忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

タルタルソース

2012年07月24日 | 過去記事

とある日の夜勤。夕方の職員さんがまだ残っていた。私は一通りの業務を終えてブレークタイム。汗だくになったTシャツを替えて、ノンアルコールビールをぐびぐび。今日は「フィッシュフライサンド」を2個買ってきた。タルタルソースが好きなのだ。

職員さんは雑談しながら歩いてきた。私がノンアルコールビールで喉を鳴らしている姿を見ると、なんか似合う、とか失礼なこと言いながら笑った。それから「4号室の沢井さん(仮名)、すごいイビキ。わたしの旦那よりすごいw」とか。ふうん、という感じだったが、ちょっと気になった。どんな感じのイビキ?

「バイクみたいwww」

・・・・・というのは、破裂するような音?あと、ぶるるる~って感じの?

「うんww」

おい、笑ってる場合じゃないかも。ということで駆けつけると案の定、大きく震えていた。脈拍は150を超えていた。看護師に連絡、すぐに救急搬送の指示が出る。あと30分、気付かなければベッドの上で逝っていた可能性は高い。脳内出血だ。女性職員が「呼吸が苦しそう」とかで体位変換させようとするから「動かすな!」と怒鳴った。私は首の後ろの隙間、静かにクッションを差し込んだ。肩呼吸になる。これで気道は広がった。70%ほどだった血中の酸素飽和度は90%にまで回復した。呼吸は楽になったようだが、震えはもう、痙攣だった。ベッドの上で跳ねている感じ、不謹慎な比喩で申し訳ないが、私はエクソシストを思い出した。また、寝ているのではなく、昏睡状態だった。私は手を握った。「バイクみたいw」は下顎のコントロールが効かなくなり、舌の付け根が気道を塞ぐから。舌根沈下という。

「沢井さん」は女性で70歳。「付き合い」は1年半になるが、面会に誰か来た、というのは知らない。ファイルにも「長男」があったが「音信不通」と書いてあった。

意識があるのかないのか、沢井さんは私を見つめていた。目は不安そうで、怯えているようだった。うっすらと涙ぐんでいたようにも感じた。それから、当然だけど辛そうだった。状態もすごい速さで悪くなる。痙攣は大きく、握っている私の手が大きく振られるほどだった。口からは血の泡を吹いていた。これはもうダメだ、でも、せめて、真っ暗で誰もいない部屋、誰に気付かれることもなく、ひとり寂しく逝くよりはマシかと思った。サイレンの音が聞こえてきた。

20分もかからずに救急車は到着したが、久しぶりにあんなに長い20分を経験した。病院に着くと、やっぱり脳内出血だった。血管が破裂して脳が腫れている。集中治療室で眠る沢井さんを見てから、ダメ元で「長男」の携帯に電話した。虫の知らせか、なんと、ワンコールで出た。「わかりました、今から行きます」――――落ち着いた声だった。

「長男」はお世辞にもマトモに見えなかった。派手なシャツを着て金髪だった。若く見えたが年齢は私よりもちょっと上。本人曰く「数年以上ぶり」の母親の姿を見て絶句、前回、脳血管障害で倒れて認知症になったことも知らなかった。

一頻り「おかあさん!!」とやったあと、私に「もうダメなんでしょうか?」と問うてきた。医者は「なんとも言えないけど、良い状態にはならない」と言っていた。つまり、年齢も年齢だし、頭を開けて手術するのもどうかと。私は「担当医に聞いてください」と紋切り型に答えた。あとで聞いたら「延命」を望んだと言う。植物人間でも何でもいい、とにかく、生かしておいてくれと。

施設に戻る。先ずは一服させてほしいとベランダに―――行こうとすると、別の職員が「岩井さん(仮名)が、また、さっき嘔吐した」みたいなことを言う。岩井さん?昼間も吐いてたよね?看護師が「とりあえずバイタル測定も異常なし。熱中症かも。休ませて様子を見ておいてね」とか言ってたけど?まあ、ともかく、その「吐いた物」は?

これです――――吐瀉物が染みついたバスタオルを見る。バスタオルが白色でよかった。

同僚は続ける。「昼から食べてないから、胃液?ですかね?飲み過ぎて悪酔いして吐いたときみたいな・・・・」―――あんたの胃液は茶色いのか?と皮肉を言う気も失せた。

それから若干の「便臭」もある。たぶん「吐糞症(とふんしょう)」だ。ということは、お腹壊したとか、熱中症で気持ち悪くなった、というレベルにない。腸閉塞の疑いが濃厚だ。看護師に連絡。眠そうな声で「またぁ~?ンで、熱は?」とかやってる。腸閉塞なら血圧も脈拍もとくに変化しない。だからこそ怖い。イライラするが我慢しつつ、相手のプライドに考慮しつつ、なんとか「ただ事ではない」と伝えたい。「朝まで寝かせておくなら、自分は責任持てません」と言ったら、一瞬、黙り、ようやく真面目な声になった。

岩井さんは93歳。女性。年寄りというのは痛みに強かったりするが、とくに女性ならばその傾向は増す。我慢強い岩井さんは「イタタタ・・・」と言ったあと、普通にすやすや寝てしまったりもする。つい安心するが、これは「疝痛発作」という。嘔吐すれば少しは楽になる。それからまた痛みが出る。これを繰り返すわけだ。これを私は日勤の記録を見ながら言った。そこには時間も書いてある。マメに記録してくれているから助かる。

救急搬送→緊急入院。まだ、詳しくはわからないが、とりあえず「腸閉塞」だった。岩井さんは「嘔吐による脱水症状に留意」とかでカルピスとかポカリとか飲まされていた。言うまでもなく、腸閉塞は絶飲食が大前提。次の日も同じようにされていたら・・・・とぞっとした。力道山を思い出した。

もう夜が明け始めていた。施設に戻ると、先ずは一服させてほしいとベランダに―――行った。日の出を見ながらマルボロを吸った。目眩がした。それからもう1本、ノンアルコールビールを飲み、早朝の職員が来るまで走りまわった。全員が出勤して来てからようやく、報告書を書き、引き継ぎを終え、主任看護師に詳細を報告、その指示をまた、みんなに伝達。施設の上長にも報告。それらが終わってやっと解放、次にベランダでマルボロに火をつけたとき、食材配達のオッサンが「こんにちは」と言うから、もう昼前なのだと気付いた。酷い空腹を覚えた。そうだ、フィッシュサンドだ、と思い出して介護員室に戻ると「無い」。認知症の爺さんが普通に喰っていた。私の鞄を開けて取り出し、離れた場所で喰っていた。ビニールごと噛み砕かれたフィッシュサンドを取り上げられていた。

それでも私はいつもポジティブ。2個買っていて良かった、とプラス思考でカバンを探ると「無い」。私は一体、なにか悪い事でもしたのか、もうひとつもやられていた。白目になった私はそのまま爺さんに飛びかかり、フロントからのスリーパーで絞め落としてから持ち上げ、脳天からフロアに垂直落下ブレーンバスターをする代わりに、家に帰ってから泣きながら妻に言いつけた。「よしよし、悪いおじいちゃんだね」と慰めてもらったあとシャワーを浴びて出てくると、妻はフィッシュフライを揚げてくれていた。それから「本物」のビールを飲んだ。タルタルソースが好きなのだ。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。