環境をシャっと整え、人命救出しうるのは、まちがいなく隠れ犯だ。
しかし、残酷な危険状態をまず作るのが、隠れ犯のやりよう。
皮肉な意味で、頼むのは筋違いにしか感じない。
そういう隠れ犯やったものをあえて指しての漠然教訓呼ばわりも、隠れ犯側が好むところだろう。なかみでわかることだが。
人間にできるのが何かは、何が最適かを現地で一番困っている人々を思いやってわかること。
経験直感に優れた方が、できることを見つけ現地でできることを代表して実際命がけでやってくれるのが、本当にありがたいと思う。
仮に不満のはけぐちにされようとも、それこそエネルギーがいるし、本当に大変な方が助かったり、さっさと取り残されるような思いにならないほうがずっとずっと良いわけだし。
隠れ犯のやりようを知る前は、身分不相応の寄付をしてきてしまったけど、特に私の場合、これがどの程度きちんと生きたかは甚だ不明。 どころか、、別に比例して感謝あびようなんて思わないけど、我が身にその後起こったそれぞれのこと(大地震に限らない)は、極端なまでに感謝の逆でしかない。あくまで、私の場合だけど。
でもみんなが、心配しているんだよって、示しあう事って、現地にも実利だと思う。
あとあとも必要なことで、被害者が、たいていの運命を受け入れ生きる力になりうるはず。
ってなことで昨日、自分として
まったく気持ちだけのぷちぷち募金行為をさせていただいた。
そのときのことは、私にとってとてもありがたかった。
* 申し上げていること、情報源の存在やその実際については、大事なありようすべて考慮したうえで厳しく判断を重ね、重ねるようにされて絶対間違いないとなってのことです。これまでにされていることで、はたからは騙されたり振り回されたりする人と思われるのは幾分しかたありませんが、人が経験することが少ないそのことを、あとで正しくみていくことを怠りません。
知らされたり、やられまくったりするのも、誰もがそのようであるわけではありませんが、冷静に物理化学的に合理的に、情報を含めた現実のありようを真剣にとらえれば推測は可能です。
ただとても厄介なことは、隠れ犯側のかぶせかた・・名称的に似たようなことを言ってるかに装って、内容は変な逆などを意味することにしてある情報が、こちらの発信のたびにこちらの内容に優先して出るなどで、少なくともイメージ悪く信用したくなくなっていってしまわれることでしょう。
隠れ犯のやれることもさることながら、残酷なやりよう(規模・数)は、桁の桁違い 想像するにもブレーキがかかるのが、わかるんですけど、
そういうものだから とても大変なんです。
仮面情報とその影響事が異常に多く、とんでもない壁になっています。
どうか、反対解釈によるようなことは無きよう、願うばかりです。
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