所であるのでしょう・・・・。