自然って、偉大、そして、基本、美しい。
今や、何を言っても ”たいして何もできていないのにどの口が” 現象
に見えて申し訳ありませんが (各所、私には改ざん事がつきまとってるし)
芸術の志すところとして、私は「自然」が目標、ひとまずお手本でした。
芸術に絶対的な定義は無いという考えは支持しますが、
先人の語るところや良さを見るに、私としては、
芸術のありかたは、それでいいのでは と
思ってきたわけです。
文字通り、自然。みずからのありよう。
また、初めからそう受けとめたわけではないけど、
「当然」という言葉は、意外と「自然」に近い。
大きさ、長さ のイメージの違いはあれ。
物でも遺伝子でも何万年と息づくものを、予めすぐ設計しろったって
奪われてない人知を結集しても、いくら器用でも、とりあえず不可能なこと
どんなに頑張ろうとしても、けっきょくまず自然から拝借するのが関の山
だし、へたこいて自然体系壊そうもんなら、化学者おっしゃっていたように
取り返しつかない。
生物も自然で、自分も自然。
人として表すことは、自然を介してることになるので、準自然?
そう意識的に考えていた私は、無意識にか 何につけ、
「これは自然(当然)とは違うな・・・」と分かってきたと思います。
こういう考え方は、人に予め備わっているいっぽう、
教えられたり、
生まれてから培ってこないといけなかったのでしょうが、
どんどんおさえ込まれて低質化してきたのと、
不自然ごとが増えてきたのは、同時進行かもしれません。
自然ではないことに苦しむことは、自然の姿、魂なのです。
けして、けして、 いっしょくたにしないように ですよね。
理にかなった心の美しさのあらわれが、
調和的で、なじめて、平等性を確認できる
私としての求めだったのです。
* * *
指摘してきた改竄(原子移動的なもの)や催眠術(脳操作)は、
隠されてきた特殊方法で完全犯罪が可能とされた主要技術をいいます。
被害者側の立場で、真実を求めるたゆまぬ責任によって 実態と情報を見極め、
証明したものです。
現在、防御法は無いと考えるしかありませんが、今後は
対処を根本的に誤らないよう、社会的認知が急がれます。
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