その時が来る。そう思った。
「いなくなってしまえばいい」子供心に何度も思ったことだった。
いい思い出など何一つない。
きっかけは良く判らない。
弟の誕生と育児ノイローゼ、1歳にも満たない弟は親戚に預けられ、
私と姉は誰もいない家に残された。
初めは治ると信じてた。
鉄格子の病院から至極まともな手紙が届くようになり、
「治ったんだ。退院するんだ。戻ってくるんだ。」と、心から喜んだ。
しかし、平穏は長く続かない。
やがて、修羅と苦悩の生活が戻ってきた。
本当に修羅だった。
狂って行く母親を目の当たりにしなければならない。
たかが小学生の子供はどうすればいいのか。
壊されて行く思い出の品物の数々。
足の踏み場もない部屋。
腐った食事。
奇声。
徘徊。
1度や2度ならば、まだ、救われたかもしれない。
でも、何度も何度も何度も何度も、
繰り返し狂って行く母親。
心を閉ざすしか、私自身が助かる道はなかった。
そして
「いなくなってしまえ」と思うしかなかった。
そして30年も経ってしまったんだ。
母親は福島の湖畔の田舎町に生まれた。
自分の町を「」と呼んでいた。
飛んでいるオニヤンマを手で捕まえることが出来た。
盆地の城下町で床屋の店員になった。
そこで父親と出会った。
姉が生まれ、私が生まれると、
父親の仕事の都合で東京に出て来た。
言葉に極度の訛りがあり、周囲と話すことを躊躇っていたようだ。
私を背負い、姉の手を引き、三人で上京した時の心細さを
ふと漏らしたことがあった。
母親は努力家だった。
いつも頑張って何かを作っていた。
刺繍や毛糸の編み物やいろいろなものを昼夜を問わず作っていた。
頑張って、頑張って、頑張って、
頑張ったその先には、狂うことしかなかったのだろうか。
時折、普通の母親に戻るときがあった。
中学のとき、母親参観に来てくれた。
「授業参観、来たよ」と母親はいった。
家から数キロの距離を歩いて来たようだった。
しかし、日時を間違えていたため、参観日ではないことを知ると
一人で帰っていった。
私は授業を抜け出して見送った。
長い田んぼの畦道を、背中を丸めて歩いて行く母親。
追いかけた。
不憫で、やるせなくて、追いかけて、
「ありがとう」と言った。
母親が笑い返したかどうか、その表情が思い出せない。
狂った母親なのに授業参観には行きたかったのか。
何で我が家だけ、こんな目に遭わなければならないんだろう。
つらいと思った自分しか思い出せない。
本当に修羅の繰り返しだった。
そして手に負えなくなると鉄格子の病院に入院した。
病院の運動会で一等賞を貰ったと手紙が来た。
そういえば母親は足が速かったんだ。
まだ壊れる前、私の幼稚園の運動会でパン食い競争に出場した母親は
やはり一等賞だった。
よその父親よりも早かった。
そんなことも忘れるほど、狂った母親はスローモーションのように動いていた。
母親には7人の兄弟がいた。
一番上の姉はやはり狂っていた。
二番目の姉と弟は癌で亡くなった。
その下の弟と妹はやはり狂い始めた。
特に弟は狂ったまま誰にも気づかれづに一人で死んでいた。
家を継いだ一番上の兄は妻が狂ってしまった。
この血はいったい何なんだろう。
私は大人になるにつれ、自分自身に流れている血の筋に恐怖した。
いづれは私も狂うのかもしれないと。
母親や叔父や叔母が何歳で狂ったかを覚えている。
その年を経る度に、
「私は狂わなかった」「まだ正気だ」と虚しい勘定をしている。
正直、今も血の恐怖に怯えている。
その母親がついに食事を受け付けなくなった。
今年67歳の母親は、数年前から衰弱していた。
とても年相応には見えない。
父親に言わせれば「90歳過ぎの老婆」のような様相だ。
小脳が萎縮し、部屋の中でも平衡感覚がわからずに転倒する。
極度に衰弱した母親は、また鉄格子の病院に入院した。
そして8月のある日、入院中に更に肺炎を併発した。
抗生物質を投与したところ、
反応も意識もなくなったと病院から連絡が来た。
「だめかもしれない」父親からの電話に、
その時が来る。そう思った。
子供の頃から思っていたことだ。
「いなくなってしまえ」と。
母親の危篤の報に何の反応も示さない私を周囲はいぶかった。
しかし思い出せないのだ。
「頼む、生きてくれ」と願うほどの温かい思い出が、
何一つ思い出せないのだ。
私には、修羅と哀れな母親の思い出しかないのだ。
この気持ちを理解できる人は、きっと少ないだろう。
ただ、鉄格子を往復する母親の人生はいったい何だったのかと思った。
自分の生まれた場所にも帰ることも出来ず、
旅行も楽しいこともなく30数年もの間。
何て人生なんだ。
そんな思いに動揺する自分がいた。
私は母親を避けた。
家には寄り付かなかった。
数年も会わないこともざらだった。
その間、狂った母親は私にお金を送ってきた。
1万、5万、10万・・・。
書留のこともあれば、白い封筒の時もあった。
さらに、何かの都合で家に行かなければならなくなると、
母親は私にお金を渡した。
「いらない」というと泣いた。
お金を送れば、それでまた帰ってくると思うのか。
その思考は、私にはわからない。
ただ、母親はそうすることで、私がまた訪ねてくれると
信じていたようだった。
お金が入ったままの封筒の束が
私の元に残ってしまった。
いったい、母親の人生は何だったんだ。
そして母親を諦め、避け続けた私は、
何なんだろう。
母親の意識が戻ったと連絡が来た。
しかし
また、修羅は続くんだ。
「いなくなってしまえばいい」子供心に何度も思ったことだった。
いい思い出など何一つない。
きっかけは良く判らない。
弟の誕生と育児ノイローゼ、1歳にも満たない弟は親戚に預けられ、
私と姉は誰もいない家に残された。
初めは治ると信じてた。
鉄格子の病院から至極まともな手紙が届くようになり、
「治ったんだ。退院するんだ。戻ってくるんだ。」と、心から喜んだ。
しかし、平穏は長く続かない。
やがて、修羅と苦悩の生活が戻ってきた。
本当に修羅だった。
狂って行く母親を目の当たりにしなければならない。
たかが小学生の子供はどうすればいいのか。
壊されて行く思い出の品物の数々。
足の踏み場もない部屋。
腐った食事。
奇声。
徘徊。
1度や2度ならば、まだ、救われたかもしれない。
でも、何度も何度も何度も何度も、
繰り返し狂って行く母親。
心を閉ざすしか、私自身が助かる道はなかった。
そして
「いなくなってしまえ」と思うしかなかった。
そして30年も経ってしまったんだ。
母親は福島の湖畔の田舎町に生まれた。
自分の町を「」と呼んでいた。
飛んでいるオニヤンマを手で捕まえることが出来た。
盆地の城下町で床屋の店員になった。
そこで父親と出会った。
姉が生まれ、私が生まれると、
父親の仕事の都合で東京に出て来た。
言葉に極度の訛りがあり、周囲と話すことを躊躇っていたようだ。
私を背負い、姉の手を引き、三人で上京した時の心細さを
ふと漏らしたことがあった。
母親は努力家だった。
いつも頑張って何かを作っていた。
刺繍や毛糸の編み物やいろいろなものを昼夜を問わず作っていた。
頑張って、頑張って、頑張って、
頑張ったその先には、狂うことしかなかったのだろうか。
時折、普通の母親に戻るときがあった。
中学のとき、母親参観に来てくれた。
「授業参観、来たよ」と母親はいった。
家から数キロの距離を歩いて来たようだった。
しかし、日時を間違えていたため、参観日ではないことを知ると
一人で帰っていった。
私は授業を抜け出して見送った。
長い田んぼの畦道を、背中を丸めて歩いて行く母親。
追いかけた。
不憫で、やるせなくて、追いかけて、
「ありがとう」と言った。
母親が笑い返したかどうか、その表情が思い出せない。
狂った母親なのに授業参観には行きたかったのか。
何で我が家だけ、こんな目に遭わなければならないんだろう。
つらいと思った自分しか思い出せない。
本当に修羅の繰り返しだった。
そして手に負えなくなると鉄格子の病院に入院した。
病院の運動会で一等賞を貰ったと手紙が来た。
そういえば母親は足が速かったんだ。
まだ壊れる前、私の幼稚園の運動会でパン食い競争に出場した母親は
やはり一等賞だった。
よその父親よりも早かった。
そんなことも忘れるほど、狂った母親はスローモーションのように動いていた。
母親には7人の兄弟がいた。
一番上の姉はやはり狂っていた。
二番目の姉と弟は癌で亡くなった。
その下の弟と妹はやはり狂い始めた。
特に弟は狂ったまま誰にも気づかれづに一人で死んでいた。
家を継いだ一番上の兄は妻が狂ってしまった。
この血はいったい何なんだろう。
私は大人になるにつれ、自分自身に流れている血の筋に恐怖した。
いづれは私も狂うのかもしれないと。
母親や叔父や叔母が何歳で狂ったかを覚えている。
その年を経る度に、
「私は狂わなかった」「まだ正気だ」と虚しい勘定をしている。
正直、今も血の恐怖に怯えている。
その母親がついに食事を受け付けなくなった。
今年67歳の母親は、数年前から衰弱していた。
とても年相応には見えない。
父親に言わせれば「90歳過ぎの老婆」のような様相だ。
小脳が萎縮し、部屋の中でも平衡感覚がわからずに転倒する。
極度に衰弱した母親は、また鉄格子の病院に入院した。
そして8月のある日、入院中に更に肺炎を併発した。
抗生物質を投与したところ、
反応も意識もなくなったと病院から連絡が来た。
「だめかもしれない」父親からの電話に、
その時が来る。そう思った。
子供の頃から思っていたことだ。
「いなくなってしまえ」と。
母親の危篤の報に何の反応も示さない私を周囲はいぶかった。
しかし思い出せないのだ。
「頼む、生きてくれ」と願うほどの温かい思い出が、
何一つ思い出せないのだ。
私には、修羅と哀れな母親の思い出しかないのだ。
この気持ちを理解できる人は、きっと少ないだろう。
ただ、鉄格子を往復する母親の人生はいったい何だったのかと思った。
自分の生まれた場所にも帰ることも出来ず、
旅行も楽しいこともなく30数年もの間。
何て人生なんだ。
そんな思いに動揺する自分がいた。
私は母親を避けた。
家には寄り付かなかった。
数年も会わないこともざらだった。
その間、狂った母親は私にお金を送ってきた。
1万、5万、10万・・・。
書留のこともあれば、白い封筒の時もあった。
さらに、何かの都合で家に行かなければならなくなると、
母親は私にお金を渡した。
「いらない」というと泣いた。
お金を送れば、それでまた帰ってくると思うのか。
その思考は、私にはわからない。
ただ、母親はそうすることで、私がまた訪ねてくれると
信じていたようだった。
お金が入ったままの封筒の束が
私の元に残ってしまった。
いったい、母親の人生は何だったんだ。
そして母親を諦め、避け続けた私は、
何なんだろう。
母親の意識が戻ったと連絡が来た。
しかし
また、修羅は続くんだ。