忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

子供手当賛成論

2010年05月11日 | 過去記事
今年の母の日も娘夫婦が自宅に来た。トカゲは不景気だというのに残業残業、休日なしという贅沢極まりない理由から死んでいたが、それでも娘を連れて来なければ社会的に死ぬことになるので頑張って来て、我が家のリビングで「シュレック2」のDVDを観ながら数秒で息を引き取った。オレンジ色のカーネーションがテーブルに置かれた。

もちろん我ら夫婦も、お陰さまでまだ元気な母親たちに「贈り物」をした。「ありがとね」の電話をもらうのも毎年恒例だ。そういえば先日の朝早く、妻が家の電話で話している声で目が覚めたのだが、なぜだか電話の声がスピーカーになっており、相手が私のオカンであることがわかった。何気に時計を見るとまだ6時半ごろだった。私が布団に入ってから、まだ、1時間ほどしか過ぎていない。私は耳を欹てた。

「ありがとねー♪」

「いえいえ」

「まいとし、ごめんねー」

「いえいえ」

「んじゃ、また、でんわするねー」

「はいはい」

「はいはい、はぁい」

「はいはい」

なんか妙だ。いや、実のところ、未だに我が妻は「オカン慣れ」していないのだが、それにしても会話がたどたどし過ぎるではないか。噛み合っていないというか、なんとも機械的で事務的な“間”が感じられる。余所余所しいとかではなく、なにか型通り過ぎるのにフレンドリーな応対だ。なにかおかしい。妻が無言で布団に戻ってきた。

「オカンから?」

「ん?うん。そう」

「なんて?」

「母の日のやつ、ありがとうって」

「うん、それは聞こえたけど、いま?」

「ううん、ちがう。留守番電話」

「ふぅん・・・って、あんた、しゃべってたじゃ・・?」

「うん、返事してただけ」

「留守電に?」

「うん」

「・・・・留守電なのに?」

「うん、なんか黙ってるのもアレかなって・・・」

「・・・・あ、ああ、そう・・・」


もちろん、留守電に向かって相槌入れるほうがアレである。しかし、まあ、たしかに、先日も妻と「ホルモン焼き」を食べに行ったら、よほど気に入ったのかパクパク食べて「ここのホルモンはぬるぬるしてるから美味しいなぁ!」とか言うから困ったほどだ。褒めているのはわかるのだが、あまり喰いもん的に「ぬるぬるしてる」は良い表現ではないから、ちょっと周囲を気にしたほどである。いろいろあるだろと、うどんならつるつるしてるとか、腰があって歯ごたえが良いとか、それを「このうどん、長いなぁ!」は褒めてないというのである。焼き肉屋で「ここの肉、焼けてるなぁ!」も普通なのである。妻には「こりこりしていておいしい」とか「やわらかくておいしい」なども教えた。あと「甘味がある」などの、どっちでもいいような褒め方も教えておいた。

また、妻に何かを頼んで断られる際、その理由として「めんどくさい」というのも注意しておいた。妻は「なんで?ホンマやもん」と文句を言うが、それが建前ぢゃないかということだ。それが「ホンマ」だからこそ言うなというのである。用事があるとか、体調が悪いとか、なんでもいいから「めんどくさい」だけはやめてくれと頼んだ。

娘の結婚式の2次会でもそうだ。なんの脈略もなく、いきなり「帰りたい」と言うから新郎新婦、合わせて御両家の皆様がぶっ飛んだ。慌てたのは娘と倅と私だ。絶妙なタイミングで私が「なにをいいだすねん!」と突っ込んだからまだマシだったが、娘などは冷静に時計を見て「ああ、もう、この時間はダメだな、今日はお母さん、頑張ったほうだ」などという評価すらしている。私は新婦の父親として「ああいう席にでは絶対にあり得ない」カラオケまでして、妻の退屈をしのいだのである。さすがの妻も反省したのか、その後数十分は大人しくしていたが、しかし、それも束の間、次の瞬間である。

「もう、帰りたい」

妻の言い分は聞かなくとも分かる。つまり、今度は「もう」という言葉が組み込まれている。この「もう」には、「もう、ずいぶん我慢していたじゃないか、もう、いいじゃないか、もう、がんばったでしょ?」ということが含意されている。だから、これは既に「妻が優位」なのである。こちらは、誰であろうが関係なく「我慢していただいている」というスタンスを崩してはならない。気をつけねば、見事なまでにトカゲ顔を揃えている新郎側の皆様方に「めんどくさいから帰る」と言い出しかねないのだ。それでなくとも妻は、ついさっき「聞こえてもおかしくない程度の声の大きさ」で新郎の母親のことを「ガイコツトカゲ」とつぶやいて笑うほど危険な状態なのである。



・・・いや、そんなことはどうでもいい。


今年もそうだったが、私などもオカンから「去年のケーキ、美味しかったで!」などと言われるも、あれ、そうだっけか?となる。あげたほうは忘れるのだろうか。実家にふらりと立ち寄った際も、「この座椅子、ええわぁ~」とか言われても、あ、そうなん、と素っ気なく答える他なかったりする。どうやらそれも、いつかの母の日に贈ったものらしい。

しかし、こんな私でもオカンから「毎月1500万円」も小遣いをもらえば覚えているだろう。私はあまりオカンから小遣いをもらった覚えはないのだが、それでも祖母から叔母からもらった小遣いは覚えている。今年の母の日、友愛脱税総理はなにをプレゼントしたのだろう。それをまた、母親から「全く知らなかった」と言われたら、どんな気持ちになるのか聞いてみたい。

また、私はあまり取り上げない話題だが、今年の母の日であった9日、とある母親が逮捕された。埼玉県の風俗店で働く女が、産んだばかりの赤子を畑に捨てた事件だ。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100510/crm1005100117000-n1.htm
<産んで間もない子を畑に捨てる、23歳母を逮捕>

<埼玉県警は9日、産んで間もない自分の子を畑に捨てたとして、死体遺棄の疑いで、住所不定、風俗店従業員、渡辺真里容疑者(23)を逮捕した>

「出産したが、処分に困った。捨てたときは生きていたのではないか」と本人が供述する通り、産んですぐは生きていたんだろう。すると、これは「死体遺棄」であるはずもない。

誰からも抱き上げてもらうことなく、冷たい土の上でゆっくり静かに息絶えていく赤子を思うに、なぜにせめて「死なないようにして病院に捨てないのか」と考えてしまう。このクソ平和な日本国内でも「処分に困った」としてトイレで、自宅で、道端で子が産み捨てられるとは、先進国も途上国もなく、そこには幼稚で身勝手な屁理屈しか思い浮かばない。

最近、ようやく「何か」がバレ始めた勝谷誠彦は「赤ちゃんポスト」に猛反対していた。「こんなことをするから安易に出産する阿呆が減らない」というのが彼の理屈であるが、それは以前から、私は「それはそれで致し方ない」としていた。名前も「子捨て箱」でもいいと思った。目の前の赤子の命が救われるならなんでもいい、その赤子が死なずに育つならどうでもいいのだと書いた。もちろん、いろんな反論も頂いた。

「そういう境遇で育つ子供は犯罪者になるのでは?」とか「お前の金で養え。税金を使うな」とか、いろいろだ。今ならきっと「友愛ですか?」などと言われるかもしれない。「いのち、命を救いたいのです・・」とか言われるかもしれん。しかし、目の前で息をしている人間の子を「子捨て箱反対!」と書いたTシャツを着ながらでも救ってしまうのが人間だ。勝谷誠彦が経営する「うどん屋」の前に息も絶え絶えの子を捨てたら「うどんの具」にされるとはどうしても思えない。やはり、すぐに抱きかかえて病院に連れていくのではないだろうか。警察に連絡して親を探すのではないだろうか。その子が3つか4つになって「うどん屋のかっちゃん、どうもありがとうございました」と尋ねてくれば、キツネうどんくらいは御馳走するんじゃないのか。それを国や自治体がシステムとしてやったとすれば、それほどの無駄であろうか。「自分の子は自分で育てるべき」という圧倒的正論を持って仕分けするのが、人としての営みであろうか。

日本で生まれる子供のうち「5歳まで生きることが出来ない」とされているのは1000人いれば4人ほどらしい。アメリカで8人、真偽はともかく国際ユニセフによると、支那でも24人だ。しかし、これがアフガニスタンなら257人、世界最悪のシエラレオネなら270人を超える。もちろん、これらの数字は日本などの国なら出生届などから換算されたものだろう。アフリカにも国際機関があるから「調査」として具体的な数字を掴んでいるのかもしれない。ここに「産んですぐ捨てた」を入れると支那が24人で済むはずもないし、その他の国、治安が悪い貧国などは数字が跳ねるだろう。

しかし、普段、遠く海の向こうで飢えている子供がいるという情報はあっても、私は家族で回転すしを喰いに行く。妻と晩御飯デートの際は贅沢もする。地球の人口のうち「5人に1人」が1日1ドル以下で生活していると知っているが、貯金が減ったら不安にもなる。総人口の「2人に1人」となる30億人が1日2ドル以下で生活しているとしても、私は明日、大衆酒場で夏野菜の天ぷらで酒を飲むだろう。「4人に1人」が清潔な水が飲めないと知りながら「酒は水が命」などと言うし「8人に1人」は成人しても読み書きが出来ないと知りつつ、倅の成績が下がらないかと心配はする。途上国では6万人に対してたった一人の医者しかいないのに、ちょっと風邪をひいたらどこでも病院がある日本で、今の医師不足は深刻だと嘆くこともするだろう。それでも、

道端に赤子が捨てられていたら救うと確信する

これを救う(ところがあるから)から赤子を捨てる阿呆が減らないんだとして、放っておけなどとは言わない。「子供を産むなら捨てるリスクも背負わせろ」なんて思わない。何度でも書くが、それとこれは別、まったく別の次元の話なのである。つまり、もっと簡略に、もっと匿名性を考慮して、いとも簡単、あっとういう間に、誰でもできる、まさに「自分で産んだ子を畑に捨てる程度のカス」ですらが、ちゃんと利用できるような「子捨て箱」が必要だと言い続ける必要がある。捨てる阿呆が多いなら、コンビニの横にでも設置すべきだ。外国とか国連が文句言ってきたら「人権より人道より人命だろ?おまえら、だいじょうぶか?」と突っぱねればいい。

「親から捨てられた子を国民全員で育てる」

これこそが本当の「子供手当」である。これに「そんなことをすれば、国に育てさせようとして安易に捨てる親が増えるじゃないか!」と言う「小沢真理教」の信者みたいな人は、是非、我が子をそんな理由で捨てられるのかどうか考えて欲しい。そんなに子作りは好きだけど子育ては苦痛だと言うなら、いっそ「作った後」は国にお任せすればどうか。今でも、それは可能だ。日本なら病院に捨てれば死ぬことはない。金がかからないという理由だけで得だ損だという連中は、どうぞ、産婦人科の前に捨てればいい。子供もそのほうが安心して成長できるだろう。親に殺されるのは赤子ばかりではないしな。


ま、とういうことで、だ。私は「日本国民全員が税金で日本国民を養う」のは、さほどおかしくないと思う。私はこれなら全面的に支持する。無論、それを減らす政策や教育、すなわち「子を産み育てる意義(環境ではない)」などを重視する方向性は必須である。しかし、現実問題として、畑に捨てられるならば、国営の施設に入れて学校に通わせ、ちゃんと自立するまで面倒を見るシステムが必要だと言うだけだ。仕分け人がうるさいなら、成人した本人から国庫に返還させればいい。それなら文句もないだろうし、それ自体も教育となろう。

結婚や就職の際、

「オレさ、子供手当で大人になったじゃん。だから、キミと結婚して子供が出来たら、その子に1億3千万人分の愛情を注がなきゃなんないんだ。キミには、ごめん、オレ一人分の愛しか用意できないけど・・それでもいいかい?」とかプロポーズされてみろ、ハートにずきゅんではないか。小さなドキがムネムネなのである。

「あ、僕(わたし)は子供手当で大きくなりましたので、いまから世間の皆様にも恩返しをせねばなりません。そのためには国、そして地域、そして企業を元気にせねばなりません!全力でがんばります!こんな僕で(わたし)よかったら、よろしくお願いします!」なんて言われたら、そいつから採用しそうだ。

母親から12億6千万円も子供手当をもらいながら「まったく、知らなかったわけでありますから・・」という眠たい奴ではなく「顔も名も知らぬ日本国民の皆様、今まで育てていただいて、どうもありがとうございました、僕は(わたしは)この国に生まれて本当に幸せです、これからこの国に、日本国民のみなさまに恩返しをしたいです!」と本気で言える子供にこそ政治家をさせよ。金メダルはいらん。



「やらない善意より、やる偽善」とはこういう時にこそ使うと思う。募金箱に小銭を入れる行為もいいが、これならもっと具体的だ。そんな子供がアイドルにでもなってみろ。まさに「国民的アイドル」ではないか。そんな子供が政治家になって外交デビューでもして、成果を出してみろ。まさに「国民的英雄」ではないか。それこそ、毎月、日本の納税者から頂いた「子供手当」を「一切知りませんでした」などと抜かす阿呆には育たんだろう。

倫理観に理屈はいらぬ。ダメなものはダメ、良いものは良い。何でもかんでも議論して決めねばならぬわけではない。そんなものが民主主義でもない。「殺人は良いか悪いか」を問う阿呆がいないように、目の前で死にゆく幼き命を救うのに理屈はいらぬのだ。


私の妻の姉は自閉症の子を持つ母親だ。もし、万が一、その姉に何かあったら、妻は何のためらいもなく「引き取る」と断言している。理由は「おねえちゃんの子供だから」である。ここにどんな理屈が挟めるというのだ。また、ここに書くのは初めてかもしれんが、私の妹も重度の鬱病である。社会に出て働いたことすらない。私の母親に何かあれば、私が面倒みることになっている。オカンには「心配すんな」とだけ言ってある。「妹だから」だ。ここにどんな理屈が当てはまるというのか。もちろん、我ら夫婦の生活を案じるあまり、言い難そうに「自分たちのことも考えないと」と言ってくれる人もいる。しかし、だ。

互いの身内を切り捨ててまで得る幸せに何の意味があるというのか、我ら夫婦には、いや、少なくとも我が妻には理解できぬ相談だ。しかし、健康で働けるのに「金を貸せ」と言ってくる輩は身内でも切る。それこそ「自分たちを護るため」だ。年老いた親をたらい回しにする連中は親類縁者であっても軽蔑する。

我が妻は社交辞令を嫌い、自分が楽しくなければすぐに「めんどくさい」とか「帰りたい」と言ってしまうほどのアレかもしれんが、私や妻の親の面倒を見ることは「親だから」で看るという。そんなところに理屈はいらないのだと教えてくれる。

2 コメント

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Unknown (久代千代太郎)
2010-05-14 19:12:12
>かいちょ


そして私は、そんな会長に、その100倍くらい感服しておりまして満腹です。
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Unknown (二代目弥右衛門)
2010-05-13 22:08:14
> 互いの身内を切り捨ててまで得る幸せに何の意味があるというのか

おっしゃる通りだと思います。

副会長ご夫妻にはいつも感服いたします。

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