心配するな!なんとかなる。

今起きていること、ちょっと立ち止まって考えてみよう。

雇用の不安定を助長する安倍政権の「派遣法改正」に断固反対

2014-03-18 19:21:10 | 日記
2014/3/18

常時雇い止めの不安に怯えて、良い仕事が出来るわけが無い。

大体、会社への帰属意識が薄れて、拝金主義がますます助長される。

女房、子供、親ため、所謂家族の為に働く意欲を削ぐ政策があろのか。

日本社会は完全崩壊する。

非正規雇用で住宅ローンが組めるのか?

幸せな生活設計が立てられるのか。

これではとても、人口減少社会の対策になり得ていない、日本社会に復活なし。

頸になっても満足な雇用保険が出ず、満足な教育や就業機会が与えられずに、全て自己都

合で押し切られるだけ。

表面面だけ米国ナイズさせてもそりゃ無理と言うもの。

安倍お坊ちゃま、どうか改心なされよ。

非正規雇用を増やすなら、セーフティネットの充実は最優先課題。

名だけ、就業機会の弾力化は通用せん。

再雇用までの期間の失業補償、再チャレンジのためのスキルアップ支援等多額の税金が投

入されることになろう。

それを無視しての非正規雇用の意図的増加など日本社会を崩壊させる愚策である。

正規雇用で名だけ店長状態、非正規雇用で凧部屋状態。

いずれも、従業員への労働強化のみ残る。

企業との癒着に溺れる官僚・政治家に天誅を。

全てが企業側発想のこの国で、米国基準は通用しないこと自明。

こんなことが21世紀にまかり通る日本、韓国や中国の日本社会批判的外れで無いかも。

残念な政策である。

                ☆
以下 インターネットより

「非正規雇用」の割合が過去最高 「派遣法改正」でワーキングプアがさらに増える?
弁護士ドットコム | 執筆者: 弁護士ドットコムトピックス編集部
投稿日: 2014年02月22日 15時32分 JST | 更新: 2014年02月22日 15時32分 JST

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(画像はイメージ)「非正規雇用」の割合が過去最高 「派遣法改正」でワーキングプアがさらに増える? | Iain Masterton via Getty Images .199シェア168ツイート0メールアドレス14コメントメルマガ登録:

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過去最高の比率となった「非正規雇用」 安倍政権の「派遣法改正」でますます増える?

「アベノミクス」に沸き、盛んに景気回復が叫ばれた2013年だったが、パートやアルバイトなど非正規雇用の人の割合が過去最高になっていたことが、国の調査でわかった。

国の「労働力調査」(2013年平均)によると、過去最高になったのは、役員をのぞく被雇用者のうち非正規雇用の労働者の割合。前年から1.4ポイント増えて、36.6%にのぼった。男女別だと、男性が1.4ポイント上昇の21.1%、女性が1.3ポイント上昇の55.8%となった。

非正規雇用者の人数自体も増えていて、前年比93万人増の1906万人。内訳はパートが928万人、アルバイトが392万人、契約社員が273万人などだった。

こうした調査結果について、労働者側で労働問題に取り組む弁護士はどうみているのだろうか。白川秀之弁護士に話を聞いた。


●企業が「正社員への道」を閉ざしている

「非正規雇用労働者は、1990年代から増加し続けています。そこには大きく分けて、2つの問題があると考えています。

まずは、『正社員』になりたいという人に対して、企業がその道を閉ざし、逆に非正規雇用を拡大する施策を推進してきたことですね。これでは、非正規雇用労働者が増えるのも当然です。

もう一つは、ひとたび『正社員』になると、労働時間や勤務場所、業務内容面で『無限定』とされ、責任ばかり多い働かせ方をさせられているということです。正社員になったからといって、必ずしも適切な労働環境とはいいがたい現実があるのです」


●「非正規」は雇用が不安定なうえ賃金も安い

そもそもの話だが、非正規雇用はなぜ否定的にとらえられるのだろうか?

「まずは、雇用が非常に不安定なことですね。たとえば、契約期間終了時に『雇い止め』された場合、裁判で『雇い止めは無効だ』と認めてもらおうとしても、非常に難しい場合が多いです。

また、一般的に非正規雇用は給与面でも不利で、正規雇用されている人と同じ仕事をしていたとしても、賃金は低く抑えられているケースがほとんどです」

このように白川弁護士は指摘したうえで、次のように述べる。

「こうした点を考えると、非正規雇用の増大に、歯止めをかける必要があると思います。

2012年の労働契約法改正で、同じ職場で契約更新をくり返し、5年以上経過したような場合には、契約を『無期限の雇用契約』に変えてもらえる権利(無期雇用転換権)が、労働者に認められるようになりました。

しかし、これだけでは歯止めとして、不十分です。具体的には、企業が有期雇用契約を使える場面を限定する『入り口規制』などの対策が必要となってくるでしょう」


●非正規雇用の増加は「ワーキングプア」を増やす

対策が実現する見込みは、どれぐらいあるのだろうか。今後の見通しは?

「いまはむしろ、逆の方向へ進んでいます。

たとえば現在、厚生労働省は派遣法を改正し、派遣労働の期間制限をなくそうとしています。これが実現すれば、非正規雇用はますます増えます。

これ以上の非正規雇用の増加はワーキングプアを増やし、貧困者を増やすだけです。このような動きを何としても阻止しないといけないと思います」

白川弁護士はこう警鐘を鳴らしていた。

(弁護士ドットコム トピックス)


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【取材協力弁護士】

白川 秀之(しらかわ・ひでゆき)弁護士

2004年弁護士登録。一般民事事件を幅広く行っておりますが、労働事件を専門的に取り組んでおります。日本労働弁護団常任幹事、東海労働弁護団事務局次長、愛知県弁護士会刑事弁護委員会

事務所名: 弁護士法人名古屋北法律事務所


小保方さん、信じていますよ。堂々としていてよ。

2014-03-14 21:04:12 | 日記
2014/3/14

小保方女史、悪意があっての話でなければ、世間の評価など気にせず、堂々としていよ。

科学技術の進歩の過程には利権が絡み、謂れ無き中傷も混じる。

したり顔で批判を加える向きもあろう。

研究成果公表の動機が自分の名声を得る為だけの愚かな行為でないことを信じている。

いずれ、論文の成果が明らかになる日が来よう。それまで地道に研究を続けて欲しい。

天動説・地動説の論争を持ち出すまでも無く、科学的な論争の結論は永くかかる。

                    ☆

以下 コピペで恐縮だが…。

「STAP細胞」もしも成功していなかったとしたら・・・理研に法的責任はあるか?
弁護士ドットコム 3月13日(木)21時1分配信

科学の研究成果は、科学者相互の検証によって、信用性が確かめられる
理化学研究所の小保方晴子(おぼかた・はるこ)研究ユニットリーダーなどのグループが発表し、大きな注目を集めた「STAP細胞」。その論文に使われた画像やデータに不自然な点があると指摘されている問題で、新たな動きが起きている。

共同研究者の山梨大学・若山照彦(わかやま・てるひこ)教授が「研究データに重大な問題が見つかり、STAP細胞が存在するのか確信がなくなった」として、ほかの共同著者に論文の取り下げを呼びかけているのだ。

この「STAP細胞」は、小保方研究ユニットリーダーなどが作製に成功したと、イギリスの科学雑誌「ネイチャー」に発表。iPS細胞につづく新たな万能細胞の発見として注目を集めたが、その後、論文の中に、画像の使い回しや、ほかの論文の無断引用があるという指摘が相次いでいた。

理化学研究所は、論文の撤回も視野に入れて調査を進めており、3月14日に中間報告を行うとしている。では、もし仮に、STAP細胞の研究データに問題があり、実は作製に成功したとはいえないものだった場合、理化学研究所に何らかの法的な責任が生じる可能性はあるのだろうか。冨宅恵弁護士に聞いた。

●理化学研究所に「使用者責任」はある?

「現在報道されている事実関係を前提に検討しますと、理化学研究所が積極的に論文の発表に関与していたわけではなく、研究の中心的な存在であった小保方氏が所属している機関が理化学研究所であったに過ぎないと認められます。

この事実関係を前提に、理化学研究所が負う可能性がある法的責任としては、まず使用者としての不法行為責任が考えられます」

それはどんな性質の責任なのだろうか。

「使用者としての不法行為責任は、自らの監督下にある従業員が職務中、あるいは外見上職務中であると評価される場合に、第三者に加えた損害について、使用者が負う責任です。

ただし、この使用者としての不法行為責任は、あくまで第三者に『損害を与えた場合』に、それを賠償する制度ですから、損害がなければ生じません。

今回の件は、研究の成果を『ネイチャー』誌に発表したことに留まりますので、同誌が小保方氏らの論文発表により金銭的な損害を被っていなければ、理化学研究所が使用者として何らかの損害賠償を行う義務を負うということはないと思います」

研究費についてはどうだろうか。

「研究に対して、公的資金が投入されている場合は、それが適正な形で研究活動に使用されるために、補助金適正化法という法律があります。

この補助金適正化法では、研究結果を偽って補助金等を申請し補助金を受領した場合に、研究者個人や研究機関が受領した補助金の返還を義務付けられています。

ただ、今回の件では、『ネイチャー』誌に発表した論文に基づいて補助金を受領するところまでは至っていないようです。したがって、この法律が問題になることはないだろうと思います」

●ウソの研究発表を防ぐ法的な枠組みは必要?

「論文の発表にあたっては、研究成果の真偽を確かめるための『査読』というプロセスがありますが、費用や時間との関係で、査読のみで研究成果の真偽を確定することは困難です。

つまり、研究成果の真偽は、他の研究者や研究機関が、論文発表後に行う検証に委ねざるを得ないという実情があります」

それで、ねつ造を防ぐことは可能なのだろうか。

「仮の話ですが、他の研究者や研究機関の検証により、研究成果がねつ造されたものであることが判明した場合、発表を行った研究者は信用を失い、研究を継続することが事実上困難になります」

つまり、研究者たちが互いに検証しあう仕組みが、抑止力ともなっているわけだが、そこに加えて法規制をする必要はないのだろうか。

「研究成果のねつ造の問題は、他者に損害を与えた、あるいは不正に補助金等を受け取ったという場合を除いて、法律によって規制するのではなく、他の研究者や研究機関の検証に委ねることでよいと思います。これにより自由で積極的な研究活動が保障されるのではないでしょうか。

今回のSTAP細胞についても、仮に研究者や研究機関による検証によって論文の問題が判明したとすれば、そういった仕組みが有効に機能していることを示すものといえるのではないでしょうか」

このように冨宅弁護士は述べていた。3月14日に、理化学研究所がどのような中間報告を発表するのか。その内容が注目される。

(弁護士ドットコム トピックス)

【取材協力弁護士】
冨宅 恵(ふけ・めぐむ)弁護士
多くの知的財産侵害事件に携わり、様々な場所で知的財産に対する理解を広める活動にも従事。さらに、収益物件管理、遺産相続支援、交通事故、医療過誤等についても携わる
事務所名:イデア綜合法律事務所
事務所URL:http://www.idea-law.jp/
.弁護士ドットコム トピックス編集部

                   ☆

これまたコピペ…。

天動説と地動説



竹本信雄

茨城県立小瀬高等学校



1985年8月09日 初 版

1995年7月19日 改訂版

2002年3月31日 三訂版

2004年9月29日 四訂版



第1部 天動説と地動説

1.地動説と宗教裁判

 みなさんは,「地球が太陽の回りを回っている。」という話を聞いたことがありますか。これが,16世紀にコペルニクスが唱えた地動説です。
 当時は「地球の回りを太陽やわく星やそのほかの星々が回っている。」という天動説が信じられていました。空を見れば太陽や星は東から出て西にしずみます。地面が動いていることなどまったく感じません。地球が止まっていて天が動いていると考えるのは当然です。
 そのころの人は「地動説」を唱える人たちを,「人々をまどわすわす大うそつき」だと思いました。実際,宗教改革で有名なルターなども
「地球が動いて,太陽が動かないなどとデタラメなことをいって世の中の人をまどわすのは,まったくけしからん。」
というようなことをいっています。
 そこで,地動説をさらに発展させて,
「私たちが住むような世界(太陽系)は,この宇宙の中に無数にある。」
と唱えたブルーノという人は,「いくら注意をしても人をまどわすデタラメを言い続けた。」として,火あぶりのけいに処せられました。
 また,自分で作った望遠鏡で天体観測をして「地動説」を正しいと確信して広めたガリレオも「宗教裁判」にかけられ「地動説は間ちがいいでした。」と言わされました。そのとき「それでも地球は動いている。」とつぶやいたという話はあまりに有名です。

【質問1】
 このことから板倉聖宣という人は「『表現の自由』というのは『うそをつく自由』まで認められなければ本当に保証されているとは言えない。」といいます。みなさんはどう思いますか。できたらみんなで話し合ってみましょう。


2.アリスタルコスと地動説(1)

 地動説というと最初に唱えたのはコペルニクスであると思われています。しかし,実は今から2300年も前(紀元前301年ごろ)に地動説を唱えた人がいました。古代ギリシアのアリスタルコスという人です。

 こんなことを言うと,

「確かにそうかもしれないが,そんな昔にはくわしい観測などできなかっただろうから,その説は頭で想像しただけで,科学的とはいえないのじゃないのかな。科学的なしょうこをもとにして地動説を唱えたのはやはりコペルニクスが最初じゃないのかな。」

そんなふうに思う人がいるかもしれません。本当はどうなのでしょう。アリスタルコスの考えた過程をいっしょにふり返ってみましょう。


【質問2】

 月は満ちたりかけたり,いろいろ形が変わりますが,日がたつにつれてどのように変わっていくのでしょう。下に書いたのは月の形が変わる順を予想して書いたものです。どの考えが正しいと思いますか。


ア.






イ.







ウ.





エ.その他




3.月の満ち欠け

 月の形を毎日見ているとイのように変わります。どうしてでしょうか。

 月を眺めると,月は天に張り付いたお盆のようにも見えます。しかし本当は丸い球のような形をしています。月は遠くて立体的には見えないので,お盆のように見えるのです。そして月は地球のまわりを約1ヶ月で回っています。

 ではその月を地球から見たらどのように見えるのでしょうか。

 まず月は光を出していないので,太陽の光が当たらないと地球から見ることができません。ですから月の太陽に面している半分だけが見えることになります。月は丸いものなのに,いろいろな形に変わって見えるのは,太陽に照らされている月の部分だけが見えるからです。



【作業】


半分黒く塗ったボールを月に見立てて,どんな形に見えるか試してみましょう。
 アリスタルコスは月を満ち欠けの様子から,空間に浮かぶ球だと見抜いていました。そして地球も太陽も月と同じように球形をしていると考えていました。

 では月や太陽そして地球はどのくらいの大きさなのでしょう。まず,地球から見て太陽と月はどちらが大きくみえるのでしょう。


【問題1】

月と太陽どちらが大きく見えると思いますか。

 予 想

 ア.太陽の方が2倍以上大きく見える。

 イ.太陽と月はほとんど同じ大きさに見える。

 ウ.月の方が2倍以上大きく見える。

 討 論

 どうしてそう思いますか。みんなで話し合った後,観測してみましょう。観測できないときは次の話を読みましょう。




【観測1】太陽と月の観測

①5円玉の穴から太陽と月をのぞいてくらべてみましょう。

 太陽を見るときには,色のこいプラスチックの下じきを通してみるか,太陽がしずむ直前のように光が弱まったときに見るようにしましょう。大切な目を痛めます。

② 天体望遠鏡(倍率80倍~90倍位)で大きさをくらべてみましょう。

  天体望遠鏡で直接太陽を見ると大変です。目が目玉焼きになって失明してしまいます。ですから,口径を小さくしぼり,こい色の付いたガラス(太陽観測用サングラス)を接眼レンズの前に入れるなどのくふうをしなければなりません。

  しかし最近は,サングラスをつけても有害な赤外線が目にはいることや,太陽の熱でサングラスが割れる危険性があるので,こういう観測法は行われなくなっています。白い紙に投影する方法が安全です。月も満月なら紙に投影して見ることができます。


【太陽(左)と月(右)】





4.日食の話

 地球から見ると月と太陽はほとんど同じくらいの大きさに見えます。

 そこで,月がちょうど太陽の間にはいると,太陽が月の後ろにかくされてしまうことがあります。それが日食です。

 太陽と地球の距離は季節によって少し変わるので,地球から見た太陽の大きさはほんの少し違って見えます。

 また,月と地球の距離も日によって変わるので,地球から見た月の大きさも変わります。

 そこで地球から見ると,時によって月の方が太陽より大きく見えたり,小さく見えたりします。月が大きく見えるとき日食になると,太陽は月に完全にかくされます。こうなったとき皆既日食といいます。

 逆に月の方が太陽に比べて小さく見えるとき日食になると,月は太陽を全部かくすことができず,太陽の周りが月からはみ出して輪のようになります。これを金環食といいます。

 時によって皆既日食になったり金環食になったりするくらいですから,地球から見た太陽の大きさと月の大きさはほとんど同じということができます。

【皆既日食(左)と金環食(右)】




5.アリスタルコスと地動説(2)

 地球からみた太陽と月の大きさはほとんど同じです。アリスタルコスは,「太陽と月の本当の大きさはどうなのだろう。何とか知ることはできないだろうか。」と考えました。そして,次のような方法を考えました。

「月が半月の時,太陽は月を真横から照らしている。そのとき太陽と月がつくる角度を測れば,三角測量の方法で地球から月・太陽までの距離の比がわかるはずだ。」

 アリスタルコスはさっそく月が半月になる時を待って測定し,87度という結果を得ました。(正しい値は89度50 分です。)



そして太陽は月より19倍も遠いところにあることを知りました。月と太陽の見かけの大きさが同じことを考えると太陽は月より直径で19倍も大きいことになります。

【問題2】

 もし昼間月が出ているのを見たら,アリスタルコスのように月や太陽,そして地球が宇宙空間に浮かんでいる様子を想像してみましょう。

 そしてもしボールを持っていたら月の見えている方向にかざしてみましょう。ボールが太陽に照らされている部分の形は月の形と同じに見えると思いますか。

 予 想

 ア そのとき見える月の形と同じ形に見える。

 イ そのとき見える月と同じ形に見えるとは限らない。

 ウ その他


 討 論

 みんなの考えを出し合いましょう。



 ヒント

上の図で月-地球-太陽のなす角の正しい値は89度50分ですから,月と地球に降り注ぐ太陽の光は,ほとんど平行です。



6.月食の話

 次にアリスタルコスは月や太陽が地球の何倍大きいか知る方法はないかと考えました。そして,月食を観測すれば月と地球の大きさをくらべることができることを思いつきました。

 満月が下の図のようにかけていくことがたまに起こります。これが月食です。

 これは月が地球のかげに入るためです。ですから月にうつる地球のかげの形から地球の大きさがわかります。

 そうして求めると地球のかげの直径は月の約3倍です。しかしかげは地球をはなれるにつれて小さくなるので地球の直径が月の3倍というわけではありません。実際の地球の直径は月の約4倍です。

 しかし,アリスタルコスは地球の直径は月の約3倍と考えたようです。





【質問3】

 この写真は上の図で言うと何時ごろの状態に相当するでしょう。

 欠け際をぐるっと延長して地球のかげの大きさを調べましょう。地球のかげの直径は月の直径の何倍くらいありますか。


7.アリスタルコスと地動説(3)

 アリスタルコスは体積にして,月は地球の1/25,太陽は地球の300倍の大きさと推測しました。もちろん当時は月と同じように太陽も地球の回りを回っていると考えられていました。しかし,アリスタルコスはその説に疑問をもちました。
「地球の300個分の大きさをもつ太陽が,ちっぽけな地球のまわりを回るなんてことがあるのだろうか。むしろその逆だと考える方が自然じゃないのかな。」

 アリスタルコスはそう考えて,「地動説」を発表したのです。しかし当時のえらい学者たち(ストア学派)からは,「地球が動いているだなんて,そんなバカげた説は信じられない。そんな考えは神への冒涜だ。」と激しく非難されました。

 アリスタルコスの推測は現在わかっている正しい値に比べると非常にひかえめなものでした。太陽は月より400倍も遠くにありますので,太陽は地球の何と130万個分の大きさだったのです(重さでいうと地球の33万個分)。

 しかし値はともかく,アリスタルコスは「そのように大きな太陽が,くらべものにならないくらい小さな地球のまわりを回るということこそ信じられない。」と考えたのです。


【正しい太陽・地球・月の大きさと距離の比】



【作業】

 太陽や地球・月を10億分の1に縮めた模型を作ってみましょう。

 10億分の1に縮めると,太陽は直径1.4m,地球は1.3cm,月は3.5mmの球になります。

 太陽は風船で,地球と月はねん土で模型を作り,眺めてみましょう。アリスタルコスがなぜ「地動説」を唱えたのか,その理由が実感できますか。


8.天動説─プトレマイオス─

 古代ギリシア人は,一部の学者をのぞくと,すべての星は地球を中心にして円運動をしていると考えていました。



           古代ギリシア人の考えた宇宙像


 しかしそれでは,わく星の複雑な動きは説明できません。そこでプトレマイオスという人は,それまでの学者の考えを集大成して,わく星の動きをきわめて正確に説明できる天動説を唱えました。わく星は単に決まった軌道上を回るのではなく,軌道上に中心がある小さな円軌道(周転円)の上を,1年の周期で回ると考えたのです。そして,それでもうまく観測に合わないときにはさらに周転円を重ねたり,中心をずらすなどの修正をほどこしました。こうして大変良い精度でわく星の動きを説明することに成功しました。





プトレマイオスの天動説

【質問4】

 当時すでに日食が起こる日を予言できるほど精密な観測が行われていました(紀元前585年タレス)。しかし,地動説を唱える人はありませんでした。

 一方アリスタルコスの観測は誤差だらけで,お世辞にも精密とはいえません。しかし,正しい地動説を発見しました。

 この事実からすると,精密な観測さえすれば正しい答が見つかるとは言えないようですが,みなさんはどう思いますか。できたらみんなで話し合ってみましょう。


9.地動説ふたたび─コペルニクス─

 こうして十分な精度でわく星の動きを説明できることになると,天動説に疑問をもつ人はほとんどいなくなりました。

 しかし,問題が解決された訳ではありません。たとえば水星と金星は太陽からある決まった角度以上はなれることはありませんが,その理由は説明できません。また,わく星が太陽のまわりを回る周期はまちまちですが,周転円の上を回る周期はなぜかどのわく星も1年です。その理由も説明できません。

 「わく星の動きが正確に予測できるのだから,そんな細かなことはどうでもいいではないか。」
 多くの学者はそう考えていました。しかし,そうした天動説に疑問を持ち,満足できない人もいました。ポーランド人のコペルニクスです。
 「確かにわく星の位置を正確に知ることはできる。しかし,理論的には矛盾だらけだ。しかもわく星が実際どこにあってどのように運動しているのか,全く答えてくれない。宇宙の本当の姿が知りたい。」
 コペルニクスは当時起こった古代の学問を見直す世の中の流れ(ルネッサンス)の中で,古代の学者の本を読みました。自分の疑問を解決するヒントが得られないかと考えたからです。そして,古代にも地動説を唱えていた人のいることを知りました。
「これだ!これが本当の宇宙の姿だ!!」
 コペルニクスはそれまで疑問に思っていたことすべてが「地動説」ならば解決することがわかり,たいへん喜びました。




コペルニクスの地動説

 わく星の複雑な動きは,動く地球の上から見ていたためだったのです。周転円を動く周期が1年なのは地球が太陽のまわりを回る周期が1年だったからです。水星と金星が太陽からある角度以上はなれない理由もわかります。この二つのわく星は地球の内側を回っていたのです。惑星の配置(距離)を知ることもできます。



 コペルニクスは「天球の回転について」という本で,当時忘れ去られていた地動説を発表しました。しかし,地動説はなかなか受け入れられませんでした。

【質問5】 今なら望遠鏡というすばらしい観測機械があります。望遠鏡を使えば,天動説と地動説のどちらが正しいかはっきりわかるしょうこが見つかるかも知れません。その方法があるかみんなで考えてみましょう。


10.地動説の証拠

 「プトレマイオスの天動説」と「コペルニクスの地動説」の図を見比べながら,陽一郎君と花子さんが話し合っています。


陽一郎「水星や金星を望遠鏡で見れば,天動説が正しいか地動説が正しいか,わかるのではないかな。」

花 子「え。どうして。」

陽一郎「天動説では,地球から見た場合,水星や金星はいつも太陽を背にしているから,三日月のように欠けて見えるはずでしょ。絶対半月型や丸い形に見えることはない。でも地動説が正しいなら三日月型の時もあるが,半月型や満月型に近い形の時もあるはずだ。」
花 子「なるほど。それじゃ,水星や金星を観察して半月型や満月型になるときがあるかどうかを調べればいいのね。」


 みなさんも,「プトレマイオスの天動説」と「コペルニクスの地動説」の図を見比べながら考えてみてください。

 望遠鏡で見ると,水星や金星は本当に月のように欠けたりして見えるのでしょうか。


【問題3】水星や金星は望遠鏡で見ると,

 予 想

 ア.いつも三日月型に欠けて見える。

 イ.三日月型の時もあるが半月型や丸く見えることもある。

 ウ.その他。


 討 論

 どうしてそう思いますか。できたら望遠鏡を使って確かめましょう。



【観測2】水星・金星の観測

 水星はいつも太陽の近くにあるのでちょっと見つけづらいわく星です。コペルニクスは水星を1度も見たことがなかったという話もあります。でも金星は,その名の通りたいへん明るく輝く星で,太陽からかなりはなれるのでずっと見やすいわく星です。望遠鏡を使えば昼間でも見ることができます。最も明るいときには,肉眼で見ることもできるくらいです。

 そして望遠鏡で観察すると,三日月型に見えるときもありますが,地球からみて太陽から最も離れたときには半月型に,地球から最も遠くはなれたときには満月に近い形に見えます。これは地動説が正しいことのしょうこです。できたら先生に見せてもらいましょう。

金星の満ち欠け



【水星(左)と金星(右)】



     水星(マリナー10号)       金星(ハッブル望遠鏡)

注:金星の写真はハッブル望遠鏡から撮影されたものです。ハッブル望遠鏡は地上600km上空を回る人工衛星に積まれた望遠鏡ですから,地上から見た形と同じです。水星の写真はマリナー10号という惑星探査機が水星に接近して撮影したものです。地球から見た姿ではありませんが,地球から見ても同じような形に見えるときがあります。


11.どちらが正しいかは精密な観測で─ ティコ・ブラーエ─

 コペルニクスが「天球の回転について」という本で地動説を発表して以来約1世紀にわたって,天動説を信じる学者との間で論争が続きました。
 ティコ・ブラーエという人は「どちらが正しいかは精密な観測で証明される」と考え,星の位置観測を続けました。

「もし地球が太陽の周りを回っているなら1年の周期で星の見える方向がずれるはずだ」と考えたのです。その結果,ティコは「わく星は太陽の周りを回り,太陽は地球の周りを回る」という独自の天動説を唱えました。いくら精密に観測しても,星の見える方向に変化はなかったからです。



その後ティコは自分の説を確かめるため,16年間にわたって火星の位置変化を,肉眼としてはおどろくべき精度で観測しました。そのたくさんの観測結果を,数学にくわしい弟子のケプラーにあずけて,なくなりました。

【質問6】

 正確な観測をもとにしたティコ・ブラーエの考え方は,たいへん科学的であるように思えます。しかしその結果,かえって間ちがった天動説を信じることになってしまいました。どうしてでしょう。科学的に考えるというのはどういうことなのでしょう。できたらみんなで話し合ってみましょう。


12.惑星の軌道は楕円─ケプラー─

 ティコの弟子で,火星のたくさんの観測資料を使うことを許されたケプラーは,わく星の運動の法則を発見する努力をしました。ティコは独自の天動説を考えていたのですが,弟子のケプラーは,実は地動説を正しいと思っていました。

 ケプラーは火星の観測結果を用いて,地球の軌道を決定しようと考えました。火星が太陽の周りを回る周期(公転周期)は687日です。687日ごとに火星は元の位置に戻ってきます。その時の火星の位置(方向)から地球の軌道を求めたわけです。ケプラーは地球の軌道は中心のずれた円(離心円)であると考えていました。そこでその中心のずれ(離心率)と円の大きさをを求めたのです。




 次に,そうして求めた軌道上を地球がどのように動くかという法則を見つけようとしました。そして,地球が太陽から遠いときはおそく,近いときは速いことを知りました。ケプラーは

「わく星の速さは太陽からの距離に反比例する。」

という仮説をもとに検証しました。そしてついに

「わく星と太陽を結ぶ線分が単位時間にえがく面積は一定である。」

という正しい法則を発見しました。これを「ケプラーの第2法則」または「面積速度一定の法則」といいます。

 次にケプラーは,求められた地球の軌道をもとに火星の軌道を決めようとしました。火星の軌道も当然中心のずれた円軌道だと思っていたのですがどうもうまくいきません。また,先に発見した面積速度一定の法則も正確にはあてはまりません。ケプラーは頭をかかえました。




「どこが間ちがいなのだろう。角度にして8分ほどのずれがある。ティコ先生の観測は正確で誤差はせいぜい1~2分のはずなのに。」
(角度の1分は1度の1/60です。)

 そして,ケプラーはティコの観測結果と合わない原因をひとつひとつ検討していきましたがわかりません。そして最後に,

「そもそも,火星の軌道を円と考えていることが間ちがいではないだろうか。」

と考えました。これは,それまでだれも疑ったことのないことでした。

「天の世界は完全だから軌道は円以外考えられない。」

だれもがそう考えていたのです。

「円でないとしたらわく星はいったいどんな軌道をえがいているのだろう。」

 円でない軌道は無数に考えられます。それからのケプラーは,いろいろな軌道を仮定しては計算して確かめるという研究を続けました。そしてついに火星の軌道はだ円軌道であることをつきとめたのです。

 こうしてケプラーは

「わく星は太陽の周りを,太陽を一つのしょう点としただ円軌道をえがく。」

という法則(ケプラーの第1法則)を発見しました。

【観測3】火星の観測

 ケプラーの法則発見のもとになった火星を見てみましょう。火星は2年2ヶ月ごとに地球に接近します。ですからほかのわく星とちがって,毎年見やすい位置に来るわけではありません。もし,今年が火星が見やすい年でしたら先生に見せてもらいましょう。



火星(ハッブル望遠鏡)

13.世界の調和─ケプラーの調和の法則 ─

 ケプラーは若いころから「宇宙の調和」という考え方に強い関心を持っていました。「宇宙には精密な調和があるにちがいない。」と強く信じていました。第1・第2法則を発見した後,ケプラーはわく星たちの運動をたがいに関係づける規則性を追い求めました。そして10年後,ついに第3の法則を発見しました。それは,
「わく星の公転周期の2乗は,太陽からの平均距離の3乗に比例する。」

というものです。ケプラーは

「これこそ長い間,追い求めてきた宇宙の調和だ。」

ということで,「調和の法則」と名付けました。
こうしてケプラーは,わく星の運動に関する3つの法則を発見しました。




ケプラーの法則

 【第1法則】

  わく星は太陽の周りを,太陽を一つの焦点としただ円軌道をえがく。

 【第2法則】

 わく星と太陽を結ぶ線分が単位時間に描く面積は一定である。

 【第3法則】

  わく星の公転周期の2乗は,太陽からの平均距離の3乗に比例する。







 この時代まで,コペルニクスの地動説では,プトレマイオスの天動説のようにわく星の動きを正確に表すことができませんでした。長い年月をかけていくつもの周転円を使い,改良に改良を重ねた天動説の方が正確なのは,いわば当たり前なのです。しかし,ケプラーの3法則によって,地動説でもわく星の動きを天動説と同じように正確に予測することができるようになりました。
【第1部 終わり】


第2部 運動の法則と万有引力の法則

14.そのころガリレオは─慣性の法則─

 そのころ,ふり子の等時性や落下の法則などで有名なガリレオは,自作の望遠鏡を使って宇宙の神秘をさぐっていました。そして,月のクレータや太陽の黒点,土星の輪などを発見しました。

 また,木星の周りを回る4つの衛星を発見しました。それらの衛星は今でも「ガリレオ衛星」と呼ばれています。その様子はコペルニクスが主張する「地動説の宇宙」の模型のようでした。ガリレオも地動説を支持していました。そして,これらの発見をもとにして「星界の報告」や「天文対話」という本を書きました。

【観測4】木星・土星の観測

 できたら,ガリレオが発見したという土星の輪や,木星の4つの衛星の公転を観察してみましょう。


木星(ハッブル望遠鏡)         土星(ハッブル望遠鏡)

 ケプラーがわく星のしたがう法則を研究して,地動説の正しいことを証明したころ,ガリレオは地動説にまつわる大きな問題を解決しました。

 それは物体の運動に関する非常に基本的な問題です。

「地球が動いているなら手をはなれた石が落ちている間に地面が動くので真下に落ちるはずはない。石が真下に落ちるのは地球が止まっているしょうこである。」

天動説を支持する人はそう言って地動説を信じる人に反論しました。

 ガリレオは,動く船のマストから石を落としても石は真下に落ちることから,

「一定の速さで動く物体の上では,止まっているときと同じ力学法則がなりたつ。」

という「ガリレオの相対性原理」を発見しました。そして,「相対性原理」が成り立つためには,それまで信じられていた「力と運動の関係」を根本から見直さなければならないことに気づきました。




 それまでは,

「物体に力を加えなければ,動いている物体は必ず止まる。物体が動き続けるためには常に力が働いていなければならない。」

と考えられていました。しかしガリレオは

「動く船の上で手をはなれた石が真下に落ちるためには,石は船と同じ速さで動き続けながら落ちなければならない。したがって,『物体に力が働かないとき,動いている物体はその速さを保って動き続ける』はずだ。」

と結論したのです。これは「地動説」と同じように,それまでの常識をくつがえす大発見でした。これを「慣性の法則」と言います。(後にニュートンが「運動の第1法則」として次のようにまとめました。)


【運動の第1法則】慣性の法則

 物体に力が働かない場合,静止している物体は静止し続け,運動している物体は,その速度を保って等速直線運動を続ける。


 ところで相対性原理といえば,「ガリレオの相対性原理」のほかに「アインシュタインの(特殊)相対性原理」というものもあります。この原理は「ガリレオの相対性原理」をもっと一般化したものです。すなわち,「相対的に一様な速度で運動しているものの中(あるいは上)では,力学法則だけでなく,光や電気・磁気など,あらゆる物理法則が全く同じになる。」というものです。

15.ニュートンの発想

 次にくるのがニュートンです。ニュートンはガリレオの後を継いで,物体に力が働いた場合の法則を発見しました。
「物体はまっすぐに走らない場合もある。これはどうしたわけだろう。」

ニュートンの結論はこうでした。

「たとえば動いている物体を後ろからおせば物体は加速する。反対向きなら減速する。横から力を加えれば,速さは変わらないが運動の向きが変わる。どんな場合にせよ,物体の速さと向き,つまり速度を変えるには,とにかく力が必要なのだ。」

こうしてニュートンは「運動の法則」を発見しました。



【運動の第2法則】運動の法則

 物体に力を加えると,力の向きに加速度を生じる。その加速度は加えた力に比例し,物体の質量に反比例する。


 
 こうしてニュートンは,わく星が太陽の周りを運動するとき,その接線方向には何の力もいらないことを見抜きました。しかし,わく星に力が全然働かなかったら,わく星はまっすぐ進ばかりです。実際にはわく星は直線運動を続けるわけではありません。力が働かないとしたら直進していったはずの所(P’)よりも,ずっと太陽によったところ(P”)まで軌道がねじ曲げられます。その結果として,ケプラーの言うように楕円軌道を描くのです。



 わく星が太陽の周りを回るためには,常に太陽に向かう力が働いていれば良いことを知ったニュートンは,

「この力はおそらく太陽がわく星を引っ張るためだろう。」

と考え,そのわく星を引っ張る力の法則を発見しようとしました。

 ニュートンは数学の天才でもありました。自分で微分・積分という新しい数学を発見してしまうほどでした。

 わく星の運動はケプラーの3つの法則で完ぺきに説明できます。ニュートンはケプラーの3法則が成り立つためにはどんな力が働けばよいのかを,得意な数学を使って考えました。そして,面積速度が一定というケプラーの第2法則は,「わく星に働く力が常に太陽の方向を向いてさえいればよい」ことを証明しました。

 また,「わく星の公転周期の2乗は,太陽からの平均距離の3乗に比例する。」という第3法則が成り立つためには,「その力が太陽からの距離の2乗に反比例して弱まっていく。」とすれば良いことを発見し,同時に,そのような力が働けば「わく星の軌道はだ円になる。」という第1法則も証明できました。

 これまでのところ,実はニュートンは何もしなかったのと同じです。なぜなら,ニュートンはケプラーが発見したことを別なことば(数式)で表現しただけにすぎないからです。実際ニュートンはこの世紀の大発見をたいしたこととは考えず,すぐに発表しようとはしませんでした。何十年かして,ハレー彗星で有名なハレーがそれを知って,急いで発表するように促しました。それでようやく発表したのです。そのためニュートンと独立に同じ法則を発見したフックとの間で先取権争いの論争を巻き起こすことになりました。同じようなことは微分・積分の発見についても,ライプニッツという人との間で起きました。

 ニュートンは力というものの根本的な性質に関する法則も発見しました。作用反作用の法則といいます。これについては別な機会に詳しく勉強しましょう。



【運動の第3法則】作用反作用の法則

 物体Aが物体Bに力をおよぼすとき,物体Bは物体Aに力を加え返す。それらの力は同一作用線上にあり,大きさは等しく向きは反対である。



16.ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て「万有」引力の法則を発見した

 よく「ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て,万有引力の法則を発見した。」と言われます。これは本当でしょうか。今までのお話を聞いてきたみなさんは,「そんなのうそだ。」と思うでしょう。「太陽がわく星を引っ張る力は,距離の2乗に反比例する。」という法則はケプラーの3法則から数学的に導かれたものです。リンゴが木から落ちるのを見て発見されたわけではありませんし,また発見されるはずもありません。
 本当はどうなのでしょう。しかし,「全くの嘘とはいえないのではないか」という人もいます。その人はこう想像します。

 当時すでにガリレオによって,木星の周りを4つの衛星が回っていることが知られていました。それは小さな太陽系みたいなもので,衛星は木星に引っ張られているようでした。月も地球に引っ張られてその周りを回っています。そして月というのはガリレオによって,地球と同じく山や谷があり,大きな岩石の固まりであることがわかっていました。

 そこでニュートンは次のように考えました。

「ケプラーの3法則を成り立たせる力は,別に太陽特有のものではないようだ。木星と衛星,地球と月との間に働く力も同じものだろう。ということは,どんな天体も他の天体を引っ張るとは言えないだろうか。いや,まてよ。ガリレオが明らかにしたように,月は大きな岩石のようなものだ。地球だって岩の固まり。岩が岩を引っ張っている。…・。」

 ニュートンがそんなことを考えているとき,リンゴが木から…。

「そうだ!きっとそうだ!天体ばかりでなくすべての物体に他の物体を引っ張る力があるのだ!!月が地球の周りを回っているのは,地球が月を引っ張るから。リンゴが落ちるのも地球がリンゴを引っ張るから。地球というのは岩の固まり。岩の固まりがリンゴを引っ張る。月という岩を引っ張る。そうだとしたらそこに転がっている岩だってリンゴを引っ張っているはずだ。」

 こうして,ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て,「すべての物体が他の物体を引く。」という「万有」引力の法則を発見しました。

 ニュートンは,さらに自ら発見した作用反作用の法則と,物体に働く重力がその物体の質量に比例することを使って次のように結論しました。



万有引力の法則

 すべての2つの物体間に引力が働き,その引力の大きさはそれらの質量の積に比例し,距離の2乗に反比例する。









 ニュートンの「万有引力の法則」は,ケプラーの3法則を説明するために生みだされたのですが,ニュートンのすばらしさは,単にそれにとどまらず,月を軌道に引き止めている力が落下する物体(リンゴや石)に働く力と同じものであり,またすべての物体間に働くものであることを見ぬいたことにあると思います。

 こうしてニュートンは「力の法則」の一つである「万有引力の法則」と「運動の法則」を発見しました。「力の法則」は「万有引力の法則」以外にもいくつもありますが,「運動の法則」は一つしかありません。「運動の法則」がいくつもあって,みんな違う答えを出されたら困ってしまいます。

 たった一つしかない「運動の法則」を発見したのですから,ニュートンがいかにすばらしかったかわかるでしょう。


17.月は落ちている

 月が地球のまわりを回るということは,月が地球に「落ち続けている」ことを意味します。

 地上の物体は1秒間に5m位落ちます。では地球の半径の60倍離れた月は1秒間にどのくらい落ちているのでしょうか。



陽一郎 60倍離れていると地球の引力は弱まるので落ちる距離は小さくなるのかな。

花 子 そうね。5mの1/60で10cm位かしら?

陽一郎 いや,違うよ。万有引力は距離の2乗に反比例するというのだから,1/60の2乗で1/3600に力は弱まるんじゃない?

花 子 あっ,そうか。計算すると,えーと,1~2mm位かしら。

陽一郎 確かに計算ではそうなるけれど,そう単純に考えていいのかな。



【問題4】

月は1秒間にどのくらい落ちているのでしょう。みなさんはどう思いますか。

 予 想

 ア.1mm位

 イ.10cm位

 ウ.1m位

 エ.5m位(地上と同じ位)

 オ.その他

 討 論


 どうしてそう思いますか。意見を出し合ってから次の話を読みましょう。




18.月が落ちる距離

 地球表面で物体は1秒間に正確には4.9m落ちます。そして月は地球の半径の約60倍離れたところを回っています。万有引力の法則によると,引力は距離の2乗に反比例します。ですから月の軌道あたりで地球の引力は,1/602=1/3600に弱まっているはずです。

万有引力の法則をもとにすると,

  4.9m/3600=0.0014m=1.4mm

月は約1.4mm落ちることになります。

 しかし,本当に月は1.4mm落ちているのでしょうか。万有引力の法則は本当に正しいのでしょうか。次にそれを確かめてみましょう。

 月は地球の半径の約60倍のところ,つまり384,000kmはなれたところを回っています。そこを約1カ月,正確には 27.3日で地球のまわりを1周します。このことから月の動く速さを計算すると,

  

となります。



 では,実際に1秒間に月が落ちる距離を計算してみましょう。図で△MM''Oと△M"M'Mは相似です。ところでMM”≒vですから,

  2R:v=v:h           

  2×384000:1.02=1.02:h       

  

万有引力の法則から求めた月の落下距離と,月の公転周期が27.3日という事実から求めた落下距離はぴったり一致します。これは万有引力の法則が確かに正しいことの証明といえます。ニュートンも同じ計算をして「万有引力の法則」の正しさを確信したということです。

【問題5】

 月には地球の引力ばかりでなく太陽の引力も働いています。地球が月を引く力と,太陽が月を引く引力ではどちらが大きいでしょう。計算する前に予想してみましょう。

 予 想

 ア.地球が引く力の方が2倍以上大きい。

 イ.太陽が引く力の方が2倍以上大きい。

 ウ.どちらもほとんど同じ。

 討 論

 どうしてそう思いますか。意見を出し合ってから,次のお話を読みましょう。


19.月を引く力は太陽の方が大きい

 月に働く地球の引力と太陽の引力ではどちらが大きいのだろう。「月が地球のまわりを回っていることを考えると,地球の引力の方が大きいのではないか。」そう思った人もいるでしょう。万有引力の法則を使って計算してみましょう。


 太陽-月間の平均距離は地球-太陽間の約400倍,太陽の質量は地球の約33万倍です。万有引力の大きさは,質量に比例し距離の2乗に反比例するので,地球が月におよぼす引力の大きさを1とすれば太陽の引力は

  

つまり,月に働く太陽の引力は地球の引力より,2倍以上大きいのです。

【質問6】

 月に働く太陽の引力は地球の引力より2倍以上大きいということですが,それならなぜ,月は太陽に取られてしまわないのでしょうか。もし,地球の引力がなかったら月は太陽にしょうとつするのでしょうか。考えてみてください。

20.月も太陽の周りを回っている

 太陽を中心にしてみると,月はどんな軌道を描いているのでしょう。大体の様子を描くと下の図のようになっています。実は月も太陽の周りを回っているのです。そして月に働く太陽の引力が向心力となっています。地球の引力は月の軌道を左右に揺らしているにすぎないともいえます。



 「月が太陽の周りを回るのは地球に連れられているからで,もし地球の引力がなくなれば月は太陽の周りを回らなくなるんじゃないかな。」

 そう思う人もいるかも知れません。いいえそんなことはありません。もし地球に引力がなかったとしたら,月は地球と同じ軌道をえがいて太陽の周りをなめらかに回ることになります。



21.宇宙遊泳の話


 スペースシャトルに乗った宇宙飛行士が船外に出て,宇宙遊泳をしている様子をテレビなどで見たことがあるでしょう。そのとき,宇宙飛行士に働く力は地球の引力だけです。スペースシャトルが人を引く引力は非常に小さくほとんど働いていないといって良いからです。しかしそのために宇宙飛行士が地球に落ちていったり,スペースシャトルから取り残されたりはしません。スペースシャトルと同じ軌道を同じ速さで回ります。宇宙飛行士はいわば一つの人工衛星(人間衛星)となって地球を回りつづけます。

 ところでそのとき,スペースシャトルの中や宇宙飛行士は無重力状態となっています。しかし,無重力状態といっても「重力(万有引力)が働いていない。」というわけではありません。「重力だけを受けた物体は,物体の質量に関係なくすべて同じ運動をする」ので無重力になるのです。このことは「等価原理」と呼ばれ,基本的にはガリレオが発見したことです。







 アインシュタインはこの「等価原理」と「一般相対性原理」をもとに「万有引力の法則」に代わる「一般相対性理論」を打ち立て,重力のなぞにいどみました。「一般相対性原理」というのは「特殊相対性原理」をさらに一般化したものです。「相対的に一様な速度で運動している場合ばかりでなく,どんな運動をしている乗り物の上や中でも,物理法則は同じになる。」という原理です。
 太陽の引力を受ける月や地球は,地球の引力を受けるスペースシャトルや宇宙飛行士と同じことです。月と地球は太陽の引力を受けていますが,いわば無重力空間に浮かんでいるといって良いのです。ただ地球の引力が働くために,月は地球の周りを回ります。ですから月を地球に引き留めておくための力は,太陽の引力より大きい必要はまったくありません。

【第2部 終わり】



【引用文献】

板倉聖宣著「科学と方法」季節社(1969.3.25)

武谷三男著「物理学入門」季節社(1977.4.15)

R.P.ファインマン著・江沢洋訳「物理法則はいかにして発見されたか」ダイヤモンド社(1968.9.19)

板倉聖宣氏代表「たのしい授業」仮説社(1983.3.3~)

仮説実験授業研究会「月と太陽と地球」(1972.6版)

仮説実験授業研究会「力と運動」(1971.10版)

J.ウォーカー著・戸田盛和・田中裕共訳「ハテ・なぜだろうの物理学Ⅰ」培風館(1979.12.15)

The Nine Planets A Multimedia Tour of the Solar System by Bill Arnett
(http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~kanamitu/study/tnp/tnp/nineplanets/)


【参考文献】

宇宙情報センターのホームページ(http://spaceinfo.jaxa.jp/index_j.html)





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69年目の東京大空襲 改めて平和への罪を考える 米国の河野談話見直しに対する強い懸念も空し

2014-03-10 23:14:58 | 日記
2014/3/10

69年目の春である。

その残忍で卑劣な手口以下の通り。

東京裁判では、敗戦国日本のA級戦犯20数名が平和への罪の罪状で裁かれている。

戦勝国米国のこの一般市民への対日無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイに対し19

64年勲一等旭日章の叙勲を第1次佐藤内閣が閣議決定した。戦後の沖縄本土復帰など

諸課題の解決に向け、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだということか。

いつの時代でも国家の論理は市民の論理を排除して進む。

国家間でも同じ。昨今の韓国の根拠の無い強制連行を持ち出しての日本への歴史認識批

判に対し、河野談話の検証を通して談話発表までの経緯を明らかにしたい日本の理性的

態度にまで、自国の東アジアでの利権確保のため口封じを謀ろうとする同盟国米国の変

節。許すまじ。

彼等の河野談話見直しへの強い懸念表明の真の狙いは、韓国の経済的失政の尻拭いを同

盟国日本にさせたいだけの自己都合の論理に見える。

韓国・中共の経済崩壊近いか。

3.11三周年追悼行事へのご都合主義の韓国大使の参加無用。

それにより、日本の民意が少しでも緩まり、最期の円-ウオンスワップ契約も更新され

ることを期待しているようにもみえる。

米韓挙げての日本篭絡に騙されること無く進め、安倍首相。

緊急の場合には、靖国参拝強行で場外乱闘に持ち込め。


                  ☆
以下、ウキペディアより転載

空襲の経緯

1945年3月9日以前の空襲
空襲を行ったB-29爆撃機。1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲が航空母艦を使って行われ、東京も初の空襲を受けた。このときの被害はさほど大きなものではなかった。

ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、1944年(昭和19年)7月にサイパン島などマリアナ諸島をアメリカ軍が制圧すると、東京がB-29爆撃機の攻撃圏内に入った。アメリカ陸軍航空軍は、第20空軍の第21爆撃集団をマリアナ諸島に展開させ、同年10月末からトラック島や硫黄島に対する手慣らし作戦を行った後、同年11月24日に111機のB-29による北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所に対する初の戦略爆撃としての空襲(サン・アントニオ1号作戦)を行った[2]。それ以降アメリカ軍は1945年(昭和20年)2月まで各回70-80機程度を出撃させ、東京や名古屋の軍需工場や港湾施設を目標とした戦略爆撃を続けた。

1945年2月までの時期のB-29による東京空襲は、昼間に8000メートル程度の高高度を編隊で飛びながらノルデン爆撃照準器による目視照準を主用し、悪天候時には雲より高空からレーダー照準を活用する精密爆撃を意図したものだった。工場などが目標のため、使用弾種も焼夷弾ではなく通常爆弾が中心だった。攻撃隊は東京西部からジェット気流に従って侵入し爆撃を行うのが通例で、悪天候で攻撃目標を捉えられない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃することがあった[3]。1945年1月27日のエンキンドル3号作戦では、中島飛行機武蔵製作所を狙って出撃した76機のB-29のうち56機が有楽町・銀座地区へ目標を変更、有楽町駅は民間人の遺体であふれた(銀座空襲)[2]。なお、陸上から発進したB-29による空襲のほか、1945年2月15日のジャンボリー作戦を皮切りに、機動部隊から発進した小型機による東京空襲も行われている。

初期の軍事目標への高々度精密爆撃は失敗が多く、カーチス・ルメイ第21爆撃集団司令官の意見で、分散した夜間低空飛行によりレーダー照準爆撃で市街地を目標とする戦術が検討されるようになった。1945年2月25日のミーティングハウス1号作戦では、曇天と吹雪が予想された影響もあって離陸前から目標を市街地へ変更し、従来と同じ日中の高々度爆撃ではあったものの、使用弾種の9割を焼夷弾とする新戦術が導入された[3]。それまでで最多の229機が出撃した2月25日の空襲では神田駅を中心に広範囲を焼失し、新戦術が効果的であることが判明した[4]。

3月10日の空襲
警防団と思われる焼け焦げた遺体の山。死者・行方不明者は8万人、民間の調査では10万人以上といわれている。(石川光陽撮影)
母子と思われる二つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない(石川光陽撮影)
鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)

ミーティングハウス2号作戦と呼ばれた3月10日の大空襲は、高度1600–2200メートル程度の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団で、325機ものB-29爆撃機が出撃した。アメリカ軍が東京大空襲の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである[5]。3月10日が日本の陸軍記念日であることに因むという説も有力だが、アメリカ側の資料で確認されているわけではない[要出典]。

3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来した。日本軍もその行動を探知し、日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令した。ところが、アメリカ軍機が従来の空襲とは異なった航路を採ったことから、日本軍は敵機が房総半島沖に退去したものと誤認し、警戒警報を解除してしまった[6]。これにより生じた隙を突くように、3月10日に日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功し[6]、0時7分に

第一目標 - 深川区(現在の江東区)
第二目標 - 本所区(現在の墨田区)
第三目標 - 浅草区(現在の台東区)
第四目標 - 日本橋区(現在の中央区)
へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東区(現在の江東区)にも爆撃が開始された。0時20分には芝区(現在の港区)に対する爆撃も開始された。一部では爆撃と並行して機銃掃射も行われた[7]。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、さながら火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。

東京大空襲の爆撃のために各B-29には通常の約2倍の搭載量である6トンもの高性能焼夷弾が搭載されていた。ほぼ全ての機関銃および弾薬を爆弾投下機の多くから降ろしてまで、焼夷弾の搭載量が優先されたのである。その背景には、その時点で日本には貧弱な防空能力しか残されていないことが見抜かれていたことが挙げられる。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783トンにものぼった。

当夜の被害が拡大した原因は、以下の各要因が複合したものだった。とりわけ強い冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風、いわゆる空っ風は、直接・間接に大きな影響を及ぼした。

もともと精度に劣る防空警戒用レーダーの精度がますます低下していた。強い季節風によってレーダーのアンテナが揺さぶられたためである。その上アメリカ軍機はウインドウを大量に散布してレーダーによる捕捉に対抗していた。これにより編隊の確実な捕捉や編隊の企図の把握に支障が生じ、空襲警報は極端に遅れて発令されたのは初弾投下8分後の3月10日午前0時15分となった。
「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾が投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃にくらべて高いものだった。
さらに後続する編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げた。当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が一層拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。
投下された爆弾、焼夷弾が、当時の日本家屋を焼き払うために最適化されたものだった。
折からの強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長された。規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。
なお、日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる[8]。

使用爆弾[編集]この爆撃において投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した新型の集束焼夷弾E46(M69)を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などである。有名なのはゼリー状のガソリンを長さ約50センチメートルの筒状の容器に詰めたナパーム弾である。この焼夷弾は、投下時には各容器が一つの束にまとめられており、投下後に空中で散弾のように各容器が分散するようにされていたため、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼ばれた。

使用された焼夷弾は当時の通常爆弾とは異なる構造のものだった。つまり、通常の航空爆弾では、瞬発または0.02–0.05秒の遅発信管が取り付けられており、破壊力は主に爆発のエネルギーによって得られる。しかし木造の日本家屋を標的にそのような爆弾を用いても、破壊できる家屋が爆風が及ぶ範囲のものに限られ、それを免れた家屋は破壊されず散発的な被害にとどまってしまう。そこでアメリカ軍は、市街地を火災により壊滅させるため、爆発力の代わりに燃焼力を主体とした焼夷弾を用いることとし、その焼夷弾も日本家屋に火災を発生させるために新たに開発した。

より詳細には、まず、投下時に確実に日本家屋の瓦屋根を貫通させるため、上述した形状が選ばれるとともに、空中での向きを制御する吹流し状のものも個々の容器に取り付けられた。これにより、各容器が家屋の内部に到達して内部から火災を発生させる確率が高められた。都内では当時すでに、関東大震災を教訓にした燃えにくい素材で建物を補強する対策がなされていた。しかし、防火性のある瓦屋根を貫いて建物の内部で着火剤を飛散させ、中から延焼させる仕組みのこれら焼夷弾の前にその対策は徒労に終わった。この焼夷弾の開発の参考にされたのは、皮肉にも同盟国ドイツによるロンドン空襲において回収された不発弾だった。

爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識を遥かに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生していた。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化しており。仮にうまく水中に入れたとしても、冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面が溢れていたという。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。

この爆撃に先だってアメリカ軍は江戸時代の度重なる大火や関東大震災(1923年)における被害実態を事前に徹底的に検証し、木造住宅の密集する東京の下町が特に火災被害に遭いやすいことをつきとめていた。この成果を上述の爆弾の選定や攻撃目標の決定に反映させたため、東京大空襲の被害地域・規模は関東大震災の延焼地域とほぼ一致し、そして大震災時を大幅に上回っている。

被害規模[編集]
犠牲者の遺体を調べる警察官当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。

死亡:8万3793人
負傷者:4万918人
被災者:100万8005人
被災家屋:26万8358戸
なお人的被害の実数はこれよりも多い。上記の被害数の死者数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在するためである。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。

この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルを焼失した。

なお、この作戦におけるアメリカ側の損害は、撃墜・墜落が12機、撃破が42機だった。

外国人の被害[編集]東京大空襲での日本人の被害の詳細が追及されていく一方で、外国人の被害はあまり取り組まれていないのが現状である。そうした中で、「東京大空襲・朝鮮人罹災の記録する会」など、体験者の証言から当時の状況を記録する運動もある[9]。

その他[編集]初弾が投下された前述の4カ所の地域では、現在の地名に相当する地域についてはテレビ番組によって曖昧な点がある。

1978年3月9日に放送されたNHK特集「東京大空襲」(NHK制作)では、

深川区 - 江東区深川木場
本所区 - 墨田区本所
浅草区 - 台東区浅草
日本橋区 - 中央区日本橋
と紹介されていたが、2008年3月10日に放送された「3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の真実」(TBS制作)では、

深川区 - 江東区白河4丁目
本所区 - 墨田区本所3丁目
浅草区 - 台東区西浅草かっぱ橋道具街
日本橋区 - 中央区日本橋小網町
と紹介されるなど、同じ地域でも位置が微妙に異なる点が存在する。

その後の空襲[編集]
空襲をうける東京市街、1945年5月25日。画面中央は現在の東京女学館・日赤医療センター付近、画面下から画面右上に伸びるのは渋谷川、画面下に山手線と東横線の交差と思しきものが見えることから広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる。撮影当時、現地を南南西の風が吹いていたことがこの写真から見て取れる。
1945年(昭和20年)の戸越公園駅。空襲で周囲が焼け野原と化しているその後も東京への空襲は続けられた。4月13日には王子区(現在の北区北部)を中心とした城北地域が、翌15日には大森区・蒲田区(現在の大田区)を中心とした城南地域が空襲・機銃掃射を受け死傷者4004人、約22万戸もの家屋を焼失した。さらに5月25日には、それまで空襲を受けていなかった山の手に470機ものB29が来襲した。皇居も被災し宮殿を焼失した。これにより死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸と3月10日に次ぐ被害となった。 また当時、東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死している(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)。

3月から5月にかけての空襲で東京市街の50%を焼失した。また、多摩地区の立川、八王子(八王子空襲)なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。

大規模な実験[編集]アメリカ軍は日本家屋を再現した実験場を作り、大規模な延焼実験を行っている。実験用に立てられた日本家屋は、室内の畳を日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せて精巧に作り上げられた。これらの実験がクラスター焼夷弾開発の参考とされたことにより、東京大空襲を初めとする日本本土への無差別爆撃で効果的被害を与えることに成功している。

日本軍による迎撃[編集]
防空戦に出撃した機体の一つ三式戦闘機 飛燕八丈島のレーダーは機影を捉えていたが、日本列島では猛烈な風のために本土防空隊は迎撃に出撃することができずにいた。その後爆撃隊がサイパンへの帰還中に迎撃可能となり爆撃隊を迎撃した。その際の戦果と陸軍の高射砲部隊の戦果を合わせて12機を撃墜、42機を撃破する戦果を挙げた[10]。5月25日に464機のB-29が来襲した際は、26機撃墜、86機撃破と本土空襲の中で最も大きな損害を与えた[11]。なお、この時墜落機の搭乗員の一人が逃亡途中で警防団員を射殺、逮捕された後に処刑されている(東京上野憲兵隊事件)。

米軍にとっての空襲[編集]当初1944年(昭和19年)11月24日にヘイウッド・ハンセル准将の指揮により始められた日本本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標地点のみを攻撃する計画だった。なぜならハンセルは非戦闘員たる一般市民を巻き込む無差別爆撃に対して非人道的だという感情を抱いていたからだった。[要出典]

しかし、元々米軍による日本本土空襲は、戦闘員同士の通常の戦闘では米軍側の被害も多く出るので、それを回避しつつ日本の降伏を早めることが狙いだった。そのためには「軍需工場のみならず、軍需工場の労働者の家や使用する道路、鉄道を破壊することが効果的だ」というヘンリー・アーノルド大将の意を受けて、翌年の1945年(昭和20年)1月21日にカーチス・ルメイ少将と交代した。ルメイは大規模な無差別攻撃を立案、その手始めに東京を選んだ。 ただし、かなりのリスクを背負っていた。それは、

1.燃料節約のためB-29は編隊を組まないで、単独飛行にしたこと。コースを外れる危険性があった。
2.高度7000–8000フィートの低高度から焼夷弾を投下する。日本上空の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火や日本の戦闘機の標的になりやすい。
3.爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾や燃料の搭載量を増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。
というものだった。

このルメイの立案の低空飛行に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「なんでもいいから低く飛ぶんだ」と言ったという。空襲時の東京を空から一定の時間おきにスケッチするため高度1万メートルに留まっていた飛行機もあり、帰還後ルメイはそのスケッチを満足げに受け取ったという。

ルメイは、「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」、「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのだ」と述懐している。一方で、「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」とも語っている[12]。

その後[編集]戦争犯罪[編集]これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、全国各地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃だが、東京大空襲は東京そのものの殲滅を目的とする無差別爆撃で多数の非戦闘員たる民間人が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強い。しかし、日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。

1964年(昭和39年)12月4日に日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイに対し勲一等旭日章の叙勲を第1次佐藤内閣が閣議決定した[13][14]。

当時非難の声があり国会で追及されたが、佐藤栄作首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。小泉純也防衛庁長官も「功績と戦時の事情は別個に考えるもの」と答えている[15]。

勲一等の授与は天皇親授が通例だが、昭和天皇はルメイと面会することはなかったという[注 1]。

後年『NHK特集 東京大空襲』でのNHKの取材で戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せている。 「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」とも述べたという。ルメイの前任者だったハンセル少将は、高高度からの軍事目標への精密爆撃に拘った故に解任されている。

2013年(平成25年)5月7日、第2次安倍内閣は東京大空襲についての答弁書を閣議決定した[16]。答弁書では、「国際法の根底にある基本思想の一つたる人道主義に合致しない」点を強調する一方、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れない」とも指摘し、アメリカへの直接的な批判は避けている[16]。

記録[編集]3月10日の空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁の石川光陽によって、33枚の写真が残された(上の画像参照)。それらは戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からネガを引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し、ネガの代わりにプリントを提出することで追求を逃れる一方、ネガを自宅の庭に埋めて守り保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える貴重な資料となっているが、石川自身は本当はこのような写真は撮りたくないと言っている。なお、石川はほかにも1942年(昭和17年)のドーリットル空襲から1945年(昭和20年)5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。

慰霊[編集]
「戦災により亡くなられた方々の碑」
台東区浅草七丁目一番身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀った「震災記念堂」に合わせて納められた。このため1951年(昭和26年)には、震災記念堂から東京都慰霊堂に名称が改められた。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災及び東京大空襲についての展示がある。

東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した1942年から1945年の空襲犠牲者の犠牲者名簿を納めている。

2001年開館を目指して東京都平和祈念館の建設も計画されたが、実現していない。東京都江戸東京博物館には東京大空襲に関する展示がある。

空襲を免れた地区[編集]東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。

周囲が空襲で甚大な被害を受けながらも奇跡的に延焼を免れた地域としては、神田区須田町(現在の千代田区神田須田町)や向島区(現在の墨田区京島)が挙げられる。須田町では神田川が、京島では東武亀戸線沿いを流れていた小川がそれぞれ防火線となり、住民が川の泥や豆腐などを投じてまで懸命な防火活動にあたったことから、被害を免れた。またこの地区にも焼夷弾が落ちたが、空中で分解されずにそのまま落下したため不発弾となって軟弱な土中に深く埋まってしまい[注 2]、そのため亀戸線で限られた地域が焼け残った。この両地域は空襲以前にも関東大震災の際にも延焼を免れ、ほぼ大正初期の路地構成や建物の面影を今に残す、下町一帯の中では希有な地域である。但し「生き残った」ことにより、自動車も通れない明治大正期の極狭路地が迷路のように走る同地帯は、現在では防災面で深刻な問題のある地域として懸念され、現在にいたるまでさまざまな防災に関するまちづくり、取り組みが行われている[17]。ただし、自動車が通らないがゆえに重大交通事故発生を大幅に防ぐことができているという実態もある。中央区の佃島・月島地区も晴海運河が延焼を食い止めたことから戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。前述の通り対岸部の深川区(現在の江東区)が3月10日の下町空襲で壊滅状態となったのとは、明暗が分かれた形となった。

丸の内・有楽町付近では東京府庁と東京駅が空襲を受け全半壊したものの、内堀通り一帯の第一生命館や明治生命館などが立ち並んでいた界隈は空襲を免れている。これは、占領後の軍施設に使用することを想定していたと言われている。宮城は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼[要出典]により明治宮殿が炎上した。このため、松平恒雄宮内大臣が責任を取って辞任している。

東京帝国大学付近はロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館があったことから空襲の被害は軽微だったが、懐徳館を焼失している。

また築地や神田神保町一帯が空襲されなかったのも、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院や救世軍本営[要出典]があったからとも言われるが定かではない。神保町を空襲しなかった理由に古書店街の蔵書の消失を恐れたためという俗説もあるが、アメリカ軍は5月14日の名古屋大空襲で国宝名古屋城を焼いたり、ドイツのドレスデン爆撃などで文化財の破壊を容赦なく行っていることから信憑性は低い。なお日本正教会のニコライ堂(東京復活大聖堂)およびその関連施設も空襲を免れ現代に残っている。遺体の収容場所が足りなくなったことによる本郷の町会の要請により、大聖堂には一時的に遺体が収容された[18]。

東京大空襲で落命した著名人[編集]3月10日の下町大空襲
太田仲三郎 (実業家)
立花家扇遊 (色物芸人)
豊嶌雅男 (大相撲力士)
古屋慶隆 (衆議院議員・元内務省政務次官)
枩浦潟達也† (大相撲力士)
吉村操 (映画監督)
徳三宝 (柔道家)
増田勇 (医師・ハンセン病先覚者)
六代目一龍斎貞山(講釈師)
初代吉慶堂李彩(奇術師)
天野喜久代[要出典](歌手・女優)
山岸荷葉 (小説家・書家)
河井荃廬(篆刻家)
5月25日の山手大空襲
石井菊次郎† (元外務大臣)
織田萬 (法学者)
四代目柳家枝太郎 (音曲師)
柳瀬正夢 (画家)
谷口恒二 (大蔵省事務次官)
安藤照 (彫刻家)
加藤雄策 (実業家・馬主 空襲被害の翌日に死去)
野村無名庵(演芸・落語評論家)
† 行方不明(死亡確定)

東京大空襲で被害を受けた建造物[編集]
1945年5月25日の空襲で焼失した東京駅の全景(1945年撮影)宮城 - 明治宮殿
参謀本部庁舎
海軍省・軍令部合同庁舎
外務省庁舎
司法省庁舎
大審院
霞関離宮
駐日ドイツ国大使館
東京府庁舎
東京駅 - 丸の内赤レンガ駅舎
明治神宮 - 本殿・隔雲亭
浅草寺 - 観音堂・五重塔
増上寺 - 伽藍・徳川家霊廟・五重塔
寛永寺 - 弁天堂・徳川家霊廟
麻布山善福寺- 本堂
池上本門寺 - 仁王門・祖師堂・鐘楼・釈迦堂
伝通院 - 山門・本堂
日枝神社 - 本殿・幣殿・拝殿・中門・透塀
愛宕神社 - 本殿・幣殿・拝殿・社務所
穴八幡神社 - 隨神門
富岡八幡宮
東京帝国大学 - 懐徳館(旧前田邸)
早稲田大学 - 恩賜記念館・大隈会館(旧大隈重信邸)
慶應義塾大学 - 図書館旧館・三田大講堂
拓殖大学 - 恩賜記念講堂
明治座
歌舞伎座
東京大司教座聖堂・関口教会
両国の国技館(のちの日大講堂、現在の両国国技館とは位置が異なる)
野々宮写真館アパート
子規庵
東京大空襲で被害を受けた美術工芸[編集] この節の加筆が望まれています。

松岡映丘『間宮林蔵肖像画』
堀内唯生『郊外早春』『秋景』『横浜湾を望む』
下岡蓮杖撮影による風景写真の乾板
虎徹『燈籠斬』
御手杵(天下三名槍)
東京大空襲訴訟[編集]2007年(平成19年)3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)は、日本政府に対し、謝罪および総額12億3,200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴をおこなった[19]。アメリカ軍の空襲による民間の被害者が集団となって日本国に責任を問うのは初。目的は、旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して国家総動員法に寄って動員された民間人は補償が行なわれていないことを理由に、「東京空襲が国際法違反の無差別絨毯爆撃だったことを裁判所に認めさせ、誤った国策により戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである。

2009年12月14日の1審判決で請求棄却 [20]。原告側は控訴したが控訴棄却。2013年5月9日に最高裁が原告側の上告を棄却し、原告側の全面敗訴が確定した[21]。棄却の理由で、空襲被害者救済は裁判所では判断が出せず、国会が立法で行うとした点は、国民の受忍限度とした旧来の判断から踏み込んだと弁護団は敗訴だが評価した[22]。

2010年8月14日、日本政府が空襲被害者に補償をおこなう「空襲被害者等援護法」の制定を目指した「全国空襲被害者連絡協議会」が結成[23]。2011年6月15日には、超党派の議員連盟「空襲被害者等援護法を実現する議員連盟」が設立された[24]。

毒ガス散布計画[編集]連合国は東京に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガス・ホスゲンなどが候補にあがっていた[25]。


米国追従外交で日本本来の目的果たせるか

2014-03-08 07:04:19 | 日記
2014/3/8

首相、米大統領に露制裁支持を表明…電話会談
読売新聞 3月7日(金)18時49分配信

 安倍首相は7日昼、オバマ米大統領とウクライナ情勢について約40分間電話会談し、米国の対応を支持する考えを伝えた。

 会談は米側の要請で行われ、大統領は、ウクライナ南部クリミア自治共和国へのロシアの軍事介入を受け、米国内の資産凍結や入国制限などの制裁を発動したことなどを説明。これに対し、首相は「大統領の努力を支持し、日本としてもウクライナ情勢の早期改善を期待する」と応じた。

 両首脳は、ウクライナの主権、領土の一体性を尊重し、引き続き日米両国が緊密に意思疎通を図っていくことでも一致。ウクライナの経済・政治改革を支援していくことに同意した。また、4月下旬の大統領来日に向け、準備を加速させていくことを確認した。菅官房長官は7日夕の記者会見で、大統領から首相に対して日本の制裁発動を求める発言はなかったと説明した。

                ☆

対露独自外交が出来たのも、ソチオリンピック開会式出席まで。

ロシアの軍事圧力を前にした米国の経済制裁案には渋々同意せざるを得ない安倍外交。

北方領土、対露国交回復、エネルギー・経済協力はどうするつもりか。

自ら自国防衛の為の軍事力行使にも制約をかける日本外交、常に米国に威嚇され続け米国

自身の利権に同意し続けるのか。

現実の国際社会での自らの利害のぶつかり合いを認識できる日本の若者達には、こんな米

国利権に繋がる政治が理想とはとても思えないのだろう。

                ☆

<田母神氏>61万得票の意味 背景に若者層の不安、危機感?
毎日新聞 3月7日(金)16時40分配信

東京都知事選の最中、若い人たちと握手をする田母神俊雄氏。「私は実はいい人なんです」と何度も繰り返し、アピールした=東京都渋谷区のJR渋谷駅前で2014年1月23日、手塚耕一郎撮影
 東京都知事選挙で元航空幕僚長の田母神俊雄氏(65)が得た61万票が、なお話題になっている。「ネットの影響」「若者の右翼化」とかまびすしいが、何だかふに落ちない。本当はどうなのか、これからの政治に影響しうるのか。田母神氏に投票した人の声を追いながら「田母神票が意味するもの」を考えた。

【講演会の動画では田母神節がさく裂】

 「未来が見えるかどうかがすごく気になりました。脱成長って言われても『あなたたちは確かにいい時代を見てきたから、それでいいかもしれませんけどね』としらけましたね」

 学習塾を経営する慶応大2年の今井美槻(みつき)さん(21)はそう話す。都知事選前、若者8人で誰に投票するか討論したら、4人が「田母神」だった。「僕らは自衛隊にも共産党にもアレルギーはない。何かおもしろいことをしてくれそうな期待感、現状維持ではダメだという思いが一番大きかった。政党や組織、既存の制度を守るために動く政治家が多いが、彼は違うと思った。田母神さんの思想的な部分はあまり気になりません」と説明する。

 別の男性会社員(31)は奨学金で専門学校を卒業、派遣社員を経験した。アルバイトが外国人労働者に取られている現状や、就職が決まらない友人の姿をみてきた。「政策の善しあしとは別に、リーダーが強力で支持率が高い時は景気が上向き、国が前を向くと思う。田母神さんはそうした強いリーダーシップが取れるはず」。都政と国政は別だと思いつつ、原発維持の政策にも共感した。「経済的に考えて一番無難だと思う」

 ほかに支持する政治家を2人に聞くと、「橋下徹」や「小泉純一郎」が挙がった。小泉さんの構造改革路線と、「公共事業でインフラ整備」を訴える「タモガミクス」は正反対だ。「思想ではなく、現状を打破してくれそうな改革のイメージを重要視した」(今井さん)というので、IT会社役員、家入一真氏(35)はどうかと問うと「全然。だって彼は成功者じゃないですか」と一蹴された。「支持のツボ」がどこにあるのか、まるで分からない。

 ◇「中韓への譲歩、理解できない」

 61万票は極めて大きい。2013年の参院選東京選挙区は、投票率53・51%で、5人目に当選した自民党の武見敬三さんは61万2388票だった。強固な組織票を持つとされる共産党で70万票、山口那津男・公明党代表でも80万票弱だ。とても「泡沫(ほうまつ)候補」とは呼べない。

 「日本型排外主義-在特会・外国人参政権・東アジア地政学-」の著者、樋口直人・徳島大准教授(44)は「03年の都知事選で石原慎太郎さんは300万票以上を得ました。そこから石原氏の行政経験を評価する票と、作家としての知名度による票を引いた右派的な支持者の票が田母神票と重なると考えられます。そうすると、ここ十数年の延長として右派が60万票としても驚きはない」と話す。

 樋口さんは毎日新聞の出口調査を分析し「若年層(20~30代)は田母神さんに投票した比率が高いが、投票率が低いので票数としては多くない。田母神さんは幅広い世代から票を得ているとみるべきです」と語る。支持者を若年層とそれ以外に分けると、後者は「保守の中で相対的に右の人が、田母神さんに入れたという解釈が可能」で、若年層は「既成政党によらない新鮮味を与える候補者で、リーダーシップを感じたところにひかれたのでは」とみる。

 一方、普段は選挙に行かない層を田母神さんが動かした形跡がある。「老人福祉とか子育てとか、これまで政策に全く興味がなくて選挙にはほとんど行ってません。田母神さんが出て、初めて入れてもいい人が出てきた感じだった」と一流会社に勤める男性会社員(39)は話す。別に政策にピンときたわけではない。「中国や韓国に外交上つけ込まれ何となく損をしている」という思いに、田母神さんがはっきりと応えてくれると感じた。「日本はこれまで中国や韓国に謝罪し、お金も出してきた、それでも文句を言われ続けている状況が納得できません。靖国参拝も何が問題なのか。外国にとやかく言われることではない。大手メディアは『謝罪し続けなくてはいけない』との論調ですが、ネットで情報を集めるとそれはおかしいとよく分かります」と話す。

 憲法9条改正でも田母神さんの主張に同意する。「9条というお題目を唱えれば国が守れるワケではない。冷戦下の世界情勢の中で戦争をしなくて済んできただけ。田母神さんの言うように戦争の抑止力として軍備を拡張しなければ、弱い国は侵略される。9条のせいで自分たちの生命が脅かされるのが本当に許せない」と淡々と語る。

 年間1億円以上を稼ぐ男性個人コンサルタント(39)は「田母神さんの言葉で一番納得したのは『日本は自国をおとしめる発言は自由でも、自国を高める発言に自由はない』です」と話す。韓国人や中国人の友人がいるが「個人としてはいい人でも、国としてはこちらが譲歩すれば強く出てくると分かっている。なのにどうして譲歩するのか全く理解できない」と言い切る。国防軍にも賛成だ。「小学生の頃から、自衛隊って単なる軍隊でしょ、って思ってました。世界から見ればちゃんとした軍です。摩擦をおそれて、問題を避け続けてどんどん国が弱くなっていくのが一番嫌いなんです」

 樋口さんは「若い世代は、近隣諸国との関係が悪くなって政治的な問題も出てきたこの10年ぐらいの時勢に影響を受けている。天皇制が大事だとか靖国神社を参拝すべきだといった国家主義的な意識より、排外意識の方が強い傾向がある」と解説する。

 「ももクロ論」でアイドルに夢中になる現代社会の閉塞(へいそく)感を指摘した早稲田大の清家竜介助教(43)はこうみる。「個人としてではなく首相や閣僚が靖国参拝する歴史的、外交的意味に考えが及んでいない人が多い。ただ冷戦以後の世界情勢の劇的な変化の中で、9条護持を唱えるだけの平和主義では危機感を持った彼らを説得できない。平和憲法は、日米安保条約と日米地位協定という繭の中で維持されてきた。その中から平和を訴えても『きれい事だ。このろくでもない世界を作り出したのは誰だ』と思われがちだ。田母神さんの訴えは、非常にシンプルでそういう人たちに届きやすいのでは」とみる。

 さらに、若年層を中心とした「アンダークラス」化が田母神支持の増加の一因ではないかとみる。アンダークラスは、労働者階級よりさらに下の階級。結婚して子どもを持つことも難しい。非正規雇用の拡大で増えた「アンダークラス」は未来に展望が持てず、不安感からはっきりものを言ってくれる人や強い国家イメージにひかれる傾向を持つ。清家さんは、このクラスの増大に伴い、権威に追従することを欲し、排外的で攻撃的な「権威主義的パーソナリティー」を持つ人が増えているのではと指摘する。「権威主義的パーソナリティー」はナチスのファシズムを支持した大衆心理を分析して出てきた概念だ。「文脈を深く掘り下げず、敵を設定し、わかりやすく攻撃する」という権威主義的パーソナリティーの特徴は小泉氏、橋下氏、田母神氏にも共通している。

 ◇強い国になり「損を取り戻す」

 田母神氏本人を直撃した。「当選するとは期待していなかったが、日本を真剣に取り戻そうと考えている人がどれぐらいいるかは分かると思っていた。30万票取れればと思っていたが、低投票率で61万票。目的は達成できた」とにこやかに話す。「自民党の右側に柱を立てて、自民党に『ちゃんとやれ』と迫る野党が必要。その党首になりたい。とりあえずは次の国政選挙を意識しながらの政治活動になります」

 「核武装して世界で発言力を持つ国」を目指す田母神氏に「そんな国をつくって何をするのか」と聞いてみた。諭すようにこう言われた。「世界で発言力を持てば自分たちが得をする。米国がやっているように、他国にお金を出させて自分たちの金は自分のために使った方がいいでしょう。今は核保有国の言われるがままにお金を出している。それでいいと思いますか」

 そういえば、話を聞いた人たちは「損をさせられている」という感覚が共通していた。相手は中国・韓国だったり、米国だったり、上の世代だったり……ひょっとして「日本を取り戻す」のではなく「損を取り戻す」が支持のツボなのか。だとしたら、強い国になって何を「得する」つもりなのか。

 もし「取り戻す」まで「田母神的なもの」の支持が続くなら、次の選挙でも一定の支持が集まりそうだ。【田村彰子】
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ビル・ロビンソンの訃報 米国でのジャンボ鶴田とのAWA世界戦を見て感じたもの

2014-03-05 22:08:24 | 日記
2014/3/5

今や二人は天国で再会を果たしてプロレス談義をしているだろうが。

youtubeで試合を見直した。改めてリングサイドの反応にショックを感じた。

時は昭和59年3月11日(1984)、今から丁度30年前ロビンソン45才、鶴田32才であ

る。ロビンソン既に下り坂、両者の力差歴然。

試合場所は、米国ウイスコンシン州グリーンベイ、ブラウンカウンテーアリーナ、黒人の

いない白人だらけの会場との倉持アナの紹介あり。白人の牙城ではあろう。

AWA認定世界ヘビー級タイトルマッチ、ジャンボ米国防衛試合のの2戦目とのことであ

る。

内容は、ヒール ロビンソンがベビーフェイスたるべき日本人チャンプに挑戦の図式も、

世界チャンプへの声援全くなし。

試合は、シナリオ通り、ジャンボが勝利するも、拍手全くなし 白けることこの上なし。

試合構成はビルロビンソンが握り、随処で盛り上げの合図をおくる。ジャンボ応える。

プロレスの醍醐味ここにあり。

試合とは反し、観客席は白人社会での有色人種への偏見が感じられ、友好国米国でこの始

末かと、暗澹たる気持ちになる。

白人の本音の空気を感じ取ってしまった、残念ながら。

米国で活きる日本人に心から声援したい。

ダルビッシュ・マー君がんばれ! 

敵国日本への感情か、アジア人に対する偏見か?

はたまた、彼の国のプロレスファンの資質の問題か?

戦後日本、米国に寄り添い、国の防衛までおんぶに抱っこでここまで来たが、そろそろ、

正気になって考えたほうがよい。

今回のロシアとウクライナ、力で押しつぶす高圧的なパワーには誰も逆らえない。

米国がウクライナを守らないと同様に、中共による尖閣有事・日本有事に米国がどの程度

コミットするのか、甘く考えるべきではなかろう。

アジアを米中でシェアする相談が既に為されているではないか。

自国は自分で守る、自主防衛の気概なくして独立国などとは当然呼べず。

日韓の不仲を糺すのは自分の利害の為である。

                 ☆

ビル・ロビンソン氏のご冥福をお祈りする。

22世紀の日本は その2

2014-03-02 07:06:57 | 日記
2014/3/2

黒船来航、中国狙いの米国は日本を補給地として開港を迫る。

欧州勢のフランス、イギリスも日本を植民地としたく、幕府・薩長に近づく。

辛うじて、徳川慶喜の判断で大政奉還され、国内の分裂は回避され日本の独立が果たせ

た。

以後、不平等条約解消が国是となる。

国内の各勢力が外国勢力と結びつき混乱を極めた清国と違う鮮やかさ。

大東亜戦争の敗戦時も同様に国体護持に努めることで、国内混乱は抑えられている。

天皇制が日本人の肝であること疑いなし。

ウクライナを引き合いに出すまでもなく、国際社会は厳しい。

隙あらば攻められる。理屈は後で貨車に積んでくる。

21世紀になっても弱肉強食の世界が存在することに、日本人は覚醒すべき。

これまでも、マスコミにより拡散された国民感情の熱風により、誤りとせざるを得ない

判断もあった。

国の舵取り、惑わされず冷徹で沈着な思考が求められる。


22世紀のアジアの姿を連想する 日本の立ち位置は

2014-03-01 22:14:26 | 日記
2014/3/1

米国からの中国への援将ルートを遮断すべく日本軍はビルマに展開、インパール作戦は困

難を極めた。

遅れてやってきた米国はアジアへの進出に必死だった。

共産ソ連の南下に備えて朝鮮・満州を橋頭保にしていた日本を、蒋介石と戦うことで消耗

させたい中共の誘い込みが盧溝橋事件であり、以後日本の中国戦線は拡大していく。

蒋介石と米国の固い絆、毛沢東とソ連の連携。

孫文と日本、これが悩ましい。

毛沢東中共は米国にとり、後で食すべく狙っていた獲物。

無神経田中角栄は、戦前の確執などどこ吹く風、中共の主張する一つの中国を丸呑みし、

米国を足蹴にして、国府を捨て獲物中共と手を結んだから堪らん。

米国に失脚させられた。当然の顛末。

いい加減な日中国交回復により、その後散々中国に利用され、(尤も利権はしっかり得た

だろうが)挙句尖閣まで攻め込まれているのが現在。

本来なら、米国に守ってくれなどと、口が裂けてもいえない立場…。

経済崩壊寸前の米国は、それでも日本が必要なので黙っているだけ。

自らの越し来し方を自省すべきではないか。

1492年から始まる”大航海”、江戸から始まる近世をも一度振り返ってみたい。

欧米はアジアに何をしたのか、今何をしようとしているのか。

22世紀のアジアはどうなっているのだろうか。

欧米がこれまでの罪滅ぼしを考えているとはとても思えんが…。