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救世の大事業、役小角(えんのおづの)のメッセージ

2018年12月04日 | 歴史関連
これは、あるチャネラーに語られた、役小角という方のものとされるメッセージです。役小角は、国常立尊が地上に転生された姿ではないかという事は、先立っての記事でご説明しましたが、ここでも、国常立尊について触れられております。また、その語り口も、言語こそ違え、国常立尊を髣髴させるものがあります。内容も現在の国常立尊ならば、その様に語られるであろうというものになっております。意味内容を変えないように編集しております。カッコ内は補注です。


(ここから)

そなたたちは、そなたたちの計画の重大性に少しも気づくことなく、おめおめと時を過ごしていること、そして、自らに甘いことを肝に銘じ、今後、少しの精進も怠ることなく、そなたたちの使命を果たし、本懐を遂げることを、私に、今日ここに誓いなさい。

これより後、天上の神のご計画は、地上に光をもたらし、法を伝えんが為にのみ存在し、今、その時が来たることを、そなたたちはわきまえなさい。

我は役小角。

我らは、その力を結集し、道なき道を開き、国を立て、そして、この地上を、神のお国、神の御心に沿う御国にするために、そなたたちを魔より護りておる。これより後、地上と天界とが一体になりて、そなたたちは我々の指導を受けて、この地上の使命を果たし、この地上の隅々に到るまで、国民たちに、神の御言葉を、光を伝えなくてはならぬ。

我らが力を最大限に発し、人々の心に届かんが為に指導することを、我は、今日ここに誓おう。

(ここからは、チャネラーの傍にいる或る人について語り、その人にも語りかけている)

この者生まれし時より、我は指導霊として、この者の後ろにいた。この者は、我と縁近き者。我の導きの中で法を学び、法力を学び、今まで用意をして来た。されども、この者が、我らが一門の者であるによりて法を学べども、そなたはそなたの使命を果たさねばならない。

頭で、法ばかり知っているからといって、いざとなると怖気づくような弱き者、うつけ者に、この救世の事業を任して行くことは出来ぬ。そなたはそなたの力、全身全霊の力を以ちて道を切り開け。それだけの力と、それだけの法と、それだけのパーニャパラミタを、もう既に学んでいるはず。その為に、今生、力を持ったということを知りなさい。

そなたは「これから明日のことは、何をすべきか判らぬ」と言うけれど、わしは、そなたに、ここのところ、気づかせ、本来の力をもたらす為に指導している。他の者の指導などはいらぬ。わしの声だけを聞きなさい。そして、本来の力を出し、法と法力と、全てが一体になりてより、この地上に、救世の大事業が具現されていくということを思いなさい。

法だけが入って、少しの危機感もなく、少しも行動力のない者たちが、ただただ、法だけを語るから、地上の隅々まで法が語り伝えられる、などと思うのは、笑止千万。わしの思いから見たらば「何を甘いことを言っておるか」と怒りそのものである。

我らが世界にも、表と裏があり、我らは、とても屈強ながら、阻害されたる思いの中にいた。しかし、今は、表も裏も一体となり、そして、日本神道とか仏教も、そういう全ての枠を超えて、天上界は一体となりて、この天上界から降ろされたる救世の大事業のクライマックスの中で、力を発揮しようとしている。そなたは、今、その中心にいるということを、わきまえなさい。

されど、そなたの欠点を、今言っておく。そなたは、今まで、法よりも法力のほうが強く、空回りし、一途に走り過ぎ、ぶち壊して来るということをしてしまった。

我らが荒神、国常立之神にしてもであるが、我らは、どうしても法力のほうが先に出て、周りの者との協調というものを欠いて、創造するよりも破壊に回ってしまうことが多かったかも知れぬ。今それを、法をじっくりと学ぶことによりて、両輪の中で事業をなしていくということを学んでいる。今、そなたにおいても、卒業試験だと思いなさい。

高橋信次、エル・ランティにより法を学び、数々の宗教遍歴の中で、心の教えは、もうたっぷりと学んだであろう。然れども、そなたの本来の力は、この地上で、道なき所に道を造り国を建てる、という意味において、国なき所に国を造り上げて、神の御国を建設して行く、ということに、その意味がある。我が使命と、そなたの使命を同じだと思いなさい。

神の国をこの地上に建立する、建国していくということ。それを以って国常立之神という名前があり、使命があり、役割がある。

そなたも、我と同じ使命であるということ。神の国というのはそういう意味である。今まで、多くの者たちが躊躇してきたことを、そなたは躊躇することなく、荒神の一神として、役割としてやりなさい。

今まで、そなたに多くの法を学ばせてきて、その方向に導いて来たのも我なり。我はそなたの守護霊にあらず。指導霊にあるということを思いなさい。そして、これより後、そなたが死ぬ時まで、最後の使命成就の時に入りたることを思い、そなたの使命の中で、あらん限りの努力をし、そして、己の才能を最大限に発揮し、この救世の大事業の為に、神の御為に、そなたは力を尽くし、思いを尽くし、命果てる時まで行動して、お役に立って帰って参れ。それが、わしの弟子としての、そなたに言い渡す使命である。

そなたは我が弟子なり。我が一門の者なり。そなたの力に、まず気づくことを以って、そなたは自分の力を出すのである。力に、才能に気づかなければ、その力を操ることもできぬ。裏が悪いとか、法力が悪いとかいうことではない。時には、法力を使ってしか、ものが解決出来ぬこともある。このように、初期に、道なき道をつくるフロンティア精神の最初の時においてこそ、我らは力を最大限に発揮するものなり。

モーゼ神においても同じなり。モーゼ神も、道なき道を造られ、初期の開拓者としての事業を起こされる方である。地獄において、悪霊の悪しき波動の中においても、我らは、そのようなものは、ものともせずに歩める者なり。

そなたも、そのような使命があるということを感じ、そこら辺のちょこざいな悪霊たちに怯え、怖気づくことなく、法を頼りとして、この使命を最後まで果たしなさい。そして、これから神の御国を建国していくのだ。そのための一助となり、一筋の光となって、そなたは足跡を残しなさい。

そなたの後ろでは、裏神、裏神道と呼ばれている荒神一同全てが、法力と、力と、エネルギーというものを後ろ盾にして、そなたを支えることを、指導することを伝えよう。

そなたには、占いなどというものは、一つの判断材料に過ぎぬということ。大事なのは、天上界の神々のお言葉を羅針盤として、自らの力を発揮し、この地上で、具体的に為せることを為して行くことだ。

これから、方法論に、様々な創意工夫と発展が必要になる。ただただ、力だけで押してもダメな時もある。されど力を発揮することも必要である。法だけ、頭で学ぶことだけではなく、我らは、体を使ってそれを体現し、道をつけ、切り開いて行くということをもって、荒神と呼ばれている。その力を、そなたも出しなさい。

その力があることを恥じることはない。今は、このように、最後の救世の土壇場の時である。皆が、自らの力の中に、才能を最大限に発揮することをもってのみしか、この窮状、追いつめられた状況を打開することは出来ないのだということを悟りなさい。

我らの出番も出て来たということ。裏神道、荒神一同、これからは表面に出て来るであろう。そのような者たちの力を、理屈が通らぬとか、荒々しいとか無礼であるとか言うような、そのようなうつけ者は放っておけ。そのような者に、仏国上、ユ―トピアなどは建立できぬということを伝えてやれ。

頭だけで何が出来る。多くの人々を一人でも救いたいと思うのならば、本当に愛を為して行きたいと思うのならば、我が身を捨てて、この道を切り開け。神のお心のために、命を捧げて仕事をなせ。そのことが出来ぬ者に愛を語る資格はない。愛の使者などとは、うつけ者。(霊界に)帰って来て、自らの意識の低さに驚くであろう。そのような者は置いて行きなさい。

さっきから聞いているとなぜだ。そなたたちは、なぜ、神の仕事のために命がけになろうと思わぬ。人間は大局を見て学ばねばならぬことがある。大局の中で、必要なことは何か。全人類を犠牲にしても、一人の仲間を救うことのほうが大事か。一人の仲間を置いて行ったとしても、その者は神の御心の中にいるのならば、神の御胸の中に抱かれているのであるのなら、必ずやいつかは気づいてやって来るであろう。

だが、全人類が滅び、死んで行こうとしている。その時に、一人でも多くの者を救って行こうと思わずして、そなたたちに、何が愛の使者と言えるのであるか。神の使者と言えるのであるのか。

その大局を見極める境地が、そなたたちにはない。なさ過ぎる。そのような安易な小さな友情のようなもので、このような使命が果たせると思うな。その厳しさのない姿に、我は非常に立腹しているということを思いなさい。

我々が、どのような思いで、天上界から通信を送っているか。天上界の神々が、どんな思いで、そなたたちに期待をして、この使命を預けているかということなのだ。九次元の方々、ミカエル大天使が、どのような思いで頭を下げて、この計画の続行ということをしておられるかという厳しさが分かっていながら、そなたたちは、いつまで時を無駄にしているのか、ということを我は言いたい。

その厳しさがなくてどうする。大局を見極める者だけが、この大計画を実行できるのである。小さな器の者に限って枝葉末節のことに関わり過ぎているのだ。そのようなものを、情を大事にすることは大事であろう。しかし、そなたたちは、大局の中で、全人類を、地球を救っていくという使命をも預けられているのである。そのことを思ったなら、今、何をせねばならぬか。何を切り捨て、何を実行しなければいけないかということぐらい分かるであろう。その厳しさが分からぬのならば、そのような者はここから去りなさい。そなたたちが去ってもいい。他の者が来るであろう。まだ時が満ちていない。多くの味方がやって来る。

神の為に命がけになり、やりたいと思っている者たちがいるのである。頭ばかり、頭でっかちで少しも実行力のない、核心に触れるような不退転の境地のない者に、本当の意味での力、人生の力は出ないということ。

学んだことが、本当に実行の中で生きてこそ、愛というもの、神理というものは、知恵という形を取って、この地上に現われ出るということ。

それは自分の命を捨てて、神の御心のままに、一人でも多くの神の子たちの為に、この地上を幸せにする為に、命を張ってこそ、我が身が散ろうとも、この我が身、生身が引き裂かれようとも、それは少しの苦もなく、命をかけて、この地上の仕事の為に体を張ることが出来るという、それが我らが生きる道である。

その時に、法力を使うことが悪しきこととか、理屈が通らぬことが悪しきことであるとか、そのような自己限定、小さな判断で自らの力を出し惜しみし、他者を愛するという愛を狭めて何になるというのだ。

そなたたちの思いというのが、本当の意味で知恵になっていないということを我はとても深く悲しく思う。もし、本当に、これだけの霊言を聴いている者たちであるのならば、体が動いて当たり前であろう。これだけの神々の期待が自分たちにかかっているのであるのならば、小さな自分など打ち捨てて、自ら行動して当たり前であろう。

覚悟を決めるのにどれだけの時間を使ったというのだ。これから、あとから来る者たちが短い間に覚悟を決めていかねばならぬ。今までと同じことが、いつまでも、百年でも、千年でも続くような思いで、悠長な気持ちでいるから、このようなことが起きるのである。やる気のない者は置いて行きなさい。それが愛であるということ。

これからは実行部隊が動く時であり、実行できる、やる気のある者たちを、呼び集めていく時がやって来る。その時こそ、我ら裏神道、荒神一同が出て来て、道なき道をつけるという時期が始まっているのだ。

知恵の、法の編纂というのは、仏陀光線の、黄金光線の方々がしっかりとやって下さっている。そして、その核となるものを、そなたたちは大半作り上げて来ている。そうしたら、それを、いかに具体的にし、一人でも多くの人を、本当の意味で、最後、魂のレベルで救って行けるかと思うことが愛ではないのか。

それが愛ではないのか。神の使者としての役割ではないのか。そんな簡単なことがなぜ分からぬ。なぜ実行できぬ。なぜ決意できぬのか。それを我に言われなければ分からぬのか。

天上界の神々が毎回出られて、じーっとそのことを、言いたいことを我慢されて、数々の叡智を、メッセージとして伝えて来られている。誰も荒々しく怒る者はおらぬであろう。だから、我が、今日来て、そなたたちを叱って行かねばならないかと思って出て来た。

だが、この思い、必死さが、そなたたちの惰性の中で、なくなって来ているから、そなたたちは、もう一度、原点に帰らねばならぬであろう。その気持ちが出来ぬのならば、甘えた根性がある者は去りなさい。構わぬ。本物しか頂上まで行けぬということを何度も言われているではないか。

この時期に、一人でも多くの者たちを救いたいという、神々の必死の思いが分かっているにもかかわらず、このような傷をなめ合っているような姿で、そなたたちが神の使者というのは笑止千万。我らが世界であらば、一発で下のほうに落とされてしまうであろう。

裏を、裏と言って侮ることなかれ。この力を以って八次元まで来る者たちもいる。どの道を使ってもよい。その道を使って九次元まで行かれる方もおられる。則ち、山の頂上に登るのには、いかなる道だとて可能であるということ。

どのような入り口からでも、階段からでも登って行けることを思うのならば、自らに神から与えられた才能と個性というもので、精一杯、正面から登って行き、自らを光らせて行きなさい。借り物では、少しも周りを照らすことにもならなければ、自分自身の力を出すことにもならぬ。

これから来る時代の前の、この初期の時代、道なき時に、そなたたちが、今、集うということ、それには意味があるということである。それぞれの役割を持つということで、我ら荒神の力も必要であることも、神々の御計画のうちにあるのである。

今、仏陀光線の、知的に優秀な、日蓮聖人に率いられる仏門の方々がおられる。そして、芸術関係を通して、一般へと広げていく為の方々も来ておられる。それと、我らのように、道なきところに道をつけて行く、方法論を提示して行く、念の力で道を切り開いていく者たち、全てが必要であるということ。どの者が欠けてもダメであるということ。

その中で、方法論の、意見の交換において、様々な軋轢、ぶつかり合いもあるであろう。しかし、それを受け入れられぬでどうする。その全ての役割を、神が期待されて、七色の光線を通して、人々に、個性と役割というものを与えられたのではないのか。

であるのならば、自分が理解できぬからといって、その者を排斥してどうするのだ。自分が理解できぬ者だからこそ、自分がないものを学ぶ。その姿勢があってこそ、自らの器を広げ、自分自身の中で学びというものが深まるのではないのか。

その謙虚さがないから、自分が持ってることだけが最大であって、最高であるという驕り高ぶりがあるということを、そなたたちは分からぬか。そのような、自分だけが知の頂点で、知天狗になっているからこそ、このようなことが起きるということ。

小心であるというだけではない。自らの中に自惚れがあるから、このような判断をするのであるということ。それが非常に隠されているから、判らないかも知れない。だが、そのような驕り高ぶりがあるということ。自分にはない素晴らしさを持っている者たちがいるからこそ、神の国というのは成り立っているのである。宇宙というものは構成されているのである、ということが認識の中にあれば、他者の違い、意見の違いというものを互いに学ぼうという歩み寄りがあるはずであり、理解し合おうという意見の交流があるはずである。全てが、神がお創りになった素晴らしいものであると、尊重し合う気持ちがあるはずである。

それがないということには、自分の世界だけを偉しとする気持ちがある。どうしても知に頼る者は、それだけが全てであり、最上のものであると思い、自らの狭い世界を閉ざし、最高であると思ってしまう。そして、法力を使う者たちを侮り、軽蔑したような目で見るかも知れぬ。

だが、いつの時代でも、日本武尊神でもそうであるが、先ほど出られたアレキサンドロス大王、マリア・テレジアと呼ばれる、ああいう戦闘系の方々は、我々の言う、法力、念の力は、非常に強いものをお持ちである。

そのような者たちが、常に時代の大きな骨格、国の体制、政治体制の骨格というものを造って来られた。そういうルーツがあるのならば、そなたたちが、これから、神の国、大ルネッサンスという、精神活動を通して、新たな神の御国を建立する、建国して行くということに、躊躇することなく自らの力を発揮しなさい。、そして、自分にないものから学びなさい。

そなたに(今生の)前半、法をたくさん、たくさん学ばせたのは、そういう意味である。そなたの欠点が出ぬように、なるべく多くの法を学ばせ、そして、ちゃんと知的な法の判断をして、これから、そなたの本来の力を出させるために、我は指導して来たつもりである。

そなたは、我が、非常に頼もしい、優等生の、我が自慢の出来る弟子であると我は思っている。そして今、高橋信次、エル・ランティより呼ばれ、ここにいる栄誉に浴したということを、我が身の最大の幸せと思いなさい。そして、ここで出来る限りの恩を返していきなさい。

高橋信次氏に呼ばれたということが、どれだけ栄誉に浴することか。我が指導することが、どれだけ栄誉に浴することか。そして、これから後の第三の計画において、そなたがいるということが、どれだけ栄誉に浴するかということを、そなたは、まだまだ分かっていない。

今、この巫女、この方を通して、我々の言葉を地上に降ろしている。それには成功している。だが、このような、知を降ろすということだけ、であるのならば、高橋信次、エル・ランティ、仏陀が降ろされた法というものも、すでに文書として、法として書物になっている。

それでも実行出来なかったという、第二の計画までの失敗があるから、逆に、法を地上に降ろした後に、この地上にどうやってそれを広めて行くか、これを(一般の人々に)伝えていくことが可能か、そして、曲がらずに、そなたたちが最後まで駆け抜けて行くことが出来るか。それが、これからの本当の山場になるということ。ここから間違ったら、また第二の計画までの失敗と同じではないか。

高橋信次は、あれだけの素晴らしい法を残された。本を残されたではないか。仏陀も素晴らしい書籍を残されたではないか。だが残しただけでは世の中は変わらぬ。それを人々の心に届けて、それで国家体制を変えるぐらいの力、影響力を持ってこそ、この救世運動は成功したというのだ。

それを、これから出していくには、一人ひとりの力が、どれだけ発揮されて行くか。その覚悟があるかということ。その方法論を、地上の者として必死に問いかけ、編み出していくということ。いつまでも、いつまでも知識の中で、法悦にひたることだけで、時をむやみに過ごすことなかれ。

今、もう既に、アメリカなどで多くの者たちが犠牲者で命を落としている。これから地球規模の大災害が起きてくる中で、少しでも世界の果てまで、この神理、価値観というものを伝えなかったならば、知って亡くなっていった者たちと、知ることなく逝った者たち、時が遅ければ、それだけ多くの者たちが、知らずして天上界に帰って来るのだ。

少しでも多くの者たちに伝えていけるかどうか。それは、そなたたちが、どれだけ迅速に行動でき具体的な行動が出来たか、ということにかかっているのだ。

最初、初期の頃、この方のアンテナを復活し、これだけの精度で地上に降ろすということに、我々は非常に心を砕いてきた。だが、これだけの神理知識が降りて来ているのに、それを具体的に広めていく手段になると及び腰になるというとは、どういうことであろうか。本当に人を救いたいと、本当に人を愛したいと、本当に神の思いに感謝して報いたいと思っているのであろうか。その行為、感謝行を以ってしか、神の使者としての使命はない。仕事はないと思いなさい。

これから、法というものをまとめ上げ、それを解りやすい形で編纂しなさい。黄金光線の者たちよ、仏弟子たちよ。今学んだことを、これだけ膨大なものの中から、誰が聞いても、女、子供が聞いても解るような形で、大事な所だけを、因果法則、原因結果の法則、魂の永遠性、根本的な非常に初歩的なものだけれども、そういうものをまず小冊子にせよ。

よいか。まずそれを、一冊渡せば、簡単な、永遠の生命という、からくりが分かるというものを、小冊子でやりなさい。

色々な霊人の言葉を無闇に並べることよりも、まず、いちばん大事な、根本的な精神というものが伝えられているはずである。それをまず伝えなさい。その中に、数々の霊人が言われたことを載せていく。それを分かった上で数々の霊言を聞かねば、多くの国民たちは分からぬ。

まず、永遠の魂があること。転生輪廻があるということ。神が愛そのものであるということ。我々は神の子であるということ。(神が)愛の光そのものであるということ。そして天上界が一つであること。全ての宗教が一つであるということ。

そういう簡単なことがわからないから、世の中の、世界中の混乱があるということ。そこをまず、まとめ上げなさい。簡単なことから始めるのだ。多くの者たちには、赤子に口に含んで伝えるように分からせなければならぬ。それが愛である。

一人でも多くの者たちを救ってこそ、愛というものは具現化される。自分たちだけの知によって、その陶酔の中だけで独りよがりになっているのならば、人々に対する愛のある行為ではないということ。そのことを、もっともっと分からねばならぬ。

我にとって、愛とは、信仰とは、実行あるのみである。一人でも多くの者たちを幸せにしてこそ、愛してこそ、多くの人々に神の御心を伝えられてこそ、我は、その神の使者としての使命がある、と、心から思っている。

実行なき者、どれだけ頭が良くても、その時代の知に酔っている者などは、我は、神の使者としては認めぬ。そのような臆病者はいかん。我々のように、数々の実践に継ぐ実践の中で、真の勇気とは、叡智とは、神と繋がるということはどういうことか、そういうことを体を以って学ぶのだ。

法力というものは、間違った方向に使えば、すぐその場で反作用として体にぶつかって来る。だから我々は、自分が、何が正しかったか正しくなかったかを、体の中で、即、反応によって学ぶことが出来るのである。それが、我らが階段を上って行くための、修行の方法である。

知に酔っているときは、ぐるぐる、ぐるぐる回っていても、それが本当に正しいか、間違っているか分からぬものである。で、いつの間にか正しかったような、自分がまるで全てを分かったような、世界中の叡智を知ってしまったかのような錯覚に陥るのである。

だが、そのような道は我らはとらぬ。実践あるのみ。正しいものは正しい。原因結果の法則によって、正しい思いを出せば正しい結果として、他の誰よりも何倍も返ってくる。間違った結果を出せば我が身の苦しさとなって、すぐ反応が戻ってくる。それを以って我らは道を這い上がって来た。

そして、少しでも、一人でも多くの神の子たちを幸せにする為に、この国を幸せな国にして、統一していく為に、伝道という形でなくとも、その力を使い、国を平定し、広げてきた。それが、荒神と呼ばれ、戦の神と呼ばれ、自由の神と呼ばれている者たち、我々の仕事の役割であるということ。

そなたたちは、そのような開拓者精神で、神より与えられし素晴らしい叡智、メッセージを、これからこの地上に広めねばならぬ。その厳しさを、不退転の境地を持ってほしい。

次の世代の者たちが出てくる前に、そなたたちにも、そのような開拓者としての気持ちがなくては、次の世代の者たちに、ここに光があるのだということが伝わらんではないか。伝えていくためにも、そなたたち自らが光りなさい。

光り輝いて、自己限定することなく、どこまでも高く、のろしの火を、たいまつを掲げなさい。そうすれば、次の時代に生まれて来た者たちが、その光を求めて集って来ることができ、そして、彼らの使命を果たしていくことが出来るであろう。

よいか。自らの占いの方法を確立しようなどという、そのような小さな思いを持つことなかれ。占いというのは、あくまでも判断材料に過ぎぬということ。神の子が、神の子たち同胞を、少しでも幸せに出来るかどうか。この、神より与えられし、前代未聞の、神よりのメッセージを、地上に広げて行くことが出来るということ。その使命を以って、最大の使命となす。

そなたが、そなたの自分の名前を広げるがために、もし占いなどに関わったら、それこそ、裏の、裏としての下に堕ちてしまうということ。そのようなことをやっている暇はないのだということ。そこに自らの使命というのを悟っていきなさい。

我は、これから、そなたに直に指導していこう。分からねば、いつでも聞きなさい。そして、本来のそなたの力をこれから出す為に、この間から、現象というものを起こしている。怖がることはない。少しずつ、少しずつ自分の力に気づいていきなさい。

この巫女も、今、力が発揮されようとしている。まだまだ、ここに来て不安定であるけれども、もともと過去世において修行した者である。そなたも、過去世において多くのものを学んでいる。法力を非常に学んでいるということ。逆に、それを(今生の)前半で出すと、法を学ぶということから(外れ)自らの超能力に有頂天になり過ぎるから、閉じていたということがある。

だが、前半たっぷり、もう法を学んだのであるから、これからは、自らの持っている本来の、得意とする法力というものを出して、この神の仕事の為にその力を使って、ご恩に報いていく道を出しなさい。それこそが、我らが持っている、荒神と呼ばれている者たちの真の使命なり。

甘えたことはもう許さん。我が世界(霊天上界)に返って来ることは、甘ったれたことを言う者は許さん。我らが、直々で指導しているということを思うのならば、自らの心に厳しく思い、そなたの人生、最後、命果てる時まで、そなたの使命を果たしなさい。力を出し切りなさい。そして、問答無用で、この地上に神の国を具現して行きなさい。その為にそなたの守護をしよう。

そなたが生まれし時より、我は多くの守護をして来た。そなたを導いて来たということをもう思い出しなさい。そなたにとって、我こそが、本来の師であるということ。高橋信次師、数々の師というものを通して学んで来たであろう。今生の師というものがあるであろう。だが、我は、そなたの魂の師なり。それを思い出しなさい。そうすれば、そなたの力が出てくるであろう。

皆ここに来て、自分たちの力を出すことを、もう要求されている。新たに来た者たちが、自らの力というものを出すことにより、神々のお役に立つ時が来ているということ。お役に立ててこそ、過去世までの修行が報いられるというもの。

お役に立てぬ過去世の力など、何の役に立とうか。神のお役に立ててこその、我らが神の子の使命が果たされるというもの。修行の甲斐があったというもの。パーニャパラミタを蓄えて来てよかったと、真に喜び合えるもの。それなくして、増上慢の中で、自己の名声の為にその法力なんぞを使ったならば、それこそ地獄に直下で堕ちるやも知れぬ。それ位の危険の中にいるのが、我らが法力を扱いし者たち。自らをよく戒めよ。

法力を使う者は、少しでも、力を誤った所で使えば、直行で、真下の地獄界に行くと思いなさい。それ位の厳しさの中で、非常に怖い、恐ろしい思いの中で、一歩一歩を歩みながら山の上に上がって行くのである。されど、我らのように、ちゃんとその山の頂上に登って行ける者たちもいるということを、そなたたちの希望の原理として修行してほしい。

これからは、この者、この巫女を通じて、我は、そなたのことも指導しよう。そして、そなたたちにも、他の者たちにも言いおこう。これからは、そのような時代が、そのような局面が展開していく時であるということ。そして、自分が理解できぬ者だからといって排斥するような、そのような狭い思いを持ってはならぬ。そのようなことがあっては、この救世の大事業を果たせぬということを、そなたたちは思いなさい。

これから多くの者たちが集まって来るであろう。その者たちの力を最大限に引き立て、信頼し、愛し、そして、皆で、この、力を合わせた救世の大事業を、少しでも展開していくことを、そなたたちの目標として行きなさい。

失敗を恐れるよりも、精一杯やって失敗しても神々は決して怒られぬ。逆に、精一杯やることなく、ぶつかり合うことなく、最大限の努力をせずに、諦めてしまうような怖気者、小心な者、そのような者に対しては、神々は評価はなさらぬということ。それは最初の頃、モーゼ神が、そなたたちへの霊言で伝えているはずである。

失敗してもよい。精一杯やって来なさい。元々が、もう殆んど失敗しかかっている、この救世の事業である。これを、最後の逆転満塁ホームランで成功に導くには、最後、そなたたちの不退転の、必死さの思いがなければ、この救世の事業は成功しないのである。

だから、怖気づくことはない。もう駄目ならば、駄目で失敗するだけである。だが、失敗したくないから、最後の瞬間まで頑張ろうと言っている。そのような状況であるのならばこの期に及んで何を臆することがある。

どっちみち滅びていくのならば、最後まで努力をして、頑張ってエネルギーの限りを尽くし、情熱を以って散って、滅びていったほうが美しいであろう。その位の思いを持って、この救世の事業のために命がけで当たれ。

そのような命がけの思いがある者たちだけが寄り添ったときに、この事業は成功するであろう。それ以外で言うなら、もし隙があらば、言い訳を作るならば、排他的な思いをするならば、魔がもう、すぐそこまで寄って来ている。そなたたちの弱き心の中に、すでに巣食い始めている。その思いというのが、その危険が分からずして、その危険を中枢に引き込むつもりか。そのようなことがあるのならば潔く切り捨てよ。そのような思いで、自らの気持ちを、厳しく、厳しく統御することの中で、この最後の救世の事業を、魔に攬乱されることなく、神の御心のままに、自らの神性を光らせて、力を出して我らと共に、この成功を導く計画の中に生きようではないか。

そのようなことを思い、今日、我は、そなたたちにあいさつに参った。

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