忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

2009.2.6

2009年02月06日 | 過去記事
「落ちないトド」が受験生に人気らしい。「城崎マリンワールド」のトドによるダイビングショーで、1頭だけどうしても「飛びこまない(落ちない)」トドのことだ。過去にも「ウン(運)がつく」などと言って「糞を投げるゴリラ」や語呂合わせでの合格祈願はいくつかあった。御利益があるのかないのかは知らないが、「藁をも掴む」思いなのかもしれない。▼しかし当たり前のことだが、日本各地の「合格祈願」に肖るよりも、準備万端、精神的にも肉体的にも万全な状態にて受験に臨むほうが「合格率」はあがる。また、いくら努力しようとも合格ラインに達していなければ落第することも当然だ。▼受験に限らず社会とはシビアである。シビアでなければ成り立たない。「願掛け」も気分的なものに過ぎないとみんな知っている。同じように、いくら精魂込めて働こうが、どれほどの愛社精神を示そうが、企業が傾倒すれば解雇されることもある。また、その原因が直接なくとも、その企業に属している限りその呷りはマトモに食らう。社会人である限り、社会が不安定になれば、何らかの影響を受けることも避けられない。▼2004年から解禁となった製造業における派遣労働。共産党の委員長による愛情深き「労働者の味方」のスタンスからなる熱い弁舌は涙が出るほど感動的だが、どのように解釈しても「日本の大手企業を弱体化させても労働者を救うべき」と言っている。政府が指導し大企業が雇用を守らないと、労働者は仕事も家も無くしてホームレスになると国会で叫ぶから赤旗が売れている。▼では、2004年当時、日本企業が労働力を求めて外国に流出すればよかったのか。それとも株価を下げてフラフラになりつつ、血を流しながら労働者の給与を支払えばよいのか。問題はそのような「最近の話」ではなかろうと思う。その答えはズバリ、先ほどの「トド」が教えてくれる。▼「落ちないトド」とは「飛び込めないトド」に過ぎないということだ。安易で甘え切った「自分探し」を許したように、「その時」がきても「飛び込まずに済む」社会を構築した「モノ」がその真因である。飛び込んで、必死にもがく。格好も見栄もない。そして「生きる」のだ。社会の理不尽さなど、派遣法を持ち出さずとも腐るほどある。▼時代の流れを看過し、現状に甘んじていた者に責任はないか。そのような「悪法」とやらを理解せず、安直な「仕方ない」で派遣労働者を続け、職を失うと同時に寝床すら確保できない無計画さに対し、同情だけしていれば社会はよくなるのか。単なる「臆病なトド」にすがるだけの受験生は落第するだけだ。


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