きっと忘れない

岡本光(おかもとこう)のブログです。オリジナル短編小説等を掲載しています。

小説 少年の孤独 あとがき付き

2020年04月29日 | 小説 (プレビュー版含む)

 

ショートショート小説 「少年の孤独」

その茶色の瞳の小柄な少年は、拗ねた表情を浮かべていた。

街角の公園で一人スケートボードを転がせ、ヘッドフォンでお気に入りのアニメソングを聴きながら、彼は孤独を持て余していた。

その街は、人同士の関心の薄い街だった。他人は他人と言わんばかりに大人たちは足早に通り過ぎ、子供たちは自分のテリトリー外の見知らぬ小さなものを、虐めるか無視するか、蔑もうとするばかりだった。

カッ、という音をたてて、スケートボートがアスファルトをこする。この公園は狭く、遊具も少ないが、スケボーを好きなだけ楽しめるところが数少ない利点ではあった。

「・・・吹きすさぶ・・・メロディが・・・思いだして・・・」

ヘッドフォンから音楽が漏れ出している。

自分の価値とはなんだろう。この遊びの意味はなんだろう。いつになればここから抜け出せるのだろう。

「カットバック! ドロップ!」

傾斜のついた壁を利用し、スケートボートを浮かせ、ジャンプを決める。彼がスマートフォンで観たスケボーの大技の再現だ。

「ターン!」

ズドン、と音をたて、彼は壁に叩きつけれるように落下し、尻もちをついた。

「・・・失敗」

膝小僧を擦りむいた少年は、特に動揺する様子もなく、ぱっと傷を手で払った。少しだけ、傷口が痛んだ。

あぁ、神様がいるならどんなに良かっただろう。ここから連れ出し、好きなだけ楽しい事を一緒に出来る仲間がいたらどんなに幸せだっただろう。

傷を見つめて、彼は一瞬、そう思った。身体の痛みではなく、心の痛みに、彼は少しだけ涙を流しそうになった。

「神様、かぁ」

半笑いの表情で空を見上げる。いつもと変わらない曇り空。

「神様、どうか僕に」

「友達を、ください」

一瞬だけ、空に虹が浮かんだ気がした。

ああ虹だ。と少年は思った。そして、背後に人の気配を感じて、振り向いた。

「迎えにきたよ、リンくん」

ずっと昔に出会ったことのある、自分より少し背の高い少女が、そこにいた。

大昔にこの公園で言葉を交わした記憶は確かにあるが、それはもうリンにとっては思い出で、本当の出来事だったかすら定かですらない。

でも、あの時、自分は確かに少女と約束を交わした。すっかり忘れていたけれど。そう、あの時も自分は神様に祈ったのだ。友達を下さいと。

「迎えにきたよ、リン君。さあ、次の世界に行こう」

少女は彼の手を取り、微笑んで頬にキスをした。

リンは小さく頷くと、片手にスケートボードを持ち、もう片方の手で少女の手を、強く、強く握った。

空には虹がかかり、公園の出口には、淡い光がまるで扉のように満ち溢れていた。

 

(あとがき)

 

こちらでは岡本イチです。さて、あとがきとして、このショートショート小説の解説をしていきたいと思います。

この作品に登場する少年リン君は、見出し画像としてアップしたイラストレーターの見崎晴さんのキャラクターデザインに着想を得ています。

自分の中では、リンは10代前半の少年で背は周りの同級生より低いです。髪はイラストの通り。下の服はデニムジーンズ、靴はスニーカーですね。

こうした描写はショートショートのお話では必要ないと思い、あえて省きました。あと、声は声変わり前です。ここは譲れません(笑)

次に、後半で登場する少女ですが、この子は実は深い由来がありまして・・・

実はこの少女は、このブログのトップページに登場する少女フィア本人です。 https://blog.goo.ne.jp/gois6

フィアというキャラクターは、私が約八年前に、初めてイラストを付けてもらったキャラでした。その時の絵師さんとはもう連絡が取れない状況です。

作者の頭の中では、フィアはこの八年間、ネットの情報の海の中をさ迷っていました。いわゆる、ネット空間の漂流というやつです。

何故、彼女がそんな目に合う事になったのかは、私の作品のひとつである 「窓の中、蒼い世界」

https://blog.goo.ne.jp/gois6/e/c95f5326f6b4d0e108777a08fa3c5ccd

のストーリーと繋がりがあります。ざっくり言うと、フィアは小説作中のネットゲームのキャラクターとして生まれた子でした。

作者である私の中で、リン(のイラスト)はフィアと同じようにネット空間に閉じ込められていました。公園は、その閉じたネット空間です。

フィアはかつて、リンと過去に一度だけ、ネット空間で偶然出会っています。その時のお話はとりあえずおいておきますが、リン少年だけでなく

フィアにとっても、その出会いはとても貴重なものでした。

フィアはネット空間をさ迷い続けるうちに、半ばデータ上の天使となっており、現在では閉じたネット空間を開けるための鍵(パスワード)を知る力を獲得しています。これは「窓の中、蒼い世界」では「魔法」と呼ばれた力であり、師匠から学んだことの一つでもあります。

小説のラストの光は、広大なネットの世界であり、そこには新たな出会いが広がっています。レンだけでなく、フィアの物語も、また動き出しています。

ちなみにフィアの外見は、「窓の中、蒼い世界」の時とほぼ変わらず、年齢も同じです。彼女が天使である所以ですね!

という訳であとがきでした。今回のコラボレーションはとっても楽しいので、またこうした内容を展開すると思います!

(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小説 すこし不思議ものがたり 『まるで夢のような時間』 その1

2020年04月29日 | 小説 (プレビュー版含む)

繁華街の片隅で、小さな青い「貴方の夢を叶えます」と書いた看板を見たとき、私は無意識にその看板の横にある小さな店の扉をノックしていた。

休日出勤の連続で疲れ果てて判断力が落ちていたのと、二か月前の失恋から未だに立ち直れていなかった事もあり、今の私はどうしようもないくらい「夢」という言葉に弱かった。

(叶えられるもんなら叶えてよ今すぐに夢全部さぁ)

ヤケ気味にそう思いながら、私は店の扉をガンダンとグーで叩き続けた。

しばらくして入り口から出てきたのは、上品そうな黒い服を着た女性だった。

受付の担当者が自分と同じ年頃の女性だった事で、私は少し安心した。そして

「あの、このお店はどんな事をするお店なんですか?」

と遠慮がちに尋ねてみた。もしこの店が何かいかがわしいような事をするお店だったら、すぐにでも立ち去るつもりだった。

「ご説明いたしますね。千円で十分間、あなたに素敵な夢をご提供します。ただし、叶える夢は、あなたの『過去』か『未来』に『経験した』ことのある『まるで夢のような時間』限定です」

私には、受付の女性が何を話しているのか、ほとんど理解できなかった。

「もちろん、あやしい催眠術や霊感商法ではないのでご安心を。リアルな3D映画のようなものとお考え下さい。ただし、上映できるのはあなたの頭と心の中だけ、ということで」

どう考えても怪しい説明にもかかわらず、私は、その店の受付カウンターから離れる事がどうしても出来なかった。そして、気がつくと財布の中にある5千円札を取り出し

「これで、五十分間、素敵な夢を見させてください」

そう呟いていた。受付の女性はやさしく微笑んで

「途中でキャンセル等できませんが、初回五十分コースでよろしいですか? それと、夢の内容はお客様自身では選べませんのでご了承下さい」

と私に確認してきた。

「かまいません。お願いします」

私は五千円札を受付カウンターに置き、そう答えた。

「では、こちらに」

女性の声に導かれて、私は店の奥へと進んで行った。店の通路は暗くて狭く、どこまでも続いているようだった。

その奥には、柔らかそうなソファーと、テレビ番組やネットで時々見かけるVRゴーグルがあった。なんだ、ただのVR体験型ゲームか…とがっかりしながらも、私はどこか安心して、

「このVRで素敵な映像が見れるとか、そういう感じですか?」

と店員に尋ねた。

「素敵な映像とは少し違いますね。お客様の脳内の記憶中枢にごくわずかな刺激を与え、記憶を映像化するシステムです」

「なるほど」

まったく理解は出来ないが、ともかくも試してみる事にする。

「ソファーに座って、ゴーグルをしっかりとつけて下さい。装着が完了した時点で、自動的に開始となります」

私はゴーグルを装着しソファに深々と身を沈めた。

ゴーグル内の視野は広く、その内側にはデジタルな模様がゆっくりと形を変えながら動いていた。

(まるで万華鏡みたいだな)

と子供のように思っていると、次第にその模様が形を変えて、何かの風景を具現化させていった。

 

 

 

「・・・ゆき、どうしたの? ゆき?」

耳元で聞き覚えのある声が聴こえる。ああ、この声は

「ゆき、今日は早起きだな。いつもと大違いだ」

今度は、少し聞きなれない声

「しょうがないわよ。今日はゆきの大事なお誕生日ですもの」

そうか、この声は若い頃の母の声だ。今よりずっと明るい声。

「ん? そうか。俺、夜勤明けで日にちの感覚が…」

こっちはずっと前に亡くなった父の声。そうか、確かこんな声してたっけ。

「もぉ、ゆきのおたんじょうび、わすれないでよ!」

記憶の中の幼い無邪気な5歳の私が言う。

「すまんすまん。でもプレゼントはもう買ってあるからな!」

父が申し訳なさそうに言う。

「でも朝からケーキっていうのもねぇ」

母が、私と父の顔を交互に見て困ったように言う。

「お父さんは全然困らないけど、ゆきはどうだ?」

屈み込んだ父は、私の頭を撫でてこう言った。

「ゆき、あさからケーキたべる!!」

母がやれやれという表情をして、私に問いかける。

「じゃあプレゼントはどうするの?」

「プレゼントもあさもらう!」

元気いっぱいに答えた私を、父も母も優し気に見つめている。

父は、いつの間に持ってきたのか、手に小さな包みを持ち

「本当は夜に渡すつもりだったんだけどな」

と照れくさそうに言った。

「いまあけていい?」

私がそう言うと父と母は満面の笑みで

「もちろん! ゆき、お誕生日、おめでとう」

と言って、そして父は小さな包みを私に手渡して。

 

 

そして私の視界は、ゆっくりと真っ黒になっていった。

 

 

一時間後、店を出た私は、繁華街の路上で声を上げて泣いていた。足早に通り過ぎる忙しそうな街の人達の目も気にせず、ただひたすら、ずっと涙を流し続けていた。私の手には小さなUSBメモリが握られていた。

店内で映像が終わった時、店員さんはVRゴーグルを外した私に

「初回サービスとしてご利用された記録をUSBメモリに保管できます。必要でしたらお手続きしますが」

と無表情に言った。

私はぐちゃぐちゃになった自分の顔を隠す事もなく、お願いしますとだけ答えてメモリを貰って店を出た。

幸せな記憶。大切な記憶。私にはそれがある。ずっと記憶の底に放置したまま忘れていた事であっても、それは生きている限り、私の中に残っていた。

化粧がすっかりおちた酷い顔で家に帰った私は、あの店で店員さんが言っていた言葉をふと思い出した。

 

「ただし、叶える夢は、あなたの『過去』か『未来』に『経験した』ことのある『まるで夢のような時間』限定です」

 

未来? 私はようやくその言葉の意味に気付き、心から思った。あの時、未来の記憶が再生されなくて本当に良かった、と。

今はまだ分からないけど、私の未来には確かに、あの頃と同じような「まるで夢のような時間」が存在している。それは確かなのだ。私は部屋の洗面台で顔を洗い、鏡の中の自分にこう言った。

「色々あったけど、生まれてきて、生きてきて、よかったよね。ゆき。きっとこれからも」

鏡の前で、幼い頃の面影が少しだけ残っている私が、あの頃より大人びた顔でにっこりと笑っていた。

(了)


エッセイ 令和二年 四月二十八日現在の状況

2020年04月28日 | コラム・論評

前にも少し書いたのだが、自分はこのブログに関しては、客席に誰も居ない劇場で大声で叫ぶ喜劇役者の演技のようなものだと思っている。

もしくは、辻説法を行う得体の知れない虚無僧といった所か。人の居ないサーカス小屋で踊るピエロか。なんでもいい。

とにかく、すきな事をすきなようにやらせてもらうし、それを変える気もない。

 

さて、少し前に世界におけるコロナウイルスの蔓延状況の経過を時系列で書いたと思うが、それから数日が経過した。

テレビ等の報道では、東京都で新規感染者が大幅減少との報告が報じられ、GW前に若干の楽観論が報じられる傾向も見られるように思う。

 

本当にそれでいいのか? ほんの数日前まで散々と視聴者の不安を煽り、少しのデータだけでまったく逆の楽観論を提示する。

 

こんな事を続ければ、多くの人の精神が不安定になって当たり前だ。そしてその一方で、求人倍率が一気に1・3倍まで減少したとの報道もある。

2月までの求人倍率もデータ上の見せかけの多さではあったが、それでも2倍前後を推移していた。もはや、とりつくろう事も出来ないという事だ。

 

個人的な見解を述べる。報道は淡々と数字とデータ、諸外国の状況を伝えるだけでいい。あとは再放送等、娯楽の提供を優先するべきだ。

ステイホームを提唱しながら、家でうんざりするコロナ関連のワイドショー番組を見続ける事を強いられる身にもなって欲しい(自分の親がそうだ)。

 

そして、あくまで冷静に、この未知のウイルスに市井の人々が冷静に対応できるよう、官民が一体となって、せめて今この時だけでも自らの利益を捨てて行動して欲しい。その事が、後々のもっと大きな利益にも繋がるのだ。それくらいの先の見通しは持って欲しい。

 

官民という部分で、またひとつ個人的な話をする。自分には持病があり、月1回の通院を電車で行っているのだが、病院に問い合わせたところ「原則として電話診療は行っていない」との返答があった。自分が高齢の両親と同居していること、移動に電車を使う事を説明したうえで、それでも無理なのかと強く主張したところ「検討する」との返答があった。これだけ政府がステイホームを主張する中で、医療の現場がこれである。頭おかしいんじゃないの?

 

ここまで官民の足並みがバラバラな状態で、庶民はそれでも、よく自らを律していると思う。ほとんどの人はコンビニやスーパーでもきっちりと離れて列を作るし、先の日曜日の新幹線の乗車率は10%以下だ。でも、これは上の位置にいる官僚や富裕層の働きではない。確かに呼び掛けたのは上の人間であるが、庶民が日本という国の村社会でお互いを(もう相当前にそんな文化は消えつつあったが)慮った結果だ。ゆずりあいの心である。

 

日本という国にはかつて「お互いさま」という考え方、文化があった。この文化は令和になって消えかけていたが、今回の疫病蔓延によってそれがどう変わり、広がるのかは注視していきたいと思う。

 

 


小説 鉄と病原菌と田舎の暮らし 前編

2020年04月27日 | 小説 (プレビュー版含む)

数か月前、私は故郷の田舎に戻ってきた。

ことのおこりは両親の急な逝去だった。

 


まず父親が先立ち、後を追うように母が逝くと、それなりの大きさの田舎の一軒家を相続する人間は、私しか存在していなかった。数少ない親類縁者も全て付き合いを断っているような状況では遺産相続の争いすら発生せず、築四十年の古びた家は、大きなトラブルもなく私名義の財産となった。

私の生まれ故郷はいわゆるド田舎で、本屋はおろかコンビニすら、徒歩で移動出来る圏内には存在していなかった。ずっと都会暮らしをしてきた私には、これはなかなか堪える事実だった。

考慮した結果、私は小型自動二輪免許を取得した。大きな自動車も父から相続をしていたのだが、いかんせん私が乗りこなすにはクセが強かった。私は、父が車に対して強いこだわりを持っていたことを、ずっと知らなかった。あんなにも一緒に過ごす時間があったというのに。


「これで良し。食材はまとめて冷蔵庫に入れよう」

数十年ぶりの実家での一人暮らし。戸惑いは大きかった。元々一人の暮らしには慣れていたとは言え、田舎は何もかもが都会とは違う。とりわけ当惑したのは、ご近所の人たち(といって距離自体は離れているのだが)の好奇に満ちた視線と噂話だった。が、それもほどなくして収まり、今では静かなものだった。

「小麦粉卵に、じゃがいもまぶして」

鼻歌を歌いながら料理をする。遠くから鳩の鳴く声が聞こえる。ここでの暮らしを選んだのには、私自身の仕事にも関係があった。長年、パソコンを使った仕事に携わっていたのだが、母の葬儀の数か月前、ネット環境を整えて、在宅での勤務に取り組む準備がようやく出来ていた。虫の知らせというのだろうか? どこか、ずっと都会では暮らせないかもしれないという予感はあった。

「あげれーば、ころっけだーよ」

うろ覚えの歌をうたを口ずさむ。母親にはくだらない歌を歌うなとよく怒られたものだ。この台所は、その頃となにも変わらない。

「きてれーつかんせいー」

コロッケの完成である。手早く皿にならべ、冷凍しておいた白米を電子レンジで解凍して茶碗によそう。

「いただきます」

テーブルには今も父と母が座っているような気がする。だが、そんな訳はない。私は自分のたわいもない妄想を笑い、テレビをつける。

「・・・感染は現在も広がっており、都市部の壊滅は・・・」

そう。母は、数か月前にはじまった疫病の流行でこの世を去っていた。母自身は最後まで、自分の身に何が起こったかすら分からなかったようだ。私用の携帯電話に私が病院から知らせを受けた時には、医者が母親に行える治療は既に全て終わったあとだった。

「・・・世界での収束の目途も立たず、南極大陸を残す全ての大陸が・・・はやければ残り数か月」

世界を覆うガーベラウイルスによる疫病の大流行。最初にそのニュースを目にした時は、SF映画のようだと思っていた。大慌てで買い出しに行ったと電話で話す母親に私は「バカじゃないの? お金がもったいないよ」と冷たく言った。

もっと、優しい声をかければ良かった。最後にあんな言葉しか言えなかったなんて。

茶碗と皿を置き、ごちそうさまと独り言を言う。母の教えてくれた数少ないレシピはメモに残し、忘れないように日々役立てている。すべてにおいて、私は忘れっぽいのだ。

テレビのニュースでは外出禁止令の継続が伝えられている。母の墓すら、もう容易に訪れる事は出来ない。ウイルスが日本全土を覆い、感染が蔓延している。当初、飛沫感染に限定されると言われたウイルスの特性は、暑い季節の訪れと共に変異を起こし、もはや外出しただけでも、感染の危険性を持つようになっていた。

「さてと」

食事を終えた私は自室に移動し、パソコンを立ち上げ、いくつかのフォルダを開いた。全てのブラウザは即座に反応し、素早く起動する。

「三日ぶり。元気だった?」

中年男性の声がスピーカーを通して部屋に響く。どこか、父の声に似ている太い声だ。

「そっちは健在? まだいけそうだな」

リアルタイムチャットの通知が点灯する。

「シドニーはほぼ封鎖状態です。配給は問題無し。今のところはですが」

「アメリカはデモ継続中。人数の減少が顕著」

「ハローYUKIE。調子よさそうだな。ブラジルは今日もひどいありさまだ」

ビデオチャットの画面が連続して開き、様々な国の言語が一斉に伝わってくる。

私の部屋は、ここ数か月の改装により、ちょっとしたオフィスと化していた。三台のパソコン専用モニター。サーバー用PCとノートPCが数台。資料を保存するHD。実家にずっと残していたレトロゲーム機すらも、その電源を点灯させ、唸りを上げている。

「それじゃ、今日もお仕事始めましょうかね」

キーボードを打つ。リアルタイムで画面に反応が起こる。情報は拡散され、伝達される。専門家を通して、その情報は裏付けられ、信用度を高め、そしてまた拡散される。

「作戦名 operation・Resurrection day 参加者名 K YUKIE」

世界のそれぞれのパソコン上には、いま、同じ通知が表示されているはずだ。現在の参加者は13万1256人。サーバーが持つギリギリの数字だ。

とある民間企業が立ち上げたこのサイトは、世界に瞬く間に広がり、繋がっていった。作戦の開始は七月、目指すは人類の復活の日。ゲームではなく目の前にある現実の中で、私たちは今、戦っている。

利益でも打算でもなく、只、変異する未知の敵、ガーベラウイルスの情報を集め、死者を減らし、未来を変えるために。なんとかして、家族を、仲間を、思い出を、守るために。

 

部屋の隅に飾った写真立てが、小さく揺れた。写真の中の父と母が、まだ幼い私を抱いて、とびきりの笑顔で、笑っていた。

 

 

 


ガソリンを満タンにした125ccのバイクに跨り、私は今日も買い出しに出かける。田舎というのは不思議なことに、「なぜこんな場所に商店が」という地域が点在している。そうした地域は、ウイルス感染をなんとか免れ、地域のコミュニティが持ち寄った野菜や備蓄米や衣服などを販売する拠点と化していた。

ウイルスの流行初期には、感染経路は限定的なものだと多くの人に思われていた。流行り病にかかった人に直接接触しなければ、その人の住んでいる家の近くにいかなければ大丈夫。つまり、私の実家は、母のウイルス感染時に既にそうした「触れてはいけない」場所になっていたという訳だ。母の葬儀の際は、まだ行政の対応も曖昧で、仰々しい消毒や母の遺品の処分なども行われなかった。

その後、私がこの田舎に本格的に移住をした時期には、もう村一帯が、ウイルスの流行に怯えつつある状態にあった。とにもかくにも日本の村である。トラックや自家用車が全く通らないという訳でもない。それに、各住民も全く移動をせず生きていた訳ではなかった。それぞれの住人が仕事のために都会に行ったり、病院に通ったり、デイサービスや体操教室を利用したりしていた。

徐々に物品の流通が止まりはじめた時に、この地域で最初に動いたのは、山間部にある、とある商店のおばちゃんたちであった。「在るもの」をかき集め、「無いもの」を手作りし、「不足するであろうもの」をあらかじめ育てている場所に行き、話合い仕入れの都合をつけ、商売の軌道に乗せた。

政府による外出禁止令の告知後も、こうした商店はどうやら世界各地に点在するらしい。らしい、というのは、こうした情報はネットには上がりにくく、また上がった情報も信頼性に欠ける事が多いのだ。やはり田舎は未知の世界である。

「おばちゃん、野菜ある?」

フルフェイスのヘルメットをかぶったまま、私は店先で大きな声をかける。

「あいよ。いっせんまんえん」

大根を2本もち、いかにも商売人、といった風貌のおばちゃんが防護服を着て玄関を開ける。いったいどこから仕入れたのか、その防護服は医療用の本格的なものだった。

「いつもすまないねぇ」

大昔にみたドラマのセリフをまねておばちゃんから大根をもらう。

「お代はそこのポストの中」

分厚い手袋をしたまま、ポストに500円を入れる。お金を受け取ると心なしか愛想がよくなるおばちゃん。分かりやすい。

「大根って日持ちする?」

「一週間はもつよ」

(あとでネットでちゃんと調べよう)

そう考えながら、私はリュックに大根をしまいバイクのエンジンに灯をいれた。

「気をつけるんだよ」

おばちゃんは玄関をしめる間際にそういい、ガシャリと扉の鍵をかけた。

(気をつけます)

そう心の中で答えると、アクセルをひねりバイクをスタートさせる。家のガレージに蓄えてあるガソリンも、あとどれだけもつのだろうか。

トテトテ・ダカダカとのんきな音をたてながら、125ccの小型バイクはゆっくりと田舎道を進み続ける。すっかり私の手足に馴染んだ愛車は、今日も私と一緒に走り続ける。

ふっ、とバックミラーに黒い影が見えた。

車、ではなかった。真っ黒なレーサーレプリカバイクに黒のツナギ。黄色いフルフェイスのヘルメット。攻撃的なエンジン音。

(バイカーか)

荒廃した世の中では、バイカーは厄介な人種に入る。機動性と暴力性、そして攻撃力も満点である。

(んなこと考えてもさ)

アクセルをふかし、山道を登る。下りは少しばかり命がけになるかも知れない。

(せっかく買った大根、無駄には出来ないもんね!!)

ギュル、っと唸りを上げて、タイヤがスリップした。

慌ててクラッチを切り、全力で両足をアスファルトに押し込む。

ガッ!

セーフだ。なんとかバイクの重量を足で支え、私はハンドブレーキをかけた。

「あっぶね・・・」

思わずつぶやき、そのままバイクを止める。

後ろの黒いレーサーレプリカが追い付き、そして止まる。

(でもまぁ、これはダメかもね)

心に覚悟を決めつつ、それでも、と私はバイクのシート下に隠したハンマーをこっそり、手に忍ばせる。

(死なばもろとも、だ)

手袋の中に汗を滲ませ、ぎゅっと力を入れる。

黒いツナギの男は、ゆっくりとバイクを降り、私に近付き、そして

「…あのさ、6年1組のゆきちゃんだろ? きゅうり苦手な」

ヘルメット脱いで言った。

「忘れてるだろうけどさ。あの店、俺の親戚のとこなんだわ」

三十数年ぶりに見た顔がそこにあった。

「ほらな? 小西商店の歩や。お前、たまに店に文房具見にきてたじゃん」

ほぼ小学生時代と変わらない牧歌的な顔のその男は、所在なさげにメットを抱え、私からしっかりと距離を取り言った。

「お前、今何やってんの? 俺が手伝える事とか、もしかしてあったりしないか?」

私は握っていたハンマーを手落とし、へなへなとアスファルトに崩れ落ちた。

多分、小学生以来の、彼に見せたみっともない姿だっただろう。

「…まぁ、とりあえず家まで送るわ」

彼は慌て気味にそういい、優しい顔で私を引き上げた。

その笑顔は、小学生時代そのままの、変わらない笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

腰を抜かした私は歩君に引き起こされ、たっぷり三十分は休憩した後、彼のバイクを先導して家に帰宅した。

 

外でゆっくり立ち話をする訳にもいかない。何より今は屋外での危険が多過ぎるのだ。

「座って、どうぞ」

台所の大きなテーブルにメットを置き、椅子を引いて彼を促す。

「おお、そしたら遠慮なく」

どす、っと椅子に腰かけると、彼は間髪入れず

「煙草ええか? 携帯灰皿あるから」

と言った。

「別に禁煙席って訳でもないし、ご自由に」

そう答えると私はお湯を沸かしコーヒーを淹れる。もはやインスタントコーヒーですら、今では貴重な嗜好品のひとつである。

「コーヒーはブラックでいい?」

「そないに気つかわんでも」

「関西弁、抜けないわね?」

ちょっと皮肉めいた声で私は彼にそう言った。もっとも、この田舎町は関西圏にある。だから、東京で長年暮らした後に、この土地に戻ってきた私の話し方のほうが、ここではイレギュラーなのだけど。

「いうても、大阪のほうで働いてたからなずっと」

メビウスという銘柄の煙草に火をつけ、彼が言う。煙草特有の独特の匂いが私の鼻をかすめた。

「それで、いつこっちに戻ったのよ?」

コーヒーカップを2つテーブルに並べお湯を注ぐ。

「昨日や。部屋でゆっくりしとったらお前が家に来てびっくりしたわ」

驚いたのは私の方だ。死ぬほど焦った。

「そしたらお前、よくみたら財布落としてそのままバイクで走って行っとってさ」

ごそごそと彼の手がズボンのポケットを探る。

「これ、どないかして渡したらなと思ってな」

革製の薄い財布をテーブルの上に載せる。

「・・・そういう事ね」

自分の間抜けさにショックを受けながら、私はそう返事をした。

「そんでお前は今どうやねん」

「どうって?」

「色々あるやろ? 今の世の中こんな状況やぞ」

苦虫を嚙み潰したような表情で歩が言う。

「在宅ワーク」

ごく淡々と私は答えた。

「在宅て・・・まだ仕事くれるとこあるんかいな」

「無くは無い、ってとこね。お金になるかは別として」

「まぁええわ。元気で飯食えてんならな」

歩はそう言うと、椅子から立ち上がり

「コーヒーごっそさん。そろそろ帰るわ」

バイクのキーをジャラジャラと鳴らしそうわたしに告げた。

「財布のこと、ありがとうね」

「どないいたしまして、やで」

子供の頃と変わらない表情で彼が答えた。もしいま、私が彼を 「ここに居て」 と引き留めたら、彼はどんな顔をするのだろうか。

「じゃあ、また」

「おう、店によった時は声かけてな」

歩はそう言うと、メットを手に取り

「そや、ひとつだけ。お前に言っとくわ」

急に厳しい顔になり、こう言った。

「バイクなり車なり、足あっても、大阪にだけは絶対に行くな。あそこはもう、地獄や」

そして彼は私に背を向け、バイクのエンジンに火を入れ、走り去っていった。

 

 

 

 

歩君を見送った後、私は2つ並んだコーヒーカップを手早く片付け、パソコンルームへと向かった。

部屋では相変わらず、数台のパソコンがフル稼働で情報を集め、そしてその情報を記録し続けていた。

私はパソコンデスクに立てかけてあった資料をばさっと放りなげ、椅子にどかっと腰を下ろした。我ながら色気もなにもない。

「新規のアラートは・・・」

表示された画面を確認しているとチカチカとひときわ大きな通知サインが点灯した。

「YUKIE君。お久しぶり」

朗らかでよく通る初老の男の声が部屋に響いた。

「博士、お元気でしたか?」

「実に元気だ。だが研究はおもわしくない」

声の主は、トーンを落としそう私に答えた。

クリス・レイズナー博士。台湾在住の細菌学研究の権威だ。

「ガーベラウイルスの特性はある程度把握出来た。ただ肝心の感染経路がどうしても分析出来ない。YUKIEくん、どうやらまだまだ長期戦になりそうだ」

台湾は現在、世界で唯一の新型ウイルスの変異前の段階で、完全撃退に成功した国家である。そして、この国は現在、全世界協定によって完全な鎖国となっていた。少ない人口と特殊な立地が幸いして、台湾はなんとか鎖国状態での自給自足体制を続ける事が出来ていた。そして世界のどの国も、残された人類の希望となったこの国に、軍事的行動を起こす事はなかった。

「どれだけ時間がかかっても解明して下さい。研究が続いている事が私たちの希望ですから」

「OKだよ、YUKIE。当然だ。我々は全力を尽くすよ」

そう言うと、博士は通信をオフラインに切り替えた。世界の国々はぎりぎりのところで理性を取り戻し、台湾という人類にとっての隔離施設を残す事に成功した。だが日本は…私たちの故郷であるこの国は、一体どうなるのだろう。

プツン、という音とともに、また別のウインドウが画面に開く。通話画面の横にはSENDAIという文字が表記されている。モニターには私と同年代の男性の姿があった。

「幸恵さん、今日は少し手短にお話をします」

伊東正高。仙台で医療従事者として勤務していた男性だ。

「仙台はもう持ちません。限界です」

やつれ切った顔で、彼はモニター越しに私にそう言った。

「食料も医療物資も完全に枯渇しています。餓死者も…」

私は淡々とその報告を聞いていた。海外の一部の国では既に同じような状況が発生し、この回線を通して世界中に報告されていた。仙台のような地方都市ですらこうした状況なら、東京や大阪は一体どうなっているのか。すでに東京と大阪、どちらの都市にも、この回線を使用する報告者は存在していなかった。

「クリス博士に援助を要請するわ。医療品ならもしかしたら台湾から無人ドローンで・・・」

「いや、もうかまいません」

妙に落ち着いた口調で画面の向こうの伊東が言った。

「どのみち焼け石に水です。他国に負担をかけるくらいなら何もしないほうがいい」

「そんな諦めるような事!」

思わず声を荒げる。

「仙台の市民は最後まで従順でした。ただ、余りにも知識が足りなかった。食料が不足し過ぎて、もう犬や猫まで鍋にしましたよ!! それだけじゃなく他にも色々とね…」

まるで冗談のように伊東は言い、

「こんなふうに見苦しく争い続けて滅びるくらいなら、静かに終わりを待とう、そう言ってるんです。我々は」

と私に告げた。

「伊東くん、私は…」

私の言葉を遮るように彼は

「幸恵さん、あなた方は頑張って生き残って下さい。お祈りしてます」

そういって、回線を遮断した。

「…………」

どうしようもない気持ちになり、私は手元のキーボードを、バンッ、っと叩きつけた。

大阪だけではない、日本は、この国は既に地獄に入りかけているのだ。誰の目にも見えない未知のウイルスによって。

 

 

 

 

仙台からの最後の通信から、数週間が経った。

あの日を境に仙台エリアの通知アラートが点滅する事はなく。他の地方都市も次第に連絡が遮断されつつあった。

私は机の上に散乱した紙の資料を乱雑に整理し、そこに記載されている様々なデータに目を通していた。

資料には、世界の各都市におけるウイルス感染者の増加指数と年齢や男女比、所得状況など様々な数字が並んでいる。

「感染の経過と傾向、か…」

限りなく薄く入れたブラックコーヒーを喉に流し込んだ後、私は一人、考えを巡らせた。

私の両親が逝去した疫病流行の初期の段階では、ガーベラウイルスによる死傷者は圧倒的に老人が多かった。これは全世界における傾向で、例外は見られなかった。

その後、感染の蔓延と共に、徐々に中年、若年層へとウイルスは広がって行った。この時点でかなり強硬な移動制限や外出時のマスク装着の徹底的な義務付けが行われたが、それでもウイルス感染が減少する事はなかった。


今にして思えば、この時点で既にガーベラウイルスは特性を変化させていたのかもしれない。飛沫感染だけで蔓延したとは思えないほど、そこからの感染者の増加は凄まじかった。

「変異の特徴…」

左手に持ったボールペンを弄びながら私は独り言を言う。考え事をする時の癖だ。

「ダメだ。こんなの分かる訳が…」

思わず口に出して、資料を机にバサッと投げるように置く。

所詮は三流の文系大学を卒業した、研究者でも何でもない只の中年女性である。少ない資料を分析するだけで疫病の感染経路や対策を見いだせるなら誰も苦労はしない。

「何か、何かあるはずなんだけど…」

ふぅっと大きく息をつき、部屋の天井を見上げる。一息つこうかと想い、椅子から立ち上がったその時、玄関のチャイムがピンポーンと鳴った。

私は多少の用心をかんがえ、手に金属バットを持ちながら玄関のドアのインターフォンのボタンを押し、カメラの画像をオンにした。画面には、黒いライダージャケット姿の歩君の姿があった。

ほっと息をついた私は玄関を開け

「野菜の訪問販売ならありがたいんだけど?」

と軽口を言った。その私の顔を見て、彼は

「落ち着いて聞いてや。おかんが、感染したんや…」

と重々しい声で言った。

 

 

 

 

一瞬、彼の言葉に自分の理解が追い付かず、私は混乱しながら

「感染って。検査キットもないのに陽性かどうかなんて」

と慌てた声で言った。それを聞いた歩は

「アホなこと言うなや! 今の状況でせき込んで熱出して寝込むなんて他に理由がある訳ないやろ!!」

押し殺していた感情を爆発させたかのように、私に対してそう叫んだ。

「もうあの家で商売は無理や。在庫になってた野菜も、全部感染しとるかもしれん」

「………それで、おばちゃんは今は?」

「家で寝とるわ。もうほっといてくれって言うとる」

「…ほっとく?」

「出戻り息子の世話になるなんて世間体が悪いから、自分の事はほっとけってな。いよいよ商店の店じまいやって言うとる」

もう世間なんてものはほとんど機能していないというのに。こんな状況になって今更何を言っているのか。

「それであんた、自分の母親を見捨てて逃げてきたって訳?」

言葉に棘があるのは分かっている。それでも、私はそう言わずにはいれなかった。

「…うちのおかんはな、そういう言い方しか出来へんねん」

悲しそうに歩が言う。

「昔っからそうや。やれ世間体が、やれ人様が、いうてな」

彼は顔を歪ませて声を絞るように私に言った。

「そんなんは全部嘘やねん。ほんまは、俺を感染に巻き込まんようにそう言うたんや。そんなん分かりきっとるわ!!」

歩は目に涙を滲ませていた。私は彼にかける言葉が見つからず、ただ小さく首を振った。

「そんでな、これやねんけど」

しばらくして落ち着きを取り戻した歩は、1冊のノートを私に手渡した。

「これだけは厳重に殺菌と消毒をして保管しとったらしいわ。感染の問題はないて信じてええと思う」

「うん…一体、何のノート?」

「商品の仕入れ先の記録帳や。これがあったらうちやなくて他の場所でも商売が続けられるようになっとる。野菜やら、作ってるおっさんらの畑の場所とか全部書いとるわ」

私はなんとも言えない気持ちになり、そのノートを歩の手から引き取ってページを捲った。小さな田舎の村の周辺の地図が、そこには手書きで丁寧に描かれていた。

「おかんの事やから、いつかはこういう事もあるって思ってたんやろな。ワイはずっと実家におらんかったから・・・ゆきちゃん宛に色々と書いてあるねん」

そこには、畑から仕入れた野菜を長持ちさせるコツや保管時の注意、それにダメになりそうな野菜の食べ方などが丁寧に描かれていた。そして最後のページには

 

(ゆきちゃん、がんばりや)

 

とだけ、小さな文字が書いてあった。

「歩君、私、こんな…」

歩は二次感染を警戒したのか、私との距離を取ったままで

「そのノート、貰ったってくれや。おかんは自分の役割をゆきちゃんに引き継いで欲しいって思っとったんやしな」

とボソッと言った。

彼の優しい声を聞きながら、私は、おばちゃんの手書きのノートを胸に抱きしめて、子どものように声を上げて泣き続けていた。

 

(前編終了。後編は別の記事に切り替えて連載します)

 

2020年4月26日 未完

 

(続きます)

4月26日現在未完


短編小説 さくら散る庭 プレビュー版

2020年04月25日 | 小説 (プレビュー版含む)

 『短編小説 さくら散る庭 前編』 (プレビュー版)


(1)

 例えば、今まで見慣れた町並み。つい昨日まで確かにそこに存在していた何か。それが、いつの間にか突然に「消えた」経験が、あなたには、あるだろうか。

 昨日までそこにあったはずのお店が気がつけば空き地になり、先月には確かに見かけたはずの公園が何故かどこにもない。

 そんな出来事がもしあったとしたら、勘違いや見間違いでなくそれらは確かに「消えた」のだ。僕がこれから話すのは、そういった話だ。

(2)

 僕は、どこにでもいるサラリーマンだ。駅から自転車で二十分のワンルームのアパートに独り暮らしをして、不満を言えばきりはないが、まあなんとか人並みに暮らしている。

 四月になり、少し寒さが和らいでいた。仄かな暖かさを感じながら、せめてもう少し駅の近くに引っ越したいと思いつつ、今日も僕は自転車のペダルを漕いで家路についていた。

 このあたりは昔からある住宅街で、築四十年はあろうかという家が立ち並んでいる。そうした家々の中に、突然、薄い桜色の影を見つけ、僕は思わず自転車を止めた。

 小ささな、桜の木がそこにあった。ブロック塀に囲まれた狭い庭の中に縮こまるようにして、その桜は、薄桃色の花弁を鮮やかに輝かせていた。何故、今までこの桜に気が付かなかったのか。僕はしばし、その光景に目を奪われていた。

「どうです。なかなかのものでしょう」

 ふと気が付くと、隣に背広姿の初老の男が立っていた。
 
「私の高校卒業祝いに父が植えたものですから、樹齢四十年ってところです。花をつけるまではずいぶん苦労しました」

 長い話になりそうだと、少し及び腰になった僕に気付かず、その初老の男は話し続けた。
 
「それにしても儚いものですなぁ、桜の花は。あっという間に散ってしまう。まるで人の一生のようですなぁ」

「そうですね」

 仕方なく相槌を打つ。男の顔は暗くてよく見えないが、どうやら酔っ払っているわけではないらしい。

「君にはわからないでしょう。だが、いずれ、私と同じように思える時がくるでしょう」

 男はそう言って頷くと、一方的に話を終え、玄関へと歩き出した。

 僕はなんだか狐につままれたような気分になり、呆然と彼の背中を見送った。

 

 その初老の男のたよりなげな背中には、薄桃色の花弁が数枚ひらひらとこぼれ落ちていた。


(続く)



※同小説「さくら散る庭」の続きは、下記のサイト「erased memories」で掲載致しております。


篠原コウ 小説作品掲載サイト 「erased memories」