ネットで「庄内藩幕末秘話」をようやく購入。もちろんアマゾンである。
1868年(慶応4年)1月に戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)以降、
1869年(明治2年)5月に函館戦争(五稜郭開城)が終結する間の
奥羽列藩同盟結成に庄内藩がなぜ関わらざるを得なかったのか?
まして歴代藩主として名高い酒井家がなぜ、朝敵としての道を進んで
しまったのか?
この2つの点に関しての地元では全くと言っていいほど語られることは
なかった。
多分、私の住んでいた地域が庄内地方でも郷土意識が強い方ではなく、
いまさら過ぎた事を振り返ったところでなんの得があるのだろうという
諦めが半分というところと感じた。
気質的にあっさりしすぎるのもなんだが、そういえば先祖代々の本懐を
遂げねばという話はとんと聞かないのだ。
ただこれだけは言いたい。
明治維新以降、東北地方は政治的に不遇の時代という感じを子供ながら
感じてはいた。
ただなぜそのように思うのかは深く考えたこともなかった。
ところがこの作品を読んでみて、少しづつであるが合点のいく内容が
書いてあるのだ。
当時、江戸市中見回り役を幕府から命じられ、江戸の治安を乱し
乱暴狼藉を繰り返すテロリスト集団を擁護する薩摩に対して江戸の民衆
になり変わり取締りを実行しただけであった。
幕府から命令された役目に従っただけであり、会津藩と違い朝敵でもなく
当時の江戸の庶民から拍手喝采を浴びていたとも書いてある。
藩主である酒井忠篤が語る、次の言葉に深く感動した。
一部抜粋
「戦をはじめた余は大馬鹿者だ。しかし、余はこの庄内を、そして人の
道を守らなければならない。そのために、戦わなければならない。
意気地無し、人間の価値がないそのような名を後世に残すことは
できない。馬鹿者と言われながら、多くの人に恨まれ、薩長には仇敵
と狙われ、そして、負ければ腹を切らねばならぬ。しかし、そうで
あっても人の道を曲げること、庄内が人の道を曲げるような土地柄
であることを後世に残すことはできない。余は、庄内の人のために、
そして人の道のために、馬鹿にもなるし、命も捨てる。」
これである。
人の道。
なんて素晴らしい人物であろう。
鶴岡にある藩校到道館の精神をこの言葉が物語っていると言えよう。
1868年(慶応4年)1月に戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)以降、
1869年(明治2年)5月に函館戦争(五稜郭開城)が終結する間の
奥羽列藩同盟結成に庄内藩がなぜ関わらざるを得なかったのか?
まして歴代藩主として名高い酒井家がなぜ、朝敵としての道を進んで
しまったのか?
この2つの点に関しての地元では全くと言っていいほど語られることは
なかった。
多分、私の住んでいた地域が庄内地方でも郷土意識が強い方ではなく、
いまさら過ぎた事を振り返ったところでなんの得があるのだろうという
諦めが半分というところと感じた。
気質的にあっさりしすぎるのもなんだが、そういえば先祖代々の本懐を
遂げねばという話はとんと聞かないのだ。
ただこれだけは言いたい。
明治維新以降、東北地方は政治的に不遇の時代という感じを子供ながら
感じてはいた。
ただなぜそのように思うのかは深く考えたこともなかった。
ところがこの作品を読んでみて、少しづつであるが合点のいく内容が
書いてあるのだ。
当時、江戸市中見回り役を幕府から命じられ、江戸の治安を乱し
乱暴狼藉を繰り返すテロリスト集団を擁護する薩摩に対して江戸の民衆
になり変わり取締りを実行しただけであった。
幕府から命令された役目に従っただけであり、会津藩と違い朝敵でもなく
当時の江戸の庶民から拍手喝采を浴びていたとも書いてある。
藩主である酒井忠篤が語る、次の言葉に深く感動した。
一部抜粋
「戦をはじめた余は大馬鹿者だ。しかし、余はこの庄内を、そして人の
道を守らなければならない。そのために、戦わなければならない。
意気地無し、人間の価値がないそのような名を後世に残すことは
できない。馬鹿者と言われながら、多くの人に恨まれ、薩長には仇敵
と狙われ、そして、負ければ腹を切らねばならぬ。しかし、そうで
あっても人の道を曲げること、庄内が人の道を曲げるような土地柄
であることを後世に残すことはできない。余は、庄内の人のために、
そして人の道のために、馬鹿にもなるし、命も捨てる。」
これである。
人の道。
なんて素晴らしい人物であろう。
鶴岡にある藩校到道館の精神をこの言葉が物語っていると言えよう。