きっと忘れない

岡本光(おかもとこう)のブログです。オリジナル短編小説等を掲載しています。

短編小説 『ハード・ボイルド(仮)EP1 身辺調査』

2023年11月29日 | 小説 (プレビュー版含む)

私の髪の色と同じくどこか色褪せた印象の居酒屋のカウンター席で、彼はひとり日本酒を片手に煮魚を箸でつついていた。

「久しぶりだな。二十年ぶりくらいか?」

「声を聞くのは十九年ぶりだな。顔を合わせるのは二十一年と二カ月ぶりだ」

ほとんど老いを感じさせない声で、伊庭哲は私にそう答えた。細かな事にこだわる性格は大学時代から変わっていない。

「伊庭の会社も軌道に乗ったようでなによりだ。社長業は大変そうだが若い頃からの夢を叶えられたんだ。大願成就で充実の日々、といった所か」

多少の皮肉を込めた声と表情で私は伊庭にそう告げ、彼の隣の席に腰を下ろした。

「そうは言うがな。夢も叶えてみると味気ないものだよ。人材派遣業界の風雲児、遅咲きの新星ともてはやされていても、やっていることは金策と顔繋ぎばかりさ」

「従業員数約七十人。大手人材派遣会社とのパイプも太く、取引件数も年々うなぎ登り。味気ないというには少々派手過ぎる活躍だと思うがな」

私は女店主にノンアルコールビールと揚げ物を注文しつつ伊庭の横顔を眺めた。彼の横顔は昔通りだ。四十代前半になってもエネルギッシュな雰囲気は大学生時代と変わらない。いや、むしろ精力を増したというべきか。

「やけに詳しいな。そういえばお前は今はどこで働いてるんだ? かなり前に地方新聞社の契約記者を辞めたとは人づてに聞いていたが」

伊庭が私に顔を向けそう問いかける。

「ああ、今は大坂の大須で探偵事務所を開いている。私立探偵だ」

ノンアルビールおまち、の女店主の声とともにテーブルに差し出された瓶を手にとりグラスに中身を注ぎ味わう。悪くない苦さだ。

「探偵!? お前が?」

「色々と縁があってな。これでも評判は悪くない」

私の返事に伊庭は苦虫をかみつぶしたような顔でああ、そうかと呟く。

「それでその探偵さんがわざわざ東京までなんの用事だ? まさか大学以来の親友と旧知の仲を温めに来ただけという訳ではないだろう?」

「それなんだがな、単刀直入に言う。お前はこの娘の事を知っているか?」

スーツの上着から1枚の写真を取り出す。制服姿の女子高校生徒の写真だ。

「なぜ俺にその質問を?」

伊庭は眉ひとつ動かさず私に視線を向け問いかける。写真を見たのは数秒といったところか。

「質問に答えたところでお前に何の利益もないことは分かっている。だが、これは俺の親切心だ。旧知の仲だからこそ、わざわざ伊庭を訪ねてきた」

「探偵らしいものの言い方だな。いや、お前らしいと言うべきか」

伊庭は日本酒を一口あおり、ふっと息をついた。

「あらかたの調査はもう終わっているんだ。お前が俺の問いにどう答えようがその調査結果に変わりはない。だがな」

私はゆっくりとした口調でそう続けた。伊庭は決して頭の悪い男ではない。私の質問の意図はもう充分に理解したはずだ。

「……私が失うものの大きさを考えての事なんだろう?」

狭い居酒屋の店内は他に客もなく、女店主は黙々と青魚をさばいている。この店での待ち合わせを指定してきたという事は、伊庭にとって、この店が最も秘密を守れる会合の場なのだろう。

「分かっているなら話は早い。この少女の事を、お前は知っているか?」

伊庭の眼を射抜くように見つめ、私は再度そう問いかけた。この男にはこれ以上、嘘はつけない。私はそう確信していた。

「……知っているさ。いや、本当の彼女の事は何も知らないがな」

遠くを見つめるように視線を泳がせ、伊庭は表情を変えた。懐かしむような、悔いるような、それでいてどこか残酷さを感じさせるような、昔のまま変わらぬ笑顔。この男はやはり変わってはいない。

「伊庭、お前は昔から脇が甘すぎる」

鳥の唐揚げがカウンターに無言で置かれ、揚げたての衣の香ばしい香りが私の鼻腔をくすぐる。

「で、お前はどうやって俺の情報を洗い出した? ハッキングか何かか?」

伊庭は大学時代とまるで変わらぬそっけない口調で言った。言葉も声も落ち着いているが、細い目だけが動揺をかすかに表している。

「未成年者の保護者は被保護者の全ての通話記録の開示を通信会社に要求できる権利がある。非通知発信だろうが基地局のエリアを変えようが、その気になれば通話データは丸見えだ。飛ばしの無名義スマホでも使うか、公衆電話からの発信のみに限定でもしない限り、連絡を取った相手は全て分かる」

「…確かに俺は脇が甘いな。だが、そこまでの事か?たかが…」

「たかが? お前は子供を持つ親の気持ちを甘く見過ぎている。受験を控えた娘の様子がおかしいというだけで探偵事務所の扉を叩くような親も世の中にはいるという事だ」

「それで、一体何が望みだ? 慰謝料か? それとも謝罪文の二、三枚でも書くのか?」

吐き捨てるように伊庭が言う。

「やはりお前は娘を持つ親の気持ちを甘く見過ぎている。条件はそんな事じゃあない」

私の胸ポケットの中の超小型レコーダーのスイッチは入ったままだ。

「依頼人はただ、伊庭社長に対して、今後自分の娘と一切接触を断つと約束させてくれと。そしてその約束を反故にした時は」

「言うな。分かるよ。俺だって自分のしたことは分かっている」

伊庭の胸中には妻や会社の従業員たちの姿が浮かんでいるのか、それともこれまでに築き上げた地位と名誉が浮かんでいるのか。いずれにせよ、この写真の少女に対する想いではないのだろう。

「その条件を守ると約束できるというのならば、俺はここで引き上げる。一筆書いてもらう必要もない。ただし」

私は一枚の振込用紙を取り出し、カウンターの上に置いた。

「この金額を名古屋の地銀のこの口座に振り込んでくれ。お前の立場なら決して出せない金額ではないはずだ」

「……親友を強請るのか? お前は!!」

「正確には元親友だな。それと、マナさんの子供は先月無事生まれたよ。元気な男の子だそうだ。つまり生む選択を彼女はしたという事だ」

絶句し目を伏せた伊庭に私は

「悪いな伊庭社長。探偵事務所の維持費も馬鹿にならないんだ。もし必要なら領収書を後日に会社宛に郵送させていただくよ」

と告げ、グラスに残ったわずかなノンアルコールビールを飲み干してから席を立った。

「……最低な職業だな、探偵ってやつは」

伊庭が呻くように私に向かって呟いた。

「俺もそう思うよ。じゃあな社長」

私はそう応えると、かつての親友、伊庭をカウンター席に残したまま、東京の路地裏の奥、古ぼけた狭い居酒屋の暖簾をくぐった。月だけが私の背中を照らしていた。

(了)