きっと忘れない

岡本光(おかもとこう)のブログです。オリジナル短編小説等を掲載しています。

短編小説 『流星の尻尾』 

2022年05月23日 | 小説 (プレビュー版含む)

『流星の尻尾』

 

私がまだ子をもつ親になる前、ずっと昔の事だ。

 

母が幼い茶色の柴犬をパート先の知人から貰ってきた。

 

その子犬は見た目は柴犬だけど本当は雑種で、ずっと引き取り手の現れないのを見かねた母が我が家に連れて帰ったのだ。

 

母はその犬にチロさんという名前をつけ、せっせと世話をやき、時間を作っては予防注射の申し込み方法や健康的な食事のあげかたなどを調べたりしていた。

 

私は一人っ子で、その時はまだ中学生になったばかりだった。ある日、突然我が家にやってきたその子犬に最初は少し嫉妬をしたのを私は今でも覚えている。なんで母は私にではなくてそんな犬にばかり構うんだ。私の悩みごとの話なんてろくに聞いてもくれないのに、と。

 

今にして思えば、母は当時反抗期真っ只中だった私と厳格で家庭を顧みない夫との間で板挟みになり、ペットを飼って少しでも自分の気持ちや立場を楽にしたかったように思っていたのだと思う。元々責任感は人一倍強い人だったから、犬を飼う以上はしっかりと準備を整えておこうという気持ちもあったのだろう。決して私をないがしろにしていた訳ではないことは、自分自身が大人になってからやっと分かった事だ。

 

ともかく、そうしてチロさんは私たち家族の一員となり、毎日家の誰かが彼女(チロさんはメスだった)を散歩に連れてゆき、そしてリビングでじゃれて遊んだりするようになった。当時の我が家はかなり険悪な雰囲気でギスギスとしていたがチロさんが尻尾を振ってまとわりついてくる時だけは父も母も私も笑顔だったように思う。古紙回収や焼き芋屋さんの車が家の近所に来るたびにチロさんが大きな遠吠えの声を上げるのには、困ったなという顔をみんなしていたけれど。

 

 

そうしていくらかの時間が経ち、元来がずぼらな性格の私はだんだんとチロさんの散歩を母に任せがちになっていった。父は仕事が休みの日には必ずチロさんと散歩に行っていたから、もしかしたらそれまでにチロさんと散歩に行った回数は私が一番少なかったかもしれない。

 

「日曜日の昼間にゴロゴロしてるんだったら、あんた、たまには運動がてらにチロさんと散歩に行って来たら? 」

 

我が家ではチロさんは敬意と愛情を込めて「さん付け」で呼ばれていた。

 

「えー、めんどくさい。トイレの世話とかあるし」

 

「それくらいはやりなさい。ほら、これ持って」

 

母はさっさと行けと言わんばかりに、お散歩用のひもとビニール袋とスコップを私の手に強引に押し付けた。私はしぶしぶ立ち上がると、よっこらせと言いながらチロさんが待つ玄関へと向かった。

 

玄関では、チロさんが黒茶色のきれいな尻尾を振り、くるくるとその場を廻りながら私のことを待っていた。普段そんなに世話をしてないのにいつも私の事を期待に満ちた目で見つめてくる可愛い奴なのだ。

 

「よし。行くよ、チロさん。今日はちょっと遠出をしよう!」

 

まるで冒険に出るように、私はチロさんにそう声をかけ、散歩ひもを首輪に付けると、玄関の扉を開けた。

 

チロさんはまるでバレーボールが弾むみたいな勢いで玄関を飛び出し、散歩ひもを握る私の手をグイグイと引っ張りながら前へ前へと進んでいった。

 

行き先はチロさんにおまかせだが、冒険をしたいという私の意図は伝わっているらしく、彼女はご近所のお散歩周回コースを外れた道を堂々とした足取りで進んでいく。

 

「こっちは確か裏山に入る道だよね?」

 

返事のかわりに散歩ひもがグイッっと引っ張られ、チロさんの進むペースがひときわ速くなった。

 

「水筒とか持ってくればよかった。自販機どこかにないかな」

 

そうやって30分は歩いただろうか。私は息をきらしつつ、周囲を見渡した。自販機どころか民家すらまばらである。このあたりには今まで一度も来たことがなかったなと思いつつ、手に握った散歩ひもに身体を引かれるように前へと進んでいく。

 

「アンッ!」

 

吠えるというには少々可愛すぎる声でチロさんが私を促す。目を上にやると、木々の間に小さな小道があった。

 

「えっと、ここに入れってことでしょうか?」

 

思わず敬語でチロさんにそう尋ねる。明らかに私が今まで一度も入った事のない、付け加えると今後も入ってみたいとは思わないであろう薄暗い山道である。幸い今は真昼間だが、もし夕方の日暮れ時だったら絶対に回れ右して帰っていたところだ。

 

「アンアン!!」

 

当然行きますよという調子でチロさんが鳴き声をあげる。

 

「しょうがないにゃあ」

 

この時間ならまだまだ暗くなることもないし、今日はお天気も快晴。そう心配することもないだろうと私はチロさんと一緒に山道に足を進めた。

 

道は進むごとにどんどん狭くなり山道というよりはケモノ道と言ったほうがいいありさまだ。チロさんは普段こんなところにまで散歩に来ているのだろうか。それになんだが視界も心なし悪いような。

 

おっかなびっくり足を前に出しもう何百メートル進んだのだろうか。チロさんはためらう事なく狭い道をグイグイと上へ上へと進んでいく。

 

「チロさん、さすがにこれはそろそろ引き返したほうが……」

 

そう言いかけたその時、ふいに私の視界がばっとひらいた。山道を抜け足を踏み出したその先には、緑の絨毯を一面に敷きつめたようなだだっ広い大草原が広がっていた。

 

「こんな場所あったんだ!?」

 

「キュン!!」

 

チロさんは嬉しそうに声を上げると全力で草原を走り出した。私はバランスを崩して豪快に草むらに転げた。

 

「あれ? 全然痛くないや」

 

緑の草のカーペットは柔らかく、倒れこむのが心地良いくらいだった。陽の光に照らされて、きらきらと地面が輝く。

 

「ワンワン!!」

 

チロさんはご機嫌でさんぽひもを地面に引きずりながら忙しく駆け回っている。元々首輪を抜けてひとりでこっそり散歩ができるくらい賢い子だ。ここならひもを外して好きに遊ばせても大丈夫だろう。そう思い、私はチロさんの身体からさんぽひもを取り外し

 

「好きなだけ運動してもいいよ! いっぱい遊んだら帰ろう!」

 

と声をかけた。チロさんは私の声に反応して顔の眉毛をクイッと上に動かし、尻尾をパタパタと元気に動かした。

 

大きな草原を駆け回るチロさんの姿は本当にきれいで、緑のキャンバスを走る金色の流星のようだった。美しく広いその場所には他に誰もいなくて、私とチロさんだけがその風景をふたりじめしていた。風はやさしくて太陽は暖かかった。私とチロさんと二人でずっとずっとここに居ていたいと思えるようなそんな場所だった。

 

その日から、チロさんとの散歩はわたしの日課になった。お天気やわたしの体調によって行き先は変わったが、わたしたちは親友のように色々な話をしながら散歩をした。緑色の草原は季節によって色を変え、でもどの季節も素敵なままで私達を迎えてくれた。

 

やがて私は高校生になり、そしてその三年後に都会の大学に合格した。遠い街への引っ越しが決まりバタバタと一人暮らしの準備をし、両親とチロさんに見送られ、大きな荷物を肩に背負い、私は生まれた街を初めて離れ一人暮らしを始めた。チロさんは状況をわかっているのかいないのか、尻尾をぶんぶんと振り回し私の出発を見送ってくれた。

 

 それから数年後、私は大学を中退し保険会社の営業として働くシングルペアレントになった。どうしてそうなったのかとかいう言い訳は書かないが、結果として私は娘を一人で育て、彼女を保育園に預けながら忙しく働き、懸命に毎日仕事と子育てをしていた。両親は娘と一度も会おうとせず、私も両親に娘を会わせようとはしなかった。たまに電話で母とだけは連絡を取っていたが、両親は何一つ事情を説明せずに勝手に大学を中退しそのまま一人きりで働く事を独断で決めた私のことをずっと許してはいないようだった。

 

 そうして娘が三歳半になったころ、母親から私たちのアパートに手紙が届いた。インクジェットプリンターで手作りされた絵葉書にはチロさんの写真と短い文面があり「元気にしていますか。チロもすっかりおばあさんです。先日、動物病院でもうそろそろ長くはないだろうと獣医の先生が仰られていました。どうか様子を見に来てあげてください」と書かれていた。

 

 私はチロさんのことを忘れていたわけではなかった。ただ私にとって都会の街での暮らしはあまりにも目まぐるしく、そして次々と身の回りで起こり続ける出来事に毎日翻弄され過ぎていた。チロさんと一緒に散歩をしていた14才の私の穏やかな日々はまるで遠い夢のようで、それが自分の現実だったとは思えないほどに私は疲れた大人になってしまっていた。

 

 母からの手紙が来てから数週間後、年末年始の長期休暇を利用し、私は小さな娘の手を引いて新幹線に乗り、初めての里帰りをした。実家は玄関も屋根の色も庭の飾りも全部、17才の春の旅立ちの日の時と変わらずにそのままで私と娘を迎えてくれた。

 

 実家のドアを開けると玄関の奥で、チロさんが毛布の上に小さくうずくまり眠るように息をしていた。私と娘を見て、チロさんはゆらりと尻尾を動かす。もう立ち上がる元気はほとんど残っていない様子だ。それでも、私たちの姿を見ると、よろよろと立ち上がり、ゆっくりと尻尾を上げて近寄ってきてくれた。私はチロさんを両手で抱き抱えた。

 

「ごめんね。ごめんねチロさん。ずっと会えなくてごめんね。歳をとって苦しい時に傍にいてあげられなくてごめんね。お散歩ずっと行ってあげられなくてごめんね。一緒に病院に行けなくてごめんね」

 

私はチロさんの身体をそっと抱き締めて、静かに涙を流した。チロさんは安心したかのように手足の力を抜き、尻尾を下ろして私に抱かれるままになっていた。彼女の身体からは、懐かしい暖かいおひさまの匂いがした。

 

娘はそんな私とチロさんを不思議そうに見て

 

「おおきなわんわん、かわいいね。さわってもいい?」

 

と、おそるおそるチロさんのしっぽに触れていた。

 

母親はそんな私たちに「今日はもう遅いから二人でお風呂に入って、早くお布団で寝なさいな」と言った。父は難しい顔をしたまま「よく帰ってきたな。遠いし疲れただろう」とぼそっと告げ、私と娘とチロさんの顔を交互に見るようにして屈み込んでいた。父はすっかり老け込み、なんだか一回り身体も小さくなったように見えた。

 

一度も聞いた事もないような両親の柔らかい声に戸惑いを感じながら、私はチロさんを玄関に敷かれたシーツの上に戻し、娘とお風呂に入る準備をした。それからすぐにチロさんは目を閉じて、くてっと身体を倒すと、すうすうとシーツの上で寝息を立てていた。

 

■■■

 

それから数日後、チロさんは静かに息を引き取った。

 

その何日かあと、私と娘は山道を抜けたあの草原を歩いて訪ねてみた。草原は整地され、緑はすっかり無くなって小ぎれいでありふれた児童公園になっていた。

 

「おかあさん、チロさんはどこに行ったの?」 

 

娘が公園のベンチに座りながらあどけない声で私にたずねた。

 

「うーん。どこだろうね?」

 

天国に行ったのだと言うのは、わたしにとっては何か違う気がした。

 

そのまま黙って娘と一緒に夕暮れの空を見上げていた私は、そこに一すじの流星を見つけた。生まれて初めて、私は本物の流星を見た。

 

その流星は光る尾を描いて輝きながら遠くの街に流れ落ちていった。あの日の緑色の草原を駆け回るチロさんの尻尾みたいに、きらきらと輝きながら。

 

私は娘の顔を覗き込み

 

「そうだ! きっとチロさんはお空にいったんだよ。お空からずっと見ててくれてるよ!」

 

と笑顔で言った。

 

娘は少し不思議そうな顔で、「お空? そっか」とだけ返事をした。

 

この子にとってはチロさんも私の父も母も、初めて会った知らない誰か。母親である私の複雑な気持ちの流れに戸惑うのも無理もない。それに、この子はまだ三歳。大切な何かを失う悲しさや、死の意味さえもぼんやりとしか分かっていない。今はまだそれでいいのだと私は思った。ゆっくりと、すべてはこれからだ。

 

でも私は、いつか君に読んでもらえるように、チロさんの物語を書こう。嬉しかったことも、悲しかったことも、切なかったことも、なるべく君に伝えられるように。そう考えながら、私は整地された広い公園の上に広がる大きな空を胸を張って見上げた。

 

そして、チロさんが緑色の草原を跳ね回る姿を、流星みたいに綺麗なしっぽを上向きに立てて14歳の私の目の前を駆け抜ける姿を、いつか文章にして君に伝えよう。私がどれだけチロさんを好きだったか、二人がどれだけ仲良しだったか、君にも分かるように。

 

私は夜空に流れて消えていった流星に向かって「チロさんがお空の草原で幸せに暮らせていますように」と小さく声に出して願った。

 

そして、しばらくしてから、「そろそろお家に帰ろうね」と、娘の小さな右手を撫でて言った。

 

娘は子供の頃の私とよく似た声で「うん!」と大きな声で返事をして私の手を強くぎゅっと握った。

 

空には流星がまたひとつ流れて、その向こうには私たちを見守るように星々が輝いていた。

 

(了)

 

 



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