これはもうずっと昔、まだゲームセンターと言うものが街の隅でひそかに、しかし元気に輝いていた、1990年代のお話だ。何十年も前の昔話。ゲームがまだネットに繋がらない、シンプルな娯楽だった時代。僕らは確かにそこに居た。
僕がそのゲームセンターを時間潰しの場所に決めたのは、別に、たいした理由があるわけじゃなかった。
しいて言えば、通っている大学の講義が限りなく退屈だったからだ。四流大学生の僕の将来なんてたかが知れている。だから真剣に学問にはげむつもりはなかったし、かといって他の学生たちのように、適当なサークルに参加して恋愛ゲームを楽しめるほど僕は器用でもなかった。そりゃあ、そうしたサークルに所属している可愛い女の子の一人や二人は気にしてもいたけれど、その子たちにはすでに彼氏がいたり、僕のことなんておかまいなしにイケメンの先輩を追い掛け回していたりした。なんにせよ、大学内に僕の居場所はなかったのである。
だからといえば言い訳になるのだけれど、大学から自転車で十五分ほどの距離にある場末のこのゲームセンターで、僕は時々、意味の無い時間つぶしをしていた。店員のおばさんは毎日カウンターの奥に引っ込んでテレビを見ていたし、平日の昼間から場末のゲーセンに来る奇特な人間は、当然ながらごく少数だったので、僕はほとんどの時間、店を貸しきり状態で使っていた。
店内には、テープル筐体が十数台、レースゲームが二台。それに、どこから仕入れたものか、時代遅れのピンボールマシーンが一台、壁際に据え付けられていた。
大学に入学してから少し経った五月頃、格闘ゲームやレースゲームをやる気なさげに攻略しながら、僕は「ここでこんなことをして、どんな意味があるのか」と自問自答を繰り返していた。時代遅れのゲームのBGMは、僕のダサい服装によく似合う気がして少し心地よかったけど、だからといって何か素敵な出来事が起こる訳でも、逆に何か不幸な出来事が起こる訳でもなかった。レースゲームのハンドルを握り、モニターの向こうのどこにも繋がらない世界で、危機感を感じる事もなくただコースを走る。その行為に暇つぶし以上の意味なんてないんだろう。
そんな風に僕がこの店で過ごすようになってから数ヶ月。僕は、ある日ちょっとした事に付いた。店の片隅のピンボールの筐体の右側に、小さな傷が増えているのだ。それは、本当に微妙な変化で、おそらく毎日のようにここに通う僕以外は、誰一人として気が付いていなかっただろう。
その傷は、どうやら百円玉でつけられたものらしかった。微妙な引っかき傷。筐体の側面に、ごく遠慮がちに、数本の筋が刻まれていた。その数本の傷跡は、古いものは擦れ、新しいものは、ゲーセンの光を反射して鈍く輝いていた。
「…どっかの悪ガキの仕業かねぇ」
僕は、そう独り言を呟きながら、なんとなく気まぐれにピンボールの筐体にコインを入れた。二本のボタンで、フリッパーを操作してボールを弾く。ただそれだけの単純なゲームだ。ボールがターゲットに当たると、大げさなファンファーレが鳴り響き、デジタルのスコア表示が更新されていく。
「面白いのか? これ…」
ゲームは十分ほどで終わった。手持ちの玉を使い尽くし、ゲームオーバーの表示と悲しげな音楽が、ほんの少し、軽く僕を打ちのめした。ただ、何故かその打ちのめされた感覚は、悪い気分ではなかった。
その日から、僕の暇つぶしのローテーションに、ピンボールが新たに加わった。フリッパーを上手く操作すれば、ゲーム時間は延びていく。数週間後には、僕はひとつのコインで三十分ほど、時間をつぶせる程度の腕前に上達していた。
よく観察してみると、それぞれのターゲットには意味があり、筐体全体としてのテーマが決められているようだった。残念ながら、英語で記載されたゲーム解説は、僕にはほとんど読めなかったのだが。
「よく分からないエイリアンがよく分からない敵と銀の玉で戦っている…どんな世界観なんだ??」
そうブツブツと呟きながら、ハイスコアを狙いつつ複数のターゲットに上手く玉を当て、ランプを点灯させる。どうやら全てのランプを点灯させれば、何かイベントが起こるらしい。
「あと一個…右のターゲットを墜とす!」
玉は空しくそれて、アウトゾーンに吸い込まれていった。もう一回だ!と思ったときに、僕は気付いた。もしかして…。
僕は、持っていたコインで、筐体の側面に傷をつけた。なるべく目立つように。僕の予想が正しければ、きっと何かリアクションがあるはずだ。
そして、僕のその予想は数日後、的中した。僕のつけた傷の上に、ご丁寧に黄色の小さなふせんのメモ書きが貼り付けてあったのだ。
『マネをするな。バカモノ』
愛想のない内容だが、随分と丁寧な文字だ。やっぱりな、と思いながら、僕はそのメモを剥がして、店のカウンターの奥にいるおばさんの所に行った。おばさんにメモを見せ、気付いてました? と尋ねると
「ああ、そりゃピンボール台の常連の子だね。夕方からよく来る…なんて言ったっけねぇ」
おばちゃんは、テレビの昼ドラマの展開が気になってしかたがない様子だったが、貴重な常連客である僕の質問には、一応親切に答えてくれた。
「学校と塾の合間にね、来てるみたいよ? なんかおかっぱ頭で背が低い…不思議な子でねぇ。他のゲームには見向きもしないのよ」
そこまで話して、おばちゃんはメモをしげしげと見つめ
「こんな字を書く子なんだねぇ」
と見当違いな感想を述べ
「それじゃワタシは忙しいからこれでね。いま冬彦さんが大変な事になってるんだよ! テレビから目が離せないよ?」
と奥に引っ込んでいった。まったくもって、何故このおばさんが店番をしているのはわからないが、何か深い理由があるのだろう。多分。
ともかく、ピンボール筐体の傷の謎は、ほんの少し解明した。たまにこのゲームセンターに立ち寄っては、ハイスコアの更新のたびに、筐体にひっかき傷をつけるおかっぱ頭の不思議な子。その風景を想像して、僕はちょっと微笑ましく思いつつ、メモを筐体に貼り付けなおした。
『マネしてゴメン。今度からは、左側にするよ』
そして、少しづつ筐体のハイスコア更新を記録する傷は増えていった。右側と左側に、本当にほんの少しづつ。当然の事ながら、僕のピンボールの腕が上がるたびに、ハイスコアのハードルも上がり、更新の機会はその分、減っていった。
右側の、もう一人の常連のためのスペースにある傷も、次第に数が減っていった。店のおばさんに一言尋ねれば、その理由はたぶん分かるのだけど、僕は何故かそれはルール違反のような気がしていた。そして勝手に、おかっぱのその子も自分で決めたルールを守っているのだろうと、そう根拠もなく空想をしていた。
冬になり、僕は帰省のため、数週間ピンボールから離れていた。正直、実家の両親の顔など見ても見なくても気にならないのだが、毎月律儀に仕送りを送ってもらっている手前、年に一度くらいは里帰りをしなくてはならない。そうして、コタツでミカンなどを食べながら、くだらないテレビ番組を見て、年末年始をすごすのが、一人息子の義務なのだ。
つまらなくも平和な年末年始を過ごした後、僕は久々にゲームセンターに訪れた。ピンボール筐体は相変わらずそこにあり、そしてその右側面には、誇らしげに大きな傷が刻まれていた。一枚のメモ書きと共に。
「推薦で大学受かりました! ヤッタネ!」
僕は苦笑しながら、筐体にコインを入れた。ファンファーレが鳴り響き、玉が勢い良く飛び出す。僕のハイスコアの更新は、まだ先になりそうだ。
フリッパーを弾きながら、僕は想像する。おかっぱ頭の、負けん気が強くて、そして多分孤独な、背の低い学生。その子が、一人で、この筐体にコインを入れ、フリッパーを弾く姿を。
僕と同じように悩み苦しみながら、ほんの少し、この筐体に愛着を感じて、傷を確かめる誰かがいる。そんな想像を。
ピンボール台の全てのランプが点灯する。ビッグボーナスのチャンス。僕はフリッパーを弾く。ボールは、最終ターゲットを見事に捉らえ、そして… ファンファーレが鳴った。
「グランドスラム…初めて見た」
僕の後ろから、遠慮がちな、でもよく通る、女の子の声が聞こえた。振り向くヒマはない。ゲームはまだ続いている。フリッパーは、ターゲットから新たに発射された三個のボールを次々と弾いていく。
「トリプルか。すごいね。でも…すぐ追いつくからね? ただの偶然ってこともあるし」
僕の背中に、そんな声が投げ掛けられる。僕は一瞬油断し、そしてその十数分後、ゲームオーバーの表示が点灯した。
「ハイスコア更新、おめでとう」
振り向いた僕に、おかっぱ頭の、そして想像より幾分か派手な顔立ちの女の子が、笑顔で告げた。
「はじめまして。メモ読んだよ。おめでとう」
僕は、そう、彼女に応える。目の前に立っている人物の意外な姿に驚きながら。
「うん、ありがとう。これからもよろしく」
はにかんだ笑顔で、でも確かに、彼女は微笑んで、僕の腕にそっと手を伸ばした。
僕の背中では、ピンボールの筐体が、相変わらず賑やかなBGMを鳴らしながら、百円玉を欲しがっている。
仕方がない。もうちょっと、このおんぼろ筐体と付き合ってやろうか。
彼女と、僕と。二人で一緒に。
(了)