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霊能力とアセンション、出口王仁三郎メッセージ、1987年2月

2019年01月01日 | 精神世界
今から30年程前に、あるチャネラーに語られた、出口王仁三郎という方のものとされるメッセージです。霊能力のあれこれについて「神通力」として語られています。タイトルは、こちらで付けましたが、本文中の語彙で言えば、「神通力とお立て直し」でしょうか。色々と編集をしております。カッコ内は補注です。


(ここから)

出口です。今日は「神通力」のお話をしようと思う。神通力というと大変古めかしく、「孫悟空(そんごくう)」か何かの世界のように思うかも知れんが、読んで字の如く、神様の如き通力じゃ。通力とは力を通すことで、思いのままに色んなことを動かす、ねじ曲げて行くということじゃ。

神通力も、古いと言って、そう馬鹿にすることはない。神通力が存在するからこそ、地上の人間は、あの世があるということに、目覚めざるを得んのじゃ。

この世、地上に出た宗教家が大勢いるが、その中に色んな神通力を持つ者がいて、その神通力を見ると、これを否定出来ない。否定が出来ないと、自分たちの常識を超えた世界があって、やっぱり神がいるかも知れんと思うのじゃ。神様そのものが出て来て、しゃべるわけにはいかないから、その代わりに、この世の人間の中に、この世ならざる人間を出して世を驚かす。そして、その奇蹟を信ぜざるを得んようにする。こうして、神通力が、歴史上も、神仏の存在を認めさせるための大変良い材料になって来たわけじゃ。

神通力の中でも、教祖になるための神通力は、あの世の霊と話をする能力、それが、一番大事じゃ。地上で、いくら本を読んで、いくら人の話を聞いたところで、地上の人間が得られる以上のものを、得るわけにはいかない。

じゃが、わしもこうやってしゃべっておるように、あの世の霊の話を聞けば、この世では発見出来ないものが一杯入っておるわけじゃ。そういうことで、こうした能力を持っていれば、自然と教祖になり、人が集まって来るわけじゃ。

ただ、あの世の諸霊と話をするだけならば、今、日本全国で、そういう人は数千人はいると思うぞ。教祖だけではなく、霊感者、あるいは、イタコとか、占い師、手相観(み)だとか、霊と話が出来るかは別として、霊感があると称するものは、数千人は居ると思う。

殆んどはインチキじゃが、中には本物もおらんわけではない。じゃが、霊感がある、あるいは、あの世の霊の話を聴けるという人に、おかしいのが多いのは、世の常識じゃ。

そして、この世の人間が、あの世のことが分からぬのをいいことにして、大抵は、あの世と話が出来るとすると、それで食いものにして金儲けに走る。銭(ぜに)儲けばかりをして、いくらでも注(つ)ぎ込まそうとする。

極端なものは、先祖の霊を出して話をするという奴で、何も分からん人間は、先祖の霊が出たというだけで、有難がって泣いておる。そして、何度も、お賽銭(さいせん)を持って行く。その人が本人かどうかを別にして、そうした霊能力自体を、有難いことと思うとるわけじゃ。

あるいは、拝み屋には、偽者もおる。人を騙(だま)すことが出来る人は多い。手品師もいれば、奇術師もいるぐらいじゃから、霊が降りたふりをして人を騙すぐらい簡単じゃ。

じゃが、こういう奴らは、あまり責める必要はないのであって、やがて皆んな地獄に堕ちて、地獄で、大変苦しめられるわけで、自業自得(じごうじとく)じゃのう。この世限りだと思わにゃいかん。しかし、こうした悪霊と話をする能力は、神通力とは、言わない。

少なくとも、神通力と言う以上は、高級霊と話が出来なきゃいかん。そうすると、高級霊と話が出来るとなると、日本全国で、これは非常に数が少ないと思う。

例えば(高級霊である)出ロ王仁三郎が、拝み屋のところへ出るわけにゃいかん。そんなことすればあの大本教(おおもときょう)の大教祖のイメージは崩れてしまうわけじゃ。最近また大本ブームでのう。大本教というのは、もう殆んど破壊されて弱くなってしもうたけれども、出口王仁三郎を救世主のように言うてくれる人も出て来た。まあ、ええことじゃ。

そりゃまあ、救世主じゃないかと言われたら、(そうで)ないわけではない。よく考えてみたら、やはりそうではなかったか、と思う人はずいぶんおる。わしだって、そりゃ戦争の反対はしたし、人々の魂を目覚めさせたし、数々の神通力を駆使したから、それを見れば、そりゃ(世間の人は)救世主と思わんでもなかろう。ただ、救世主が日本に出るわけはないと思う人にとっては、そうはいかんじゃろう。

さて、わしの生前の神通力を話しながら、神通力一般について、さらに話をしていこうと思う。わしは、神通力をずいぶん持っておった。

弟子の谷口雅春が、(神通力という面で)ほどほどでも、(この世で)成功した例じゃ。神通力は大したことがなくても、成功することがあるというわけじゃ。

神通力の大きさだけで、この世での成功、不成功は決まらん。神通力が大きいことで不幸になる場合もないでもない。この辺で、神通力というのは両刃の剣みたいなところがあるから、霊能者は、よく気をつけにゃいかん。

わしがよく使った神通力は有名なのは予言じゃろうか。予知能力、これが強かったのう。将来こういうことが起きるという事を、わしは常に言うた。

まあ、神通力の第一等としては予言じゃろうか。わしは、日本が敗戦することを予言したし、天皇が人間宣言すること、広島に、長崎に、原爆が降ること、東京に火の雨が降って焼け野原になることも予言した。こういう予言を一杯したが、ちょっと予言の内容がきつかったから、世の人は信じられんわけじゃ。今の時代であれば、天皇陛下が人間宣言すると言うても、そりゃあたり前のことと皆んな思うじゃろう。ところが、戦前は、そうはいかん。天皇陛下は、神様じゃ。神様が人間になることがあり得るかが、大変な非難の的になった。

また、日本が敗戦するとはとんでもない、神国日本という思想があるのに、日本が敗戦するわけはない、日本の神々が守っとるのに、そんなことはあり得んと、こういうことを、言うとったわけじゃ。そういうことで、わしは不幸の予言をやり過ぎたわけじゃ。それで大本弾圧があったわけじゃ。

それと、予言のもう一つ大事なことは、時間というのは、やっぱりずれるんじゃ。あの世で、既に起こっておることであっても、この世じゃ、なかなか起きんことがあるのじゃ。これを人間は、よう考えねばならん。

この世界は、言わば、映画館の映画と同じじゃ。既にそのフィルムは、映写機に収まっておる。その映写機の中を覗(のぞ)けば、こういう映像が出ることは事前に分かっておるわけじゃ。

ただ、その映像が、二時間なら二時間の映画のどの辺に出て来るかが分からんわけじゃ。フィルムの中に入っておるのが見える。ああ、これは出て来る、ラブシーンが出て来るのは分かる。結果が、例えばハッピーエンドになることも分かっとる。ただ、それがいつ頃出て来るかが、なかなか分からん。こういうことがあるんじゃ。

そういうことで、あの世の霊にとって一番苦手(にがて)なのは時間じゃ。つまり、あの世には時間がないわけじゃ。わしらには時計がない。時計がなくて生きとる。夜寝るわけじゃなし、朝起きるわけじゃなし、昼飯を食べるわけじゃなし、時計がないわけじゃ。永遠の時間を生きておる。だから、わしのように、今、地上を見て、地上のことを気にしている者だけが、地上の時計を見て、時間を考えるわけじゃ。

従って、地上の人から、問い合わせで、火の雨が降るのはいつかと言われても、即答出来んことが多い。そう遠くはないことは分かるが、それが時計の針でいくと、何回回転すれば起きるのか、これが分からんのじゃ。こういうことがあって、予言は非常に難しいわけじゃ。

それで、大本がやられた理由の一つも、最期の審判で、神様が、日本を、世を裁かれる、そういう立て直しの日が来るという事を、ずいぶん言うたわけじゃが、それが、大本の時は、大正時代ということになっておった。ところが、その大正にはなかったんじゃ。肝腎(かんじん)の、その立て直しというか、神様の火の雨は降らなかった。それで、人々は離れたわけじゃ。おかしいというので。

谷口(雅春)などもそうじゃ、大正何年かに火の雨が降ると言っていたのに、降らなかった。それで、おかしいというんで、(大本教を)離れたようじゃ。ところが、二十年後、実際、予言通り降っておるわけじゃ。そういうふうに二十年ずれたわけじゃ。まあ、こういうことがないわけではない。ただ、当たったのもあるし、当たらんのもあるから、この世の人にとっては、それは困るということじゃのう。まあ、こういう予知能力があった。

それから、わしも、神様のお立て直しがこれから始まるということを、ずいぶん言った。けれども、そのお立て直しをしたのが、わし自身ではなく、今、あなたたちが、お立て直しをしとるわけじゃ。これが、わしが戦前から予言しとった、お立て直しじゃ。三千世界一度に開く、これが梅の花じゃ。お立て直しの世界がこれから始まって来るんじゃ。

また、ほうき星がもう一回帰ってくるときに、わしも、もう一度、地上に舞い戻って来ると、予言したことがあったが、ほうき星とは、不吉の星、ハレー彗星(すいせい)じゃ。ハレー彗星が、去年(1986年?)、来たであろう。数ヵ月ずれたが、わしは、ハレー彗星が来た年の翌年に、こうやって、霊言をしとるわけじゃ。予言通りに、わしは、今、復活しとるわけじゃ。

まあ、こういうこともあるわけじゃのう。こういうお立て直しがあるということを、現にわしは知っとったわけじゃ。それから、現在、電送するような「ファクシミリ」だとかが随分あるようじゃ。これも予言したことがある。まあ、それ以外のことも、いろんなことを予言した。これも、やがて、王仁三郎はこれを言ったと分かることになろう。

ただ、この神通力に関して言えば、わしは不幸の予言はあまりせぬ方がよかろうと思う。不幸を予言すると、自分が不幸になることが多い。これは、わしも身をもって体験した。大本の本部を打ち壊(こわ)され、自ら投獄されるようでは、困ったもんじゃ。わしは、キリスト教を作るわけではなかったから、決して磔(はりつけ)にはあいたくなかった。

わしは悪いことを、ちょっと言い過ぎた。成功することをいっぱい言っておけば良かったんじゃが。しかし、広島に原爆が落ちることを知っていたら言わんわけにはいかんじゃろう。ピカドンが落ちるぞよ、と言うてしもうたわけじゃ。

日本人が、皆んな戦争勝利を願っている時に、あくまでも自分の体を張って、不幸の予言でも、真実は真実として言うか、戦争中は戦争に協力しておいて、敗戦したら、今度は、敗戦したのは当然の如く神理を説くかどうか。そういうやり方もあろうけれども。まあ、それは、よく考えてやればよかろう。

わしの次の神通力は何かと言うと、あなたたちが、よく幽体離脱と言っている、肉体の中から脱けていくことじゃ。こうして、あの世の世界へよく行った、よく行って、あの世の仙人とか天狗とか、それ以外の神々とも、ずいぶん話をした。そうして、あの世の世界を色々知って『霊界物語』というものも作った。全何十巻だったか、八十巻ぐらいあったか忘れたが。

わしが見て来たことを、口述筆記をしたわけじゃ。谷口雅春なぞも、その時、若い時に、わしの『霊界物語』を口述筆記しとったが、そのあと真理を学んで発展したんじゃろう。まあ出藍(しゅつらん)の誉れというのがあるから、先生は、自分の教えた弟子が偉くなっていくことを、喜ばねばいかん。

わしの大本の教えを学んだ者が、その後、大きく伸びて行くことは、いい事じゃと思う。どんどん伸びていけばよい。わしの教えが、生長の家の教えにつながり、生長の家の教えが、また、あなたたちの中にも生きておるわけじゃから、元を訪ねれば、出口王仁三郎じゃ。わしがあったらばこそ、あなたたちの活躍もあるわけじゃ。

そういうことで、あの世に出入りして、わしも色んな修行もしたし実地に経験した。こういう経験をせずしては、やはり本当のことは語れんわけじゃ。ただ、あの世の体験というのは、問題もある。それは、あまりにも奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)なことが多いから、そのまま地上の人に言うと、理解出来んわけじゃ。精神錯乱のように思われる可能性もないわけじゃない。

話としては面白かろうが、あなたたちには、信じられんこともあろう。そんな馬鹿なと思うかも知れんが、これが、わしらの世界の特徴なんじゃ。あの世の世界は、念いの世界と言うて、思ったとおりの世界になるわけじゃ。常々(自分が)神だと思うとる人は、神様のような世界に生きとるし、悪鬼の如く生きておる人間は、やっぱり、鬼のような現象が出て来るんじゃ。

そういうことで、心の世界と言うわけじゃ。思った通りの世界で、それならいいことを思えばいいじゃないか、と言うが、それはまた、なかなかに難しい。わしが、例えば、鶏になろうと思うても、思う気がせんわけじゃ。そりゃ、なろうと思えばなれないこともないけれども、馬鹿馬鹿しくて、誰が、鶏いつまでもやっとるか。まあ、そういうことじゃ。

わしが神様になろうと思っても、自分の中で、まだ、神様という処まで行っておらんと、そういう気持ちがやっぱりあるわけじゃ。そりゃ、そうじゃ。神様になって、あなたたちを皆んな創ったなどと言い始めたら、わしもやはり頭がおかしくなったか、自分の良心が狂ったか、と思うてしまうので、やはり、分相応ということがあるわけじゃ。

自分として、思いの適度の量と言うか、この程度の思いという、その人独特のものが、やっぱりあるわけじゃ。わしが造物主で、天地全部創ったと言えば、それは名誉なことで、地上の人たちに尊敬してほしいと思うけれども、そういうことを言うわけにはいかん。せめて、古事記を作ったのはわしじゃ、というぐらいが関の山じゃ。一人、人間を創ったとまで、わしは言わない。

そういうもので、この世では自分に嘘をつけても、あの世では自分に嘘をつけんのじゃ。この世の人間は自分で嘘(うそ)はつけるのう。嘘をついて、自分は上流階級の出じゃとか皆んなに言っているうちに段々そんな気になるとか、自分が男にもてると鼻にかけて、レディを気取って、段々そんな気になって、自分を騙(だま)しておるような女性も一杯おろう。

ただ、あの世ではそれが通用しない。心の中に嘘はつけん。心のそのままが出て来るわけじゃ。こういうことで、神通力の二番目は、あの世の世界と交流すること、出来ればあの世に出入りすること。これが神通力の二番目じゃ。

三番目の神通力は、やっぱり霊視能力と言えるかのう。人間の目は、普通、この世のことが見えるわけで、この世には、本当は目に見えない色んな物があるが、人間の目は、見える範囲がある程度限られるように作られておる。

人間の目が、例えば、顕微鏡みたいであれば、細菌が机の上をはっておるのが見えるわけじゃ。微生物が机の上をはっていたら、あなたたちは、食事も出来んじゃろう。水を飲もうとして、水の中で、オタマジャクシのような微生物が泳いでいたら、飲めんじゃろう。従って、そんな顕微鏡のような目でないことも慈悲じゃのう。

逆に、天体望遠鏡のような目を持っていたら、これも大変じゃ。東京にいて、気になる、鹿児島の人が、今、自転車で生命保険の勧誘しているのが見えたら、おちおち仕事も出来んじゃろう。

これは天狗の目じゃ。昔から天狗の遠メガネと言い、天狗はこういう霊視能力が強くて、特にこれを千里眼という。即ち、東京にいて、鹿児島で、美女が、川のなかで薩摩大根を洗って、自分の大根足を一緒に洗うとるのが見える。これを千里眼と言うが、天狗様は、これが非常に強い。千里眼は昔から有名じゃ。

特に天狗さんは、木の上とか山の上に登りたがるけれども、これは、遠くを見たいという習性があるわけじゃ。こういう千里眼は、まあ、霊視能力じゃのう。

例えば、地上の人に、憑依霊(ひょういれい)がついているのが見えてしまう。それも、目の前にいる人だけではなくて、遠く離れた人の憑依霊も見える。こういう能力で、これは、本当は、あの世の人にはある程度備わっておるのじゃ。能力差はあるが、わしにしても、あの世にいても、どこそこにいるこういう女性を見たい、と思うて念を集中すれば、それこそ拡大鏡にかけたように、目の前に現われて来て見えるわけじゃ。

あるいは、わしの世界にいて、地上が気になって、例えば、大本教の誰それを見たいとか思い、意識を集中すると、その家がパーと見えて家の中が見えて来て、そして、自由自在に見えるわけじゃ。今の時代は、人工衛星か何かで、地上の物を、ニメートル、三メートルの大きさの物でも写せるらしいのう。そして、敵国を探るために、軍事用に、人工衛星をいっぱい飛ばしておるようじゃ。ちょうど同じことが出来て、この世の事、ちっちゃな事まで見えるんじゃ。こういう霊視能力という神通力がある。

あるいは、他にもうひとつ言えば、人の心を読める力で読心力というものがある。これは神通力に比べると、ある程度は皆備わっとるのじゃ。ロに出すこと、耳から聞くこと以外分からなければ、本当は話の辻褄が合わんのじゃ。

ところが、相手の考えていることが不十分でも分かるのう。嘘を言っておるのは、何となく、以心伝心で、分かってしまう。後姿を見ただけで、失恋をしたのが分かってしまう。あるいは、女性であれば、相手の男性が私を求めておる、というのが分かってしまう。

こんなの、ロに出しては言わん。何となく相手の目つき素振(そぶ)りを見て、どうやら今晩私を誘いたいらしい、と分かるわけじゃ。こういうのも霊能力の一つじゃ。神通力とまで言い難いけども、こういうのがある。

これを全部ロで説明せねばいかんとなると、男女の仲も大変じゃ。こういう話を一つ一つせねばいかんのなら、まあ、女性のほうは恥ずかしくなって、逃げ出してしまうだろう。「言わぬが花」というのは、このことを言うんじゃ。こうした能力は、皆与えられておるわけじゃ。

人間は、世間的に地位が高いとされる人ほど人の心を見抜く力がある、とよく言われる。例えば、会社の社長のような人は、部下のことをすぐ見抜けると。部下からは、その社長が何を考えておるのかが、分からんと言われる。そのように、心の段階に応じて、高いものは低いものが見えるけれども、低いものは高いものは見えんと、こういうことが言えるわけじゃ。

凡人(意識の低い人?)には、釈迦やキリストの本心は分からんわけじゃ。何を考えとるのかが読めんのじゃ。ところが、釈迦やキリストは、凡人が何考えているか、手に取るように分かるのじゃ。この程度のものは考えると言うまでもない、手の平に載せているようなもんじゃ。

釈迦、キリストの気持ちからいくと、(凡人の考える事を見るのは)手の平の上に蟻(あり)ん子を載せているようなもんなんじゃ。蟻が考えている事というのは、前に進んだら落ちるか、落ちんかとか、食べ物があるか、ないかとか、この程度のことしか考えとらんのじゃ。だから、見抜く、見抜かんとかいう程の問題ではないわけじゃ。

このように、あの世でも、心の段階に差があって、上の者は下が見えるけれども、下には上が見えんという、こういう法則があるんじゃ。これが、ある程度、この世でも通用しとるようじゃ。従って、この世的にも、人を使うような人は、ある程度、眼力(がある)と言うが、これも、神通力の証拠じゃ。

これがもっと強くなると、もう手に取るように、その人の考えが分かって、それだけではなくて、過去の考え、未来の考えも、手に取るように分かるんじゃ。過去に思うておったことも、過去世の姿も、未来世も、全て分かり、この人は十年後こうなる、とまで分かってしまう。

この様に、不思議な力じゃが、そういうことがあるわけじゃ。

会社の中でも、色々人を見ておって、この人は、四、五年すればやめるんじゃないか、と思っておると、やっぱりやめてしまう。女性でも、これは結婚できんのじゃないかと見ておると、やはり出来ない。これは予知能力のようなもので、相手の心を見抜いたということで、まあ、こういう能力がある。

それ以外の能力として有名なのに、漏尽通力(ろうじんつうりき)というのがある。こうした(霊能的)能力を持ちながら、この世的に、うまくいける人ということじゃ。

自分では気付いておらんが、現在の世の中には、霊能者はけっこう多いんじゃ。彼らは、ちゃんと手ほどきを受けていないから知らんだけじゃ。霊感が強い人は多い。悪いほうの霊感であれば、例えば、人相の悪い人とすれ違っただけで急に心臓が苦しくなる、胃腸が悪くなる。あるいは、手紙をもらっただけで急に体の具合が悪くなる。電話を聞いただけで、その後、体が重くなってくる。病人と会っただけで寝込んでしまう。

他にも、夜中に金縛りにあうとか、一杯ある。こういう人たちも、ある程度の霊能を持っているが、最後の、その漏尽通力(ろうじんつうりき)、これが弱い。つまり、霊能力を持ちながら、この世で、常識人として生きて行く力が弱いんじゃ。切り換えが利かないので、日常生活に霊的なものが侵入して来るわけじゃ。これに、侵入され過ぎると、狂って行く。気を付けんといかんのはここじゃ。

特に、ちょっとぐらい自分から光が出始めて、治療などが出来るようになって、いい気になってやっていると、重病患者なんかに会い、その悪霊が四匹も五匹も、ドバーッと体の中に入って来て、身動きが取れんようなことがあるんじゃ。それは、自分の光の量よりも向こうの曇りの量の方が遥かに大きいわけじゃ。

人間、バケツニ杯位は両手に下げられるけれども、バケツ四杯、五杯下げたら、それは重くて歩けん、坐り込んでしまう。霊的な能力を持ち、バケツ一杯、二杯、つまり、憑依霊(ひょういれい)の二匹位なら何とかなっても、バケツが三杯、四杯になれば、これは立ち上がれなくなるんじゃ。怪力でプロレスラーみたいならば、そりゃバケツの十杯持つかも分からんけど、普通は無理じゃ。そういう怪力は、霊的世界では出口王仁三郎みたいな巨人じゃ。わしみたいになりゃ霊的にはタライに十杯位の水は持って歩くかも分からん。

あるいは、イエス・キリストみたいになりゃ何百杯でも持って歩くかも知らん。しかし、普通の人はそうはいかんわけじゃ。従って、漏尽通力というのが最後の問題じゃ。これに就いてもっと勉強してみる必要がある。これは意識の切り換えで遮断(しゃだん)ということをまず練習せねばいかんのじゃ。

つまり、人間は、色んな仕事で色んな人と会わざるを得んが、会うときに、いい人ばかりと会えばいい気持ちになろうが、悪い人と会うと、途端に体の具合が悪くなるようでは、生活が出来ん。従って、この漏尽通力を増すための、いくつかの方法を教えて進ぜようと思う。

まず、第一は、人間には例外なく全員にそれぞれ守護霊というのがおるんじゃ。じゃが、ノリで張りつけたように背中についているのではなく、いつもはおらんわけじゃ。ただ、あなたたちが何をしているのかは目を見張っていつも見ておる。困った時には駆けつけてくれるわけじゃ。

じゃが、その守護霊が飛んで来ても、重病患者の悪霊が何匹も入っとれば、守護霊の力ではちょっと追い出せん。こういう問題がある。従って、第一段階では、守護霊の力を強くしておく必要がある。そうすれば、霊的な悪影響から自分を守ってくれるわけじゃ。そうすると、守護霊を強くするにはどうすればよいかという問題がある。

これには、まず、守護霊を、日頃から目覚めさせておく必要があるんじゃ。見ておると、まあ、六、七割位の守護霊は眠っておるんじゃ。どうもぼんやりしておる。守護霊をしておるけれども、自分が何をしているのかよく分かっていないのが一杯おる。何となく役割を言われてそんな気になっているだけで、何をしたらよいのか良く分からん。あるいは、自分の力が良く分からん。

そういうことで、守護霊を、常々、目覚めさせておく必要がある。それで、毎晩でもいいが、自分の守護霊と対話をしておく必要がある。この対話というのが、祈りじゃ。祈りの時間というのが、これじゃ。毎晩、守護霊様どうかこういうふうにお導き下さい、ということを、寝る前に頼んどくわけじゃ。

こうしておると、向こうも目を覚ましているから、そうか、そうか、こうして欲しいのかということで、いつも気にしとるから、例えば、横断歩道で車にひかれそうになる前に、ふっと本人が気が付くぐらいにはしてくれるわけじゃ。

こうして、常々、向こうの意識を目覚めさせておく必要がある。これが祈りじゃ。霊道を開いて対話出来ればもっといいが、そこまでいかん人も多かろうから、守護霊があることを知って祈っておると、向こうも仕事が増えていくわけじゃ。これが第一段階目じゃ。

二番目は、守護霊よりもっと強い指導霊を持っていることじゃ。これが、そういう悪霊を切ってくれる。守護霊は、大体、本人の霊格と同じレべルじゃから、本人が平凡人なら、大体、守護霊も平凡じゃ。本人が偉いなら、偉い守護霊もついとる。

そういうことだが、指導霊というのがいて、これは、もっと霊格が高いんじゃ。だから、これに頼めば、この世的な悪影響を遮断して、健康な生活が送れるわけじゃ。では、どうやったらその指導霊が得られるのかという問題がある。これは、指導霊がつく人というのは、二、三種類あるわけじゃ。

一番目は、非常に専門的な仕事をやっておる人間じゃ。通常の守護霊は、何百年も前の霊だから、現代のことはよく分からん。それで、特殊な技能を持っているような人間には、指導霊がつくことが多い。詩人でも、芸術家でも、学者でも、音楽家でも何でもいいが、こういう特殊な人というのは指導霊がつくことが多い。それも、本人の努力精進に応じた指導霊がつくんじゃ。

そういうことで、一つの道を窮(きわ)めようと強く念じて、怠らず、心清くやっていると指導霊がついてくる。そうなると、段々、人生が狂わなくなって来るんじゃ。だから、曲がらない人生を生きるためには、さらに指導霊というのも必要じゃ。

それで、精進ということも大事だが、指導霊を持つためには、やはり感謝の気持ちを持たねばいかんのじゃ。あの世の霊というのは、お金をもらうわけではない。食べ物を祭ってもらって喜ぶのではない。食べ物を祭ってもらって喜ぶのは地獄霊ぐらいで、天国の霊はそんなもんでは喜ばんのじゃ。喜ぶようでは、ちょっと怪しいと思わねばいかん。

言ってみれば、感謝の念というのが彼らの食べ物じゃ。地上の人を指導して、そして感謝されると、指導霊はそれだけ嬉しい。嬉しいというのは、地上の人間でも嬉しいと言って喜ぶと、表情が、明るくパッと光が射したようになるじゃろう。同じで、あの世の指導霊も、感謝されるとパッと明るくなり光の量が増えるわけじゃ。そして、彼らの霊格が益々高まるわけじゃ。

従って、常日頃、色んなことをしていて、物事がうまく行き、進んだなと思った時には、指導霊に感謝することじゃ。感謝の気持ちを持つと、彼らは益々力がついて来る。そして益々指導を受けられる。

つまり、一番目は、守護、指導霊への祈りを言ったけれども、二番目は、指導霊への感謝じゃ。物事が特にうまく行っているなと思う時には、自分の力じゃと思わないで、高級霊たちに対して感謝することじゃ。そうすれば、益々、指導を受けられるようになるじゃろう。これが二番目じゃ。

三番目は、これは、谷口雅春の教えではないが、やはり、くよくよしないこと。くよくよするタイプの人間は、どうも悪霊の影響を受けやすいんじゃ。悪霊というのは、ウジ虫とかゴキブリのようなもんで、暗い所が好きなんじゃ。暗い所があると着いてくる。ウジ虫というのは、光の強い所へは出て来んのじゃ。ゴキブリでも、螢光灯つければ逃げるじゃろ。

従って、奴らの嫌がることをすればいい。奴らは、明るくて闊達(かったつ)なのが一番嫌いなんじゃ。暗くてウジウジウジウジしておるのが一番好きなんじゃ。従って、悪影響から身を遮断(しゃだん)するためには、ウジウジせんこと。取り越し苦労を、せんことじゃ。これは傾向で、訓練すれば変わるんじゃ。

すぐに、思った通りに明るくはならんけれども、二年、三年かけて努力して行くんじゃ。良いことがあった時には素直に喜んで、悪いことがあった時には、あまり気にしないように、心に止めずに流していくようにする。嬉しい事があったら最大限に喜んで、悪い事があったら、そういう日もあるけれども、またいい事が来るだろうと思っていることじゃ。こういうふうに、物事を明るく考えていく傾向を作っておけば、ウジ虫とかゴキブリは、出て来んのじゃ。

金縛りに遭(あ)うような人は、悪い事を何か予想しとるはずじゃ。わしは、必ず、そうだと思う。何か悪い事を、人が自分を迫害するんではないか、人の念に縛られるんではないか、こういう事をすると止めとけと言われるんではないか、そのうち、これがバレて、自分が困るのではないか、と、大体そういう危機とか、心配事、不安、こんなのを、いつも心の中に持っとる。

こういう人は、だいたい金縛りに遭うたり、あるいは、いろんな人と会うと、気分が悪くなってくる。これは、相手のウジ虫が、自分の方に、はって来ようとしておるのだから、ウジ虫が嫌いなような環境を作るわけじゃ。ウジ虫が嫌いなのは、要するに光じゃ。明るい考えじゃ。だから、一日のうちに体調もあろうけれども、睡眠不足の日だとか、過労の日などは、愚痴(ぐち)っぽくなるし、不安気になるけれども、なるべく体調を整えて、そんなに波がないようにして、明るい思想を吹き込んでおくこと。これが大事じゃ。こうすれば、だんだん、ウジ虫が来なくなる。

人と会うて気分が悪くなったり、悪霊がついてきたり、夜中に眠れなかったり、こういう時には大抵ウジ虫が来とるんじゃから、自分の中にそれを呼ぶ様な内容がないかどうかを反省せねばならぬ。絶対あるはずじゃ。そして、心の方向を変えて行くんじゃ。これしかない。だから、いつもポカポカ陽気で、四月のような希望に満ちた気分でおると、ウジ虫は来ない。これが、漏尽通力(ろうじんつうりき)の一番いい所じゃ。光明思想と言ってもよい。

やはり、光明思想で身を守るようにせねばいかん。悪霊の影響を受けやすい人は、基本的に光明思想を持っとらん。弟子の谷口雅春の本でも、よく読んでくれ。わしがあまり言うてもおかしいだろうから。そういうことで、今日は、神通力について話をした。

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