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近年、日本が近世から近代へと向かう、明治維新期の歴史に目を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、明治維新期の跡を追いかけてみるのも良いかと思います。
明治維新によって、いくつかの改革が行われましたが、庶民の願いとはほど遠いもので、年貢が地租に代わっただけで、重い農民の負担は軽減されませんでした。西南戦争で士族の反乱は終息しますが、農民の一揆は激化して、政府は地租を引き下げざるをえなくなります。
今日は、日本が近代へと変わっていく「自由民権運動」の史跡を訪ねてみたいと思います。「自由民権運動」は、明治時代前期に薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げた運動でした。
その足跡を訪ねてみると、日本が近世から近代へと向かう移行期の状況が伝わってきて、結構新たな発見があるものでなので、ぜひ巡ってみることをお勧めします。
〇「自由民権運動」とは?
明治時代前期、1874年(明治7)の板垣退助等による民撰議院設立建白書の提出を契機に自由民権運動が始まりました。
それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われました。
しかし、政府の集会条例や保安条例による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきます。
その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件がおきることになりました。
<☆「自由民権運動」の関係地
(1)喜多方事件関係地<福島県喜多方市>
明治時代前期の1882年(明治15)2月に、自由党撲滅を豪語して福島県令となった三島通庸が、県会の議決を無視して会津三方道路開設の夫役(15歳以上60歳以下の会津地方の住民男女は2か年間毎月1日の夫役が課せられ、服役負担を怠ると1日男子15銭、女子10銭の代夫賃納入が義務付けられた)を農民に強制、彼の圧政に反抗する福島県の自由党員・農民を弾圧した事件を福島事件と呼んでいます。
その中で、同年11月、佐治幸平らの逮捕をきっかけに、28日午後6時山刀・棍棒・熊手を手に千数百人の農民が弾正ヶ原に集まり、隊列を整え喜多方警察署におしかけ、警察官は抜刀し農民たちに切りかかり無理やり解散させ、「兇徒聚衆罪」の罪名で反対者が多数検挙された喜多方事件が起こりました。また、この事件を口実に河野広中ら県下の自由党員も一斉に捕らえられ、その結果、農民323名が罰金刑に、指導者層57名は 国事犯として東京で裁判にかけられたのです。
現在は、喜多方市内の出雲神社社殿の右裏に、ここで自由民権運動の政談演説会が、度々催されたのを記念して“自由民権発祥地”と書かれた石碑があり、1982年(昭和57)の喜多方事件百周年を記念して、喜多方市立厚生会館前に“喜多方事件百周年記念顕彰碑”が建てられ、農民たちが集結した弾正ヶ原には、“弾正ヶ原事件百年祭記念碑”が建てられています。また、道の駅「喜多の郷」に隣接した蔵の里の旧東海林家酒造蔵の1階に自由民権運動喜多方事件資料展示があります。
(2)「自由民権記念館」<福島県田村郡三春町>
「三春町歴史民俗資料館」に併設された施設で、ここが自由民権運動発祥の地として、県内はもとより東北の民権運動をリードした河野広中をはじめとする多くの民権家を輩出したことにより建設されました。
また、三春町役場から歴史民俗資料館へ向かう坂の途中には、「自由民権ひろば」があり、河野広中の銅像や「自由民権運動発祥の地」の記念碑があります。
また、近くの紫雲寺境内には、河野広中の遺髪塚があり、その前の道路脇に加波山事件「自由の魁」の碑が立っています。
(3)秩父事件関係地<埼玉県秩父市>
埼玉県秩父地方では、米や生糸相場の暴落、多額の負債のため生活が疲弊し、明治時代前期の1884年(明治17)、困民党のもとに農民たちがやむにやまれず立ち上がりました。
しかし、明治政府による徹底した弾圧によって押さえ込まれ、厳罰に処せられました。秩父地方を巡ると音楽寺、椋神社、田代栄助の墓などにその足跡を見い出し、自由民権の先駆けになって処刑された人々のことを考えずにはおられませんでした。
この事件については、2004年(平成16)公開の映画「草の乱」(神山征二郎監督)に描かれています。その撮影の時に使用されたオープンセットの一部が、吉田町の「龍勢会館」に隣接して残されていて、その井上伝蔵邸が「秩父事件資料館」になり、貴重な資料を見ることができます。
(4)五日市憲法草案関係地<東京都あきるの市>
“五日市憲法草案”は、明治時代前期に作られた私擬憲法の一つで、東京都西多摩郡五日市町(現在の東京都あきる野市)の深沢家土蔵から発見されたためこの名前で呼ばれています。
全204条からなり、そのうち150条を基本的人権について触れ、国民の権利保障に重きをおいたもので、当時の自由民権運動の影響を受けたものだと考えられています。国民の権利などについて、当時としては画期的な内容が含まれ、現日本国憲法に近い内容もみられる先進的なものです。
現在、「あきる野市五日市郷土館」には、“五日市憲法草案”についてのコーナーが設けられていますし、五日市中学校敷地内に五日市憲法草案の碑が立てられています。また、これが発見された深沢家土蔵は保存されていて、深沢家屋敷跡として、1983年(昭和58)に東京都指定の史跡となっています。
(5)「町田市立自由民権資料館」<東京都町田市>
この資料館は、町田市が1986年(昭和61)に設立したもので、明治時代前期の1883年(明治16)に、自由民権活動家村野常右衛門が青年民権家の育成のために開いた凌霜館の跡地に建っています。
富農が多かった多摩、神奈川では自由民権運動が、1877年(明治10)頃以降から活発化し、町田では石阪昌孝や青木正太郎などの指導により、多くの青年民権家も生まれました。
この資料館では、自由民権運動及び町田の歴史に関する資料の収集、保管、閲覧、また常設展示「武相の民権/町田の民権」のほか年2回の企画展開催などを行っています。系統的な展示がなされているので、この地域の自由民権運動を知る上では、とても貴重な施設で、とても勉強になります。
また、近くのぼたん園(石阪家跡)には、自由民権の碑や石阪昌孝の墓もあり、薬師池公園には、自由民権の像が立っています。
(6)「高知市立自由民権記念館」<高知県高知市>
この記念館の正面には「自由は土佐の山間より」と書かれていて、さすがに自由民権運動の嚆矢となった立志社の設立された発祥の地であり、板垣退助や植木枝盛などが活躍したところだけあって、展示は充実していました。
若い女性の館員が、展示解説をしてくれたのですが、いくつか質問したことにも一生懸命に答えてくれて好感が持てました。しかし、明治時代前期に山間地の村々に至るまで、自由民権の旗が押し立てられ、草の根から活動していたことに驚かされました。
それにしても、時の明治政府の弾圧のすさまじいこと、多くの犠牲者が出ていることも心に刻み込まれたのです。また、植木枝盛の憲法草案「東洋大日本国国憲案」には、主権在民の思想が貫かれていて、当時としては画期的なものだったと感心しました。
また、高知城内に板垣退助像と「板垣死すとも自由は死せじ」の碑もあります。
☆自由民権運動の推移
<1874年(明治7)>
(1月)板垣退助らが愛国公党を結成する
(1月)板垣退助らが民撰議院設立の建白書を提出する
(2月)江藤新平が佐賀で乱を起こす(佐賀の乱)
(4月)板垣退助らが立志社を設立する
<1875年(明治8)>
(5月)樺太・千島交換条約が結ばれる
(6月)讒謗律・新聞紙条例が制定される
<1876年(明治9)>
(2月)日朝修好条規が締結される
<1877年(明治10)>
(2月)西南戦争が起きる
<1878年(明治11)>
(11月)大久保利通が暗殺される
<1879年(明治12)>
(12月)琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする
<1880年(明治13)>
(3月)国会期成同盟が結成される
(4月)集会条例を定めて、言論や集会を取りしまる
このころから、自由民権運動が高揚しはじめる
<1881年(明治14)>
(7月)北海道開拓使官有物払下げ事件が起こる
(10月)明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
(10月)国会開設の勅諭が出される
(10月)板垣退助らが自由党を結成する
このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる
<1882年(明治15)>
(3月)伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
(3月)大隈重信が立憲改進党を結成する
(11月)福島事件(福島県)が起こる
<1883年(明治16)>
(3月)高田事件(新潟県)が起こる
<1884年(明治17)>
(5月)群馬事件(群馬県)が起こる
(9月)加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
(10月)自由党が解党する
(10月)秩父事件(埼玉県)が起こる
(12月)名古屋事件(愛知県)が起こる
(12月)飯田事件(長野県)が起こる
<1885年(明治18)>
(11月)大阪事件(大阪府)が起こる
<1886年(明治19)>
(6月)静岡事件(静岡県)が起こる
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明治維新によって、いくつかの改革が行われましたが、庶民の願いとはほど遠いもので、年貢が地租に代わっただけで、重い農民の負担は軽減されませんでした。西南戦争で士族の反乱は終息しますが、農民の一揆は激化して、政府は地租を引き下げざるをえなくなります。
今日は、日本が近代へと変わっていく「自由民権運動」の史跡を訪ねてみたいと思います。「自由民権運動」は、明治時代前期に薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げた運動でした。
その足跡を訪ねてみると、日本が近世から近代へと向かう移行期の状況が伝わってきて、結構新たな発見があるものでなので、ぜひ巡ってみることをお勧めします。
〇「自由民権運動」とは?
明治時代前期、1874年(明治7)の板垣退助等による民撰議院設立建白書の提出を契機に自由民権運動が始まりました。
それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われました。
しかし、政府の集会条例や保安条例による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきます。
その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件がおきることになりました。
<☆「自由民権運動」の関係地
(1)喜多方事件関係地<福島県喜多方市>
明治時代前期の1882年(明治15)2月に、自由党撲滅を豪語して福島県令となった三島通庸が、県会の議決を無視して会津三方道路開設の夫役(15歳以上60歳以下の会津地方の住民男女は2か年間毎月1日の夫役が課せられ、服役負担を怠ると1日男子15銭、女子10銭の代夫賃納入が義務付けられた)を農民に強制、彼の圧政に反抗する福島県の自由党員・農民を弾圧した事件を福島事件と呼んでいます。
その中で、同年11月、佐治幸平らの逮捕をきっかけに、28日午後6時山刀・棍棒・熊手を手に千数百人の農民が弾正ヶ原に集まり、隊列を整え喜多方警察署におしかけ、警察官は抜刀し農民たちに切りかかり無理やり解散させ、「兇徒聚衆罪」の罪名で反対者が多数検挙された喜多方事件が起こりました。また、この事件を口実に河野広中ら県下の自由党員も一斉に捕らえられ、その結果、農民323名が罰金刑に、指導者層57名は 国事犯として東京で裁判にかけられたのです。
現在は、喜多方市内の出雲神社社殿の右裏に、ここで自由民権運動の政談演説会が、度々催されたのを記念して“自由民権発祥地”と書かれた石碑があり、1982年(昭和57)の喜多方事件百周年を記念して、喜多方市立厚生会館前に“喜多方事件百周年記念顕彰碑”が建てられ、農民たちが集結した弾正ヶ原には、“弾正ヶ原事件百年祭記念碑”が建てられています。また、道の駅「喜多の郷」に隣接した蔵の里の旧東海林家酒造蔵の1階に自由民権運動喜多方事件資料展示があります。
(2)「自由民権記念館」<福島県田村郡三春町>
「三春町歴史民俗資料館」に併設された施設で、ここが自由民権運動発祥の地として、県内はもとより東北の民権運動をリードした河野広中をはじめとする多くの民権家を輩出したことにより建設されました。
また、三春町役場から歴史民俗資料館へ向かう坂の途中には、「自由民権ひろば」があり、河野広中の銅像や「自由民権運動発祥の地」の記念碑があります。
また、近くの紫雲寺境内には、河野広中の遺髪塚があり、その前の道路脇に加波山事件「自由の魁」の碑が立っています。
(3)秩父事件関係地<埼玉県秩父市>
埼玉県秩父地方では、米や生糸相場の暴落、多額の負債のため生活が疲弊し、明治時代前期の1884年(明治17)、困民党のもとに農民たちがやむにやまれず立ち上がりました。
しかし、明治政府による徹底した弾圧によって押さえ込まれ、厳罰に処せられました。秩父地方を巡ると音楽寺、椋神社、田代栄助の墓などにその足跡を見い出し、自由民権の先駆けになって処刑された人々のことを考えずにはおられませんでした。
この事件については、2004年(平成16)公開の映画「草の乱」(神山征二郎監督)に描かれています。その撮影の時に使用されたオープンセットの一部が、吉田町の「龍勢会館」に隣接して残されていて、その井上伝蔵邸が「秩父事件資料館」になり、貴重な資料を見ることができます。
(4)五日市憲法草案関係地<東京都あきるの市>
“五日市憲法草案”は、明治時代前期に作られた私擬憲法の一つで、東京都西多摩郡五日市町(現在の東京都あきる野市)の深沢家土蔵から発見されたためこの名前で呼ばれています。
全204条からなり、そのうち150条を基本的人権について触れ、国民の権利保障に重きをおいたもので、当時の自由民権運動の影響を受けたものだと考えられています。国民の権利などについて、当時としては画期的な内容が含まれ、現日本国憲法に近い内容もみられる先進的なものです。
現在、「あきる野市五日市郷土館」には、“五日市憲法草案”についてのコーナーが設けられていますし、五日市中学校敷地内に五日市憲法草案の碑が立てられています。また、これが発見された深沢家土蔵は保存されていて、深沢家屋敷跡として、1983年(昭和58)に東京都指定の史跡となっています。
(5)「町田市立自由民権資料館」<東京都町田市>
この資料館は、町田市が1986年(昭和61)に設立したもので、明治時代前期の1883年(明治16)に、自由民権活動家村野常右衛門が青年民権家の育成のために開いた凌霜館の跡地に建っています。
富農が多かった多摩、神奈川では自由民権運動が、1877年(明治10)頃以降から活発化し、町田では石阪昌孝や青木正太郎などの指導により、多くの青年民権家も生まれました。
この資料館では、自由民権運動及び町田の歴史に関する資料の収集、保管、閲覧、また常設展示「武相の民権/町田の民権」のほか年2回の企画展開催などを行っています。系統的な展示がなされているので、この地域の自由民権運動を知る上では、とても貴重な施設で、とても勉強になります。
また、近くのぼたん園(石阪家跡)には、自由民権の碑や石阪昌孝の墓もあり、薬師池公園には、自由民権の像が立っています。
(6)「高知市立自由民権記念館」<高知県高知市>
この記念館の正面には「自由は土佐の山間より」と書かれていて、さすがに自由民権運動の嚆矢となった立志社の設立された発祥の地であり、板垣退助や植木枝盛などが活躍したところだけあって、展示は充実していました。
若い女性の館員が、展示解説をしてくれたのですが、いくつか質問したことにも一生懸命に答えてくれて好感が持てました。しかし、明治時代前期に山間地の村々に至るまで、自由民権の旗が押し立てられ、草の根から活動していたことに驚かされました。
それにしても、時の明治政府の弾圧のすさまじいこと、多くの犠牲者が出ていることも心に刻み込まれたのです。また、植木枝盛の憲法草案「東洋大日本国国憲案」には、主権在民の思想が貫かれていて、当時としては画期的なものだったと感心しました。
また、高知城内に板垣退助像と「板垣死すとも自由は死せじ」の碑もあります。
☆自由民権運動の推移
<1874年(明治7)>
(1月)板垣退助らが愛国公党を結成する
(1月)板垣退助らが民撰議院設立の建白書を提出する
(2月)江藤新平が佐賀で乱を起こす(佐賀の乱)
(4月)板垣退助らが立志社を設立する
<1875年(明治8)>
(5月)樺太・千島交換条約が結ばれる
(6月)讒謗律・新聞紙条例が制定される
<1876年(明治9)>
(2月)日朝修好条規が締結される
<1877年(明治10)>
(2月)西南戦争が起きる
<1878年(明治11)>
(11月)大久保利通が暗殺される
<1879年(明治12)>
(12月)琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする
<1880年(明治13)>
(3月)国会期成同盟が結成される
(4月)集会条例を定めて、言論や集会を取りしまる
このころから、自由民権運動が高揚しはじめる
<1881年(明治14)>
(7月)北海道開拓使官有物払下げ事件が起こる
(10月)明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
(10月)国会開設の勅諭が出される
(10月)板垣退助らが自由党を結成する
このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる
<1882年(明治15)>
(3月)伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
(3月)大隈重信が立憲改進党を結成する
(11月)福島事件(福島県)が起こる
<1883年(明治16)>
(3月)高田事件(新潟県)が起こる
<1884年(明治17)>
(5月)群馬事件(群馬県)が起こる
(9月)加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
(10月)自由党が解党する
(10月)秩父事件(埼玉県)が起こる
(12月)名古屋事件(愛知県)が起こる
(12月)飯田事件(長野県)が起こる
<1885年(明治18)>
(11月)大阪事件(大阪府)が起こる
<1886年(明治19)>
(6月)静岡事件(静岡県)が起こる
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