忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

大阪人が昇天する日

2011年01月05日 | 過去記事
「テレビを見ると馬鹿になる」というのは「テレビばかり」あるいは「テレビだけ」を見ていると馬鹿になるということであり、テレビ画面を見るだけでは脳に悪影響はない。あくまでも「テレビはテレビ」だと認識してから観て楽しむのがよろしい。

中には「良い番組」もあったりする。いつもテレビの悪口ばかり書いているから、今日はオススメ番組なんかを紹介したいと思う。とはいえ、私は番組名など知らぬから、どの番組のことを言っているのかは察して欲しい。

ンで、先ずは「芸人が無人島で生活させられる」というアレだ。アレはよろしい。

先日も倅が見ていたのを一緒に見ていると、長らく無人島だった島に数人のタレントか芸人か知らんが放り込まれていた。番組の内容は「その島を開拓せよ」という指令で、ただ、そこで生きているだけではなく、畑を作ったり、家具を作ったり、庭を作ったりせよ、というものであった。なんでもその島には以前、とある家族が住んでいた時期があって、その家のお婆ちゃんが島を懐かしがっているという。そこで番組が「じゃあ、島を綺麗にして、そのお婆ちゃんを迎えよう」という番組構成だった。

数人は苦労して火を起こしたり、野菜を作ったりして生活拠点を作ろうとするも、様々なトラブルにも見舞われる。また、最初からチームワークもなく、中には自分だけこっそりと「みかん」を喰っていたりする者もいて、なにかと問題が続くわけだ。

そこに「とったどー」という芸人が登場する。無人島慣れしているその芸人は、冬の海で魚を獲ったり、夜中の間に掃除したり、家具を作ったりと「彼ら」を手伝う。庭にも池が出来て花が植えられる。島で獲れた魚と野菜で料理を作り、家族が過ごした木製テーブルも補強されて、数人のタレントは島に住んでいたお婆ちゃんを迎え入れる。

苦労して再生させた畑や家を見て、お婆ちゃんはとても喜ぶ。花壇と池のある懐かしい庭を歩いて感極まる。そのあと、お婆ちゃんと一緒に島の料理を食べていると、タレントらも涙腺が緩み始める。番組によって集まっただけの数人は「一緒に苦労した仲間」へとグレードが上がり、そこには「絆」が生まれている。スタッフ側の仕掛けは「演技ではない」と明らかな彼らの情緒をそのまま映すことにある。

そして、およそ1ヵ月という無人島生活にピリオドを打ち、船に乗って港に戻ると、そこには「母親手作りの弁当」が待っている。ここがクライマックスだ。私はもうボロボロに泣いているが、心優しい倅は気付かぬふりをしてくれる(笑)。彼らは号泣して弁当が喰えない。それでも、おかずのひとつひとつを噛みしめながら「ああ、これ、オカンの味や」と言ってまた咽び泣く。話が前後するが「とったどー」の芸人が、いよいよ明日、お婆ちゃんが来るという前日、島で頑張った彼らに対してこんなことを言うシーンがあった。

「俺らがここでやったことは無駄じゃない。誰かが必ず、これを見て、何かを感じてくれている」



――――戦後、日本で跋扈している「ど左翼」はアンテナが折れている。私が「ど左翼」ならば「こういう番組こそ」規制する。これは危険である。

今から60数年前、世界各地で「こういうこと」が発生していた。それは「無人島で生活しなさい」というだけではなく、圧倒的火力を誇る連合軍と戦いながら、そこで「日本を護りなさい」といわれた若い日本人が数多いた。その人らは生きて戻って母親の弁当、妻の料理をどれほど喰いたかったか知れない。その多くは、もう二度と「それらが喰えぬ」と知りながら、庭や家具ではなく、トーチカを作り、塹壕を掘ったのだ。

図体のでかい、むさ苦しい極道男でも「おかあさん」と泣いた。それでも空から陸から海から、敵めがけて己の命と爆弾を抱えて突進した。それらは全て、この「とったどー」がいう「誰かが何かを感じてくれる」だけが救いだった。それは連合軍の戦意喪失もあったかもしれない、また、我々後進が「その意」を汲んで、これからの日本、あるいは極東アジアの平和というものを創り上げる礎にすべきことでもあろう。しかし、その結晶化された「こころ」というものは、ただ、親兄弟を愛せよ、友人を大切にせよ、懸命に働いて美味い水を飲め、元気で闊達な子を産み育てよ、しっかり生きよ、感謝を持って生きよ、という、息遣いを感じるほどの生の声ではあるまいか。

そして、これらを全て集めると、そこには「御皇室を戴く日本」という国柄が見えてくる。これが「見えてこないw」という人は、今日からメシを喰うとき「いただきます」を止めよ。犬のように目の前にある餌を口に放り込むだけでよろしい。朝、人に会ったら「おはようございます」という必要はない。正月もとくに何もめでたいことはない。元旦ではなく、その人にとってはただの1月1日だ。クリスマスにケーキを喰うのも止めよ。ローマ法王は皇居に出向かれる。陛下と同席する際は下座に腰を下ろされる。

天皇陛下は365日、日本国民と世界の平和を祈っておられる。このありがたさが理解出来ぬのは、もはや、その人が人ではないからだ。学者でもないのに唯物論者を気取る輩は病気としか言いようがない。地球の人間が全て「自分のことだけ」考えるようになったら、世界などあっという間に滅びるのと同じことだ。

「国家の象徴」という意味では何処の国でも同じだが、それが人類史上最長を誇る伝統に基づく御皇室ならばこその「誉れ」ということをわからぬのは、犬畜生と比してさほど変わりはない。人語を解するかどうか、尻尾があるかないかの差異しかない。だからエリザベス女王は陛下の前で膝を折る。アメリカ大統領は最高儀礼のホワイトタイをつける。

諸外国の伝統や権威が例外なく一歩引かねばならぬ存在、それが日本国の御皇室だ。世界に御皇室がなければどうなるか。世界はやはりキリスト教の白人が権威を独占する。ローマ法王だ。この上位に有色人種の伝統が乗っかる意味がわからんのは無知としか言いようがない。人種も国力も関係なく、宗教も民族も関係しない「伝統」というものがあるから、世界はまだ何とかやっていける。この「伝統を重んじる」という、人類特有の崇高な行為だけが、世界中のあちらこちらで「秩序」というものを存在させている。

これを「金正日と同じ」などと抜かす病理は、権力と権威の区別もつかぬ愚か者だ。日本共産党は区別と差別の違いがわからないから、いくらマトモなことを言っても誰も相手にしない。だから、民主党や社民党は「無くなったほうが良い」と明白だが、共産党は「あってもなくてもかまわない」というレベルにある。また「ど左翼」には馬鹿しかなれんが、共産主義者は馬鹿ではなれん。ただ、地球を全て「無菌室」にしようとするから危険極まりない。病的なまでの理想主義者でなければ(真の)共産主義者にはなれんのだ。

また、話を戻して勝手に言うが、私はこの「とったどー」ならばわかると思う。「とったどー」は先の労いの言葉の中に「(本土で)仕事をしていても、ここ(無人島)で頑張っているお前らがおるんやなぁ~って思ったら、頑張らなアカンって思った」と言っていた。

これはまさに「戦地に赴く兵隊さん」を想い、内地で銃後を支えた日本国民の心境である。我が同胞があんなに苦労している、内地にいる我々が甘えていてどうする、という信念を形成する根拠である。これは家庭であっても「お父さんが外で懸命に働いてくれるから生活が出来ている。これくらいで文句を言ったら罰が当たる」として子供を躾たりするのと同じことだ。「どこかで誰かが自分のために頑張ってくれている」と思えるからこそ、自分も投げ出してはならぬ、と踏ん張りが利く。これの相互関係が公共心である。これを集約すると愛国心となる。私が「愛国心=公共心」という所以だ。


また、テレビ番組で「故郷自慢」をするのがある。アレも結構なモノだ。出演者がとあるカルト宗教の広告塔だから悩むところだが、ま、番組内では触れないし、所詮はテレビだから認識さえしていれば問題ないレベルではある。

日本各地の出身者がゲストで出てきて、喰い物やら観光地やらを自慢する。少々理不尽であっても、そこは「郷土愛」を示してごり押しすることがよろしい、となっている。もちろん、その愛すべき「郷土」は日本国の領土内だ。私はここに探してでも北方領土や竹島の関係者を連れてきて欲しいと思うのだが、島根県と北海道出身のタレントは、それほど愛する「郷土の一部」が奪われている現実をテレビでもっとやらねばならない。反日テレビ局にカットされぬように上手に織り交ぜるくらいしてほしい。プロなんだから。

さて、「祖国愛」は危ないとされて「郷土愛」ならば微笑ましいという感覚について申せば、これはくだらぬ言葉遊びの範疇であり、言うまでもなく、文字通り「地続き」なわけだから根本は同じである。また、いくら「郷土愛」が強くとも、フィギアスケートの織田信成を伊賀流忍術で殺してしまう三重県人はいない。織田信成が演技する会場で「織田家は伊賀市と名張市に謝罪せよ」という横断幕を吊るしたりもしない。「日本のナショナリズムは危険」だという辻元清美やら鳥越やらがどれほどの阿呆なのかもわかる。

安倍政権のときに「教育基本法」が改正され、その中に「愛国心」という文言があるとかないとかで騒いでいた時期があった。あのとき「ナショナリズム」という言葉と「パトリオティズム」という言葉がバカバカしくも議論された。「ナショナリズムは危険」だというのだ。だから「郷土愛」という意味に近い「パトリオティズム」と表記すべし、というところで落ち着いた。このおかげで今、テレビで「大阪のB級グルメが最強」だと言っても叱られない。テレビで日本を褒めてよいのは「四季があること」とか「モノづくりの伝統」とか危なげないモノだけとなっているが、これと同じだ。

「ど左翼」は当時、ナショナリズムが子供らの心に踏み込むのはダメだ、とした。保守派と呼ばれる議員も「愛国心は憲法に定めるものじゃない」と理屈をこねて反対したのもいる。言葉に踊らされる馬鹿の見本だ。これに「なにおぅ!政治家は言葉が命だ!」という「保守派議員」がいるなら、先ず、オノレのところのトロとイカに言え、と書いておく。

日本以外の国で、だ。「郷土愛」と「祖国愛」を分けている国などない。そもそも「パトリオティズム」とは「愛国心」とも訳す。こんな馬鹿みたいな「区分け」などないのだ。言うまでもなく「大阪のたこ焼きは最強やで!」という大阪人は日本人である。「大阪のお笑い文化」とは「日本の大阪の文化」である。当然過ぎて笑ってしまうが、あのテレビに出ている「出身者タレント」は全員、声を揃えて「日本が好き」だと宣言しているに過ぎない。仮に、だ。あそこにニューヨークと台北の「出身者タレント」を混ぜてみればわかる。ニューヨーク出身者は「NYのベーグルは最強」と言うだろう。台北出身者は「小籠包」を言うだろう。もしくは強敵の「パイナップルケーキ」を出して来るかもしれない。

そして、それぞれ当然ながら「アメリカ最強」を言うし「台湾LOVE」を言う。日本では「名古屋のべニア板は最強だがや!」と言った後「でも、日本は昔アジアに迷惑をかけましただがや・・」とやるから変態なのだ(名古屋人に他意はないw)。

「郷土自慢」とは「お国自慢」である。どちらも故郷を誇っているのだ。大阪人は「大阪がめっちゃ好きや」という人が多い。関東にコンプレックスがあるとも言われたが、そうではなく、地元贔屓が過ぎるほど、世界中が大阪になればいいと思っている節がある。大阪人は「地球最後の日」が来たら、新世界で串カツを喰ってから吉本新喜劇を見て、たこ焼きを喰いながらタイガースの試合を見て、ラッキーセブンの攻撃が終わると同時に死ぬほど大阪が好きだったりする。藤川が投げて勝つところまで見れたら、全員が「かったでー!!まいどまいど、おおきに」と言いながら天国に昇ってゆくことだろう。

私も京都に住んでずいぶん経つが、今でも心は「大阪人」である。生まれ故郷だからだ。自宅もあるのになぜか「自分の居場所」と感じられぬときがある。だから、私は新世界や京橋に行くと死ぬほど落ち着くのである。大阪から妻に電話すると「今から家に行く(帰る)」と言ってしまうほどだ。




また――――

もし、私が「私の魂は通天閣にある」と言い残して死んだら、私を知るみんなは命日になれば、私を偲んで新世界で串カツを喰うはずだ。それに文句を言ったり、気を使ったりするのがどれほどの変態かも分ろうというモノだ。

日本はまだまだ「変な国」だが、芯まで腐るにはまだ時間もある。世代が変わるごとにマシになってくる。「おかしいこと」は続かないからだ。

ンで、このあたりのことを、虹の新年会で語り合おうじゃないか。▲はよろしくだ。「元会長の自宅(新居)」という手もあると伝えておく。


3 コメント

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Unknown (久代千代太郎)
2011-01-07 13:15:32
>からす さん

不思議な国ですねw

でもさすがに「揺り戻し」がきてますね。未来は希望に満ち溢れています。大丈夫です。



>▲

よろしくよー


新年会は「酒」持ってくよ。日本酒。

canakoは「からあげ」ね。と、ここに書く。
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Unknown ()
2011-01-06 18:58:13
今年も宜しくお願いします。

もう、新年会決まってましたね~

ずびばぜん(;´Д`)
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Unknown (karasu)
2011-01-05 15:22:05
英国女王の靖国神社参拝を、当時の政府(担当官庁がこのような重要なことを独断で決定する訳ありませんからね)?が断ったとかの話しを以前聞いたことがありますが、さもありなんと思われますね

何時の時代からか各国の高官による参拝も途絶えているような

国家の為に倒れた者を追悼するのは、いかなる国でも当然なことですが、それをそう思いたくない変な人達がいるのも、不思議の国の謎の一つでしょうか
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