秀吉の養子というと,興味深い人物が何人かおり,一度書いてみたい内容ではあるのですが,現時点でそれを述べるのは本題から外れますので,今日は自粛します(はて,いつになることやら・・・)。
文禄元(1592)年時点での豊臣家の世継ぎは秀次と決まっており,夭折した秀勝(三人いる)はともかく,秀康(家康次子,秀吉と家康から一字ずつ貰う)は北関東の名門結城家に,秀家(宇喜多直家嫡子)は実家へと,それぞれの役割を与えられて豊臣家を去っていたでしょうから,秀俊(後秀詮・秀秋ですので,以後一般的な秀秋に統一します)にもそのお鉢が回ってきたということでしょう。
ですから,あの時点で後継は秀次と秀俊とお拾に・・・といった前置きはいかがなものでしょう・・・。
朝鮮から5秒という光速移動で大坂に戻ってきた兼続主従は,毛利輝元に呼ばれます。
中尾彬が演じるとさすがに風格が感じられますが(松方家康と一緒に,おぐじゅん三成をやり込める場面は,おぐじゅんも妻夫木くんも霞みました・・・),文禄元年時点で数えで40。
あれじゃどう見ても60過ぎです(当たり前ですが)。
逆のことが秀秋にも言えます。
この年,秀秋は従三位権中納言に昇進していますので(年齢-後述-を考えると驚異的な高位),秀俊殿とは呼ばずに丹波中納言とか金吾(元服時の官職である「左衛門督」の唐名)中納言と呼ばれた筈です。
さらに言うならば,秀秋は本能寺の変のあった天正10(1582)年の生まれですから,この時点で数えで15歳。
いくらなんでも上地雄輔くんを持ってくるのは無理があるのではないでしょうか・・・。
確かに,秀吉が秀秋を毛利家に・・・と企てたのは事実と思われます。
ただ,何で輝元と隆景が上杉主従に相談したり,挙げ句の果てに上杉の養子に,などと言うのかご勘弁願いたいです。
上地くんを出さんが為に,無理に脚本をでっち上げたような印象が残ったのは私だけでしょうか・・・。
せめて慶長年間に,朝鮮で失態をやらかして秀吉の逆鱗に触れたのを家康の取りなしで何とかなったエピソードを盛り込んだ方が関ヶ原の伏線となったと思うのですが・・・。
それに,小早川隆景が自分の家を犠牲にして毛利宗家を救ったことに一言も触れられていないのは言語道断です・・・(せっかく隆景を登場させたのに・・・)。
・・・で,兼続です。
あっという間に長男が生まれ,領国経営に専心・・・と思いきや,京からおねいさんが府内湊(現在の新潟港でしょうか)にやってくる・・・という・・・(絶句)。
そろそろ会津転封(兼続は米沢移封)が待っているでしょうし,朝鮮使節の来日と和平交渉紛糾,秀次処罰等,結構慌ただしい時期でしょうが,このままだとあと一ヶ月ぐらいで関ヶ原まで行ってしまいそうな早足です・・・。
それにしても,自分の子をおねいさんのもとに通わせるとは・・・。
うーん,これって一挙両得か・・・使える・・・(謎爆)
最後に突っ込みを二つ。
伏見城は秀吉の隠居城であり,お拾(秀頼)には大坂城を・・・ということではなかったのでしょうか・・・。
あと,桃山御陵が出てきましたが,老婆心ながらあれを秀吉墓と勘違いする人も居られるのでは・・・・・??
公共放送では,明治天皇陵と明記できないということでしょうかね・・・。
他の御陵はともかく,桃山御陵(正しくは伏見桃山陵か)は確かに明治帝の御陵なんですけど・・・。