朝、6時半頃に目を覚まし、7時からの朝食を済ませた。8時前には、白峰温泉「はくれい荘」を立って、国道157号線を北へと向かった。
下吉野の交差点で左折し、国道360号線を西へ走った。小松市域に入り、国道8号線バイパスに乗り換えて、北上した。その後、手取川大橋の手前の立体交差から、下に降り、手取川沿いに河口へと向かった。目指すは、白山市の呉竹文庫の駐車場で、ここに「手取川の戦い」の碑があると聞いていた。しかし、なかなか目的地がわからず、何度か人に聞いてやっとたどり着いた。
碑の前に立つと、向う側が手取川で、かなり大きな川だ。ここで、1577年(天正5)に上杉謙信軍と織田信長軍との間で戦いがあり、上杉謙信軍約2万が織田信長軍約1万8千を撃破したとされる合戦だ。今は、静かに川が流れていたが、多くの武将が戦って、血が流されたかと思うと感慨深いものがあった。
その後は、再び国道8号線バイパスに復して北上し、三日市の立体交差で、国道157号線へ乗り換えて、金沢市街へと向かった。そして、野町広小路の交差点で右折して、極楽寺の有料駐車場に車を入れた。
この辺りを寺町寺院群といい、多くの寺院が集まっている。その中の妙立寺(忍者寺)の裏にある願念寺へと向かった。この寺の創建は慶長年間(1596~1615年)と伝えられているが、当初は現在の片町付近にあり、1659年(万治2)現在地に移ってきたとのこと。松尾芭蕉の弟子、小杉一笑の菩提寺で、「おくの細道」の旅で金沢入りした芭蕉は、一笑が前年に36歳の若さで死去したことを知り、慟哭する。そして、この寺で催された追悼会で「塚も動け 我泣く声は 秋の風」と、その悲しみを詠んだのだ。境内には、一笑の辞世句「心から 雪うつくしや 西の雲」 が刻まれた一笑塚や芭蕉の句碑があって、芭蕉ファンには必見のところなのだ。
それからは、金沢市外を離れ、国道304号線で県境を越え、富山県へと入っていった。そして、北陸自動車道の砺波インターから高速に乗って、帰路に着いた。
その後、上信越自動車道、関越自動車道と乗り継いで、午後の明るい内に自宅へ戻ってきた。
下吉野の交差点で左折し、国道360号線を西へ走った。小松市域に入り、国道8号線バイパスに乗り換えて、北上した。その後、手取川大橋の手前の立体交差から、下に降り、手取川沿いに河口へと向かった。目指すは、白山市の呉竹文庫の駐車場で、ここに「手取川の戦い」の碑があると聞いていた。しかし、なかなか目的地がわからず、何度か人に聞いてやっとたどり着いた。
碑の前に立つと、向う側が手取川で、かなり大きな川だ。ここで、1577年(天正5)に上杉謙信軍と織田信長軍との間で戦いがあり、上杉謙信軍約2万が織田信長軍約1万8千を撃破したとされる合戦だ。今は、静かに川が流れていたが、多くの武将が戦って、血が流されたかと思うと感慨深いものがあった。
その後は、再び国道8号線バイパスに復して北上し、三日市の立体交差で、国道157号線へ乗り換えて、金沢市街へと向かった。そして、野町広小路の交差点で右折して、極楽寺の有料駐車場に車を入れた。
この辺りを寺町寺院群といい、多くの寺院が集まっている。その中の妙立寺(忍者寺)の裏にある願念寺へと向かった。この寺の創建は慶長年間(1596~1615年)と伝えられているが、当初は現在の片町付近にあり、1659年(万治2)現在地に移ってきたとのこと。松尾芭蕉の弟子、小杉一笑の菩提寺で、「おくの細道」の旅で金沢入りした芭蕉は、一笑が前年に36歳の若さで死去したことを知り、慟哭する。そして、この寺で催された追悼会で「塚も動け 我泣く声は 秋の風」と、その悲しみを詠んだのだ。境内には、一笑の辞世句「心から 雪うつくしや 西の雲」 が刻まれた一笑塚や芭蕉の句碑があって、芭蕉ファンには必見のところなのだ。
それからは、金沢市外を離れ、国道304号線で県境を越え、富山県へと入っていった。そして、北陸自動車道の砺波インターから高速に乗って、帰路に着いた。
その後、上信越自動車道、関越自動車道と乗り継いで、午後の明るい内に自宅へ戻ってきた。