忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ガチコメ的「お笑いの話」

2008年05月21日 | 過去記事
■2008/05/20 (火) ガチコメ的「お笑いの話」1

なんばグランド花月。横では妻がゲラゲラ笑っている。

でも、「西川のりお・よしお」では真顔だったし、「ロザン」や「千鳥」でも眠そうに、更には私がイチオシの「ティーアップ」ですら怖がっていた妻を、無邪気にゲラゲラゲーラと喜ばせることができる芸人。それは、

「平和ラッパ・梅乃ハッパ」であった。
http://www.fandango.co.jp/talent_profile/

「ぼくが、演歌でしゃべるから、キミはロックでしゃべらなアカンで?」

ラッパ:「きみぃ~~とこぉ~~♪よめぇ~~はぁん~~げぇんきぃ~~~ですぅかぁぁ~~♪」

ハッパ:「ずんずんずんずん・・・・♪ずんずん・・・・元気だぜ!ずんずんずん・・♪」

・・・。

「ギターの腕前」には少々感動した私だったが、全体的にはとても笑えなかった。まあ、でも、妻が喜んでいるからそれでいいのだがな。「平和ラッパ・梅乃ハッパ」さん、これからも、がんがってくださいという今日この頃、久しぶりの「生」新喜劇も素晴らしいと思ったが、太平サブロ―の漫談は痛々しいと思った。生きるって大変だ。

おはやうございます。もうすぐ、37歳。つまり、40歳まであと3年。ちよたろです。

ええと、ひとつだけ。

この日も「オオトリ」で漫才を披露してくれたビッグネームについて少しだけ・・・

「中田カウス・ボタン」

大阪人なら誰でも知っている大御所。私も大好き「だった」漫才師なのだが、最近、ものすごく気になっていることがあるので書いておく。まあ、どうでもいいことだがww

-

芸人という職業は強烈な「タテ社会」であるようだ。年下でも阿呆でも、なんでも、ともかく「自分よりも先にいた人」には敬意を持って接するらしい。なんとなく想像はできるのだが、布施の店で働く若手芸人なんぞに飲みながら聞く話を合わせると、どうやら本当らしい。そして、いうまでもなく、それが「稼ぎ頭」というか、実力を伴った「大物芸人」ともなれば、それはもう神様のように崇めることになる。若手芸人からすれば、もはや「絶対的存在」であるということなんだろう。

「2」へ

■2008/05/20 (火) ガチコメ的「お笑いの話」2

この「バイトせねば食いつなげない程度」の芸人ですら、冗談半分(半分本気ww)で、私とコンビを組んでのM-1出場などの話で遊んでいると、その場合は「兄さん」と呼べと客である私に向って言い放つほどだ。素人である私よりも面白くない芸人でも、その伝統は守ろうとする。素人である私に対して「ネタは書いてくれ」と堂々という芸人がである。

しかし、私のように外の世界からみれば、実に羨ましい限りであり、ヤクザの世界と同様「ケジメがなければシメシがつかん」という真理が通用する世界は貴重ですらあるのかもしれん。最近では「ヤクザに学ぶ部下の指導」とか「極道社会からわかるマネジメント」などという本があるそうだが・・・さすがにそれは、でも、つまり、もう、世も末だww

まあ、でも、皮肉抜きで考えると、頷けるところもある。先ほどの「年功序列」にしても「躾」と近いニュアンスの「修行」や「弟子」というシステムも、古き良き日本から失われつつある価値観であり、その弊害と思しきモラルハザードは巷に溢れている。見習うべきは「大いにあり」だ。我が社も「店長」とか「部長」を止めて「兄さん」とか「師匠」に変えてみようかと・・・

・・・・。

違う。そんな話がしたかったのではない。

「中田カウス・ボタン」である。

私は芸人ではないので、敬称略で書かせてもらうが(現職の総理をチンパンジーと書いていて、今更何を・・・)、このコンビは昔から好きな漫才師であった。

しかし、最近どうも変である。

なんというか「ネタ」をしていないのだ。

たしかに「流行」はそうなっている。私の嫌いな3流芸人、5流タレントが出演する「バラエティ番組」を持ち出すまでもなく、いわゆる「身内ネタ」のようなもの、視聴者や観客を置き去りにするかのような「知らない人たちによる知らないところの知らない話」が面白いとされてずいぶん経つ。若手芸人からなる「バラエティトーク」とされる番組ジャンルは増え、ぼぉ~~っと見るには最適の「内容ゼロ」の与太話が繰り返される。

「3」へ

■2008/05/20 (火) ガチコメ的「お笑いの話」3

そして、それは好きなアーティストのコンサートなどでのMCのようなものではない。いわゆる「憧れのスター」の意外な一面とか、人間臭い部分にスポットを当てるようなもの、もしくは「作品に纏わるエピソード」のような裏話でもない。つまり、「そいつ」に興味がなければ、なにも面白くないような話である。

そのほとんどは、社交辞令的に聞き流す程度の「ネタ?」なのだが、しかし、その人が、その若手芸人のファンという存在ならば理解できる。「知りたい」ということは、そのまま「興味」となり、どんなツマラナイ話であっても楽しめるモノなのだろう。芸があろうとなかろうと、「そいつ」のファンならば全ての情報に興味があるはずである。

だから私は、それを不特定多数の視聴者、あるいは観客に対して行う芸人が嫌いなのである。先ずは「知らない」からだ。名前も知らないような若手芸人の周りで起こった「日常の風景」など、聞いていて面白いというほうが理解できないのだ。で、理解できないといいつつも、それでも、では、なぜにそんなもんが「流行っている(いた)」のかを、私なりに説明しながら「中田カウス・ボタン」の悪口を書きたい(笑)。私はただの「お笑いファン」だから書いてもいいのだ。こ、怖くないぞ!

すなわち―――

いわゆる「バラエティトーク番組」というものは「中身」ではなく「外側」を売っているのである。売り物とは「番組内容」ではなく、あくまでも「雰囲気」なのである。

「4」へ

■2008/05/20 (火) ガチコメ的「お笑いの話」4

入れ物に金をかけた商品のようなものだ。そこは、若手芸人が「恥を晒して」笑われる場なのであり、それがたまたまよくできていたり、話し方や組み立てが上手かったりするだけの話だったりする。今の世の中、たしかに「中身」を売ることは難しいだろうとは思うが、練り込んだネタで取れるのは「爆笑」だけではなく、「感心」や「納得」のような芸人として必要な「存在感」を構築する上で欠かせないファクターも含まれるのだ。そして、それらは「芸人」という職業に対する観衆のイメージとなり、同じ職業を目指す者に「感動」を与え「尊敬」を引き出す。つまり「タテ社会」の基盤を保障することになる。

「子供にウケれば金になる」というのは常套手段となりつつある。テレビを見ても、40をとっくに過ぎたあばさんがグーグー言っている。あれの何が面白いのか?「好き嫌い」という概念を抜いて誰か説明はできるか?おっぱいは飲みたいのか?

いわゆる「一発屋」と称される芸人が、「一発ギャグ」というモノで成り上がり、打ち上がった花火のように消えてなくなる様すらをネタにする風潮もある。まあ、それは別に悪くないが(笑)、つまり、またもや、大上段から構えて申し訳ないが、私が危惧するのはまさに「お笑いの危機」なのである。「いないいないばぁ!」なのである!!

「お笑い芸人」がプライベートを切り売りする「芸(?)」は、お笑い界の危機的状況の始まりであった。だから、やたらとカッコをつけた「タレント気取りの芸人」が跋扈することになる。いうまでもなく、マスメディアは「金儲け」が目的であるから、「文化」としてのお笑いなどどうでもよいのだ。だから、視聴率が取れるならば、サルでも阿呆でも出す。

「5」へ

■2008/05/20 (火) ガチコメ的「お笑いの話」5

そして、それでも最近までは「ちゃんとネタもできる」若手芸人がいた。「M-1」の決勝に出てくる漫才師を挙げるまでもなく、現在、お茶の間で見るタレント芸人は、ちゃんとネタもやっていたのだ。だから「根っこ」の部分では面白いし、組み立てもできているから、片目をつむって看過してもよかった。我々もテレビを見て「面白くないなぁ・・」と言っていればよかったのである。そして、それを護っていたのはなんだったのか・・・?

ここで、やっと「中田カウス・ボタン」が出てくる。

大御所の存在であった。流行りを歯牙にもかけない「芸人魂」とは、中高生の餓鬼に媚を売るような芸風を鼻で笑う「本物」の存在であった。何代も前の師匠から連綿と続く「伝統芸」であったわけだ。だからこそ、いくらマスメディアがチヤホヤしようとも、若手芸人は大御所のことは「尊敬」することができた。「売れていない師匠を尊敬するバカ売れの弟子」という構図は、現代社会の失ったモノそのものであったのだ。

時代に合わせて売れることができた若手芸人も、師匠の背中から己の芸を直視することで「タレント」から「芸人」に戻ることができた。「実力主義」を履き違えることはなかった。

最近の「中田カウス・ボタン」はどうしたのか。

いわゆる「ボタンいじり」というネタは以前からあったが、それでもネタを絡めた上での流れであった。だから、笑えた。だから、アクセントであり、個性であり、ネタであった。

舞台の上でこしょこしょと、おっさん二人がクスクス笑うだけの漫才から、若手は何を学ぶのか。リズム感があるしゃべりも、安心できる組み立ても、今や弊害となり果てている。

「トーク」にかぶれているのは明白である。いわゆる「身内ネタ」をメインにした組み立ては、ワザワザ見ていてウザいと感じる。知ったことではないと、現実に引き戻される。

それは「焦り」かもしれない。「ニーズ」を勘違いしているのかもしれない。しかしながら、その問題とは、このまま「中田カウス・ボタン」の姿が見れなくなることよりも深刻なことである。「役どころ」というモノを勘違いした芸能人が見ていて痛いようなことではない。

「6」へ

■2008/05/20 (火) ガチコメ的「お笑いの話」6

つまり、「タテ社会の悪い事例そのもの」であるということだ。

このまま「中田カウス・ボタン」が勘違いした漫才を続け、若い客はもちろん、今までのお笑いファンまでもが「オオトリ」の前に席を立つことになっても、誰も本人たちにダメ出しはできないだろう。まあ、本人たちもそれを「時代の所為」にしながら余生を送ればいいことなのだが、問題はそれどころではなく「絶対にあってはならない」ことであった。

大御所が阿る

築き上げた芸風を捨てて客に阿る。時代に阿る。若手に阿る。

大御所漫才師が漫才の舞台でトークをする。なぜか?

それは、

やるほうも笑うほうも楽だからだ。

そして、それは芸人としては致命的なこと、すなわち、

おもしろくなぁい!!

のだ。

-

私の妻の言う通りなのだ。

「ん?なんて?・・・?なに言ってるん?・・・この人らだれ?ん?」

権威が通じない相手をどうやって楽しませる?どうやって笑わせるのだ?

それをしないで「芸人」というか。「ボタンいじり」すら知らない妻を笑わせることは不可能であるという「トーク下手」な漫才師の権威とは一体何の役に立つのか。

芸人とはタレントと違って消耗品ではないのだ。
使えば使うほど「味が出る」のだ。

大御所、若手芸人の羨望の先にいる大物が、それを忘れてどうするのか。

「中田カウス・ボタン」よ。

ネタをせよ。

「7」へ

■2008/05/20 (火) ガチコメ的「お笑いの話」7

-

予約していた中華料理の店。
この店自慢のパテシエがつくるスイーツが並ぶ。

ウエイターが言う。

「お客様には、こちらがお勧めとなってございます。どうぞ、お受け取りください。」

色鮮やかなスイーツの中にひとつだけ、ピンク色の花を模した煌びやかなペンダントがある。もちろん、私が事前に仕込んでおいたのだ、むふふ。

妻:「おわぁぁ~~~♪」

ふむ。喜んでいるな。

突如、鳴り響くグランドピアノ。曲は「ハッピーバースデイ」。

・・・・・。

はて・・・?

「おめでとうございます!こちらは当店からのプレゼントです!」

は・・・・?

テーブルに置かれる「バースデイケーキ」。

い、いや・・・・あの・・・

妻:「おわぁぁ~~ありがとぉ~~♪」

妻:「ふぅ~~ふぅ~~」

キャンドルを吹き消す妻。鳴り響く拍手。そして、ドン引きの真後ろのカップル。

・・・・・・?

お、おい、シャブ中。

キミの誕生日は6月ぢゃないか。私も今日ぢゃないし。
店にも誕生日ではないと予約のときに言ったぞ?

妻:「うん。もぐもぐ。♪」

なんで食べてるの?っていうか、なんで吹き消したのか・・?

妻:「くれたからだよ。くれた人、ありがとう。♪」

申し訳なさそうに、もう一度、鳴り響くグランドピアノ。曲は・・・

ご、ごめんなさい!くれた人!

妻:「おとしゃん!」

なんだ?もう、帰るぞ。恥ずかしい。というか、くれた人、かわいそうだ。

妻:「あんなぁ・・もぐもぐ」

早くケーキを食べてしまいなさい。ほら、

妻:「演歌でしゃべって。♪」

・・・・はやぁくぅ~~♪けぇぇきぃをぉ~~・・・・たべなさぁ~~♪

妻:「・・・・ww♪」

お、おい。ロックでしゃべるんぢゃないのか?

妻:「いや。」

・・・・・。

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