![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/ff/57dc26ecb668459e030554a5c5f97089.jpg)
明治時代後期から、昭和時代前期に活躍した文豪島崎藤村は、長野県に深いかかわりを持っていて、長野県に取材した小説や随筆、詩などがいくつも残され、長野県内に多くの文学碑が建てられています。
したがって、長野県内を旅する時は、どこかで島崎藤村の足跡に巡り合うことも少なくないのです。中でも、小諸市はとてもゆかりの深いところで、1899年(明治32)に、小諸義塾の塾長木村熊二の招きで英語教師として長野県小諸町(現在の小諸市)に赴任しまています。その年にここで冬と結婚し、小諸町馬場裏に居を構えることになりました。以後6年間過ごす中で、第4詩集「落梅集」を刊行し、随筆「千曲川のスケッチ」を書いたのです。その後1905年(明治38)に上京し、小説『破戒』を出版、文壇からは本格的な自然主義小説として評価されることになりますが、小諸滞在中に信州を巡ったことがこの小説のベースになっていると考えられています。
その中でも、初期の随筆『千曲川のスケッチ』は、島崎藤村が小諸にいた時の体験を元にして、書かれているので、長野県東部を中心とした、当時の情景がよく描かれていて、足跡を訪ねて旅をすることができるものです。
〇{島崎藤村}とは?
明治時代後期から昭和時代前期にかけて活躍した詩人・小説家で、本名は島崎春樹といい、1872年(明治5)筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生まれ、明治学院普通部本科に学びました。
卒業後、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となり、翌年、雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表しました。
1896年(明治29)、東北学院教師となり、仙台に赴任、ロマン主義詩人として第一詩集『若菜集』を発表して文壇に登場することになります。1899年(明治32)、小諸義塾の英語教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年間過ごす中で、随筆「千曲川のスケッチ」を書きました。
その後上京し、小説『破戒』を出版、文壇からは本格的な自然主義小説として評価されることになります。以後、『春』『家』『新生』『夜明け前』などの小説を発表、1935年(昭和10)には、日本ペンクラブを結成し、初代会長に就任しましたが、1943年(昭和18)8月22日に71歳で、神奈川県大磯町にて没しました。
〇随筆『千曲川のスケッチ』とは?
明治時代後期に島崎藤村が小諸義塾に赴任した際、信州小諸を中心として、千曲川流域の自然や農村生活の断面を記録したもので、その内容は、1900年(明治33)頃から書かれ始めたと考えられています。
のち、『中学世界』に1911年(明治44)6月号から9月号に連載し、翌年12月に刊行されました。
藤村が詩人から小説家に移行する中間にある作品と思われます。実際の現地の様子を描いているので、訪れてみてもその場面を彷彿とさせる場合が少なくないのです。
☆随筆『千曲川のスケッチ』の関係地
(1)田沢温泉「ますや旅館」<長野県小県郡青木村>
信州の鎌倉と呼ばれる塩田平から西方の山際に分け入った標高700mの山間にあるのが田沢温泉です。今でも、昔ながらの湯治場の風情を残し、木造の旅館が軒を接するように坂道の両側に4,5軒固まっていて、まるで50年も時が止まっているかのような感じさえします。その中でも、ひときわ大きく、古めかしい木造3階建が、「ますや旅館」です。
1899年(明治32)8月に、小諸塾で教鞭をとっていた島崎藤村が3日間逗留し、その時の印象が、以下に掲載した、随筆『千曲川のスケッチ』の中の「山の温泉」になったと言われています。今でも、当時のままの建物で、藤村が泊まった3階の一室は「藤村の間」として、彼が使った机や茶だんすもそのままに残されていて、宿泊することもできます。高楼からの眺望は今も変わることなく、当時の情景が彷彿としてくる、希有な旅館です。廊下、階段、手すり、障子戸などにも歴史が感じられ、もてなしも良くて、ほんとうに「昔の湯治場に来たなあ」という感慨に浸れるのです。
その古風なたたずまいが、その後映画のロケ地として選ばれる理由となったのでしょう。昔では、映画「はなれ瞽女おりん」(1977年作品、篠田正浩監督、岩下志麻主演)、最近では、映画「卓球温泉」(1998年作品、山川元監督、松坂慶子主演)、のロケが行われたとのことです。浴室は、新しくなった男女別内湯と露天風呂があり、地階には家族風呂が2ヶ所有ります。また、目の前に新装なった共同浴場「有乳湯」があって宿泊者割引料金100円(通常200円)で入ることができます。ちょっとぬるめですが、源泉掛け流しで、硫黄臭のする無色透明の湯に浸かっていると、旅の疲れが抜けていくような気分となるのです。夕食も部屋に運んでくれて、とても美味しくいただけました。
これほど由緒とムードの有る旅館なのに、料金はとてもリーズナブルで、藤村ファンならずとも、静かな温泉地でのんびりしたい方にはお奨めできるのではないかと思います。
「升屋というのは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞こえる楼上で、私達の学校の校長の細君が十四五人ばかりの女生徒を連れて来ているのに逢った。この娘達も私が余暇に教えに行く方の生徒だ。
楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。
十九夜の月の光がこの谷間に射し入った。人々が多く寝静まった頃、まだ障子を明るくして、盛んに議論している浴客の声も聞こえた。
「身体は小さいけれど、そんな野蛮人じゃねえ」
理屈ッぽい人達の言いそうな言葉だ。
翌日は朝霧の籠った谿谷に朝の光が満ちて、近い山も遠く、家々から立登る煙は霧よりも白く見えた。浅間は隠れた。山のかなたは青がかった灰色に光った。白い雲が山脈に添うて起るのも望まれた。国さんという可憐の少年も姉娘に附いて来ていて、温泉宿の二階で玩具の銀笛を吹いた。
・・・・・・・・」 随筆『千曲川のスケッチ(山の温泉)』より
(2)中棚温泉「中棚荘」<長野県小諸市>
ここは、小諸城跡から下った、千曲川を見下ろす丘の中腹にあり、1898年(明治31)創業の「中棚荘」だけの1軒宿の温泉です。そして、島崎藤村ゆかりの温泉として、広く知られていました。
藤村は、1899年(明治32)4月、旧師木村熊二の招きで小諸義塾へ赴任し、英語・国語教師として、1905年(明治38)3月に退職するまで、6年間この地で過ごしました。その間、たびたびこの中棚温泉を訪れています。
その時の様子が、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「中棚」に描かれています。また、『千曲川旅情の詩』の一節「千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりて 濁り酒濁れる飲みて……」の岸近き宿は、この「中棚荘」を詠ったものと言われています。現在でも、大正時代の客室が現存し、昔ながらの湯宿の情景を思い起こさせてくれます。
尚、当初は温度の低い鉱泉でしたが、近年600m掘削して、新源泉の湧出に成功し、露天風呂も造られています。10月~4月は、内湯にリンゴが浮かべられ、「初恋リンゴ風呂」として親しまれています。ぷかぷかと浮かぶたくさんのリンゴからは、とてもいい香りが漂っていましたし、露天風呂からは、千曲川や北アルプスまで眺望でき、とても気分良く入浴できる温泉です。
「この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽の中から外部の景色を眺めるのも心地が好かった。湯から上がっても、皆の楽しみは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽ることであった。林檎畠、葡萄棚なぞを渡って来る涼しい風は私達の興を助けた。
「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」
と一人が言い出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。
「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」
「菓子もいいが、随分かかるネ」
「僕は二年ばかり辛抱した……」
「それはエラい、二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定めている」
「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」
「此頃、ある先生が──諸君は菓子屋へよく行そうだ。私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」
「フウン」
「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回に凡そどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭位食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を害さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」
「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃酸をつけて食う男があるよ」
三人は何を言っても気が晴れるという風だ。中には、手を叩いて、躍り上がって笑うものもあった。それを聞くと、私も噴飯さずにはいられなかった。
やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎の方へ別れて行った。
・・・・・・・・」 随筆『千曲川のスケッチ(中棚)』より
(3)揚羽屋<長野県小諸市>
小諸市内にある「揚羽屋」は、1883年(明治16)の創業で、小諸義塾の英語教師時代の島崎藤村も度々立ち寄り、食事をしたという店で、その時の印象が、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「一ぜんめし」に描かれています。
私も名物の一善めしを注文して食べたことがありますが、揚げ出し豆腐やめし、汁などのとてもシンプルなもので気に入りました。今でも、リニューアルして営業を続けているそうです。
「私は外出した序に時々立寄って焚火にあてて貰う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処、揚羽屋とした看板の出してあるのがそれだ。
私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子を相手にして、石菖蒲、万年青などの青い葉に眼を楽ませながら錯々と着物を造える仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹を店頭に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者が居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩を渡世にする頭を円めた盲人が居る。駒鳥だの瑠璃だのその他小鳥が籠の中で囀っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
揚羽屋では豆腐を造るから、服装に関わず働く内儀さんがよく荷を担いで、襦袢の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空に徹る声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだと直に分る。自分の家でもこの女から油揚だの雁もどきだのを買う。近頃は子息も大きく成って、母親さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴でもトントンとやるように成った。
揚羽屋には、うどんもある。尤も乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺では麺類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐に麺類を用うるという家を知っている。蕎麦はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走に成っている。それから、「お煮掛」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋のかけてある炉辺に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何でごわす」などと言って、内儀さんが大丼に熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供相撲に弓を取った自慢話なぞを始める。
そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。私は往来に繋いである馬の鳴声なぞを聞きながら、そこで凍えた身体を温める。荒くれた人達の話や笑声に耳を傾ける。次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。
」 随筆『千曲川のスケッチ(一ぜんめし)』より
(4)小諸義塾記念館<長野県小諸市>
小諸義塾は、キリスト教牧師であった木村熊二が小山太郎らの要請に応えて、1893年(明治26)11月に開設した私塾です。1906年(明治39)に閉鎖されるまでキリスト教による近代教育を実践しました。
塾長は木村熊二で、教師には小説家として有名になった島崎藤村らがいました。この建物の一部の「小諸義塾本館校舎」は、懐古園(小諸城跡)の脇に、移築復元されていて、内部には、当時の教育に関する資料が展示されています。
校舎の印象については、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「青麦の熟する時」に描かれています。
「学校の小使は面白い男で、私に種々な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頬ほおの紅い彼の妻が子供を背負ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣る。校長の家では毎年可成な農家ほどに野菜を作った。燕麦なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一隅を占めている。窓は四つある。その一方の窓からは、群立した松林、校長の家の草屋根などが見える。一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠、竹藪などが見える。遠い山々の一部分も望まれる。
粗末ではあるが眺望の好い、その窓の一つに倚りながら、私は小使から六月の豆蒔の労苦を聞いた。地を鋤くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋を穿いて漸くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒くという。麦は矢張小作の年貢の中に入って、夏の豆、蕎麦なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。これは小使の私に話したことだ。そう言えば、なまぬるい、微な西風が私達の顔を撫でて、窓の外を通る時候に成って来た。」 随筆『千曲川のスケッチ(青麦の熟する時)』より
(5) 懐古園[小諸城跡]<長野県小諸市>
懐古園(小諸城跡)へは、小諸駅から歩いて跨線橋を渡って行きます。国の重要文化財に指定されている三ノ門をくぐり、徴古館、藤村記念館、千曲川旅情の歌の碑と巡り、不開門跡の水の手展望台からの眺めてみると、すばらしい景色が展開します。千曲川のゆったりとした流れと遠方の山並みがとてもマッチしているので、しばしたたずんで、詩情に浸ることができます。
島崎藤村もしばしば懐古園を訪れていたようで、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「古城の初夏」に描かれています。
「・・・・・・・・
奇人はこの医者ばかりでは無い。旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣に行く隠士風の人もあれば、姉と二人ぎり城門の傍に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。旧士族には奇人が多い。時世が、彼等を奇人にして了った。
もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀、礎ばかり残った桑畠なぞを見、離散した多くの家族の可傷しい歴史を聞き、振返って本町、荒町の方に町人の繁昌を望むなら、「時」の歩いた恐るべき足跡を思わずにいられなかろう。しかし他の土地へ行って、頭角を顕すような新しい人物は、大抵教育のある士族の子孫だともいう。
今、弓を提げて破壊された城址の坂道を上って行く学士も、ある藩の士族だ。校長は、江戸の御家人とかだ。休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
私はこの古城址に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々の雪は、ここから白壁を望むように見える。
懐古園内の藤、木蘭、躑躅、牡丹なぞは一時花と花とが映り合って盛んな香気を発したが、今では最早濃い新緑の香に変って了った。千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。谷の深さは、それだけでも想像されよう。海のような浅間一帯の大傾斜は、その黒ずんだ松の樹の下へ行って、一線に六月の空に横わる光景が見られる。既に君に話した烏帽子山麓の牧場、B君の住む根津村なぞは見えないまでも、そこから松林の向に指すことが出来る。私達の矢場を掩う欅、楓の緑も、その高い石垣の上から目の下に瞰下すことが出来る。
・・・・・・・・」 随筆『千曲川のスケッチ(古城の初夏)』より
☆随筆『千曲川のスケッチ』の冒頭部分
敬愛する吉村さん――樹しげるさん――私は今、序にかえて君に宛あてた一文をこの書のはじめに記しるすにつけても、矢張やっぱり呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸ようやく今纏まとめることが出来た。
(後略)
人気blogランキングへ→![](http://www.geocities.jp/gauss0jp/banner_02.gif)
国内旅行ブログランキング⇒
したがって、長野県内を旅する時は、どこかで島崎藤村の足跡に巡り合うことも少なくないのです。中でも、小諸市はとてもゆかりの深いところで、1899年(明治32)に、小諸義塾の塾長木村熊二の招きで英語教師として長野県小諸町(現在の小諸市)に赴任しまています。その年にここで冬と結婚し、小諸町馬場裏に居を構えることになりました。以後6年間過ごす中で、第4詩集「落梅集」を刊行し、随筆「千曲川のスケッチ」を書いたのです。その後1905年(明治38)に上京し、小説『破戒』を出版、文壇からは本格的な自然主義小説として評価されることになりますが、小諸滞在中に信州を巡ったことがこの小説のベースになっていると考えられています。
その中でも、初期の随筆『千曲川のスケッチ』は、島崎藤村が小諸にいた時の体験を元にして、書かれているので、長野県東部を中心とした、当時の情景がよく描かれていて、足跡を訪ねて旅をすることができるものです。
〇{島崎藤村}とは?
明治時代後期から昭和時代前期にかけて活躍した詩人・小説家で、本名は島崎春樹といい、1872年(明治5)筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生まれ、明治学院普通部本科に学びました。
卒業後、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となり、翌年、雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表しました。
1896年(明治29)、東北学院教師となり、仙台に赴任、ロマン主義詩人として第一詩集『若菜集』を発表して文壇に登場することになります。1899年(明治32)、小諸義塾の英語教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年間過ごす中で、随筆「千曲川のスケッチ」を書きました。
その後上京し、小説『破戒』を出版、文壇からは本格的な自然主義小説として評価されることになります。以後、『春』『家』『新生』『夜明け前』などの小説を発表、1935年(昭和10)には、日本ペンクラブを結成し、初代会長に就任しましたが、1943年(昭和18)8月22日に71歳で、神奈川県大磯町にて没しました。
〇随筆『千曲川のスケッチ』とは?
明治時代後期に島崎藤村が小諸義塾に赴任した際、信州小諸を中心として、千曲川流域の自然や農村生活の断面を記録したもので、その内容は、1900年(明治33)頃から書かれ始めたと考えられています。
のち、『中学世界』に1911年(明治44)6月号から9月号に連載し、翌年12月に刊行されました。
藤村が詩人から小説家に移行する中間にある作品と思われます。実際の現地の様子を描いているので、訪れてみてもその場面を彷彿とさせる場合が少なくないのです。
☆随筆『千曲川のスケッチ』の関係地
(1)田沢温泉「ますや旅館」<長野県小県郡青木村>
信州の鎌倉と呼ばれる塩田平から西方の山際に分け入った標高700mの山間にあるのが田沢温泉です。今でも、昔ながらの湯治場の風情を残し、木造の旅館が軒を接するように坂道の両側に4,5軒固まっていて、まるで50年も時が止まっているかのような感じさえします。その中でも、ひときわ大きく、古めかしい木造3階建が、「ますや旅館」です。
1899年(明治32)8月に、小諸塾で教鞭をとっていた島崎藤村が3日間逗留し、その時の印象が、以下に掲載した、随筆『千曲川のスケッチ』の中の「山の温泉」になったと言われています。今でも、当時のままの建物で、藤村が泊まった3階の一室は「藤村の間」として、彼が使った机や茶だんすもそのままに残されていて、宿泊することもできます。高楼からの眺望は今も変わることなく、当時の情景が彷彿としてくる、希有な旅館です。廊下、階段、手すり、障子戸などにも歴史が感じられ、もてなしも良くて、ほんとうに「昔の湯治場に来たなあ」という感慨に浸れるのです。
その古風なたたずまいが、その後映画のロケ地として選ばれる理由となったのでしょう。昔では、映画「はなれ瞽女おりん」(1977年作品、篠田正浩監督、岩下志麻主演)、最近では、映画「卓球温泉」(1998年作品、山川元監督、松坂慶子主演)、のロケが行われたとのことです。浴室は、新しくなった男女別内湯と露天風呂があり、地階には家族風呂が2ヶ所有ります。また、目の前に新装なった共同浴場「有乳湯」があって宿泊者割引料金100円(通常200円)で入ることができます。ちょっとぬるめですが、源泉掛け流しで、硫黄臭のする無色透明の湯に浸かっていると、旅の疲れが抜けていくような気分となるのです。夕食も部屋に運んでくれて、とても美味しくいただけました。
これほど由緒とムードの有る旅館なのに、料金はとてもリーズナブルで、藤村ファンならずとも、静かな温泉地でのんびりしたい方にはお奨めできるのではないかと思います。
「升屋というのは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞こえる楼上で、私達の学校の校長の細君が十四五人ばかりの女生徒を連れて来ているのに逢った。この娘達も私が余暇に教えに行く方の生徒だ。
楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。
十九夜の月の光がこの谷間に射し入った。人々が多く寝静まった頃、まだ障子を明るくして、盛んに議論している浴客の声も聞こえた。
「身体は小さいけれど、そんな野蛮人じゃねえ」
理屈ッぽい人達の言いそうな言葉だ。
翌日は朝霧の籠った谿谷に朝の光が満ちて、近い山も遠く、家々から立登る煙は霧よりも白く見えた。浅間は隠れた。山のかなたは青がかった灰色に光った。白い雲が山脈に添うて起るのも望まれた。国さんという可憐の少年も姉娘に附いて来ていて、温泉宿の二階で玩具の銀笛を吹いた。
・・・・・・・・」 随筆『千曲川のスケッチ(山の温泉)』より
(2)中棚温泉「中棚荘」<長野県小諸市>
ここは、小諸城跡から下った、千曲川を見下ろす丘の中腹にあり、1898年(明治31)創業の「中棚荘」だけの1軒宿の温泉です。そして、島崎藤村ゆかりの温泉として、広く知られていました。
藤村は、1899年(明治32)4月、旧師木村熊二の招きで小諸義塾へ赴任し、英語・国語教師として、1905年(明治38)3月に退職するまで、6年間この地で過ごしました。その間、たびたびこの中棚温泉を訪れています。
その時の様子が、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「中棚」に描かれています。また、『千曲川旅情の詩』の一節「千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりて 濁り酒濁れる飲みて……」の岸近き宿は、この「中棚荘」を詠ったものと言われています。現在でも、大正時代の客室が現存し、昔ながらの湯宿の情景を思い起こさせてくれます。
尚、当初は温度の低い鉱泉でしたが、近年600m掘削して、新源泉の湧出に成功し、露天風呂も造られています。10月~4月は、内湯にリンゴが浮かべられ、「初恋リンゴ風呂」として親しまれています。ぷかぷかと浮かぶたくさんのリンゴからは、とてもいい香りが漂っていましたし、露天風呂からは、千曲川や北アルプスまで眺望でき、とても気分良く入浴できる温泉です。
「この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽の中から外部の景色を眺めるのも心地が好かった。湯から上がっても、皆の楽しみは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽ることであった。林檎畠、葡萄棚なぞを渡って来る涼しい風は私達の興を助けた。
「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」
と一人が言い出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。
「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」
「菓子もいいが、随分かかるネ」
「僕は二年ばかり辛抱した……」
「それはエラい、二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定めている」
「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」
「此頃、ある先生が──諸君は菓子屋へよく行そうだ。私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」
「フウン」
「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回に凡そどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭位食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を害さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」
「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃酸をつけて食う男があるよ」
三人は何を言っても気が晴れるという風だ。中には、手を叩いて、躍り上がって笑うものもあった。それを聞くと、私も噴飯さずにはいられなかった。
やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎の方へ別れて行った。
・・・・・・・・」 随筆『千曲川のスケッチ(中棚)』より
(3)揚羽屋<長野県小諸市>
小諸市内にある「揚羽屋」は、1883年(明治16)の創業で、小諸義塾の英語教師時代の島崎藤村も度々立ち寄り、食事をしたという店で、その時の印象が、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「一ぜんめし」に描かれています。
私も名物の一善めしを注文して食べたことがありますが、揚げ出し豆腐やめし、汁などのとてもシンプルなもので気に入りました。今でも、リニューアルして営業を続けているそうです。
「私は外出した序に時々立寄って焚火にあてて貰う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処、揚羽屋とした看板の出してあるのがそれだ。
私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子を相手にして、石菖蒲、万年青などの青い葉に眼を楽ませながら錯々と着物を造える仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹を店頭に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者が居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩を渡世にする頭を円めた盲人が居る。駒鳥だの瑠璃だのその他小鳥が籠の中で囀っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
揚羽屋では豆腐を造るから、服装に関わず働く内儀さんがよく荷を担いで、襦袢の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空に徹る声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだと直に分る。自分の家でもこの女から油揚だの雁もどきだのを買う。近頃は子息も大きく成って、母親さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴でもトントンとやるように成った。
揚羽屋には、うどんもある。尤も乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺では麺類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐に麺類を用うるという家を知っている。蕎麦はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走に成っている。それから、「お煮掛」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋のかけてある炉辺に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何でごわす」などと言って、内儀さんが大丼に熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供相撲に弓を取った自慢話なぞを始める。
そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。私は往来に繋いである馬の鳴声なぞを聞きながら、そこで凍えた身体を温める。荒くれた人達の話や笑声に耳を傾ける。次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。
」 随筆『千曲川のスケッチ(一ぜんめし)』より
(4)小諸義塾記念館<長野県小諸市>
小諸義塾は、キリスト教牧師であった木村熊二が小山太郎らの要請に応えて、1893年(明治26)11月に開設した私塾です。1906年(明治39)に閉鎖されるまでキリスト教による近代教育を実践しました。
塾長は木村熊二で、教師には小説家として有名になった島崎藤村らがいました。この建物の一部の「小諸義塾本館校舎」は、懐古園(小諸城跡)の脇に、移築復元されていて、内部には、当時の教育に関する資料が展示されています。
校舎の印象については、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「青麦の熟する時」に描かれています。
「学校の小使は面白い男で、私に種々な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頬ほおの紅い彼の妻が子供を背負ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣る。校長の家では毎年可成な農家ほどに野菜を作った。燕麦なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一隅を占めている。窓は四つある。その一方の窓からは、群立した松林、校長の家の草屋根などが見える。一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠、竹藪などが見える。遠い山々の一部分も望まれる。
粗末ではあるが眺望の好い、その窓の一つに倚りながら、私は小使から六月の豆蒔の労苦を聞いた。地を鋤くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋を穿いて漸くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒くという。麦は矢張小作の年貢の中に入って、夏の豆、蕎麦なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。これは小使の私に話したことだ。そう言えば、なまぬるい、微な西風が私達の顔を撫でて、窓の外を通る時候に成って来た。」 随筆『千曲川のスケッチ(青麦の熟する時)』より
(5) 懐古園[小諸城跡]<長野県小諸市>
懐古園(小諸城跡)へは、小諸駅から歩いて跨線橋を渡って行きます。国の重要文化財に指定されている三ノ門をくぐり、徴古館、藤村記念館、千曲川旅情の歌の碑と巡り、不開門跡の水の手展望台からの眺めてみると、すばらしい景色が展開します。千曲川のゆったりとした流れと遠方の山並みがとてもマッチしているので、しばしたたずんで、詩情に浸ることができます。
島崎藤村もしばしば懐古園を訪れていたようで、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「古城の初夏」に描かれています。
「・・・・・・・・
奇人はこの医者ばかりでは無い。旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣に行く隠士風の人もあれば、姉と二人ぎり城門の傍に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。旧士族には奇人が多い。時世が、彼等を奇人にして了った。
もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀、礎ばかり残った桑畠なぞを見、離散した多くの家族の可傷しい歴史を聞き、振返って本町、荒町の方に町人の繁昌を望むなら、「時」の歩いた恐るべき足跡を思わずにいられなかろう。しかし他の土地へ行って、頭角を顕すような新しい人物は、大抵教育のある士族の子孫だともいう。
今、弓を提げて破壊された城址の坂道を上って行く学士も、ある藩の士族だ。校長は、江戸の御家人とかだ。休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
私はこの古城址に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々の雪は、ここから白壁を望むように見える。
懐古園内の藤、木蘭、躑躅、牡丹なぞは一時花と花とが映り合って盛んな香気を発したが、今では最早濃い新緑の香に変って了った。千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。谷の深さは、それだけでも想像されよう。海のような浅間一帯の大傾斜は、その黒ずんだ松の樹の下へ行って、一線に六月の空に横わる光景が見られる。既に君に話した烏帽子山麓の牧場、B君の住む根津村なぞは見えないまでも、そこから松林の向に指すことが出来る。私達の矢場を掩う欅、楓の緑も、その高い石垣の上から目の下に瞰下すことが出来る。
・・・・・・・・」 随筆『千曲川のスケッチ(古城の初夏)』より
☆随筆『千曲川のスケッチ』の冒頭部分
敬愛する吉村さん――樹しげるさん――私は今、序にかえて君に宛あてた一文をこの書のはじめに記しるすにつけても、矢張やっぱり呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸ようやく今纏まとめることが出来た。
(後略)
人気blogランキングへ→
![](http://www.geocities.jp/gauss0jp/banner_02.gif)
国内旅行ブログランキング⇒
![にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ](http://travel.blogmura.com/kokunai/img/kokunai80_15.gif)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます