5月末ころから、はたと
筆がとまった。
SNSといっても
わたしは、ツィートかこのブログ
あとは、noteに細々と日々感じたことや、いま考えていること、あるいは
過去に遡り、その時の自分自身との
対話(会話)などを、綴ってきた。
なぜ止まったのか?
難しく考えてる訳ではない。
むろん、顔は見えずと言えど
なんらかの、表現をする以上は
画面の向こうにいらっしゃる方が
いらっしゃる。
わたしの、拙い文章を時間を割いて
読んでくださるのだ。
それらに対して、文責というのもある。
顔がみえないこそ、事実を述べようと
思うし、未熟であっても、真っ当に
正々堂々と、自分の考えや思いは
書いてきたと思う。
しかし、はたと、止まった。
なんの為に書いてるのか?
自問自答、内観、読んだ本の感想
読者に何かを訴えるためか?
それとも共感か?
それとも、ただの承認欲求か?
自分に対しての切磋なのか?
何が何かわからなくなり
アウトプットする気力が失せた…
冒頭に時間の切り売りと記した。
月給制、時給制、年棒制、個人事業。
金を稼ぐ形態は様々だが
どんな職業でも、時給に換算する
ことはできる。
ただ、簡単に一日の給料がいくらと
認識できるのが、時給制なだけだ。
例えば、ツィートにおいても
タイムラインを追うとすると
あっという間に、1時間、ややもすると
2-3時間ということにもなりかねない。
時間を溶かす。
言っておきたいのは、ツィートや
ブログが善か悪かなどというつもりは
ない。
太古、狩りをし、稲作をし
山海へ漁に向かい、集団生活の糧を
まかない。
物々交換をしてきた歴史的な
事実がある。
夜明けとともに働き
日没とともにその日の働きを仕舞う。
時間は、その時からとまらず
人々は、自らの時間をそれぞれの
やるべきことに切り売りしてきた。
わたしは、卑下ではなく
下流と自分を定義している。
真の上流というか、金持ちは
自らの時間を切り売りとするなら
途方もない時給になるだろう。
そもそも、額に汗し、小便に血が
交じるような労働はせずに
ワンクリックで、天文学的な
金銭を動かすのが、真の金持ちだと
思う。
が、わたし自身がその軀を動かし
手足、頭を使い、時間の切り売りを
することは、これからも終生
変わらず、普遍である。
「読書尚友」という言葉を知った。
わたしの、解釈では
古の偉人(書)を友とするに至っている。
古典は歴史の風雪を経て
読み継がれたり、聴き継がれている
と思う。
言っておきたいのは
読書や優れた音楽のみを愛し
それに固執するのではない。
事実としてあるのは
それら、古典的なものも
歴史の風雪という
「時」を経てるだけだ。
そのことを、探求まではいかなく
とも、有限の人生、常は無い人生、
貧困、生老病死に重ねて
死ぬことについて
とことん、内観しようと
思ったら、はたと、筆がとまって
しまった。
「終わりある(死)、始まり」と言おうか。
終わりに対して、正々堂々と
対峙するのか、見苦しいさまを
さらけ出すのか。
いまも、これからも
わたしの課題と言える。