koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

天地人-第32回「世継ぎの運命(さだめ)」

2009年08月09日 23時59分59秒 | 天地人

秀吉の養子というと,興味深い人物が何人かおり,一度書いてみたい内容ではあるのですが,現時点でそれを述べるのは本題から外れますので,今日は自粛します(はて,いつになることやら・・・)。


文禄元(1592)年時点での豊臣家の世継ぎは秀次と決まっており,夭折した秀勝(三人いる)はともかく,秀康(家康次子,秀吉と家康から一字ずつ貰う)は北関東の名門結城家に,秀家(宇喜多直家嫡子)は実家へと,それぞれの役割を与えられて豊臣家を去っていたでしょうから,秀俊(後秀詮・秀秋ですので,以後一般的な秀秋に統一します)にもそのお鉢が回ってきたということでしょう。
ですから,あの時点で後継は秀次と秀俊とお拾に・・・といった前置きはいかがなものでしょう・・・。


朝鮮から5秒という光速移動で大坂に戻ってきた兼続主従は,毛利輝元に呼ばれます。
中尾彬が演じるとさすがに風格が感じられますが(松方家康と一緒に,おぐじゅん三成をやり込める場面は,おぐじゅんも妻夫木くんも霞みました・・・),文禄元年時点で数えで40。
あれじゃどう見ても60過ぎです(当たり前ですが)。
逆のことが秀秋にも言えます。
この年,秀秋は従三位権中納言に昇進していますので(年齢-後述-を考えると驚異的な高位),秀俊殿とは呼ばずに丹波中納言とか金吾(元服時の官職である「左衛門督」の唐名)中納言と呼ばれた筈です。
さらに言うならば,秀秋は本能寺の変のあった天正10(1582)年の生まれですから,この時点で数えで15歳。
いくらなんでも上地雄輔くんを持ってくるのは無理があるのではないでしょうか・・・。


確かに,秀吉が秀秋を毛利家に・・・と企てたのは事実と思われます。
ただ,何で輝元と隆景が上杉主従に相談したり,挙げ句の果てに上杉の養子に,などと言うのかご勘弁願いたいです。
上地くんを出さんが為に,無理に脚本をでっち上げたような印象が残ったのは私だけでしょうか・・・。
せめて慶長年間に,朝鮮で失態をやらかして秀吉の逆鱗に触れたのを家康の取りなしで何とかなったエピソードを盛り込んだ方が関ヶ原の伏線となったと思うのですが・・・。
それに,小早川隆景が自分の家を犠牲にして毛利宗家を救ったことに一言も触れられていないのは言語道断です・・・(せっかく隆景を登場させたのに・・・)。


・・・で,兼続です。
あっという間に長男が生まれ,領国経営に専心・・・と思いきや,京からおねいさんが府内湊(現在の新潟港でしょうか)にやってくる・・・という・・・(絶句)。
そろそろ会津転封(兼続は米沢移封)が待っているでしょうし,朝鮮使節の来日と和平交渉紛糾,秀次処罰等,結構慌ただしい時期でしょうが,このままだとあと一ヶ月ぐらいで関ヶ原まで行ってしまいそうな早足です・・・。
それにしても,自分の子をおねいさんのもとに通わせるとは・・・。
うーん,これって一挙両得か・・・使える・・・(謎爆)


最後に突っ込みを二つ。
伏見城は秀吉の隠居城であり,お拾(秀頼)には大坂城を・・・ということではなかったのでしょうか・・・。
あと,桃山御陵が出てきましたが,老婆心ながらあれを秀吉墓と勘違いする人も居られるのでは・・・・・??
公共放送では,明治天皇陵と明記できないということでしょうかね・・・。
他の御陵はともかく,桃山御陵(正しくは伏見桃山陵か)は確かに明治帝の御陵なんですけど・・・。


天地人:第31回「愛の花戦」

2009年08月02日 22時09分51秒 | 天地人

庄内一揆に触れていたので,一瞬
「をを!!」
と思いましたが,そこはさすが「天地人」。
一番長い戦闘シーンはタイトルバック・・・。


で,ヒメサユリとはどんな花かと思いきや,オトメユリのことでした。
我が県でも,かつて私が数年暮らした県内南部の町で自生しておりました・・・。
そのヒメサユリを大量に越後から輸送させたことで,菊姫は淀の御方の目にとまり,北政所の心証を害したようです・・・。
どうも,淀殿=可憐な側室,北政所=小姑のような悪役,といった図式のようです。
石田三成と肝胆相照らす兼続ですから,北政所を筆頭に加藤,福島,黒田,細川といった武断派大名たちは良く描かれないのでしょうか・・・。


え゛,秀吉が淀と呼んだ???
淀殿とか淀君とは,彼女が秀吉に淀城を貰ったことから,世の人々が呼称した名の筈。
だから,秀吉は彼女を
「茶々」
とか
「お茶々」
と呼ばねばならない筈です。
こういうところの考証の甘さを,私の如き素人に突っ込まれるようで困ります。
小和田哲夫先生が交渉を担当されているのですが,脚本・演出等制作側の意図で,正しい考証を蔑ろにしているという記事を読んだことがありましたが,毎度のことながら由々しき事態です・・・。


そして,文禄の役。
義を重んじ批判する兼続と,支持する三成。
北政所に直接秀吉の渡海中止を頼まれ,家康には嫌みを言われる景勝・兼続主従。
松方家康は貫禄有りますが(あの変な瘤は何なんだ・・・),ちょっと饒舌過ぎるような気がします。
もっと飄々とした中に,したたかさと抜け目なさを垣間見せるようでなくては・・・。


CG合成の名護屋城と解説のみで,終わってしまう文禄の役。
何故か淀殿が菊姫とお船に上杉の朝鮮出兵を告げ,懐妊を知らせる。
もう訳が分からん・・・。
花戦と朝鮮出兵を対比させる手法は,今ひとつ効果が上がらず終わりました・・・。


最後に,兼続の子役の二人,4歳と2歳ぐらいでしょうか。
とても可愛らしいですね。
下の子(梅)のおむつを替える兼続のことが,他人とは思われませんでした・・・。


天地人-第30回「女たちの上洛」

2009年07月26日 21時18分36秒 | 天地人

小田原の役の次は,大和大納言逝去か利休切腹,そして文禄の役か・・・と思ったら,利休でしたね。


利休と上杉家の関係・・・となると,天正14(1586)年の上洛の際に茶席に招かれたことと,天正19(1591)年の切腹の際に,弟子たちが利休奪還に来るのを恐れた秀吉が景勝に利休の京都屋敷を包囲・警備させたことぐらいしか知りません。
今日のエピソードは,後者を膨らませたものでしょうが,実際どの程度景勝・兼続主従が関わっていたのかは不明です。
多分,秀吉の命で仕方なく警備についたのでしょうし,きっと後味の悪い仕事だったことでしょう・・・。
それよりも,何故に利休が失脚となったのか,一切の説明が無かったことの方が問題でしょう。
侘介と思しき椿が一輪落ちていたというわざとらしい演出を除いても,説明があって然るべしと思うのですが・・・。
ま,利休の切腹に関しては諸説が有りますが,それは敢えて私がここで語るまで無いでしょう。
ただ,景勝上洛の際にも相当な働きをしたと思われますし,それは関係が取り沙汰される大友宗鱗をはじめとする西国諸大名に対しても同様でしょう。
利休は豊臣家の影のフィクサーとして活躍するあまり,内情に深入りしすぎたのかもしれません。
黒田官兵衛(孝高・如水)が,隠居を表明して秀吉の疑心暗鬼を躱したのは有名ですが,身内の少ない秀吉の猜疑心は相当なものであったのでしょう・・・。


しかし,上杉家と直江家の妻たちの様子が何ともまったりと語られます。
さすがに後半は見ていて眠くなりました・・・。
大名の奥方を政府のお膝元に人質とするのはやはり秀吉が始めたのでしょうね。
後年,関ヶ原の前哨戦での細川ガラシャ夫人の悲劇はあまりにも有名ですし,他の東軍の大名の奥方脱出行にも,いろいろとドラマがあったようです・・・。
それにしても,菊姫は何て我が儘なんだ・・・。
お家のため,ということで覚悟して越後に来たはずなのに,あれではただの駄々っ子でしょう・・・。
お船が菊姫と共に上洛して伏見に住んだのは史実のようです。
ただ,どうやら今回の放映よりも5年後の慶長元(1596)年のことらしいですけど・・・。で,菊姫はその後上杉家の会津転封にも米沢転封にも同行せず,伏見で生涯を終えたようです。
そう言えば,弟の信清出てきませんね(出るわけ無いか・・・)。
出ないと言えば,前田慶次郎も出番無しですかね・・・。


文禄の役で景勝は高梨頼親等兵5,000率いて名護屋から渡海します。
その辺も次回は語られるようですね・・・。
でも,それ以上に豊臣ロイヤルファミリーと上杉・直江ファミリーのドラマに終始しそうな気配が・・・。


天地人-第29話「天下統一」

2009年07月19日 22時34分39秒 | 天地人

いよいよ小田原の役でございます。
これによって天下統一成る,という重大な一戦ですが,小田原城包囲戦自体は,殆ど戦闘らしい戦闘もなく(太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたらしいですが),秀吉の物量作戦という横綱相撲によって簡単に北条が押し切られたといった感があります。
北条氏政が言っていましたが,確かに武田信玄,上杉謙信という名将をもってしても落ちなかった小田原城だけに,寄せ手を防ぐことに関しては絶大な自信を持っていたと思われますし,大軍を擁しての攻城戦だけに兵站が伸びて兵糧の輸送が困難になることは十分に考えられたと思います。
また,秀吉による上洛の誘いをのらりくらり躱しつつ,山中城や韮山城,八王子城といった一種の出城の整備や領国への徴兵等,十分な準備期間もあったと思われます。
そこを逆手にとって,秀吉は20万石もの米穀を徴発し,さらに九鬼嘉隆を将とする水軍部隊によって兵糧の海上輸送をするという前代未聞の輸送作戦を展開。
それによって小田原城が落ちたと言っても過言ではないでしょう。
そのあたりにもっと詳しく触れ,丁寧に作ってほしかったと思います。
石垣山の一夜城によって,北条が戦意を喪失したのは事実でしょうが,それのみが原因という訳でもないでしょう・・・。


また,兼続による誘降に悪態をついていた政宗が遂に秀吉に謁見。
白装束は事実でしょうが,鞘ぐるみの太刀で首をぽんぽんは,演出過剰ではないでしょうか。
だったら,政宗に石垣山城から小田原城を俯瞰させ,背を向けていつでも討てるぞ,という姿を晒して政宗に無駄を悟らせたという故事に基づくエピソードの方が有効と思われます。
また,家康とともに小田原城に向けて立ち小便するエピソードも有った方がよかったと思います。


また,松方家康がオグジュン三成に,攻城戦が下手と嫌みを言っておりましたが,忍城水攻め失敗のことを言ったと思われます。
そこも詳しく語られないと何のことか分からないでしょう・・・。
だいたい家康が,三成に挑発するような嫌みを言うでしょうか。
そもそも大人の風をもっていたと思いますし,三成を簡単に詰るような小者の訳ありません・・・。


でもって,兼続です。
北国勢は,前田利家と真田昌幸と上杉と言っていましたが,これに越前の丹羽長重と信濃の依田康国が加わって三万五千という大軍となります。
しかも上州松井田城攻防戦が緒戦の筈もなく,大道寺政繁(ささきいさおを初めてドラマで見ました)は,確か上信国境の碓氷峠で迎撃に失敗した筈です。
その後で籠城戦となるのですが,相変わらず戦闘シーンも無く,あっという間に小田原城まで落ちてしまいました。
また,前田・真田・上杉の三将の他に何故兼続だけが居るのか解せません。
三将の他に丹羽と依田が居るはずですし,家老・軍師クラスを付けるとしたら,各家の家老クラスが居なくてはなりません(真田だと矢沢頼綱とか・・・)。
さらに,八王子城攻防戦は一万五千の北国勢に対して,北条軍は女子ども・領民を含む一千余と全く歯が立たず,半ば見せしめ状態で壊滅させられたことも,正義だの義だの愛だのを標榜する本作の上杉軍と矛盾していることも加えておきましょう。
で,やってきた松田独眼竜・・・(絶句)。
をいをい,奥州街道はずっと東だっての。
政宗が小田原にやってきたのは当然兼続のはたらきでも何でもなく,間に入っていたのは前田利家と浅野長政だったのではなかったでしょうか・・・。
また,せっかく独眼竜を出すのだったら,利休が来ているのを知った政宗が,この世の終わりに一服と秀吉に申し出で,その風流心に免じて許されたエピソード(勿論政宗の計算ずくでしょう)が有っても良かったのでは・・・。
来週利休出てくるようですし・・・。


「天地人紀行」は,遂に我が町です。
世に多い上杉贔屓の方々から,きっと我が藩祖公は評判悪いんでしょうね・・・。
特に今回の松田政宗は,現時点で悪逆非道に描かれていますし・・・。
にしても,この「○○紀行」ですが,最初に行ったのは「太平記」だったでしょうか・・・。
記憶にある方に教えていただきたいものです・・・。


天地人-オリジナルサウンドトラック

2009年07月15日 19時41分57秒 | 天地人

手に入れた,というかレンタルした。
前年の「篤姫」も「義経」に「新撰組!」もレンタルで済ませたが,「風林火山」は買ってしまった。
レンタル店に無かったからである。
同様にレンタルできなかったのが「功名が辻」だが,こちらはドラマ同様曲も気に入らなかったので(小六禮次郎という作曲家と相性が良くないようだ),入手していない。


ドラマに関しては,毎回突っ込みどころ満載で,昨年一昨年のそれに比べて内容的にも???の感は否めないのだが,テーマ曲は良いと思う(タイトルバックの「愛」の旗を持った兼続はいただけないが・・・)。
作曲は大島ミチル。
大河史上初の女性作曲家であるが,その楽曲が魅力的であることは,折に触れて述べてきた。
大島の創り出す音楽の楽曲の魅力は,一言で言えば豪壮な響きだろうか。
重低音とブラスを目一杯鳴らし,打楽器の明確なアクセントが発止と打ち込まれるので,聴いた後の爽快感はこの上ない。
例えば,「ゴジラvsモスラvsメカゴジラ-東京SOS」のエンドクレジットでは重厚なマーチが展開される。
今回の「天地人」でも,冒頭の弾けるブラスの音色が実に見事で,続く打楽器のシンコペーションが主旋律の導入への絶妙なブリッジとなる。
第一主題は,どことなくエキゾティックな香りのするマイナー系のメロディ。
こうした旋律もまた大島の音楽の魅力でもある。
ロシアのオケを使って東欧系のメロディで一貫した「鋼の錬金術師」の音楽を想起させるものがある。
第二主題は打って変わって,穏やかで叙情的なメロディだが,後半はコラール風に盛り上がる。
このあたりは,大島が卓抜したメロディメーカーであることも伺わせる。
例えば「ごくせん」のテーマは,大袈裟でものものしいファンファーレの後,ノーブルなコロネーションマーチのように,優雅な英国風の楽曲が続く。
それに相通じるものがある。


その他にも,魅力的な楽曲のトラックは有るのだが,かつてケルン放送交響楽団の主席オーボエ奏者を務めた宮本文昭氏のご令嬢である笑里嬢の弾くヴァイオリンは,幾分線が細いような気もするが,その容姿同様実に魅力的である。
そのソロが活躍する「天地人紀行」の音楽が,フルバージョンで納められているのもありがたい。
また,トラック4の「義」も,ドラマ中でよく流れるメロディアスで魅力的な楽曲である(題名は陳腐だが)。


・・・という訳で,さすが大島,と思わせる内容であった。
「はがれん」と「ごくせん」,そして「ゴジラ」は聴いたが,「失楽園」と「長崎ぶらぶら節」,「北の零年」とかを聴いてみよう,という気に大いにさせられた・・・。


天地人:第28話「北の独眼竜」

2009年07月12日 21時46分01秒 | 天地人

さてさて,今回はどんな突飛な展開になるか・・・と,大いに期待して見たところ・・・。お船より若い後添えに鼻の下を伸ばすとうちゃん。
のっけから余計なエピソードにぶっ飛びました。
兼続は木を削って彫っていた犬を景勝に猪と言われるし(勤務中サボるんじゃねーよ),何故か淀の方に近侍する実頼。
でもって秀吉が対伊達対策を上杉に任せるという・・・。


しかし,城田幸村といい松田独眼竜といい,何でまたこういう似合わない配役にしたのか,理解しかねます。
とにかく小物過ぎます・・・。
主役だった22年前の渡辺謙と比べるのは酷でしょうが,とにかく撫で肩で威厳も何もありませんし,食わせ物的な不適さもありません。
ただのガラの悪い兄ちゃんでしかないようで・・・。
で,兼続が単身米沢城に・・・???斬られて終わりじゃねーか・・・
と思ったら,おねいさん出てきて・・・(目が点・・・)
それにしても,伊達軍が通った後は草木も生えない・・・???
ひどすぎやしませんか・・・。
冷酷にして悪逆非道,どうしてまたそんなイメージにしたのでしょう・・・。


天正17(1589)年に佐渡征伐を行ったのは事実ですが,予想通り2分で終わってしまいました。
それより,突然入った摺上原の戦いの一報。
伊達軍が葦名軍をなで斬りにしただと・・・(絶句)
おまけに政宗自ら白刃をふるって虐殺するシーンが・・・
確かに,葦名軍は総崩れとなり,日橋川へ転落して大勢戦死したという記録は有るはずですが(現在の日橋川は,大軍が溺死するような大河ではありません・・・),上杉を美化するのはいたしかたないとしても,伊達をこうまで貶めるのは伊達藩領に育った者として,問題提起したくなります・・・。
私利私欲の戦をするのは悪,と兼続は言いますが,だったら信長や秀吉,家康はおろか,島津も長曽我部も,他国へ侵攻した大名すべてが悪となってしまいます。
じゃ,佐渡を平定した上杉は・・・となると,佐渡の金は上杉のみならず全国が潤う・・・ということで,正義だという理屈でしょうか・・・。
正義と悪で片付けられる程,歴史は単純なものではないと思いますが・・・。


・・・と,また突っ込んでしまいました。
次は,いよいよ小田原の役のようですね。
言い訳のように,上州名胡桃城を北条に奪われた真田が・・・と言っていましたが,以前のおねいさんが逃れて来たこととの矛盾に脚本家は気づいているのでしょうか・・・。
で,また兼続と政宗が会っていたようです・・・
もうどうにでもしてくれ・・・。


天地人-第27話「与六と与七 」

2009年07月05日 21時19分11秒 | 天地人

またしても与六と与七出して,視聴率稼ぎか・・・と勘ぐりました。
また,官位打ちによる兄弟相克か・・・と一瞬色めき立ちましたが,兼続が秀吉に直接訴えたことで(をいをい),あっさり解決したようです。
後の実頼出奔のきっかけを描くのか,とも思ったのですが,そうでも無さそうですし,一体何の為のエピソードなのかわかりません・・・。


実頼が景勝の名代として上洛したのは事実でしょうし,官位を貰ったのも事実でしょう。
ただ,お茶々の思いつきで改姓したなどと,メディアで大々的に報じられては困るのです。改姓は景勝の命と思われますが,それをいくら何でもお茶々の・・・では捏造が過ぎやしませんか・・・。
また,奥方実家の小国家は確かに源氏(それも摂津源氏三位頼政の弟からという名門)の系ですが,出自不明の秀吉如きに姓を変えられたとしたら,
「源氏の名家たる小国姓を何と心得る。そんなものを名誉と思うなど,越後の雄,上杉家の臣たる者のとるべき態度か!!!」
と,名家意識に凝り固まった奥方に怒られるのは明白ですし,下手すりゃ離縁されます・・・。
大国実頼に関しては,いずれ述べてみたいですが・・・。


この時期の豊臣政権は激動の中にあった筈です。
四国征伐と九州征伐が続き,さらには後陽成天皇の聚楽第行幸と,天正16(1588)年は多くの出来事があった年です。
ですから,あんなにまったりと時が動く訳ないですし(もろCGの聚楽第に飛雲閣があったのは当然ですが),せめて聚楽第行幸のシーンでもあったら納得なのですが(せっかく衣冠束帯だったのですし・・・)・・・。


捏造と言えば,月代たんこぶの家康に兼続が呼ばれ,「愛」の兜の前立てについて聞かれた際に,またしても
「仁愛の愛にございます」
と答えていたことです。
前の福島正則との一件同様,完全に愛染明王説と愛宕信仰説を否定して・・・というのは,どんなものなのでしょう・・・。
でもって,兼続は従五位下山城守任官。
任官は事実でしょうが,山城守は家老就任直後に既に称していたと思われます。
・・・ということは,これからみんな
「かねつぐ」
と呼ばず,
「城州」
と呼ぶことになるんでしょうか・・・。
なってもならなくても嘘ということになってしまうというのも・・・。


・・・ということで,今回も突っ込みを入れながら楽しませていただきました。
来週は政宗登場のようですね。
え゛,松田龍平・・・。
う゛ーん,城田幸村よりはましか・・・???
何か思いっきり悪役になりそうな・・・。


唯一興味深かったのは,実頼が居城していたという天神山城に関する天地人紀行です。
新潟市南西部。
とにかく広い越後平野を突っ切り(さすが穀倉。水田が広い・・・って,私のところも同じか・・・),岩室温泉なる温泉場があり,その上の弥彦山と峰続きにあった城のようです。
多分,最近新潟市に編入されたのでしょうか・・・。
西蒲原郡・・・といった方が,しっくりくるような気がするのですが・・・。
それにしても,広大な越後平野の西に突如とそびえるのが弥彦山で,そのすぐ西は日本海。信越線がずっと南の長岡から分岐したのも納得ですし,越後線と弥彦線がローカル線なのに電化されたのは,ついついあの地元の英雄である某宰相の力か・・・と勘繰りたくなります・・・(越後線電化は,新潟大の移転が理由なんでしょうが・・・)。


天地人-第25回「天下人の誘惑」

2009年06月21日 22時32分53秒 | 天地人

人蕩し秀吉によるヘッドハンティングの巻でございました(そう言えば,1月の始まりの時もそんな場面でした)。
確かに,小牧長久手の戦い前に織田信雄の三家老に声をかけ,信雄を疑心暗鬼にして三家老を斬らせ,さらに家康のもとから石川数正を出奔させたのは事実です。
また,天正16(1588)年に豊臣姓を賜ったくらいですので,秀吉のお気に入りだったのも事実でしょう・・・。
で,うまくはぐらかす兼続。
毎度毎度のことながら,あの程度の機転で,兼続が優れた人材とは到底思われないのですが・・・。


しかも,何で突然大坂城に居るんだ幸村・・・。
ついでに,幸村と呼ぶんじゃねーよ・・・。
源次郎と呼べよ・・・。
ついでのついでに,豊臣秀吉なんて呼ぶなよ松方家康。
太閤,若しくは猿面冠者とでも言った方が絶対必然性が有る筈だ・・・。
さらに言うなら,幸村は春日山城に居た筈だろう。
いつのまに脱出したんだ・・・。
史実では,景勝が信州上田へ帰し,その後で秀吉の元へ人質として行った筈だから,完全に説明不足でしょうに・・・。
因みに秀吉と利家が,昔からのよしみということで又左・藤吉と呼び合っていたのは◎でしょう。
ただ,腕相撲だったら,秀吉は武辺者の利家の敵ではないでしょう・・・。


・・・でもって,傷を負って転がり込んできたおねいさん。
さらに,おねいさんのことはおねいさんに任せる兼続(何なんだ・・・)。
益々をもって訳が分からない・・・。
え゛,父昌幸が北条によしみを通じたいから,おねいさんを遣わして,それが嫌で小田原から逃れて来ただとぉ・・・(絶句)
で,実家から追っ手がかかった・・・(放心状態・・・)
をいをい,真田が北条と組んだのは天正10(1582)年の本能寺の変直後の一時期だけで,後は上州吾妻郡から沼田城にかけての一帯を守るために対立関係にあり,上州名胡桃城を北条方の猪俣邦憲が攻め取ったことから小田原の役が起きたことを脚本家は知っているのか・・・。
私の如き素人に突っ込み入れられてどーすんだよ・・・。


いやはや,毎度毎度の突っ込みがすっかり恒例となってしまっていますが,それだけ楽しませてもらっているのだから,もうそれに徹しようかと・・・。
利休まで出てきて,一体来週はどうなるんだろう・・・。


天地人-第24回「戸惑いの上洛」

2009年06月14日 21時49分36秒 | 天地人

景勝上洛は,天正14(1586)年6月になります。
この時景勝は,甥に当たる畠山義真を嗣子扱いの養子としており,秀吉に対して人質として差し出したのですが,そのあたりは全く触れられず,贈り物に苦慮し諸大名への挨拶回りで倒れてしまう景勝で終わりました。


謹厳居士である石田三成が,気を利かせておねいさんを派遣(あり得ない・・・)。
こんなにいろいろとおねいさんが出てきて良いのか・・・と,ついつい思ってしまいます。
ま,木村佳乃嬢で人気をとるつもりでもないでしょうけど・・・。
利休の娘,という設定でしたがこの時点で利休は60代半ばですから,妙齢の娘が居るというのはかなり無理があります。
もしかすると,後の切腹の原因となった娘を差し出す云々・・・というエピソードに結びつけよう・・・というつもりなのでしょうか・・・。
でもそれだったら,名前は吟だった筈だし,利休の娘はこの時点で皆嫁いでいたと思われます・・・。


福島正則は確かに荒大名だったのでしょう。
しかし,今回の莫迦殿ぶりは極端すぎます。
司馬遼太郎の短編に,福島正則を描いた「愛染明王」という作品がありますが,正則(この時点では左衛門大夫と呼ぶべきでしょう)が愛染明王を口にするということは,脚本の小松女史はこの作品を知っていたということでは,と勘ぐってしまいました。

 

 正則の遺骸は,信州雁田村岩松院の野で火葬され,その荼毘所も朽ちはてたあと,たれがたてたのか,野に一体の愛染明王の石仏がおかれた。
 正則の顔に酷似している。
もともと愛染明王は,憤怒暴悪の表情を持ち,しかも内面は愛憐の情を湛えるという,その点も,正則に似ている。
 里人が,
「大夫殿ぼとけ」
とよんで,ながく香華がたえなかった。
(司馬遼太郎著「愛染明王」より引用。講談社文庫「おれは権現」所収)

 

・・・ということなので,正則が生前愛染明王を護持した訳ではありません。
よって,愛染明王を正則が口にした,というのは極めて安易な設定ではないでしょうか・・・。
そして,仁愛の愛を標榜している兼続,という設定は,以前から述べたように×です。
多分周囲から,
「あれは,愛宕信仰や愛染明王からとったものだ」
と指摘されての苦し紛れの言い訳にも聞こえます(先頃の「天地人紀行」でもそうでしたし・・・)。
噂高い京童(というかおねいさん方)が,
「愛の一文字を兜の前立てにするとは,何て風流な・・・」
と騒いでおりましたが,あり得ない設定ではないでしょうか・・・。


でもって大笑い。
おねいさんが正則を投げ飛ばしてしまった・・・。
思わず,
「ドリフか」
・・・と思ってしまいました・・・。


さて,次回も上洛エピソードが続くようです。
家康は氏政と沼津で会見(これは史実かどうか確認できず)。
いずれ四国・九州征伐は語られるのかどうか。
そして,聚楽第行幸シーンと,上杉家関連だと翌年の柴田重家討伐による越後再統一, 3年後の佐渡平定,そして前田慶次郎と兼続の出会いは描かれるのでしょうか・・・。


天地人-第23回「愛の兜」

2009年06月07日 20時14分13秒 | 天地人

景勝と兼続夫妻の里帰り。
雪深い越後魚沼の上田郷へ。
幼少期を過ごした雲洞庵での追想。
喜平次,与六と呼ばれた時代への回想が,鮮やかな記憶とともに景勝に蘇る・・・。


・・・と書くと,如何にも格好良い場面に思われるのですが,一体全体このエピソードが何故必要なのか,私には全く理解できません。
追想シーンに人気の与六を出して,視聴率稼ごうという国営放送のあざとい思惑しか感じられません。
さすがに与六だけ出しては・・・ということか,今は亡き御屋形様まで出現。
ようやく上洛を決心する景勝。
逡巡している場合じゃなかろうに・・・。
木剣を交える二人に,喜平次と与六の追想が被る・・・。
この2人,幼少時より髪型変わっていない・・・。
月代剃らないでどうするんだ・・・。


でもって,
「何か私に相応しい文字はないかのう・・・」
となる。
で,景勝が「義」の旗印か・・・。
もういい加減にせんかい・・・。
上杉景勝の旗印は,こちらを見れば一目瞭然。
そして,ようやく「愛」の兜が御登場(旗印まで有ったのに仰け反りました・・・)。
只一人甲冑姿の兼続を見て,感動する家臣たち・・・。
一体何なんだ・・・。
10年程前,松が岬公園の米沢城跡にある稽照殿において,私はこの「愛」の兜を見ている筈なのですが,情けないことに全く記憶が欠落しています・・・。
ようやく「天地人紀行」で,愛染明王や愛宕信仰のことがとってつけたように語られましたが,遅いっての・・・。


因みに,私が見ている傍らで,小6になる息子が画面に見入っています。
私同様に突っ込みを入れつつも楽しんでいるようで,それはそれで良いのですが,内容が実に分かりやすいとのこと。
それも良いのですが,私が同じ年代の時にやっていた大河ドラマ「春の坂道」は,難しくて私には理解できませんでした。
同級生の優秀な女の子が,月曜日になると内容について語っていたのを覚えていますが,内容を理解できない私には,石田三成だの柳生宗矩だの聞き覚えのある固有名詞に反応するのみで,付いていけませんでした・・・。
以来,大河ドラマは私にとって敷居の高いものであったのですが,今はそんなことは無くなったということでしょう・・・。
ま,歓迎すべきことでしょうが,反面格調が全く失われたことが残念なのですが・・・。
もういっそのこと,視聴率向上のために,最終兵器であるキムタクでも投入して,龍馬でも幸村でもやっちゃえば・・・,とやけくそになったりもします・・・。


私の最大の不満は,ここでも取り上げられているようです。
とにかく,あれを史実と思われてしまっては歪曲以外の何者でもありません・・・。


天地人-第22回「真田幸村参上」

2009年05月31日 21時03分02秒 | 天地人

いきなりやってきたおねいさん。
何と信州上田の真田の姫と素性を明かします。
で,兼続と二人きりになるといきなり修羅場。
隣で見ていた息子が一言,
「浮気だ~」(爆)
そんでもって,それをかよに問い詰められる兼続。
そんなことに時間かけんじゃねーよ,と突っ込みを入れましたが,今回の突っ込みどころは半端じゃなかった・・・・・・


戦国~織豊~大坂の役は,まさに群雄割拠・百花繚乱と言うべきか,大名クラス以外にも多くの魅力的な人材が輩出された時期ですが,今回の中心である真田幸村など,その最たるものでしょう。
以前のエントリで述べた前田利益(慶次郎)とか,雑賀孫市(重幸?),後藤基次(又兵衛),渡辺勘兵衛(了),岩見重太郎こと薄田隼人正(兼相)・・・といった面々とともに,真田幸村は真っ先に指折られるべき人物でしょう。
一昨年の「風林火山」の時も述べたように,こと真田に関してはついつい一言言いたくなります・・・。


個人的に映像の中の真田一族というと,やはり85-86年放映のNHK水曜時代劇「真田太平記」でしょう。
故丹波哲郎の真田昌幸は,池波正太郎の原作を10回以上読破しただけあって,これ以上のキャラクターは望めないほど嵌りまくっていましたし,その子である信幸(後に信之)役の渡瀬恒彦,幸村(正しくは信繁)役の草刈正雄も見事な演技でした。
ですから,今回の岩松了(昌幸)はともかく,城田優の幸村はどうなることか懸念されたのでしたが・・・。


希に見るガラの悪い幸村でした。
おまけにひねているし,頭も悪そう。
幸村という男は,大人の風格があって茫洋とした表情からは想像も付かないような深慮遠謀が繰り出される,といった感じだと勝手に思ってきた私が悪いのですが,それにしてもあの幸村はご勘弁願いたいです・・・。
長身でハーフのイケメンである城田君には悪いのですが(顔はクォーターである草刈正雄に似ていないこともない),ちょっと役作りが・・・という感じです。
さらに,
「姉上以上に美しいおなごは知りません」
なんて,すっかりシスコンだし・・・。
でもって,泉沢幹久との意味のない槍自慢に時間を割く脚本。
見てろ,絶対神川の戦い(第一次上田城攻防戦),あっという間に終わるから,と私が言ったら,2分もかからず終わってしまいました・・・。
上杉方の援軍は昌幸従兄弟である矢沢頼康の矢沢城に詰めていた筈なのですが,その説明も皆無。
いきなり葵の旗印が上田城内に斬り込んで,鉄砲の掃射を受けただけでした。
追撃戦で神川に多数の徳川軍が飲まれた描写はおろか説明も無し。
私の悪い予想のさらに上をいっていました・・・。
だいたい上田城に攻め込んだのは鳥居元忠,大久保忠世,平岩親吉と言った三河以来の譜代の臣でした。
だから,兵たちはそれらの紋が染められた旗を背負っている筈なのですが・・・。
ま,徳川軍だと分かりやすくするため,ということでしょうけど・・・。
周知の通り,昌幸・幸村父子は関ヶ原の役において,唯一上杉征伐反転の小山犬伏の徳川陣から抜け出して西軍に味方します。
若き日の幸村が,上杉家の人質だったことは事実ですし,その際に景勝や兼続の俠気に触れて,後の関ヶ原への布石に・・・といった設定は悪いとは思いませんが,ただの「いい人」である兼続が頑なな城田幸村の心を開いたのはちょいと簡単すぎました・・・。


しかし,子が子なら父も父。
息子より若い後添えをいつのまにやら貰って,鼻の下を伸ばす父ちゃん。
亡き母があの世で悲しむと諭す兼続。
一笑に付す父ちゃんと,一緒に笑う脳天気な兼続・・・。
余計なエピソード入れないでいくさしろよ・・・。
いっそのこと,幸村とともに上田出陣,とでもやった方がはちゃめちゃで面白かったのでは・・・。


最後に,呼称(諱)について。
兼続が幸村を,
「幸村」
と呼んでいたのは,はっきり言って×です。
否,
「兼続」
と呼んでいる朋輩たちも×です。
景勝への書状の宛名が上杉弾正少弼となっていましたが,それは正しいと思います。
つまり,当時は官職名や通称で呼ぶのが常だったのではないでしょうか・・・。
だから時期によって呼称は変化します。
兼続は山城守と呼ばれたでしょうし,幸村は左衛門佐(さえもんのすけ)です。
だからこの時期は,山城守(或いは城州)に源二郎と呼ぶのが正しいのではないでしょうか・・・。
これらのことに関しては,いずれ一考を要する内容と思います・・・。


しかし,予告を見て
「う~ん,与六上手すぎ・・・。」(笑)
今も頭の中で,
「任せておけ!!」
が響きまくっています・・・。


天地人-第20回「秀吉の罠」

2009年05月17日 20時34分29秒 | 天地人

天正10(1582)年6月,先週は本能寺の変(何と本能寺が爆発していました)の後,5分たたぬうちに山崎の戦いで光秀が敗れて土民の竹槍にかかって命を落としたと思いきや,今日の始まりは秀吉がポスト信長の主導権を握った清洲会議で,翌年の賤ヶ岳の戦いと3年後の佐々成正征伐が一気に語られました。


おいおい,この時期の上杉氏は実は大変な時期で,御館の乱の戦後処理(新発田重家征伐)とか,武田氏旧領から滝川一益が伊勢に退去した後に北条氏直と徳川家康が侵攻してきたのを信濃出兵によって牽制した天正壬午の乱,それに伴う真田源二郎信繁(幸村)の人質,そして賤ヶ岳の戦いでは秀吉方としての後方支援(富山城への出兵は果たせず),小牧長久手の戦いでは富山城の佐々成正を釘付けに・・・といった具合に,常に武装を解けない緊張状態にあったと思われます。
ですから,天正11年時点で既に景勝は秀吉に通じており,今回のように秀吉来る,の報に改めて戦々恐々することはさして無かったと予想されます。
特に,賤ヶ岳から佐々征伐は隣国での出来事だけに,御館の乱で国力を疲弊させた上杉家にとって重大な局面であったと予想されます。
それを全くカットして,初音おねいさんの来訪に慌てふためく兼続の様子が莫迦丁寧に描かれるとは,予想されたこととはいえ残念でした。
いくさしろよ,戦国武将だろ,と,ついつい不謹慎な突っ込みを入れてしまいました。
実際にあったかどうかも疑わしい手取川で臆して逃げ帰り,御館の乱では小競り合いを少し,後は史実とはほど遠い魚津城で怪我をして・・・と,戦闘シーンらしいものが殆どありません。
そのあたりが,重厚な戦闘シーンがあった(上田原とか)一昨年の「風林火山」との大きな違いでしょう・・・。


秀吉と景勝が初めて会ったのは,天正14年の上洛の際,と思っていましたが,その前年に越後で会っていたという伝承が有るのですね。
三成を「佐吉」と呼んでいたのは正しいと思いましたが(このあたりの諱については一度調べて述べてみたいものです),富山城でご乱交の秀吉の傍には何で謹厳な三成しか居ないのでしょう。
近習ということなら,加藤虎之助と福島市松とかも居たはずです(口が過ぎるのでこの2人に嫌われるぞ,なんて言われていましたが)。
さらに秀吉の腹心・身内ということなら身分からいって前田又左衛門利家とか浅野弥兵衛長政,或いは弟の羽柴小一郎秀長とかが居たはずで,編み込み三成一人とは解せません。


うーん,飽きずに見られるからよいものの,かつての大河に感じられた格調とか感動とはほど遠いものとなっているような気がしてなりません。
やはり脚本と演出のせいでしょうか・・・。
少なくても,考証の甘さを私如きに突っ込まれるようでは先が思いやられます・・・。
どうもすっきりしないので,「国盗り物語」(73)の総集編でも見て寝ることにします・・・。


天地人-第19回「本能寺の変」

2009年05月10日 22時36分00秒 | 天地人

前回の「義の戦士たち」をようやく見たのが昨日。
とにかく,忙しくて日々の更新もままならぬ状況でした。


珍しく前振りなしで,いきなり始まりました。
前回の信長が光秀に,備中で秀吉を助けるように命じ,それが遂に光秀に離反を決定づけたという設定のようです。
この時期,光秀は安土を訪れた家康の接待役を命じられ,それの失態と自領の丹波・但馬を召し上げと思い込み,苦に追い詰められていったと記憶しているのですが,その辺の設定はオミットされたようです。
ま,上杉家の話なので,さほど重要なファクターではないということでしょうか・・・。


森長可の越後出兵は天正10(1582)年5月27日のことです。
6月2日が本能寺の変で,翌日が魚津落城,翌々日に変報が柴田勝家に入る,という流れですので,長可退陣は変報を知った後,と考えるのが自然と思うのですが・・・。
滝川一益が三国峠を越えて越後に入り,僅か800の上田衆に敗れた・・・??
はて,そんなことがあったのか・・・。
・・・で,明智の密使が魚津城に・・・??
明智謀反を見破る兼続・・・。
・・・で,本能寺の変報が越後に届いて5分とたたぬうちに,光秀が死んでしまった・・・。


う~ん,夫婦の団欒を長々と見せて戦闘シーンを敢えて減らしているのではないか・・・としか思われない小松脚本・・・。
重厚な雰囲気で押し通した一昨年の「風林火山」とはえらい違いです・・・。
どう見ても尻に敷かれる兼続。
長々とお惚気を聞かされて,感動する方もおられるやもしれませんが,私は駄目でした・・・。


洛中を見下ろす高台(老の坂?)から燃える本能寺を見やる光秀。
突然背後から忍び寄り,首を絞める初音・・・。
・・・否,もう言いますまい・・・。
ただ何というか,視聴者に媚びることなく重厚で格調高く・・・と求めてはいけないということでしょうか・・・。
何か,3年前の「功名が辻」,4年前の「義経」同様,途中で投げ出してしまいそうな気が・・・。                                             


天地人-第17回「直江兼続誕生」

2009年04月26日 22時39分34秒 | 天地人

天正10年がやって参りました。
3月に武田氏滅亡,6月に本能寺の変,上杉家に限れば,その間に魚津城攻防戦が入ります。
そして,直江信綱があっさり毛利秀弘に斬られてしまい,何の煩悶も懊悩も葛藤も無く,あっさりと直江家に入る兼続。
喪に服しているからなのかどうか,祝言も縁組みの儀も無く,夫婦が顔を合わせることも無く・・・。


縁組みの成立は,信綱横死直後の天正9年でしょうが,確かにこの時期は,新発田重家の造反や織田勢の越中侵攻と,上杉家にとっては四面楚歌の時代だっただけに大変なのは理解できます。
実際のところ祝言も何も無い程だったのでしょうか・・・。
あと,武田への援兵に上条(じょうじょう)政繁が向かったというのは本当でしょうか・・・。
援兵に対する勝家の書状が残っているところを見ると,援軍派遣は事実のようですが,誰がどこで戦ったのでしょう・・・。
で,家康と光秀がなにやら怪しげな交流をしておりましたが,家康が頭に被っていたのは
烏帽子なのか冠なのか頭巾なのか・・・。
よく分からなかったので,無くてもよいのでは,と思ってしまいました。


来週は魚津城攻防戦のようですね。
吉江宗信が自ら入城したのは良いのですが,何で景勝が
「吉江殿」
と呼ぶんだ・・・。
家来だろうに・・・。
因みに魚津城落城は天正10年6月3日。
前日が本能寺の変で,越中の織田軍諸将に変報が伝わったのが落城翌日の4日。
あと1日早く伝われば・・・。
と思ったのは,上杉贔屓ではない私だけではないでしょう・・・。


天地人-第16回「信玄の娘」

2009年04月19日 20時52分24秒 | 天地人

2回貯めていたぶんを昨日やっと視聴して,ようやく今日の放送に間に合いました。
貯め込んでいるうちに,呆気なく御館の乱が終わってしまいましたが・・・。


・・・にしても,御館の乱は,あっさり終わりすぎではなかったでしょうか・・・。
時系列が滅茶苦茶だったことは以前述べた通りですが,乱勃発直後の5月に没した筈の高坂弾正と兼続が会ったり(勝頼の北信侵攻は6月なので,買収されたとするとその時でしょう。但し先鋒の武田信豊の北信侵攻はその前月なので,5月の高坂死没を受けてのことだったと考えられます),9月以降の北条軍の上州侵攻と北条(きたじょう)高広父子の動きが全く語られなかったり,北条軍2万に対して武田軍は3万と語られたり(さすがにこの時期,遠江方面では徳川軍と対峙していたので-高天神城とか-3万を動員する力は無かったでしょう。多くて2万ぐらいで・・・),さらには景虎の最期が妙に美化されていたり・・・と突っ込みどころだらけでした・・・。

 

そして本日ですが,武田家より阿菊御寮人が輿入れしてきます。
脚本の通りだと,兼続の対武田政略が実ったということでしょうが,武田は上杉と結ばなくてはならないほど逼迫した状況にあったということでしょう。
尤も信玄の遺訓に,いざという時は上杉を頼れ,というものがあったということですから,決して突飛な必然性のないことでもなかったと思われます。
阿菊御寮人=菊姫=甲州夫人役の比嘉愛未嬢,見たこと無かったけど「どんと晴れ」のおねいさんですね。
個人的には○です(をい)。
前回までの変な髪型(お船といい華姫といい何か変)はさすがにやめたようですね。
この菊姫,才色兼備の賢夫人として景勝の施策を支えたとも,関ヶ原の役後に早世し,嫡子定勝を生んだ側室を呪い殺したとも,いろいろ言われているようですが,はっきり言って後者は只の偶然と思われます。
初夜の床で短刀抜いて景勝の胆力を試すのは創作でしょうが,ちょっとやり過ぎのような気もします。


・・・で,あっという間に3年がたって,朝日が昇る越後。
乱も収束し,謙信の遺訓を守って申請上杉家の門出・・・って,御館の乱は景虎の最期で終わるはずもなく,諸豪族や近隣大名を巻き込んだ大規模なものとなり,やがて今回の兼続重用を筆頭とする上田衆への嫉みから新発田重家が離反。
足かけ7年もの大乱となっていきます。
だから,さも御館の乱が終わったように話が進んでいくのは大きな間違いであり,さらには御館の乱で国力を疲弊させたところへ織田軍の侵攻が始まります。
真偽の程すら分からない手取川の戦いに信長が居た(どころか敗北も認めた)という設定自体が自体言語道断なのに,今度は織田勢の越中侵攻すら無い平和な越後。
脚本の考証が甘い,という誹りは免れぬようです・・・。
で,予告では滝川一益が侵攻してくる・・・と言っていましたが,それって武田氏滅亡直後だから,また随分話が飛んだものです・・・。
でも考えてみたら,天正10(1582)年6月に一益は厩橋城に居たはずですし,坂戸を狙うならともかく,春日山を睥睨するのなら,川中島にいた森可成(蘭丸兄弟の父,後長久手で討死)でなくてはなりません・・・。


兼続が,若干21で家老格になったのはどうやら事実のようです。
御館の乱に手柄が有ったのでしょうが,武田と手を結ばせるような離れ業をやったかというと???です。
では誰が?となると謎は深まるばかりですが,景勝が武田の窮状を見抜いていたのは確かではないでしょうか・・・。
上田衆の重用は,景勝自身が坂戸の出であるから当然でしょうが,それにしても信綱良い人過ぎです・・・。
でもって,あの最期は哀れです・・・。
兼続中心に話を進める都合上,お船とは前々から知己で・・・とした方が面白いのでしょうが,ああも城中でしょっちゅう顔を合わせることができる筈無いと思うのは私だけでしょうか・・・。
前々から好きだった・・・という手法は,3年前の「巧妙が辻」でも同様でしたが,無理がありありでしょう・・・。


うーん,昨年・一昨年の大河に比べて軽さは否めず,考証不足を突っ込まれる脚本。
ま,楽しんで見ることができ,これだけ根多を提供していただけるのですから,有難いことですが・・・、。