「静かな海ですね。こんな日がずっと続くといいのに」
朝の陽射しが輝く鎮守府指令部前の海辺を歩きながら、狭霧は僕にそう言って静かに微笑んだ。
今日、リンガ鎮守府提督である僕が限られた朝の時間をやりくりして狭霧と散歩に出かけたのは、気楽な息抜きのひととき、という訳ではない。ここしばらく様子のおかしかった狭霧を他の艦娘の皆が心配していて、彼女にそれとなく具合を聞いてくるようにと、大淀さんが特別に取り計らってくれたのだ。
「ここのところ本国からの指示は哨戒任務ばかりだからね。もしかしてもう終戦が近いのかも…なんてね」
鎮守府最高司令官とはいえ、所詮は僕は中央から派遣されただけの身だ。全体の戦況の真実など知りようもない。でも、艦娘たちの戦いは決して無駄ではなく、戦いはいつかは終わるはずだと、そう信じるほかはない。
「終戦…素敵な響きですね」
僕と狭霧は同世代だ。もし戦争がなかったら、いまごろ僕たちは机を並べて中学校で授業を受けていたのかもしれないな。
そんな冗談を言おうとして、僕は慌てて口をつぐんだ。「もし戦争がなかったら」なんて、艦娘である彼女たちには到底言えた事じゃない。生まれた時から戦場に出る事を宿命付けられていた彼女たち。そして、そんな彼女達に出撃を命じている司令官。僕にはそんなことを言う資格はない。
「狭霧ちゃん、あのさ…」
少しの沈黙のあと、僕はためらいがちに口を開いた。
「はい、提督。分かってます。みんな心配してるんですよね?」
僕が何かを尋ねるまでもなく、狭霧は僕の目をみてそう答えた。
「何かあるんなら言ってくれたら…僕なんかじゃ頼りないかもしれないけど。他の誰かにだっていい。なんだっていいから話してみてよ」
少しの沈黙と戸惑いのあと、狭霧は小さく呟いた。
「…提督。私、艦娘を引退しようと思うんです」
「狭霧ちゃん…引退って…そもそも君たちは…そんなこと出来るはずが…」
艦娘が鎮守府から去る方法は2つしかない。撃沈か、解体か。その2つだけだ。つまり狭霧は…
「私は、なんのために艦娘として生まれたんだろう。なんのためにずっと戦ってるんだろう。最近そう考えるようになってしまったんです。こんなの艦娘失格ですよね。だからもう、私…この鎮守府に居ても…」
寂しそうに狭霧が水面を見つめる。僕は振り絞るように彼女に言い返した。
「なんのためって、平和を勝ち取るための戦いだよ! 砂霧ちゃん、諦めちゃだめだ!!」
「じゃあ一体どうしたら平和になるんですか? 深海棲艦はずっと無限に沸いて出てくるのに」
「………」
狭霧ちゃんの悲痛な問いかけに、僕は何も言い返す事が出来なかった。
「提督、今まで一体何人の艦娘がこの鎮守府で…解体…されたか覚えていますか?」
そうだ。僕は数えきれない程の艦娘に対し、解体の指示を与えてきた。他には選択肢はないという言い訳を心の奥で思い浮かべながら、感情を押し殺して。
「でも、君を、狭霧ちゃんを解体するなんて…僕は、嫌だ」
「じゃあ誰ならいいんですか? 新規建造艦ならいくら解体しても平気なんですか?」
「そういう事じゃないんだよ! 狭霧ちゃん、僕は」
たった一機の艦娘に対して、僕はこんなにも感情を乱している。提督失格だ。僕は。
「提督、次の大規模作戦が展開されたら、私を最終海域に投入してください。ただ解体されるよりは、最後に鎮守府の皆さんのお役にたって立派に死にたいと思います」
狭霧ちゃんの白い髪が暖かい日差しを受けて輝く。もしも全ての戦いが終わったら…その時は…彼女たちは普通の女の子として生きられるのだろうか。
「次の大規模作戦の最終海域…それまでは君を引退はさせない。その条件でなら僕は…了承するよ」
やっとの思いで僕はそう告げた。時間稼ぎにしかならないかもしれないけど、次の大規模作戦の開始までになんとか説得する余地はあるはずだ。
「…ありがとうございます」
寂しげな、そして儚げな微笑みを浮かべて、砂霧ちゃんは僕の言葉に頷いた。
「………」
僕たちはしばらくの間、ただ何も言わず静かな海を眺めながら佇んでいた。
「そろそろ室内に戻ろうか?」
そうやって二人で海辺の暖かな陽射しを浴びたあと、僕は狭霧ちゃんの手を取り、鎮守府指令部に戻ろうとした。
その時、大淀さんが僕たちを呼ぶ大きな声が鎮守府司令部の窓の向こうから響いた。
「提督!! 大変です!! 本国より緊急入電!!」
ただならぬ事態であることは直ぐに分かった。
「こんな…まさかそんな!! 提督、至急来てください…こんな入電ありえません!!」
いつも冷静な大淀さんの声が、こころなしか震えているように思えた。
僕の手をそっと握っていた狭霧は、その大淀さんの声に何かを察したのか、涙を目に浮かべながら、僕に静かに微笑んだ。
僕はその儚い笑顔を見て、心の底から美しいと思った。
(狭霧…君は…)
僕はただ、彼女の手を強く強く、握り返していた。
(了)