良い本を電子化して残そう

管理人の責任において、翻訳、または現代語による要約を紹介しています。

賀川豊彦の生涯

2017年04月01日 17時06分19秒 | 紹介します
賀川豊彦を社会運動家ととらえる人も多い。しかし、彼は真の信仰者であり、神から託された使命を全うした人である。世の中には彼が成し遂げたものをもって彼を評価する人が多いが、彼が望んだこと、願ったことを理解し、今生きている者として彼の成し遂げられなかったことを少しでも実現しようとすることが最も大事なことだと最近私は気がついた。それで、彼の生涯を綴ったこの本を紹介したい。
 
 賀川豊彦の生涯
 兵庫県神戸区兵庫島上町にある「賀川回漕店」はたいそう繁盛していた。店主の賀川純一は商売上手で、郷里徳島県の産物「阿波藍(染物の原料)の輸送で財産を築き上げ、裕福な暮らしをしていた。
 しかしながら、彼は自分の家族のことはあまり顧みない男であり、正妻みちと別居し、芸者の萱生かめとの間に端一と栄という二人の子どもをもうけていた。
 やがて一八八八(明治二一)年七月十日、かめとの間にまた男の子が生まれた。純一は、ことのほか喜び、日頃信心している大麻比古神社の豊受大神から名前をもらい、豊彦と名付けた。
 「この子は将来出世するよ。五穀豊穣をつかさどる神様から名前を頂戴したからな」。純一は、かめにそう言った。後になってこれは、全く別の意味で実現した。
 豊彦はすくすくと育ち、四歳になった。家のすぐ近くが海岸だったので、彼はよく砂浜で遊んだ。遊び友達はたくさんいたが、なぜか少し経つと、彼らは意味ありげに目配せし合ったり、変な目で見るようになった。どうしてだろう? 彼は首をかしげた。
そんなある日、彼は男の子たちを相手に砂浜で相撲をとっていた。彼はなかなか力があって、相手を片端から負かしてしまった。
「この子は小さいくせに強いなあ。これはかなわん」。彼らは口々にそう言って引き揚げようとした。その時、負けた一人が、服についた砂を両手で払い落としながら、憎々しげにこう言った。「へん。偉そうにしていたって、お前は妾(めかけ)の子じゃないか」
 すると、仲間たちは急に白々しい表情になった。「こいつは力があっても、少しもいばれないのさ。やあい! 妾の子!」。彼らは思い切りはやし立てると、行ってしまった。
(だからみんなは自分のことを変な目で見るんだな。)ようやく豊彦は納得できた。あの優しい母は父の本当の妻ではなくて、遊び相手だったのである。これは彼を打ちのめした。
 そのうち、弟の義敬が生まれると、彼は少し慰められた。この弟が大好きで、終始背中におぶっては、どこへでも出掛けていった。彼は相変わらず近所の男の子たちと暴れ回ったが、その日も棒切れを振り回してチャンバラごっこをしていた。そこへ、熊吉という番頭が青い顔をして迎えに来た。
 「坊ちゃん、早くおうちにお帰りなさいな」。その様子がただごとでないので、急いで帰ってみると、父の純一が息もたえだえになって死を迎えようとしていたのである。豊彦が取りすがると、父はかすかに目を開けた。
 「お前の将来が心配だ。こんな父親を持って、かわいそうにな」。そして、苦しげに息をつくと、純一はそのまま息絶えた。かめの嘆きは大きく、彼女は幾日も泣き暮らし、日に日に痩せ衰えていった。
 年が明けて一八九三年一月二日。かめは下の弟、益慶を産んで間もなく、熱を出して重体となり、一七日の夕方、夫の後を追うようにして世を去った。賀川家の子どもたちは、天涯孤独の身となったのである。
 三十歳になる兄の端一は、父の店を継ぐことになり、幼い二人の弟は乳母のお駒に引き取られた。そして豊彦と姉の栄は徳島に住む正妻みちの所に身を寄せることになり、兄弟五人はばらばらになったのであった。
 この時から、豊彦のつらい日々が始まった。正妻のみちは妾の子である二人を憎み、気に入らないことがあると殴りつけたりした。
 「ああ、なんて不運なことだろう。妾が産んだ子の始末までしなくてはならないなんてさ」。みちは毎日こう言って嘆いた。
その年の四月。豊彦は堀江南小学校に入学した。しかし、ここでも彼は悲しい思いをしなくてはならなかった。
 「やあい妾の子。知ってるぞ。お前のお母さんは本当のお母さんじゃないんだろう?」。級友たちはこう言ってはやし立て、彼を仲間外れにした。豊彦は、いつも一人で吉野川の岸辺に行き、ザリガニやタニシとたわむれて過ごしたが、そのような時、いつもその頬は涙にぬれているのであった。
 そのうち、もっとつらいことが起きた。たった一人、用務員の娘ふじえだけは彼に優しくしてくれたのだが、たまたまその日、彼が傘を持って外に飛び出した瞬間、彼女とぶつかり、その日以来、ふじえは姿を見せなくなったのである。そして間もなく、彼女が肺結核で死んだといううわさが流れ、級友たちは、それが豊彦のせいだと一斉に非難をあびせた。その時、徳島に来た兄の端一から慰められたが、これは彼にとって一生消えぬ心の傷となった。
 兄の端一の勧めによって豊彦は、中学校の試験を受けることになった。そして優秀な成績でパスし、中学生となる。学費は、端一が負担してくれることになった。最初は寄宿舎に入り、2年後に片山塾に移った。ここは英語教師の片山正吉というクリスチャンが開いたもので、落ちついた雰囲気の中で、豊彦は熱心に勉強に励んだ。
 そのうち、友人の一人が近くの教会でアメリカ人宣教師C・A・ローガン博士が週一回英語でキリスト教の話をすることを教えてくれた。英語の勉強がしたい一心で教会の門をくぐった豊彦は、ローガン博士の柔和に輝いた顔と優しい響きを持つ言葉に心が癒やされていくのを覚えた。
 同じ頃、やはり宣教師として日本に来ていたH・W・マヤス博士は、自宅を開放して聖書の講義を始めたので、豊彦はこちらにも通うことになった。マヤス博士は、寂しそうな暗い目をしたこの少年を心に留め、困ったことがあったら相談に来るように言葉をかけた。
 そのうち、賀川家にさらなる悲劇が起きた。「賀川回漕店」を継いだ兄の端一は父親ゆずりの遊び好きの性質がたたって、商売に身が入らなくなり、芸者と遊び、家に帰らなくなった。商売は使用人に任せきりで、新しい事業を始めてひともうけしようと手を伸ばしたのが失敗。莫大な借金を抱えたまま破産したのである。そして豊彦への仕送りも跡絶えたので、彼は学費が払えなくなってしまった。こうして一九〇三(明治三六年四月、ついに「賀川回漕店」は倒産し、家族は離散した。
 それは小雨の降る寒い日であった。豊彦は、寄宿舎を出、叔父の森六兵衛の家に息子の勉強をみるという条件で住み込むことになった。荷物をすっかり入れると、彼は傘もささずに泣きながらマヤス博士の所に飛んで行った。
 博士は、彼の肩を抱いて庭に連れ出した。「さあ、見てご覧なさい」。博士は豊彦を青々とした芝生の上に立たせ、涙に濡れた顔を太陽の方に向けさせた。
 「涙を乾かして太陽を仰ぐのです。泣いている目には太陽も泣いて見え、微笑む目には太陽も笑って見えるのですよ」
この時から、豊彦はマヤス博士の聖書講座に欠かさず出席するようになった。そして、博士は彼の学費その他生活上の援助をしてくれることになったのであった。
 「私の書籍に入って読みたい本があったら読みなさい」。博士はそう言って、彼に力をつけさせるために洋書を貸してくれた。豊彦はわずかの間に英語をこなし、やすやすと英文と書物を読破できるようになったのである。
そんなある日のことであった。彼は級友の一人と話をしながら散歩をしていた。級友は彼の今までの人生の話を聞くとこう言った。「そんなに次々と恐ろしい不幸が降りかかるのは、君の先祖が犯した業のせいだよ」。そして、彼のもとを離れていってしまった。
 (そんな業を背負って生まれてきたのなら、この自分の人生には何の意味があるというのだろう。)彼の目に、淀んだ水に浮かぶ泡が映った。そして突然激しい喪失感を覚えた。発作的に川に飛び込もうと身構えた――その時だった。その肩に温かな手が触れた。
 「こんな所でどうしたの?」。驚いて振り返ると、よくマヤス博士の教会で見かける森茂という青年が立っていた。彼は将来材木商を営むために、材木屋に奉公に行っており、大きな荷物を背負っていた。
 「自分は生まれてこないほうがよかったんです。こんな自分なんか・・・」。思わず自暴自棄になってそう言うと、森茂は彼の手をしっかり握って、一緒に歩き出した。
 「神様はお見捨てにならないよ」。彼は言った。「われわれ人間なんて明日の命も分からない存在なのに、それでも神様はお守りになる。明日焼かれる雑草さえ養われるのだから」
 「こんなに遅く帰るんですか?」。そう尋ねると、彼は微笑した。「この近くに、ちょっと面倒を見てあげている人がいるもんでね」
 それから、森茂は彼の肩を叩くと言った。「自分のような者は何も言ってあげられないけど、どんな時にも神様は君のことをお守りになるということだけは忘れないでね」。そして歩み去った。
森茂の言葉は、豊彦の心に大きな変化を与えた。何の意味もないと思われていた自分の命が、神の前に尊いものとされていたのだ。
 一九〇四(明治三七年二月二一日。豊彦は徳島キリスト教会でマヤス博士から洗礼を受けた。この年の十二月九日。身を持ちくずした兄の端一が韓国で死んだという知らせが届いた。
 一九〇五(明治三八)年、豊彦は明治学院高等学部神学科に入学。ここの「ハリス館」に寄宿した。明治学院は美しい森となだらかな丘を持つ静かな環境の中にあり、彼は落ち着いて勉強することができた。またこの大学の図書館にはあらゆる本がそろっており、彼は片端から読みこなしていった。
 二年生の夏休みに徳島に帰った彼は、マヤス博士からあの森茂が誰も嫌がって面倒を見ないハンセン病患者の世話をしていることを聞き、心を打たれた。そして、この時から彼は、ただ机の上で勉強するだけでなく、全身全霊をもってキリストの愛を実践したいという激しい欲求に突き動かされるようになった。
 学校が始まってから、級友たちは、彼が時々姿を消すのを不審に思った。親友の中山昌樹がこっそりと後をつけたところ、彼は東の谷にぼろ小屋を建てて住んでいる「物乞い」の家族の世話をしていたのである。この頃から、彼は自分の身なりにかまわなくなり、破れた木綿のかすりによれよれの袴をはいてどこへでも出掛けていった。
 そんなある日のこと、どこからともなく異様な臭気が漂ってきたので「ハリス館」の者たちは騒ぎ始めた。そして、それが賀川の部屋から流れてくることに気付き、彼の留守の間に皆で踏み込んだ。すると、どうだろう。木製の本棚の後ろに置かれた木箱の中に汚らしい犬がいるではないか。痩せてあばら骨が見え、皮膚病にかかって毛は抜け、耳の後ろからうみが流れ出している。そこへ賀川が帰ってきた。片手には牛乳瓶が握られている。
 「おい、どうした。いいもの買ってきたよ」。彼は、犬の頭を優しくなでてやり、手のひらのくぼみに牛乳を入れて飲ませてやった。くってかかろうとしていた級友たちは何も言えなくなり、黙って引き揚げていった。
 それから二、三日後。誰かが犬を捨ててきてしまった。帰ってきた賀川は、ミカン箱ごと犬がいなくなっているので、気が狂ったように犬の名を呼びながら飛び出していった。そのうち、彼が勉強もそっちのけで犬を捜してさまよい歩くのを見て、級友たちは心配になってきた。
 その日は雨が降る寒い日だった。「こんな日に出掛けたら、風邪をひいてしまうぞ」。皆で引き止めたが、彼はその手を払いのけて出掛けてしまった。そこへ二、三人の上級生が来た。そして、何を騒いでいるのかと聞くので、中山昌樹が一部始終を話した。
 「こんな雨の中を。あいつ、いやな咳をしていたから、どこか悪いぞ」。上級生の一人がこう言うと、皆で彼を捜せと号令をかけた。そして全員で歩き回った末、ようやく雑木林の所で全身濡れねずみになっている賀川を見つけた。その時、3年上の上級生が言った。
 「すぐ帰れ。こんな雨の中を歩いていたら、体を壊しちまうぞ」「ほっといてください。あの犬のことが気になって、夜も眠れないんです」
 「よし、分かった」と、彼は大声で言った。「われわれがその犬を捜す。だから、お前は帰るんだ」
 この上級生こそ、後に明治学院大学の学長となり、教育界に大きな貢献をした都留仙次であった。彼はすぐに全員を率いて雨の中を歩き出した。結局、この犬はもう死んでおり、東の谷の人々の手によって埋められたことが分かった。
賀川を感傷的と笑う者もいたが、この事件は、弱者の痛みに対して深い感受性を示す彼の特質をよく表すものであった。
 一九〇七(明治四〇)年。賀川は明治学院高等学部を卒業。神戸神学校に入学することになった。しかし、開校を前にして、突然彼は吐血し倒れた。心配したマヤス博士は、彼を神戸衛生病院に入院させた。しかし、思わしくないので明石の湊病院に転院。約四カ月にわたる療養の末、いくらか回復の兆しが見えてきた。その後、彼は蒲郡に行き、駅から少し南東に下った漁村のある家を借りて療養生活をすることになった。
 こうした日々の中で、賀川は初めて筆を取って心に浮かぶ思いを書きつづっていった。そしてそれは『鳩の真似』という自伝風小説に結晶した。彼はそれを、明治学院の先輩で当時すでに名を成していた島崎藤村に見てもらおうと彼の自宅を訪れ、預けて帰ってきた。しかし、藤村は「これはあなたが出世なさるまで大切にしまっておおきなさい」という手紙を添えて送り返してきたのであった。
 その後も病魔に苦しめられながら、賀川はひたすら祈り、道を求めるうちに、死と隣り合わせたはかない自分の命を、日本で一番貧しく、一番惨めな人々にささげようと決心し、巨大なスラムのある葺合新川に住むことにした。
 一九〇九(明治四二)年一二月二四日。賀川は布団や衣類の入った行李、本、書棚を載せた荷車を引っ張って葺合新川のスラムに引っ越してきた。
車は一番人口の多い北本町六丁目の大通りを西に曲がり、十軒続きの長屋の二軒目のぼろぼろの家の前に止まった。彼が借りた部屋は、表が三畳、奥が二畳に仕切られていた。殺人があったらしく、壁には血が飛び散った跡が残っている。誰も借り手のない部屋なので、大家は月二円の家賃にまけてくれた。荷物を入れ、古道具屋から一枚一円二十銭の畳を三枚買ってきて入れると、何とか住居らしくなった。彼は新しい生活を前に、ひざまずいて神の導きを祈った。
 二日目の夕方、人相の良くない男が三人、肩で風を切って入ってきた。「ごめんやす。しばらくここに置いてくれへんか? 居る所がないよってなあ」。彼らは稲木、林、丸山と名乗った。賀川は快く三人を狭い家に入れ、同居させてやった。そのうちに、外でガヤガヤと人が騒ぐ声がするので見ると、新しく引っ越してきた彼に興味を持って、その辺りの人々が押しかけてきたのだった。彼らは珍しそうに窓から中をのぞき込んだ。
 皆髪はバサバサ。体は垢で黒光りし、冬というのによれよれの着物を着ていた。その中に、おかっぱ頭や坊主頭が混じっているのを見て、賀川は微笑した。手招きすると、彼らは鼻をすすりながら入り口までやってきた。ちょうどその時、マヤス博士からおもちゃの入った大きな行李が二つ送られてきた。
 「こっちへおいで。いいものがあるよ」。そう言って行李のふたを開けた途端に、わっと子どもたちが押し寄せてきた。「おもちゃおくれよう!」。彼らは下駄も脱がずに上がってきて、手づかみでおもちゃを奪い合った。
「あっ、だめだめ! けんかしないよ」。賀川は叫んだ。しかし、彼らは引っ張り合いをして、とうとうおもちゃをめちゃくちゃにしてしまった。それから、車がとれた汽車だの両手のとれた人形、引き裂かれた絵本などをしっかり抱えて帰っていった。「そうか。ここの子どもたちはおもちゃを買ってもらったことがないから飢えていたんだ」と、彼はつぶやいた。
 一二月二七日の夜のことである、稲木が園田というやくざをつれてやってきた。園田は餅屋に払うお金がないから五円貸せと言ってすごんだ。
 「私だってないんだよ」と賀川が言うと、いきなり彼は火の入ったしちりんを畳の上に投げつけ、刃物で障子をめちゃくちゃにした。「お前の顔にも傷つけたろか」。そう言って詰め寄ってきたので、とうとう我慢できずに賀川は家を飛び出し、海岸に行った。
 「神様、スラムに来たばかりで、もう自分は恐怖を覚え、心が弱っております。どうかこの新川の人々を愛する力をください」。賀川は、砂浜にひれ伏して祈った。すると不思議なことに、彼の中から力が湧き出してきて、自分を脅す男が少しも怖くなくなってきた。
 彼が家に引き返すと、園田はまだあぐらをかいて座っていたが、疲れたようにぼんやりと台所の方を見つめていた。賀川は家に上がると、ひっくり返されたしちりんに火を起こし始めた。「ああ、ちょうどいい。一緒にご飯を食べていらっしゃいよ」。賀川はそう言ってご飯を炊き、ありったけのおかずを出すと、彼と一緒に食べ始めた。
 「ところで、わいは金を借りに来たんや」。ご飯を食べてしまうと、また園田はすごんだ。賀川はため息をつき、たんすを開けると、全財産である二〇円をそっくり彼に与えた。「恩にきまっせ」と、園田は金をわしづかみにしてふところに入れると出て行った。賀川は荒らされた障子をはめ直すと、くたくたとテーブルの前に崩れ折れた。
 「おじちゃん・・・」。その時、戸口で叫ぶ声がするので出てみると、おかっぱ頭の女の子が鼻をすすりながら人懐こい笑いを見せていた。「おもちゃおおきに。いつもこれで遊んでいるんや」。そして、両手のとれた人形を見せた。「そう。いい子だね。名前は?」「花枝」
 すると後ろから、真っ黒な顔をした男の子がのぞいた。彼は全部車のとれた汽車を大切そうに抱えていた。熊蔵という名前だという。彼らの目は澄みきって、キラキラ輝いていた。(この暗闇のスラム街にも光があった。それはこの子どもたちの目に宿っている)。彼らを見送りながら、賀川はつぶやいた。
 すっかり仲良しになった花枝と熊蔵は、賀川にまつわりついて離れなくなった。そのうちに虎市というやくざの子どもも彼になつき、甚公、やぶさんといった仲間を連れてきた。彼らは、賀川がどこへ行くにも付いてきた。
 (そうだ。子どもたちのために日曜学校を始めようじゃないか)と、彼は考えた。(子どもの純真な心に神の愛を刻みつければ、将来何かの助けになるだろうから)
 そのうち、関西学院神学部の友人たちがボランティアとして来てくれることになったので、賀川は二軒おいた隣の家を借りて日曜学校を始めることにした。
 いよいよその日。鼻をたらした子、すすけた黒い顔をした子などが押し寄せてきた。中には下駄を脱がずにそのまま上がってしまう子もいた。また、ほとんどの子が乱暴に下駄を脱ぎ捨て、自分のものも他人のものもごっちゃにしてしまうので、整理するのにひと苦労だった。
 そして、話を聞いている最中にも大声でしゃべったり、けんかをしたり――で、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。やっと彼らを帰してしまうと、賀川たちはぐったりしてしまった。
 「まるで戦場みたいだな」と彼が言うと、「でも、こんなスラムに初めて日曜学校ができたなんて素晴らしいじゃありませんか」と、ボランティアたちは励ましてくれるのだった。賀川は、ここで始めようとする社会事業に「イエス団」という名前を付けた。
 続いて教会が始まると、あちこちから人々が集まってきた。賀川は、教養もなく、道徳的にもレベルの低いこれらの人々にどうやったら分かりやすく神の愛を伝えられるかと考えてきたが、良い例を思いついた。
 「神様の愛を例えるなら、赤ん坊のおむつを替える母親みたいなものです」。そう語ると、彼らはゲラゲラ笑い出した。
 「赤ん坊はね、おむつが汚れても自分で替えることができないから泣いて知らせます。そうすると、母親は夜中でもすぐに起きてそれを取り替え、自分の胸に抱いて眠らせます。ひたすらわが子を愛し、全てをささげるこの母の姿こそ、神様の愛そのものなのです」
 「へーえ、そんなものかね」。一番前で豆をポリポリ食べていた男が感心したように言った。
 そんなある日のこと。稲木が一人の車夫を連れてやってきた。「先生、こいつの家の赤ん坊がゆうべ死んだんだと。ところが葬式代が一文もないそうや。何とかしてやってくれ」
 一緒に車夫の家に行ってみると、布団の中にまるで猿の子のようなものが死んで寝かされていた。両眼はつぶれ、頬の肉は落ち、両手は枯葉のようにひからびている。
 「実は先生、五円でこの子をもろうてきましてな」と、車夫の妻が話をした。お金に困ったので、死ぬばかりになっている子を五円で引き取り、おかゆばかりをやっているうちに死んでしまったという。実はこのような「もらい子殺し」というのが貧しい人々の間で流行していたのである。
 賀川は涙をこぼして、たらい回しにされた赤ん坊を引き取り、「おいべろう」と呼ばれている死体処理人に火葬してもらったのであった。
 そこへ、また花枝と熊蔵が呼びに来た。「猫のおばあちゃんが泣いとるから来て」。彼らに手を引っ張られるようにして行ってみると、八〇歳を超える老婆が、ペタンと土間に座って泣いていた。そして、その周りには一三匹ほどの野良猫がすり寄ったり、頭をこすりつけたりしている。
 「おばあちゃん。テンティを連れてきたよ」。花枝がいたわるように言った。
 「先生・・・世の中、不公平だんなあ」。老婆は、泣きながら身の上話をした。彼女は以前に身寄りのない子を引き取り、自分はくず拾いをしながら育て上げた。しかし、女の子は成人するとだんだん老婆をばかにしてつらく当たるようになり、やがて結婚して子どもができると、家を追い出してしまったのだという。
 老婆は、幽霊が出るといううわさの家を安く借りて住み、怖いので猫を飼うようになった。そのうち生きることに絶望して自殺しようと首に縄をかけたが、途中で縄が切れて死ねなかったというのである。
 「確かに、不公平だと思えることが世の中にはたくさんあります。でもね、おばあさん」。賀川は、老婆のしわくちゃな手を取った。「本当言って、世の中は公平です。われわれが憎んでも、愛と許しをもって報いてくださる方がいるんですよ」
 そして、彼はイエス・キリストの話をこの老婆に聞かせたのだった。それからこの老婆は日曜ごとに教会に来るようになり、一三匹の猫も日曜学校の子どもにもらわれていった。
 その年の五月。「イエス団」の教会から少し離れた日暮通り四丁目にあるボタン工場から説教を頼まれて通ううちに、大道芸人の息子でその工場で働く職工の武内勝、芳夫兄弟が話を聞いて教会に来るようになった。そして、勝はそのうち洗礼を受けてクリスチャンとなり、後に賀川の片腕として「イエス団」を支える働きをするようになる。
 「新川は先生が来られてから、えろうよくなりました」と、くず拾いの男が言った。「殺人も減ったし、子どもたちも先生になつき、人の心が穏やかになりましたわ」。賀川の胸は熱くなった。そして、この愛する新川の人たちの生活を潤したいと、一膳飯屋「天国屋」を開くことにした。この時、中村栄次郎という人が協力を申し出たので、彼に一任したところ、この男は大変上手に店を回転させ、「天国屋」は大繁盛であった。
 しかしこの時、植木屋の辰という人がこの繁盛ぶりを妬み、中村が用いられたことに腹を立て、酒をあおって店に乗り込んできた。そしてテーブルを倒し、鍋を床に叩きつけ、二、三〇人分の皿や茶わんを粉々にした。それから、教会の台所の板を割って中に入り込み、斧で障子、棚、そして会堂のイスなどを叩き壊し、駆けつけた巡査に逮捕されたのだった。
 中村は疲労から体調を崩して暇を取り、その後「天国屋」は赤字続きの末、ついに閉店せざるを得なくなったのである。この事業は失敗であった。
 この頃、賀川は芝はるという女性と親しくなった。彼女は「福音印刷」の神戸工場で働く芝房吉の娘で、女工としてここで働いていた。賀川がこの会社の依頼でここに説教に来たとき、はるはその話に感動し、以来二人はいろいろな話をするようになった。そして、最低生活をする人々に奉仕がしたいという思いが同じであることを知ったのである。
 その年のクリスマス。賀川は生活困窮者のために食事会を催し、教会堂に入り切らないほどの人々を招いた。このために近くの教会の青年たちが応援に駆けつけ、芝はるも印刷会社を休んで手伝いに来た。彼女は教会の婦人会の人々に交じって食事作りを手伝い、来た人たちに赤飯をよそってあげたり、お茶を注いであげたりと、まめまめしく働いた。
 「おや? おみつさんはどうしたろう?」。突然賀川はそう言った。おみつというのは半身不随で寝たきりになっている女性で、人々が交代で面倒をみていた。賀川はクリスマスの祝会に彼女を招いてあげようと考えていたのだった。
「おみつさんなら、にわとり小屋に寝ておったよ」。この時、日曜学校に来ている子どもたちが教えてくれた。「垂れ流しになってしもたんやと。そいで、誰も面倒みる者がおらへんので、にわとり小屋に捨ててしもたらしいよ」
 どうせ彼女はもうじき死ぬから―と人々は止めたが、賀川はにわとり小屋に駆けつけ、すさまじい臭気を漂わせている彼女を背負って自分の家に連れて行った。
 するとはるは、早速教会から皆で作った吸いもの、かまぼこや煮物などのごちそうを運んできた。それから彼女の便の始末や着物の洗濯まで引き受け、自分の寝間着を持ってきて彼女に着せてあげるのだった。不思議にもこの時からおみつは「大腸カタル」が治ってしまい、普通の便をするようになった。
 この日を境に、賀川と芝はるは急速に親しくなり、一九一三(大正二)年五月二七日、「神戸日本キリスト教会」で結婚式を挙げた。司会はマヤス博士。司式は青木澄十郎牧師であった。東京や徳島からも多くの祝電が寄せられた。
 二人は、この新川で日本最初のセツルメント事業を始めようと計画した。この地域を救うためには、日本からまずスラムというものがなくならなくてはならない。そこから始めるには、伝道のほかに教育、人事相談、職業紹介、無料宿泊、簡易食堂などの事業を行うためのそれ相当の知識が必要であることを二人は同時に痛感した。
 それには専門知識を基礎から学ばなければならなかった。賀川は米国に留学することにし、はるも横浜の共立女子神学校に入学を決意した。彼の渡航に際してマヤス博士とローガン博士はそれぞれ百円ずつ献金してくれた。留守の間、武内勝が「イエス団」を守ってくれることになり、賀川は安心して全てを彼に一任した。
 また、この頃、昔さんざん彼を虐待した義母のみちが彼を頼って神戸に出て来ていた。そしてなんと、彼女は乏しいへそくりの中から百円を渡してくれたのだった。
 「体に気いつけてな」。彼女はポツンと言った。そしてこれが、彼女が口にする初めての優しい言葉であった。
 一九一七(大正六)年五月四日。賀川は米国のプリンストン大学でBD(神学士)の資格を取得して帰国。横浜埠頭には妻のはるが出迎えた。留守の間、「イエス団」の事業は武内勝たちが中心になって変わりなく守られていたが、はるの報告の中には幾つかの悲しい出来事があった。
 義母のみちが赤痢で死んだこと。献身的に教会で奉仕してくれた武内勝の母が過労で死んだこと。そして、勝と結婚の約束をしていたはるの妹ふみが、結婚に反対する武内の叔母のために虐待を受け、心身を患った末、急性尿毒症で死んだこと―などであった。二人は涙を流しつつ、彼らの冥福を祈るのだった。
 新川の長屋に帰ってくると、賀川を驚かせたのは住人の顔ぶれがガラリと変わっていることだった。あの懐かしい日曜学校の子どもたちはどうしたろう? 彼は路地から路地を回って彼らの姿を捜し求めた。
 「花枝はね、料理屋に売られていったそうでっせ。それから熊蔵と寅市はスリになって暴力団のやつらと生活しているそうな」
前からいるくず拾いの男がそう教えてくれた。賀川は目の前が真っ暗になった。「花枝はな、何度も何度もここに来て、もう会えなくなるから先生に一目会って別れが言いたいと泣いとったで」
 (おお神様! あの子どもたちをもう一度この手に返してください!)血を吐くような思いで彼は祈った。しかし、二度と彼らは戻ってこないような気がした。
 日曜学校にまた新しい子どもたちが来るようになったが、彼らを見ているうちに目の悪い子が多いことに賀川は気付いた。長屋では洗面器も手拭いも共同で使っているために、トラホームが家族全員にうつってしまうことが多かった。
 「汚い手で目をこすってはいけないよ」。賀川はこう言いつつ、町の医者から分けてもらった目薬を子どもたちの目にさして回った。
 七月になると、はるが共立女子神学校での学業を終えて戻ってきた。彼女は目薬を入れた小さなバケツを持って路地から路地を回り、目薬をさして回った。子どもたちはすっかりはるになつき、彼女にまつわりついて、どこに行くのもついて行った。
 賀川は、「イエス団」の事務所である2階の一室をこのために開放し、「イエス団友愛救済所」と大きく書いた看板を出した。  
 実業家の福井捨一が経費を負担してくれ、西宮の姫野医師が午後だけ診療に来てくれることになった。
 八月。はるは眼病を患い手術を受けたが、片方の目は失明に近い状態になってしまった。そして同じ時期に、はるの父親、芝房吉が亡くなるという知らせが届き、二人は打ちのめされた。
 しかし、同時に喜ばしいニュースがもたらされたのである。名古屋医大専門学校出身の馬島僴(まじま・かん)という医師が訪ねて来て、賀川夫妻と親しく語り合った。そして、彼らの窮状を知ると、一家をあげてこのスラムに移り住むことになったのである。
 馬島医師は、誠意を込めて人々の診療を行い、相談に乗ったりしたので、間もなく新川の人々は彼を慕い、何でも話すようになった。
 この頃から、賀川は最下層の人々が生きていくために労働問題と取り組み始めていた。米国で初めて労働者たちのデモ行進を目にしたとき、労働組合の理想が心の中にひらめいたのであった。
 彼は働く青年を集めて自治工場の建設に乗り出し、日暮通六丁目の工場を買い取り、モーターを設置してから彼らを大阪の歯ブラシ工場に見習いに行かせた。
 しかし、新川の青年たちは仕事を覚える気がなく、やり方も粗雑で、できた製品はひどいものだった。そのうち、彼らは部品を盗み出したり、金庫の金に手を付けたりし始め、結局工場を閉鎖せざるを得なくなった。
 一九一八(大正七)年七月二三日。富山県の漁夫・沖仲士の婦女五〇人余りが港に押しかけ、米の積み出しを阻止。その後、約三百人の人々が町の米屋を襲い、米を安く売ってくれるよう訴えた。これが「米騒動」の始まりだった。第一次大戦の影響で貨幣の価値が変わり、米の値段は日増しに上がっていた。
 八月一二日。新川の労働者たちも米屋を襲う。店をめちゃくちゃにし、放火した末に米を持ち去った。賀川は悲劇を未然に防ぐため、兵庫県庁に行き、清野知事に町中の酒屋を閉店させ、一週間の禁酒令を出してほしいと頼んだが、相手にされなかった。
果たして、暴徒化した彼らは酒屋を襲い、店中の酒を飲み干した末、棒や角材を振り回して大暴れした。ついに軍隊の出動となり、五百人ほどの警官隊が新川にやってきた。
 そして、必死で抵抗する人々を逮捕し、全身血まみれのその身柄を連行して行った。この事件は、やがて日本に忍び寄る不吉な影の前触れであった。
 「米騒動」は全国的規模に発展し、労働者を目覚めさせ、意識を高めることになった。この時から日本社会の中に社会主義思想が生まれてくる。
 一方、兵庫県の清野知事は、「米騒動」の深刻さを感じるにつけ、賀川豊彦の社会を見通す洞察力に感服し、あらためて彼を呼んで言った。「あなたはキリスト教に根差した博愛心と、日本社会を向上させようとする理想を持っておられる。あなたこそ労働問題に取り組むのにふさわしい人物と思います」
 そして、失業問題を解決するために、県営の職業紹介所を作りたいので主事としてふさわしい人物を紹介してほしいと依頼した。そこで賀川は、日暮里のスラムで働いている遊佐敏彦を紹介した。
 彼は、米国から帰った賀川を東京中に点在するスラムに案内し、必要な知識を教えてくれた人だった。遊佐は賀川の頼みを聞くと、日暮里を引き揚げて神戸に移ってきた。そして間もなく「兵庫県救済協会生田川口入所」が開設されたのだった。
 一方賀川は、米国から帰国した直後に「友愛会神戸連合会」から招かれ、「鉄と筋肉」と題して講演を行い、労働者の結束を呼び掛けた。反響は思いのほか大きく、一九一九(大正八)年四月にこの組合は「友愛会関西連合組合」と改称され、賀川は推されて理事長となった。そして鈴木文治らと手を握り、大阪に消費組合「共益社」を作った。
 一九二〇(大正九)年三月一五日。株式の大暴落があり、銀行の破たん、貿易会社の倒産が相次ぎ、不況が全国を覆った。新川の木賃宿は失業者で身動きできないほどで、新聞は毎日のように心中事件や自殺を報じ、犯罪も増加した。
 そんな時、川崎造船所の職工、青柿善一郎が同士を集めて購買組合を作ることを計画した。これを知った賀川は彼らと話し合い、労働組合運動と消費組合運動を同時に興していくことを決意。そしてその年の十月、「神戸購買組合」ができたのであった。
 ところで、労働運動が各地で高まりを見せるに従って、普通選挙の獲得ということが叫ばれるようになった。人々は自分も国民の一人として自らの意思で政治家を選ばなくてはならないという意識に目覚めたのであった。
 これに先立ち、大阪において、尾崎行雄、今井嘉幸(よしゆき)、そして賀川豊彦は馬に乗ってデモ隊の先頭に立ち、賀川が作った「普選の歌」を歌いながら行進した。一方、関東にも同じように政治運動を起こした一派がおり、彼らは暴力で要求を通して政治を変えようとしていた。
 十月二日。大阪天王寺の公会堂で「総同盟神戸連合会(旧友愛会神戸連合会)」八周年記念大会が開かれると、関東のグループも合流して討論会が開かれた。荒畑寒村の一派は赤旗を振り、大杉栄の一派は黒旗を振った。
 「暴力はある程度必要である!」。関東側を代表し、麻生久が叫んだ。「労働者は長い間搾取され圧迫されてきた。それにもかかわらず、政府が何もしてくれないなら、われわれはここで暴力を用いてでも政治を変えていかなくてはならない」
 彼らは一斉に拍手した。そして、関西側の意見を求めてきたので、賀川は言った。「確かに労働者たちはひどい扱いを受けてきました。私は彼らの苦しみをよく知っています。だから労働組合を作ったのです。しかし、いかなる場合にも暴力を用いてはなりません。剣を取る者は剣で滅びるというキリストの教えは、歴史始まって以来の真理です。暴力を用いたなら、目的を達成できないばかりか、その目的をも見誤ります」
 これに対し、関東側はやじを浴びせた。「無抵抗主義などに用はないぞ!」「引っ込め、ヤソ坊主!」
 その晩は、「共益社」の二階で皆一緒に寝ることになった。眠れずに寝返りを打っていた賀川は、自分の隣の大杉栄も目を開けていることを知った。二人は小声で話を始めた。そして、彼らの理想は労働者を目覚めさせ、生活を向上させるという点では同じであるが、たった一つの点で折り合えないことが分かった。
 「社会の改革は流血を避けていては永久に成し遂げることはできないのです」。大杉が言えば、賀川は彼に問い掛けた。「ではあなたは、目的のためにはいかなる手段を用いてもいいとお考えですか? その目的に絶大な信頼を置いているうちはいいかもしれない。でも、それに絶望したときはどうしますか?」
 すると、大杉はむっくりと起き上がり、正面から賀川を見た。「恐ろしい言葉だな。確かにそうです。目的に対して全てをささげられなくなったときは、死があるのみです」
 賀川が購買組合を作るために奔走していた頃、「改造」という雑誌の編集長、横関愛造と大阪毎日新聞の記者、村島帰之が賀川の事業に共鳴し、彼の自伝を「改造」に連載したらどうかと話し合っていた。
早速申し入れたところ、賀川は大切にしまっておいた原稿を取り出して彼らに見せた。「これは自伝風の小説ですが、私の人生そのものです」
 それは以前、あの島崎藤村が「出世するまで大切にしまっておきなさい」と言ったものだった。長い間眠っていた作品が、突然用いられる時が来たのである。
 『鳩の真似』は『死線を越えて』とタイトルを変え、一九二〇(大正九)年一月号から連載が始まった。すると、著名な作家やジャーナリストたちから「文章がまずい」「思想の寄せ集めにすぎない」といった手厳しい批判が浴びせられた。
 しかし、それを上回る反響があったので、その年の十月、単行本として出版されることになった。すると驚くべきことに、初版が出るやたちまち五千部を売り尽くし、一二月には八版を重ねた。
 「この小説は、青年たちの心に希望の火をともし、暗い社会の中にあって貧しさと戦いつつ苦闘している学生の心を奮い立たせた」。各新聞はこぞって激賞し、賀川の名は一躍有名になった。
 こうした時、川崎造船所と三菱造船所の労働者たちが、過酷な労働条件と苦しい生活に耐えかねて労働組合を作り、団体交渉権の確保を会社に求めた。しかし、会社側は応じないばかりか、交渉役の従業員を全て解雇した。
 そこでついに川崎造船一万三千人、三菱造船一万二千人の職工は、同時にストライキに入った。一九二一年七月十日。二万六千人を超える労働者たちは「死ぬまで戦え!」「労働者最後の一戦」と書いたプラカードを立て、町を練り歩いた。彼らのために何度も会社と交渉を行ってきた賀川はこの日、先頭に立って歩いたが、決して暴力を用いないようにと彼らを諭した。
 ところが、米騒動でこりた町の人々は、この大規模なデモ行進を見て、また店を壊されたり、放火されたりしてはかなわないと警官の出動を依頼した。
 そして、ついに街角で警官隊と労働者は衝突し、流血の惨事となってしまったのである。多数の人々が逮捕され、賀川自身も投獄された。しかし、その間にも『死線を越えて』は売れ続け、ついに日本最高の記録を出した。
 間もなく賀川は釈放。改造社の山本実彦社長は多額の印税を払ってくれたので、賀川は川崎・三菱の労働闘争の後始末のために三万五千円、警官と衝突し投獄されている労働者の家族に毎月百円ずつ送金、鉱山労働組合費用に五千円、そして残った一万五千円をそっくり使って「イエス団友愛救済所」の確立のため、財団法人を組織したのであった。
 一九二一年十月五日に日本キリスト教会の教職員会が京都で開かれると、奈良の旅館、菊水楼に十数名のクリスチャンが集まった。この時、賀川はキリストの贖罪愛を土台とする新しいキリスト教の運動を起こす必要性を感じて呼び掛けた。
 「今こそ私たちは、十字架で罪を贖ってくださったキリストの愛を胸に、共に祈り、手を携えて伝道と社会事業に奉仕していこうではありませんか」
 「イエスの友会」はこうして生まれた。そして、この団体は後に、災害に苦しむ多くの人に対し、涙ぐましい働きをするのである。
 またこの年に、賀川はもう一つ記念すべき事業を起こした。労働者以上に搾取され、貧困にあえぐ農民を救済すべく「農民組合」を設立したことである。
 彼は杉山元治郎に連絡をとった。この人は福島県で農村伝道をしていたが、社会運動をやりたいと考え、大阪に出て来た。そして、新川のスラムに賀川を訪ね、親しく語り合ってから、時が来たら一緒に事業を起こそうと約束を交わしたのだった。
 二人は十分に計画を練り上げた。一九二一年八月。大阪北区絹笠町の大江ビルの一室に法学博士、小川滋二郎を中心として社会事業家数名が集まったので、杉山が出席して事業内容を発表。ちょうど村島帰之が新聞記者として出席しており、彼は大阪毎日新聞にこの記事を大きく掲げた。
 反響は大きく、一九二二年四月九日、神戸下山手のYMCAで「農民組合創立大会」が開かれた。この年の末に、長男、純基(すみもと)を授かる。
 ところで、かつて賀川と激論を交わしたあの社会主義者、大杉栄は、新川をたびたび訪ね、次第に賀川と親しくなっていった。ある日、彼は長女の魔子(まこ)を連れて遊びに来て、ファーブルの『昆虫記』を借りて帰った。
 その時、なぜか賀川は嫌な予感を覚えたので忠告した。「大杉さん、軍部は社会主義者の弾圧を始めたから、どうか気を付けなさいよ」
 大杉は笑って、大きな手を差し出した。
 一九二三(大正一二)年九月一日。突然関東地方を強い地震が襲った。賀川は救助に先立ち、被害状況の調査をするため山城丸で神戸を出航した。
 はるは九カ月になる純基をおぶって「イエス団」の人々と共に荷車を引いて下町から山の手を回り、衣類の寄付を募った。三日午後八時半横浜に上陸すると、震災の後の現地は惨たんたるありさまだった。
 幾万もの避難民が行き交い、辺り一面焼け野原と化していた。彼はひとたび神戸に引き返すと、各地の教会を講演して回り、四〇の会場で七五〇〇円の献金を集めた。それから、イエス団から一二個、YMCAから二九個の救援物資を持って再び被災地に行った。
 死者・行方不明者約一四万三千人、負傷者約十万三千人といわれるこの災害で、東京の本所が最も被害がひどかった。崩れた家屋に死体は累々と横たわり、足の踏み場もない中で、孤児たちは泣く力もなくあちこちにうずくまっていた。
 「この世の地獄だ」。賀川は放心したようにつぶやいた。しかし、それから間もなく、彼は本当の地獄をその目で見なくてはならなかった。朝鮮人が井戸に毒を入れたとか町に放火したというようなデマが広がり、これは無知な大衆を巻き込んで大きな騒動となっていったのである。
 「朝鮮人を殺せ!」。暴徒と化した人々は叫んだ。そのうち、憲兵が朝鮮人をひとまとめにして連行していくのを見たという人がいて、こう話した。「憲兵がさ、井戸に毒を入れたろうと言ってやつらをそりゃひどい目に遭わせていたよ」
 間もなく、新聞には朝鮮人が俵に詰められて竹やりで突き刺されている姿だの、後手に縛られて体に火を押し付けられている姿などのイラストが掲げられた。賀川がバラック建ての官舎の前を通りかかると、辺り一面が血の海だった。昨夜ここで朝鮮人が殺されたのだという。
 「神様、日本人が血に飢えた狼のように凶暴になっていきます。どうか私たちを救ってください」。彼は涙と共に祈るのだった。
 九月一六日。夕刊に目を通した人々は、あっと声を上げた。「大杉栄殺さる!」という見出しで、社会主義者の彼が憲兵によって家族もろとも虐殺されたという記事が出ていた。
 「大杉さん・・・。だから、あの時忠告したのに」。賀川は溢れ出す涙と共につぶやいた。
 キリスト教は嫌いだが、賀川の理想には共感できると言った大杉。目的とするものに裏切られた場合は死あるのみだと言った彼は、その主義のために剣をもって闘い、剣によって滅ぼされてしまったのだった。
 十月十八日。賀川は本所区松倉町二丁目に救援センターを設けた。そして、米国から送られた五つのテントを張り、活動を開始したのである。この時「イエスの友会」の会員たちが来てくれ、神戸からも応援隊が駆けつけた。
 そのうち菊池千歳という女性が「イエスの友会」の事務や会計、炊事の手伝いをしてくれることになり、また「キリスト教婦人矯風会」の渡辺照子も奉仕にやって来た。彼女は寒風吹きすさぶ夜中に、浅草公園に寝ている人々に着物をかけて回ったのである。
 一一月一日。賀川のところに一人の大工がやって来た。田中源太郎という名で、賀川の事業に感動し、ぜひ手伝いたいと申し入れた。彼は大切に持っていた二〇円のへそくりを残らずささげ、翌日から炊事場を建て、机や椅子をこしらえるなどして働き出した。
 やがて、ここにバラックができると、神戸からあの馬島僴(まじま・かん)医師が仲間を連れてやって来て、無料診療を始めた。やがて事業の幅も広がり、伝道、社会事業、組合事業、法律相談、職業紹介などの部門に分かれ、救急医療、妊婦保護、児童健康相談、ミルク配給、児童クラブ、勉強会、無料入浴などの活動も同時に行われた。そして、この事業所は「本所キリスト教産業青年会」と名付けられた。
 そんなある日のこと。内務省の生江孝之という役人がやって来た。彼はバラックに溢れる人々と不眠不休で働くボランティアを見て驚き、一体どうやってこの人たちに食べさせているのかと尋ねた。そこで賀川は答えた。
 「どんなに大勢の人々がいても、神様は養ってくださいます。私たちは、今まで不思議な方法で助けられてきました。今後も足りない食物を分け合い、最後のお米の一粒まで分け合っていきます」
 生江は感服し切ったように頭を下げ、帰って行った。
 五重の塔の下、ベンチの下、観音堂の下には、野宿している人が八百人もいた。賀川は浅草寺を訪ね、「気の毒な被災者のために公園内にテントを張らせてもらえませんか」と尋ねると、住職は快く承諾してくれ、以後二人は親しい友人となったのである。
一九二四(大正一三)年に入ると、賀川は眼病をはじめさまざまな病気に煩わされ、上北沢に家を借りて療養を余儀なくされる。
しかし、彼はその年の十一月から八カ月にわたり、世界一周の旅に出た。そして、ヨーロッパもアジアも戦争という暗い闇に脅かされていることを知った。
 一九二五年七月三〇日。御殿場の東山荘で開かれた「イエスの友会」修養会で賀川は「百万の霊を神に捧ぐ」と書かれた横断幕を背にして、今こそキリストの贖罪愛を実践すべきときが来たと語り、「神の国運動」の開始を宣言したのだった。
その一つの試みが一九二七(昭和二)年二月に開校となった「農民福音学校」であった。賀川はここで農村の青年たちに福音を伝え、人格教育を行うと同時に立体農業――山林を生かして農作物を生産する方法を教えた。
 この農業法は、やがて多くの農家を救うことになる。またこの年、吉田源治郎や馬淵康彦らが大阪に「四貫島セツルメント」を作ったので、「神戸イエス団友愛救済所」「本所キリスト教産業青年会」と共に賀川のセツルメント事業は三本の柱を地中に埋めることになった。
 「キリストの贖罪愛を全身で実践しているクリスチャンが日本にいる」。世界の人々は彼の働きを知ると、こう言って驚嘆したという。米国においては「賀川豊彦を支える会」というのができ、会員の一人ヘレン・タッピングは以後、彼を援助し、最も親しい友人の一人となった。
 一九三一(昭和六)年九月一八日。満州柳条溝(りゅうじょうこう)付近で満州鉄道が爆破されるという事件が起きた。一一月に入ると、日本軍は中国人が暴動を起こしたという理由のもとに、一斉に錦州を攻撃し始めた。出征兵士は殺意に目をギラギラさせて戦地に向かい、やがて日本に生々しい情報が流れてきた。
 「貨車に家畜みたいに中国人が詰め込まれて運ばれてきたが、扉が開いたときには下の者は押し潰されて、半分は盲目になっていたと。軍隊はやつらを追い立て、橋の工事をやらせたそうだ」
 「何も食べさせずに牛や馬のようにこき使って働かせた末に、動けなくなった者をひとまとめにしてガソリンをかけて焼き殺したと」
 賀川は両手で耳をふさぎ、床にひれ伏して日本の罪を赦(ゆる)してくださいと祈った。
 そんなある日のこと。立派な軍服を着た2人の軍人が訪ねてきた。最初賀川は、憲兵が自分を捕らえに来たのかと思った。
 「先生、われわれをお忘れですか?」。思わず、賀川の顔が輝いた。それは日曜学校で彼にまつわりついていたあの鼻たれの熊蔵と虎市だったではないか。
 「先生! 自分たちは軍隊に入ったのです」。熊蔵が誇らしげに言うと、虎市も続けた。「先生! 満州で大暴れしてきましたよ。やつらをこの銃剣で突き刺し、切り捨てて、日本の軍隊の力を見せつけてやりました」
 賀川は、くたくたと彼らの前に膝をついた。「先生、どうしてよくやったと褒めてくださらないのですか」「久しぶりに休暇をもらったから、報告に伺ったのです。では、先生ごきげんよう」
 そして、二人は敬礼をすると立ち去ろうとした。「ちょっと待て!」。賀川は、泣きながら駆け寄り、2人の軍服の裾をつかんだ。
 「熊蔵! 虎市! 私は君たちに人殺しをせよと教えたことがあるか。何の抵抗もしないよその国の人たちの血を流させるために君たちの面倒を見たのか」
 すると彼らは驚いたように顔を見合わせた。「なぜそんなことを言われるんですか。自分たちは日本を世界一の強国にするために昼も夜も戦っているんです」
 そして、彼らはもう一度敬礼すると、永久に賀川の前から姿を消した。
 一九三二(昭和七)年三月。日本軍によって満州国が建てられると、いよいよ国内には軍国主義の色彩が濃くなってきた。賀川は一九二二年創刊の雑誌『雲の柱』に毎号のように世に警告する文章を書いた。
「軍備において世界第一の国となるよりは、教育を重視し、徹底した民主主義に生きるべきである」「たとえ日本が世界一の強国となろうとも少しも誇れることではない。日本が本当に世界に誇れる国となるにはただ一つ、敵をも赦し、罪人を救うキリストの愛によって平和を守り抜くことである」
 たちまち、賀川は日本中から批判や中傷の言葉を浴びせかけられた。「国賊! 非国民!」。しかし、このような中にあって賀川は、貧しい人たちが最低限の医療を受けられるために「医療組合」を立ち上げたのであった。
 そんな時、三陸地方に激しい地震があり、多くの死者が出た。続いて津波が押し寄せ、大惨事となる。賀川は、直ちに「イエスの友会」のメンバーを集め、被災地に救援隊を送り出すとともに、自らは連日大きな荷車を引いて東京各地を歩き、衣類や食料の寄付を募った。
 それから一カ月もたたないうちに、今度は関西で風水害があった。賀川は災害地の人々を救助するために大阪、東京間を何度も往復した。この時の「四貫島(しかんじま)セツルメント」の働きは素晴らしいものであった。東京からも「イエスの友会」のメンバーが駆けつけて救援に当たった。
 関西の風水害の後始末も十分にできないうちに、今度は東北地方で飢饉が起こった。賀川は「日本キリスト教連盟」の総会に提案して、飢餓の農家と親類になって子どもを一年か二年引き取って世話をする「親類運動」というのを始めた。この素晴らしいアイデアで、多くの農民が救われたのであった。
 彼は連日農家を訪れ、飢餓の家庭の子どもをクリスチャンの家庭に預けたり、捨て子を施設に入れたりと息つく暇もなく働きかけた。
 そんなある日のこと。東北地方のある町を通りかかったとき、一軒のうらぶれた酒場からどきつい化粧をした女が出てきて彼の袖を引いた。
 「ちょっと寄っていらっしゃいよ」。そう言って中に誘い込もうとした。「急いでいるもんでね」。そう言ってその手を振り放した瞬間、賀川の目は相手の顔に吸い寄せられた。どこかで見た顔だ。この目、この口もと。
 「花枝ちゃん!」。彼は叫んだ。「あんた、新川にいた花枝ちゃんじゃない?」。相手もしばらく彼を見つめていた。――とたちまちその目が涙でいっぱいになった。しかし、それもつかの間で、その目にはずるそうな表情が浮かんだ。「知らないねえ。そんな新川なんて所聞いたこともないよ」
 そして中に入ろうとした。賀川は必死でその袖をつかんで引きとめた。そして、ふところから財布を出すと、ありったけの金を彼女に握らせた。それから急いで連絡先を書いた紙をその手に押しつけた。
 「おい、そんな所で何をしている」。その時、やくざ風の男が中から出てきた。「この旦那からお金をもらったのさ」。そう言うと、彼女は男と一緒に中に入っていった。しかし、その時、賀川は見た。そむけた彼女の痩せた頬に、涙が一筋伝うのを。
 彼の目の前に、手のとれた人形を抱いて笑いかける、おかっぱ頭の女の子の姿が浮かび上がった。花枝ちゃん・・・。彼はその名を呼び、号泣した。この子もまた、彼のふところから奪い去られたのだった。
 一九三七(昭和一二)年十月。盧溝橋事件が起こり、それは日華事変となって拡大していった。ついに日本国内は軍国主義一色に塗りつぶされてしまった。自由主義思想を持つことは一切禁じられ、少しでもこのような主義を持つ者がいれば、直ちに逮捕され、投獄された。
 やがて日本軍は中国へ侵攻し、陸軍部隊は歴史に汚点を残すような残虐行為の数々を行った。南京大虐殺は世界中を震え上がらせた。日本軍がこの地で行ったことは、あらゆる時代にあらゆる国でなされた蛮行に勝るとも劣らない恐ろしいものであった。
 一九四〇(昭和一五年八月二五日。賀川は松沢教会の礼拝で、日本国民は平和と無抵抗主義に徹すべきことを会衆に訴えた。
 「キリスト者の生活は、ハンセン病患者のうみをすすり、人の嫌がることを引き受けることです。また、自分を打つ者には頬を向け、相手が満足するまで打たせることです・・・」
 礼拝が終わると、彼と小川清澄牧師は憲兵に捕らえられ、「渋谷憲兵分隊」に連行された。そしてその夜、賀川は厳しい取り調べを受けた。
 「今問題にしたいのはこれだよ」。係官は、彼の前に一九四〇年版のカレンダーを投げ出した。それはヘレン・タッピングが編集し、米国でよく読まれている『カガワ・カレンダー』であり、四一年版の印刷途中で憲兵隊によって押収されたのだった。
 「中国の同胞へという中で、こう書かれている。日本の罪を許してください・・・心ある者は日本の罪を嘆いています・・・。こりゃ一体何だ!」
 賀川は黙したまま、自分のためには何一つ言い開きをしなかった。その後、刑法九五条に問われ、巣鴨拘置所に移される。外務大臣の松岡洋右は驚き、司法大臣風見章に迫った。「賀川さんをすぐに出せ。それができないなら、自分が代わりに刑務所に入る」
 これは大きなニュースとなり、間もなく賀川と小川牧師は釈放された。
 一九四一(昭和一六)年一二月八日。突然ラジオは、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃したニュースを伝えた。いよいよ太平洋戦争の始まりである。日本国内は異様な熱気に包まれ、右翼団体が力を伸ばしてきた。
 「むすび会」や「みくに会」は賀川豊彦の平和主義を嘲笑し、攻撃を加えた。ある評論家は彼のことを反戦主義の売国奴と非難し続けた。
 「賀川を殺せ! 彼の唱える隣人愛は国を売るもので、国体の本義に反するものである」。街頭にはこのようなビラが貼られていた。軍部当局の彼に対する監視は一層厳しくなり、彼の著作や小説の出版を引き受けてくれる所はどこもなくなった。
 本土の空襲はますます激しさを増し、東京には次々と爆弾が投下された。彼が長年にわたり力を注いできた「イエス団」の施設も「本所キリスト教産業青年会」も「四貫島セツルメント」も、そしてわが子のように大切に育ててきた「江東消費組合」ほか幾つかの生活協同組合もことごとく焼け、多くの人が死んだ。
 賀川は家にとじこもり、ひたすら祈りつつ、やがて来るであろう神の裁きをじっと待っていた。
 一九四五(昭和二〇)年八月一五日。賀川の予想通り日本は敗戦。そして、戦争が終わった。見渡す限りの焼け野原の中で、国民は心のよりどころをなくしていた。
 八月二六日。賀川は東久邇宮稔彦王首相の招きを受け、首相官邸を訪問した。首相は彼に重要な相談をもちかけた。
 「今や日本の道徳は地に落ち、人心はすさみ、誰もこれを救う力がありません。外国人への敵対心と憎しみを取り除かないとポツダム宣言の発表ができないのです。世界平和を目指して諸外国と日本を結ぶために活動する資格のある者は、あなたをおいて他にないように思われます。そこで人心を新たにするために、内閣に参与制度を作ることにしました。ぜひあなたも参与になってください。そして、どうしたらいいか、意見を聞かせてください」
 賀川は承諾して官邸を出た。それから、日本基督教団に出向き、教団としてどう行動するか話し合うことにした。その時、教団主事の木俣敏(きまた・びん)がこう提案した。
 「早急に国民に呼び掛けて、キリスト教徒もそうでない者も1つになって、過去における生き方、考え方を反省し、ざんげをする運動を起こしたらどうでしょうか」。賀川はこの考えに賛成し、教団の役員もこぞって賛成の意を示した。
 「ざんげ運動ですって?」。東久邇宮首相は驚いた顔をした。
 「そうです。まだ戦争が始まらない頃、ある有名な議員の方が来られて、日本の軍隊は世界最強だと言われました。私はその時、日本があたかも聖書で語られている放蕩(ほうとう)息子のような気がしたのです」
 「日本ほど恵まれた国はありません。豊かな作物、温順な気候、他国の侵略を受けにくい地形。それなのに、いつの間にか日本は平和に慣れきって、ぜいたくになり、富める者は貧しい者を搾取し、資本家と結びついて一大工業国となりました。しかも軍備を誇り、何の抵抗もしない他国を侵略し、残虐行為を繰り返した」
 「私はこの放蕩息子がいつか行き詰まり、破滅しないわけはないと思いました。果たして、日本は敗戦によって打ち砕かれました。今日本がなすべきことは、放蕩息子が本心に立ち返り、父に許しを求めてそのもとに帰ったように、国民が1つとなり、今までの生き方、考え方を反省し、ざんげをして新しく出直す以外にありません」
 首相はうなずき、手を差し伸べた。
 「ラジオを通してあらゆる人にざんげを呼び掛けましょう。老いも若きも、男も女も、職業のいかんを問わず、こぞって過去の思い上がりを改め、平和国家に生きる民としての一歩を始めるように」
 その日のうちに通達が出された。この時、米国の宣教師たちが援助を申し出てきたので、賀川はこの「国民総ざんげ運動」を基にして協力してもらうことができた。
 その後、彼は請われて「敗戦国の賀川ではなく、世界の良心としての賀川」の資格でマッカーサー元帥に宛てて手紙をしたためることになった。そして、この手紙が元帥の心を動かし、日米間の対立を和らげたのであった。
 米国からは外米、重油、薬品などの物資が送られてきて、日本国民の生活が支えられた。こうして、ようやく日本に平和がやってきたのである。
 賀川の事業施設も全て復興し、新たな働き人を得て、さらに力強く前進していった。彼はその後、多くの教会や学校を回って講演を続けたが、一九六〇(昭和三五)年四月二三日。その使命を全うして天国へと凱旋(がいせん)した。七二歳の生涯であった。