朝日記171108 橋爪大三郎先生へ感想文を送ること と今日の絵
今日の絵は(The lady who watches something)と(Feld Einsamkeit for hamage to Jahanes Brahms)です。
~~~~~~ 橋爪大三郎先生へ感想文を送ること ~~~
橋爪大三郎先生
こんにちは。
先生の日経夕刊のコラムをたのしく読ませていただいています。
ありがとうございます。 10・31の「アメリカは物質文明の国か」は、橋爪節で、たぶん
Controversialであったであろうと推察しています。ちょっとショックを与えられたかなとにんまりして
います。 案の定、友人からは、以下の反応がありました。 放っておいてもよいのですが、此方の
頭の体操もあり、勝手に「翻訳」を書いてみました。 私の感想文としてお送り申し上げます。
絵を二点添付申し上げます。ご笑納ください。
荒井拝2017/11/08
記
感想 「エッセイ『アメリカは物質文明の国か』(橋爪大三郎)について」(荒井メモNo.8120から)
荒井康全
~~~~~~·
友人S氏からのコメント
一読して嫌~な気分になる橋爪大三郎のもって回った高説
今日の日経夕刊 『あすへの話題』 に社会学者 橋爪大三郎氏が ”アメリカは物質文明の国か” と題して次のような意地の悪い文章を書いている。
なぜ「意地の悪い」という誹謗とも取れる言い方をするのかは後で述べる。
...
~~~~~原文
(体調不良に付き続きは後日)
友人S氏への手紙
Sさん、続きを書いてください。私も今朝読みました。橋爪さんも、もうすこし丁寧に話を進めないといけないなあと思いました。内容とは違いますが「わかりましたか」という結びは、傲慢な心象を与え、不快でさえあります。しかしながら、彼の論ずるところは、傾聴に価するものがあるとみています。「アダムスミス問題」というのを去年、なんかで知り、所属学会の2015学会報の巻頭言に書いたことがあります。「国富論」と「道徳感情論」の間の論理的なギャップをドイツの超越論哲学からは、冷やかさせていて、いまも生きているようです。しかし、その違いありますが、彼らはアリストテレス以来のnoumenonとphenomenonの二元論構造は変わりません。noumenonのところでカントのように定言命令categoricalをとるかアングロ系のように仮言命令系をとるかの違いがありますが、phonomenonとの境界のnoumenon側で人間にドライブをかけているのは、自由意志と理性であり、それをドライブかけているのが超越的直観かれらはdivineといいうところで宗教的領域にはいります。かれらはここに哲学的メスをいれることはしません。まずしないとみています。(そういう勇気ある思想家はいたかもしれませんが)。
超越的なところと 理性的なところの境界についてですが、理性そのものが、キリストの再降臨まで、神が人間にあたえた叡智力(これはホッブスの主張ですが)としてみます。さて、最近、ひょんなきっかけで、John Stuart Millの「自由論」を読んでいます。 彼は、ご承知のように徹底した効用主義で、ベンサムの影響をベースにしています。しかし、そのベースは「危害論」といっていましたが、要は「他人に害を及ぼさなければなにをしてもよい」という自由意志を支持します。かれは、社会や人間が進歩することをつよく支持しますから、そのためには合理性がある行動、社会的に共有する目的をもつことを進めます。(釈迦に説法で失礼します)。ただ面白いのは、ギリシャ-ローマの多神教の時代には、共同社会の元締めである「国家」への忠誠、それにもとづく共通の価値としての道徳(virtueというのはもともと勇気という意味ですが)が称揚され、継承されてた。キリスト教が国教になって、なお、近代でもキリスト教が倫理観が基盤になってどう違ったかの彼の説明は面白くよみました。 創始者の教えは、政教分離でした。宗教側は世俗社会に対しては、きわめて消極的関与しかとらない。社会にたいしてはnegative ruleの姿勢です。それを考えるのはその人自身ですから、個人がベースになります。つまり、倫理性が優先し、道徳性は、逡巡し、ひとと相談、議論した結果の規範として合理性rationalityがベースとなると言及します。
個人は内省的であり、自分の自由意志が行動の基盤です。ここから功利主義、市場主義がうまれ、phenomenonの世界ですから物質とまじめにつきあいます。つまり、「物質主義」の形相をあらわします。しかし、noumenonの世界は、とくにプロテスタントの世界は、厳格な内省と信仰の世界で律せられています。神と自分との契約、それが優先します。社会は複数の自分がいますから、人間相互の関係はどうするのかという相克が当然でます。しかし、「神のまえにて」という語のあるように、神との契約が第一優先となります。人との契約は合理性rationalityにもとづき、ときにはげしく争いますが、ともかく決着点を模索していきます。 キリスト教は、止むを得ず、ギリシャ‐ローマの道徳律を便宜的には取り入れていますが、基本は神との契約に帰すということになります。 同じことでも大陸の方の超越論主義のプロテスタトは、非常にカント的な道徳律が優先するようです
以前に、友人の奨めで渡辺惣樹さんの日米歴史論を読みましたが、あの南北戦争での双方の戦死者の数、まことに壮烈な戦いにあらためておどろきますが、結局キリスト教徒はまじめに、戦争してしまいます。もともと道徳性については、消極的ですから、共有する価値の実現のためには議論し、精査してすすめる、つまり科学、実証主義が誕生する。云々になります。 橋爪さんの説明は、字数の問題があるにしても、乱暴なご説明です。人間の合理的行為はゴットが与えてくれるというのは、間違いではない。しかし、人間の自由意志のもとで、神との契約に忠実に実行している人間が「管理する」世界という意味であるといえます。そのすべてを包括して神が「する」ということでもあります。
橋爪さんとの質疑をよくしましたが、神様はなんでそんな人間をつくったのか。それでも神様は全知全能といえるのかという質問をしたことをおもいさしました。 それについては、さらに語りたくもあります。そのときの答えは、神は答えたくないことは答えないという落ちでありました。少々長くなりました。ここで一度を終わります。
~~~~~~以上
(The lady who iwatches something)
(Feld Einsamekeit to Hommage to Johaness Brahms)
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