忘憂之物

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             渋沢栄一

西原で遺骨7体 ガマフヤー発見 日本兵や学徒兵か>2012.6.16

2012年06月16日 | 過去記事

    




http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120616-00000008-ryu-oki
<西原で遺骨7体 ガマフヤー発見 日本兵や学徒兵か>

<【西原】西原町幸地の原野で、沖縄戦当時の日本兵や軍属の少年のものとみられる遺骨7体が15日までに見つかった。うち3体は頭蓋骨が見つかり、歯も残っている。発見した沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の高江洲善清さんは「丁寧に収集すれば、身元を示す遺品も見つかるかもしれない。歯もきれいに残っており、DNA鑑定ができる可能性もある」と述べ、遺族による収骨、返還につなげたいと考えている。
 遺骨は急斜面の丘の稜線約200メートルに沿って点在。高江洲さんが1月に発見し、警察が遺品や状況から事件性がないことを確認した。歯が残る3体のうち、2体は骨の大きさから少年とみられ、学徒など県出身者の可能性がある。1体の近くから軍服のものではない黒いボタンや安全ピンのついた名札が見つかったが、氏名は判別できない。
 沖縄戦時、幸地には歩兵第22連隊第11中隊が駐屯し、周辺で砲弾などが多数見つかっている。2009年には壕跡で遺骨5体が見つかり、ガマフヤーの呼び掛けで現在、遺族の可能性がある家族と遺骨との国のDNA鑑定が実施されている。高江洲さんは「戦後67年たつ今も遺骨や遺品が見つかり、戦争の悲惨さを物語っている。一人でも多くの遺骨が遺族に返せるようにしてほしい」と話している>









3年前ペリリュー島に行った。




パラオ・ロイヤルリゾートから出発して1時間半ほど。途中、マンタが出てきて見送ってくれたりした。日本のODAで作られたノースドッグに着くと、港の端の方に「ABUNAI」というプレートもあった。これはパラオ語だ。読みは「アブナイ」で意味は「危ない」となる。

そこから車に乗り込み、コンクリートの硬度を誇る珊瑚礁に穴を掘った洞穴に行く。いわゆる「千人洞窟」だ。中は迷路のように入り組んでおり、天井は低く、蒸し風呂状態だった。入口付近が焦げているのは火炎放射機で焼かれた痕、内部が崩れているのは米軍が投じた手榴弾だった。しかし、ほとんどの部分、これも焼き崩れていた。「医務室」として使用していたはずのスペースも焦げていた。米軍はこの穴にホースでガソリンを撒いてからやった。戦争、という非常事態とはいえ、その迷いない冷徹、残忍さに汗が冷たくなった。





地面には「大日本帝国ビール」と書かれた空き瓶がごろごろあった。日本軍守備隊はコレに雨水を汲んで飲料水としていた。







この洞穴でウィリアム・リュパータス少将率いる第一海兵師団17490名を中心とする上陸部隊約28000名の米兵を待ち構えた。そして1944年9月15日、オレンジビーチから第一次上陸部隊がやってくると、日本軍守備隊の猛攻が始まる。3日前からの艦砲射撃、F4U コルセアを飛ばしてナパーム弾を投下、ジャングルも燃やし尽くしたはずだったが、中川州男守備隊長率いる歩兵第2連隊も15連大隊も、関東軍最強の第14師団も生きていた。






米軍の損耗率は60%を超える。ボコボコだ。第一海兵師団は煙幕を焚いて退散。「2~3日で攻略可能」どころか上陸6日後には全部の連隊が壊滅状態になる。米軍部隊長は予想外、あまりの惨状をみて心臓病で倒れた。交代で第81歩兵師団が来た。生き残った米兵の千人以上が精神に支障をきたした。所詮は人間、本物の鬼と戦えばおかしくもなる。

米軍はヒトもモノも、武器も食料もたくさんもっていたから勝てた。同じ条件、同じ土俵なら勝てる理由はなかったとわかる。その圧倒的物量作戦はペリリューに上陸、交戦する前からわかっていた。コレは不利、ちょっと無茶だと。だから、パラオの人々は日本の戦況が悪くなると「一緒に戦わせてくれ」と志願する人もいた。日本軍の部隊長は「我ら帝国軍人が、貴様ら土人如きと一緒に戦えるか!」と一喝した。

これに左巻きは「差別だ!」と喜ぶだろうが、この有名な話には続きがあって、同じアジアの同胞だと信じていた日本人から激高され、土人呼ばわりされたパラオ人は失意の元、ペリリューからコロールに運ぶ船に乗る。船が出港すると、先ほど怒鳴った隊長を先頭に日本兵が走り寄って来て、大きく笑顔で手を振り始める。日本軍隊長の真意にパラオ人は気付く。九分九厘死ぬ戦い。君らを巻き込むわけにはいかん。どうか生きてくれと。

戦死者 10,695名、捕虜202名。ペリリューにいた日本軍守備隊は約11000名。当時は日本人だった朝鮮民族約3000名。つまり、あの時、日本はこういう戦いを太平洋、ミクロネシアで、アリューシャン列島で、ユーラシア大陸で、東南アジア各地で、そして沖縄でやった。アメリカが戦後、共産主義に毒されてまでも日本の背骨を抜きたがるのもわかる。もう二度と「強い日本」など見たくない。「正義の日本」など怖くて仕方がない。武士道精神やら大日本帝国と聞くだけで心臓病が悪化する。ペリリューの戦いでも米軍は、昼間の日本兵の狙撃、夜間の斬り込みに恐れをなし、爆撃と艦砲射撃を止めるから夜間の切り込みは勘弁してくれ、と日本語で放送するという不様があった。これほどの身勝手があるか。

ところで、ペリリュー南西には池があった。つまり、真水がある。「グリントン池」だ。米軍にここを封鎖されてから日本軍守備隊は雨水に頼るしかなくなる。私は中川守備隊長の「自決の地」にて、日本から持ち込んだ「キリンラガービール」と、現地で調達した何本かのペットボトルの水を供えた。ラガーはクーラーボックスでキンキンに冷やしておいた。中川守備隊長が喉を鳴らして飲んでくれると嬉しいが、米軍がグリントン池を鉄条網で囲まなければ、まだ、日本兵は水を飲むことも出来た。肥沃な土地だから米軍がナパーム弾で焼き尽くさなければ、タロイモやらなんやら、南国の喰いモノもあった。魚介類もいろいろあるし、マングローブガニなどは陸地にも巣をつくる。



※中川大佐が自決された洞穴




激しい戦闘で補給が断たれると、先ず、武器弾薬が尽きる。食料がなくなる。それから水がなくなる。地獄の底が抜けた瞬間だが、その典型的な地獄の底の底が硫黄島だ。硫黄島には真水が一滴もない。地面は火山灰だ。スコールがあっても保水しない。飲料水は雨水、それから井戸があるが塩味だ。そういう意味でも、日本軍は苛烈極まる戦いを強いられた。

大東亜戦争の激戦地には、いまも日本兵の遺骨が眠る。硫黄島にもペリリューにも。それから海に沈んで眠る英霊もいる。すべて、ひとり残らず日本の地へ戻って来てもらいたいが、せめて、陸地に眠る英霊からでも日本に帰国してもらいたい、ということで、少し前も日本政府が遺族会の会員やボランティアを募集して硫黄島に行くとなった。

そういうことなら自民も民主もない。こんな私でも何かできることはないかと思ったが、これが「水不足」で中止になった。唯一の水源は自衛隊の貯水池ということだが、この量が4分の1から増えないとして厚生労働省は延期を決めた。いまも派遣団の飲料水などを確保することが難しい、ということで再開の目途はない。

しかし、いまの日本は「平和憲法」のお陰かどうかはともかく、戦争状態にはない。かつての敵国だったアメリカとも同盟関係となってずいぶん経つ。たかだか数十人の「飲み水が確保できない」として遺骨収集を延期、中止というのは如何なものか。その地で眠る英霊は、どれほどの喉の渇きを覚えながら祖国のために殉じたのか。水を飲むな、とは言わんが、いまならアメリカも補給線を叩かぬし、水源地を封鎖したりもしない。どころか米軍に「水をくれ」とやることもできる。水がないなら運べばいい。船でも飛行機でもいい。自衛隊でも米軍でも結構だ。敢えて言うが、今のご時世、水くらいなんとでもなるだろうに。

こういう状態だから、日本国内である沖縄にもまだ、眠ったままの英霊がいる。この<沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の高江洲善清さん>には頭が下がる思いだが、場所が沖縄だからか、やっぱり<戦後67年たつ今も遺骨や遺品が見つかり、戦争の悲惨さを物語っている>とか言ってしまう。戦争が悲惨、は言わなくても誰でも知っている。戦地に眠る英霊は「戦争は悲惨ですね。だから我々はもう、この過ちを繰り返しませぬから」と言われたら困る他ない。戦争は悲惨、はいい。同氏が言う<一人でも多くの遺骨が遺族に返せるようにしてほしい>もその通りだ。しかし、本当に「悲惨」なのは、戦後、国のために散華された英霊を眠らせたまま、忘れようとしている今の日本人の「依存ボケ」だ。自国の正義をなかったことにし、ただ、ひたすらに戦争は悪、そんな侵略戦争をした日本は悪うございました、とする性根こそが「悲惨」なのである。



パラオに日本軍燃料倉庫がある。いまは「ペリリュー博物館」と呼ばれてパラオ政府が管理している。壁にはいまも弾痕が刻まれている。数える気も起きないほどの数だ。米軍の爆撃で破壊された部分も残る。勝手に中には入れない。小銃を持ったパラオ政府の警備兵がカギを開けてくれる。彼らは他のパラオ人と違って笑わない。真顔のまま、ただ、銃を構えて見学が終わるのを待つ。中へ入ると、その重い空気に「観光」という気分など吹っ飛ぶ。誰に説明されなくとも「戦争は悲惨」だと肌で感じることになる。




その建物の横、近くに「本当の悲惨」があった。「ひろしま・祈りの石の会」というところが、こんなところにまで悲惨の宣伝をしていた。「祈りの石」だ。碑には花崗岩が嵌め込んであった。この花崗岩は広島型原爆の爆心地となった相生橋付近で使われていた市内電車の路線敷石だ。それから碑文を読むと蹴り壊しそうになった。警備兵がいなければやっていた。要するに「過ちは繰り返しません」だった。抜粋する。



<この悲惨な体験を教訓に、日本は二度と他国への侵略はしないと、「平和憲法」を作っています>





ペリリューの英霊はいま「なんと、俺達は侵略戦争をしたことになっているのか、なんという悲惨なことだ」と嘆いていることだろう。帰れるとか帰れないではなく、日本はいま、どうなっているんだ?と心配になったと思われる。

日本はいま「サムライブルー」の「サムライ」がけしからんと投書するジジイがいる。原爆を落とされたのは日本が侵略戦争をしたからです、と祖国を護るために戦った英雄が眠る地に碑を立てる愚か者がいる。桜の木がないパラオでは、スポーツチームに「サクラ」を好んで使う。オキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏という正真正銘のパラオ人が作った「ペ島の桜を讃える歌」もある。パラオの人々は「日本が戦った理由」を後世に伝えている。

笑わないどころか、碑文を読み終えた私に対する警備兵の目は冷たかった。




2 コメント

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Unknown (久代千代太郎)
2012-06-20 08:22:08
>自分もオヤジですけど さん

いやぁ、酷い70歳、じいさんがいますねw

足腰が驚異的に強い農耕民族だから、特別に訓練も要さず、平均体重55キロの日本兵は、あわせて60キロになる装備と背嚢を背負って、あの過酷な日露戦争も勝てたンですけどね。

それにヨーロッパをみても騎兵は遊牧民ですね。

農耕民族が狩猟民族に劣るのは貪欲さ、奪うことへの罪悪感のなさ、殺すことへの躊躇のなさ、つまるところ、戦闘行為における計略、行動のみです。この70歳の御仁が言っているのは単に「ヤクザは喧嘩が強いんだ」と言うことに過ぎません。なんとも詮無い話ですね。
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Unknown (自分もオヤジですけど)
2012-06-19 01:12:47
「日本人はねぇ、農耕民族だから基本的に戦いに向いてないわけ。
欧米の白人は狩猟民族だから戦いに慣れている。
だから、日本が戦争してね、勝てるわけないのよ」とか
夜の電車内で蕩々と見知らぬ高校生カップルにご高説を垂れている70歳の(自分で言っていた)爺さんがいた。素面で。
英語は世界で語られているとかなんとか、止まらぬ様子だったが
自分の隣にかばんを置いて、一席余分に占拠して省みもしない。
どんなご高説を垂れようが、基本的なマナーも身に付いてないヤツの話なんて、説得力なんてないと思いました。
ましてや、日本人は戦いに弱いなどと、よくまぁぬけぬけと…

こんな輩にこそ知らしめたい話ですね。
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