きっと忘れない

岡本光(おかもとこう)のブログです。オリジナル短編小説等を掲載しています。

エッセイ 単純化して整理するという事

2020年05月07日 | 小説 (プレビュー版含む)

自分はこのブログのエッセイの執筆内容に関しては、誰も居ない場所で叫ぶ孤独な哲学者の声のようなものだと思っている。だから、好きにやらせてもらう。

 

さて、通称新型コロナウイルスという感染症の流行について、自分が把握している事のみを資料無しで列記してみる。

 

2020年初頭、中国武漢で新型コロナウイルスというインフルエンザの新型ウイルスが流行と報道される。

この時点では自分は、他国で起こる災害のような感覚でニュースを見ていた。

 

三月ごろ、豪華客船ダイヤモンドプリンセス号が横浜に入港。船内でコロナウイルスが蔓延していると報道される。

同時期、武漢は都市閉鎖(ロックダウン)され中国の他の都市との交通が完全に遮断されたと報道される。

この時点でも、日本国内で武漢と同じような都市が発生するとは考えていなかった。

 

三月上旬ごろ、コロナウイルス対策で全国の小中高校が早めの春休みに入る。

自分の認識としては多少大げさな対応かなと捉えていた。

 

四月ごろ、緊急事態宣言が日本政府により一部大都市に発令される。このことによって、指定都市の映画館やライブハウス、カラオケ店が軒並み休業する。また、マスクやアルコールスプレーが品薄になり、日本国民全体に買占め傾向が見られると報道されるようになる。インターネットを活用した「テレワーク」やコロナ対策のための「自宅待機」が政府より要請され、対応出来る企業はそれを行うようになる。

 

四月半ば、緊急事態宣言が全国に拡大される。ゴールデンウィークを前に百貨店やショッピングモール、レストランチェーン、小規模の個人経営の飲食店などが国からの要請に対応する形での「自粛休業」に入る。

 

この頃からテレビ報道が異様な空気を見せ始める。何か戦争や大災害が起こっているかのような論調で、主にワイドショーでコロナの恐ろしさが毎日訴えられ、またそれに影響された人たちのヒステリックな様子も同時に報道されるようになる。「自粛警察」というインターネットミーム(造語)が生まれる。

 

ゴールデンウイークに入ると、テレビCMや新聞などで「ステイホーム」のスローガンが声高に叫ばれ、外に出るのが悪という風潮が生まれる。中国ではコロナ蔓延が収束、アメリカではコロナによる死者数7万人の報道がある。日本での死者数は約550人。

 

ゴールデンウイーク明け。多くの企業がテレワークを解除しはじめる。東京、大阪、愛知、北海道は未だコロナ警戒を続けている様子だが、他府県では一斉にこれまでの自粛を解除し、人の動きが活発化しようとしてる。

 

以上の出来事を考え、自分に対する影響は何があったのかを整理してみる。・・・何かおかしくないか?

親類にあたる子供たちが休校になったが、一緒に住んでいる訳ではないので自分に影響はない。仕事に関しては元々派遣契約なので、派遣の仕事の無い時期と今の状態は、何ら変わらない。新たな派遣先探しが出来なくなったが、それは体調が悪い時も同様で出来ていなかった事だ。

世間的な風潮で気軽な外出が出来なくなった。これは大きな影響といえる。だが、元々ほとんど外出しないような時期もあるのが自分の生活だ。これも何も変わらない。

経済面。コロナの影響で特に収入が減ってはいない。コロナのため大きな支出をする事も今のところない。逆に増えてもいない。

 

結局、なんとなくの「気分」以外、何も実質的に変わっていないし、影響を受けていない。

コロナ禍以前と同じものを食べ、同じもので遊び、同じ交友関係の中にいる。社会的立場も変わらない。

敢えて言えば、こまめな手洗いとマスク着用をするようになった事と、ネットでの交流が増えた。変化はそれくらいだ。

 

単純化すれば、こういう事だ。生活の外から入ってくる情報が違うだけで、何も変わらない。

ここまで整理しないとそれに気付けない自分に腹もたつし、呆れる気分もある。

客観視とはこういう事だし、そうした視点を持ち己を顧みる事を、自分は時折するべきなのだろう。

 

 

それはそれとして、世界情勢とコロナの流行に関する動きは色々とキナ臭いし、今後の世界情勢に間違いなく影響を与えるのだろう。しかし、それを考えた所で自分はその流れを変える事は出来ない。だから考えない。

 

今は考えないが、観察する事と意識を配る事は忘れずに行い、いつか答えを導き出すための情報は必要だし、それは集めるという事だ。それをしない事は思考放棄だ。聴衆はいなくとも、哲学者は哲学者なのだ。思考は放棄しないし、それをした時には、自らの哲学は死ぬという事だ。

 

最後に、ただ漠然と思っている事を書いて終わる。おそらく自分の哲学の根幹は「悪意なき弱者の立場の確立と、その弱さに対する社会的救済」の追求だ。その事をずっと考え続けている。強者になれという事ではない。弱者が弱者のままで引け目を感じずに生きるための手段と哲学を、自分はずっと探しているし、それを論理として解き明かしてシステムに名前を付けたいのだろう。

(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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