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宗教の本来の使命とお立て直しの真義、出口王仁三郎メッセージ

2019年01月08日 | 宗教
前回までの出口王仁三郎メッセージの続きになります。話題は、現在、恰も前途を見失っているかの様な宗教というものの、本来果たすべき役割と、大本教の神諭の中で繰り返し触れられている、お立て直しの真義について語られています。内容は編集しております。カッコ内は補注です。


(ここから)

戦前、戦中、大本教で、一番わしがやりたかったことは何かと言えば、はっきり言えば、お立て直しじゃ。この世のお立て直し、これがわしの理想じゃった。そのために、大本ならぬ根本から、ごっそりやられてしもうた。そういう残念なことがあったわけじゃ。

じゃから、この世の勢力というのも、けっこう無視は出来ん。この世には、この世の法則もあれば、この世の人間の考えも、妨害もあるし、また、協力もあるし、色んなことがあるから、なかなか、あの世で(やろうと)思うた通りにはいかん。わしも、地上に生まれる前には、このお立て直しということを中心に、日本の大改革を、やろうと思って出て来たんじゃ。けれども、大本の神様と天皇陛下の神様とは、どうも合わなかった。おかげで、こういう仕儀(しぎ)に、なったわけじゃ。今日は、このお立て直しの意味を話し、アドバイスをいくつかして、きれいさっぱり、あの世で成仏しようと思うとる。

(本来の)宗教の使命は何かと言えば、宗教は、この世ならざるものを、この世に持って来るのだから、そういう意味では、この世のお立て直しということは、宗教自体の中に、もう既にあるということじゃ。そこで、(本来の)宗教の使命ということで、いくつか話をしておこうと思う。宗教の使命を、わしは、五つ位に大きく分けられると思うとる。

宗教の使命の一番目は、まず人間に、自分たちの存在とは何かということを教える。こういう役割じゃ。物事の追究、探究をしないで、何となくその日暮しをしていられる人間はそれでいい。太陽が、なぜ東から上がって、西に沈むか、全然気にならん人もいる。

何で昼と夜があるか、気にならんでも一生は終われる。こう言えば笑う人もいるが、日本人のうちの半分以上は、理科で習った以外は、太陽がどうして昇るか、昼と夜がどうしてあるか、何も考えないで過ごしておるのじゃ。

何で春夏秋冬があるか、何も考えとらん。何で星が瞬(またた)いておるのか、何で月があるのか、どうして海があるのか、山があるのか、谷があるのか、川があるのか、なぜ樹木は茶色でなくて葉っぱが緑なのか、色々あるじゃろう。なぜ海が青いのか、色んな神秘がある。こうした人間の身の回りのことを不思議に思う目を持っているのなら、そもそも人間とは何かということに目がいかんようでは困るわけじゃ。

しかし、学校の先生でも、今、人間とは何かを教えられる人はいない。これが問題なわけじゃ。大学の先生でも教えられない。人間は考える動物だ、と言ったところで、そんなものでは定義になっていない。動物が考えているかどうかは分からない。動物に聞いてみても、ワンワン、モウモウしか返事が戻ってこないから、結局、分からんわけじゃ。

そういうことで、動物が考えているかどうかは分からん。じゃあ、人間は人間で、自分は一体何者かということを考えねばならない。つまり人間という存在についての追究じゃ。これをやらざるを得ない。この解答を与えてくれるのが、ひとつは宗教じゃ。じゃが、宗教のなかには摩訶(まか)不思議なものが多くて、なかなかすんなりとはいかない。学問のようには答えてくれない。学問の方では、何万何十万年前に直立猿人が出ただの、原人だの、何のかんの言って骨を発掘したりして調べているけれども、宗教の方では、未だに分からんのじゃ。

例えば、キリスト教が二千年前から進歩しているかどうか。これは、進歩していると言える人は恐らくいないじゃろう。やはりイエスの時代が最高であって、あとは下がって来たんではないのか。下ってきて、何度も何度も、垢(あか)落としをしたり、立て直しをしたりしたのが、キリスト教ではないか。学問の世界で、二千年も経ったら、こんなことはあり得んことじゃのう。今、十年経ったら、十年前の学者の説など、もう一笑(いっしょう)に付せられとる。

ところが、宗教の世界では、そうはいかない。二千年前の人でも、偉い人は偉い人であって、イエスがどう思ったかということを、未だに連綿と、皆んなが研究しとるわけじゃ。

ブッダでも、そうじゃ。二千五、六百年前のブッダの思想より高い思想を、今の仏教家が持っておるかどうか。お寺の坊さんに、マイク突き付けて、聞いてみなさい。あなたは、お釈迦様よりも悟っているか。お釈迦様以上の説法が出来るか、(出来るなら)してみなさい、と言ったら、百人の内、九十九・九人、逃げ出すだろう。そりゃ、無理だと言う。仏教は二千五百年進んでいないのじゃ、結局。堕落して行っては、その垢落としばかりをしているということじゃ。

こうして見ると、人間とは何かを、宗教は教えるけれども、この宗教の難点というのは、時代が進んだからといって進まないということじゃ。時代とは別々に、偉い人が出たら、それが頂になって、それから下って来るのが宗教じゃ。そして、宗教の偉人は、何百年、何千年経っても、そそり立っておるのじゃ。

鎌倉時代には、日蓮おり、親鸞、道元、栄西おり、ということだったけれども、それ以後に、そうした先生方以上の人が出たかというと、疑問じゃ。こうして見ると、宗教家というのは、どれも一代限りだということが、よくわかる。

(現代の)○○学会も何千万と人がおる。けれども、その信徒の数は、日蓮さんの時よりは多かろうが、○○学会の指導者が日蓮さん以上かと言えば、そういうことはないだろうし、はた目(学会員以外?)にも、そう認めないだろうし、自分たちでも認めないじゃろう。自分たちでも、日蓮さん以上に教えられるとは思っていないじゃろう。八百年経っても、先生以上には(進歩して)行けんのじゃ。

じゃから、宗教は、人間の本質とか存在論について教えてくれるものだけれども、師以上のことを知ることが出来ないという欠陥があるんじゃ。それで、偉大な指導者が生まれた時に生まれ合わした人は、幸せじゃ。じゃが、時代を、ひとつ逃がすと、そういう人にはもう会えない。これは悲しいことじゃ。仏教徒が何回生まれ変わって来たところで、釈尊がおる時以外に出たんでは、結局、それ以上のことは聴けんわけじゃ。

今の坊さんで、釈迦以上のことを言える人は一人もいないじゃろう。今のクリスチャンでイエス様以上のことを言える人も一人もいないじゃろう。今のマホメット教徒でマホメッ卜以上のことを言える人も一人もいないじゃろう。間違いない。そうした偉人が出て来たとき以外には、(宗教の真義は)分からんという、制約があるといううことじゃ。

宗教の使命の第二番目は、新たな世界観を人間たちに与えるということじゃ。新たな世界観とは何かと言うと、先程、人間の本質ということを言ったけれども、これはわしらが住んでいる世界(霊界)の様相じゃ。これをどうやって伝えるかということじゃ。この世にいる人間が、あの世の世界のことを教えるというのは、池に映った雲を指して、あれが雲じゃ、あれが空じゃ、と言うのと一緒じゃ。これだけむずかしい。

本当に雲や空が見える人がいれば、あれが空だ、雲だと思うんだが、喩えて言えば、この世の人間は(直接)空を見上げることは出来ない。空とは、天国じゃ。天上界と言ってもいい、これを見ることは出来ないのじゃ。みな俯(うつむ)いている、言わば、地面しか見とらん。ということは、物質しか見ていないということじゃ。そして、下しか見えないということになる。

その中に、上を見れる人が一人ぐらい居るんじゃ、宗教家には。そして、空とか雲を知っとるわけじゃ。それで、地上人に、お前たちは土ばかり見ておるが、本当は、上の方には空とか雲とかがある、と、教えているが、聴いた人は分からない。下しか見えんのじゃ。だから、そんなもの信じられんと言うとる。

では、わしについて来いと池か何かに連れて来て、これ見てみろと、下の池見たら、水面に、雲だの空だのが映っているわけじゃ。あれが雲、あれが空というわけで、それを見てなるほどこれは他の面が反射しているのだから上にこんなものもあるに違いない、と、認める人もいる。こういう人も何十パーセントかおる。しかし、そんなものはまやかしで、あれは水中に何か仕掛があって幻燈(げんとう)みたいに映しとるに違いない、と、こう言う者もいるんじゃ。こういう難しさがある。

これは、大指導霊が出ても、皆一緒じゃ。それを見せるわけにはいかない。だから、出来るだけ正しい世界観、とまで言えない、この世ならざる世界観を教えることじゃ。そして池を指して、これが雲じゃ、空じゃと、教えるのが宗教家の使命じゃ。ただ、全容を確信させることは、なかなか出来ん。

宗教の使命の三番目は、人間を幸せにすることじゃ。皆んな、小学校や中学校から色んなことを教わっているが、今日では廃れたが、道徳というのがあって、友だちとは仲よくせねばいかん、友情が大事じゃ、親子の愛情が大事じゃ、そういうことをいろいろ教わる。あるいは、親切はよいこと、奉仕ということはいいことと教わる。じゃが、こうしたことはなかなか教わらないと分からんのじゃ。

人間、放し飼いにすると野蛮人みたいになってしまうんじゃ。ジャングルか何かに育って二十年経って、そこへ探検隊の人でも来て(その)人間を見たら、化けものだと思って逃げるか、害を加えるか、どっちかじゃ。愛し合うということはまず分からず、恐怖心と、自分を守るということしかないだろう。従って何も教育せずに放っとけば、人間は自分を守るという気持ちと他に対する恐怖心、これを持って生きるようになってしまうのじゃ。

今、お前さん方、道を歩いていても恐怖心は感じないじゃろう。車が来れば恐怖心を感じるが、通常、道を歩いていて何かをされることはないわけじゃ。ところが、本能のままに人間が勝手勝手に生きていたら、例えば、買いもの一つ出来んのじゃ。買い物して、肉でもネギでも買い物かごに入れて下げとるのを、通りがかった人が見て、こんないいものがあると思えばサァーっと持って行く。

それは当然で、これは教わっていないからじゃ。盗んではいけないということを教わればそれはいけないと思うけれども、知らなかったら、肉が欲しいと思えばそれを取って逃げる。卵が欲しいと思えば取って食べる。当然のことじゃ。で、憎い人間がいれば殺してしまう。憎けりゃ殺すのは当然と思っている、こういうところがあるわけじゃ。

じゃから、道徳とか、学問、家庭教育とか、いろいろあるが、そうしたものは、人間を、助け合う存在として、生かしめようとする。この根源は何かと言うと、結局、宗教にあるわけじゃ。宗教とは何かというと、要するに、神に近い高級霊から受けた啓示じゃ。これを元に、いろんな教えが作られたわけじゃ。

(今与えられている霊界からの啓示も)同時代には(その真価は)分からんじゃろうが、根源はやはり、あの世の霊たちなんじゃ。あの世の方が、よく物事が分かるから、それで教えるということじゃ。そういうことで、宗教の、三番目の使命は、そういうあの世の知識を元にして、この世の人間に、生きるべきすべ、人間としての正しい人生観、愛と慈悲と言っても良いが助け合いと言ってもいいそういう生き方を教える。これが三番目じゃ。

四番目に、宗教の使命を挙げるなら、神の子と言っても良いが、人間が永遠の転生輪廻をやっている生きものじゃと思ってもいいし、そういう定義が色々ある。じゃが、四番目の宗教の使命と言うと、一番目の人間とは何かということにも関係するんじゃけれど、魂の事実、歴史についての解明じゃ。

一番目が、人間が霊的存在だということに気が付くことだと言えば、四番目は(人間は本来が)霊的存在ということで、魂というのは、一体どんな性質を持っていて、どんなふうに生きて来とるのか、そして、どういうふうに、今後(生きて)行くのか、こういう魂の行方じゃ。来し方、行く末、性質、あるいは、これを、魂と言わずに、もっと一般的に、心と言ってもいい、人間の心についての、神秘を語るのが、宗教であろう。

そんなことは、宗教でやらなくても心理学でやるだろう、と言う人もいるじゃろう。じゃが、心理学では、やはり分かっていない。心理学には、色んなのがある、モルモット相手に、条件反射を調べている心理学もあれば、犯罪人ばかり相手に、犯罪心理学やっているような者もいる。じゃが、心理学の一番いけないのは、まともな人間相手の心理学がないことじゃ。気狂いさんだの、犯罪人だの、そんな異常心理学ばかりやっとる。

あとは、動物の心理で、モルモットはメスのモルモットのところに近寄るのと、餌を食べるのと、どっちが好きかとか、こんなことを一生懸命調べて、だから、人間もそうなんだろうとか、こういうことをやっとる。

これはちょっと方法が違う。結論に基づいて、物事を考えておるのじゃ。そういう動物だの人間だの、これは創造の結果なんじゃ。結果に基づいてあれこれ言っておるが、結果を見たのではいけない。原因を見なければいけないのじゃ。どう造られたのかが、そもそも問題なわけじゃ。じゃから、心理学では、本当の意味での心は解らん。

霊の世界がないと言っているうちは、これは偽者じゃ。こういう(事を言った)心理学者は(自分たちが誤った事を世に吹聴したことを)皆んなに詫びてもらわないといけない。さらには、その心の秘密、これを色々説き明かしていかないといけない。心には、一つには善悪の問題があるが、善悪の思い、善の思いと悪の思いが、心の面、魂の面で、一体どういう役割を果たしているのか。この傾き、これを学ばねばいかん。悪いことを思えば、それがどうなるのか、いいこと思えば、どうなるのか、これを勉強させるのが宗教じゃ。これは地上の学問では、ちょっと無理じゃ。

地上の学問では、イエス様が言う、右の頬っぺた殴られたら左の頬っぺたを出せなんて言われたら、ナンセンス、ということ。上着取られたら下着も差し出せなどと言うのも、これを法律学者が見れば、こんなのナンセンスじゃろう。こんな(こと)では犯罪人が増える一方で全然取り締りが出来ん。やはり、上着を取られたら早く取り返さなきゃいかん。取り返せなかったら賠償(ばいしょう)を請求せねばいかん。これが、本当のあり方で、下着まで与えるなど、そんな馬鹿なことあり得ないと、まあ、こういうこと(になってしまうわけ)じゃ。

それで、イエスの姿は慈悲魔としてしか映らんじゃろう。ところが、イエスは、心の世界を知っていたわけじゃ。心の世界を知ってしまうと彼が言う意味がよく分かるんじゃ。例えば、右の頬っぺた殴られたから、じゃあ、相手の右の頬っぺた殴り返したら、これはどうなるかじゃ。この世的には五分五分じゃ。殴られたから殴り返したんで、まあ、帳消しじゃ。これで気が済んだから、これで止めようじゃないか、と。前に殴られた人が、もう痛みがやわらいでいるけれども、あとで殴られた人が痛かったと、こういう不平不満はあるかも知らん。じゃが、この世的には、右を殴られたら右を殴り返せば、終わりじゃ。

じゃが、心の世界ではそうはいかん。右の頬っぺたを殴られても、いろいろ段階があるわけじゃ。その殴られたあと、カーッと来て殴り返す。まあ、これは最低じゃ。これは動物と一緒じゃ。

あるいは、殴られたら泣き出す、こういうのもある。あるいは、殴られたら逃げ出す、というのがあるだろう。この辺は、殆んど動物と一緒で、全然変わらぬ。あえて人間として生まれただけの価値がないというわけじゃ。殴られたら殴り返す、殴られたら泣く、殴られたら逃げる。これでは、人間として心の修行をしとる意味が全然ないというわけじゃ。

じゃあ、どの辺が修行かと言うと、殴られてカーッと腹が立つけれど、一生懸命自制するというタイプがある。これは、今の三つよりは、ちょっとましじゃ。殴られたけど自制する。ジェントルマンがそうじゃ。ステッキついて、金ぶちメガネ、シルクハット、エンビ服着て歩いとる時、殴られたからと言って殴り返しとったら、暴力団みたいになる。じゃから、紳士は、ジィーっと我慢する。こういう我慢するという段階は、前の三つよりはちょっとましじゃが、まだ、今一つじゃ。

次の段階は何かと言うと、殴られて、それに対して、自分を守るか、相手を害するかというんじゃなくて、相手を見る人じゃ、次は。なぜこの人は、わしを殴ったんじゃろうか、とこう見る人が、次にいるんじゃ。そして、いろいろ考えてみると、確かにこれは、わしが眼付(がんつ)けしたのが悪かったのかも知らん、確かに、あいつの眼線(めせん)を切った、かも分からん。やくざさんなら、そりゃ怒ったじゃろう。こりゃあ、失礼した。やくざにはやくざの世界の生き方がある。眼付けをしたのはわしの間違いじゃった、と。こういうようなことを考える人も、おる。

あるいは、相手はよっぽど腹の虫の居どころが悪かったに違いない。もしかしたら、朝飯を食べていないかも知れない。あるいは、借金して、サラ金か何かにやられて、もう頭が一杯なのかも知れない。あるいは、家族の中に自殺者が出て夜寝てないのかも知れない。ムシャクシャしているかも知れない。あるいは、新品の服着てたけれども、曲がり角で車に泥んこを跳ねられて、頭に来ているのかも知れない。相手の人にも色々事情があるだろう。よっぽど虫の居どころが悪かったのかも知れん、と。

こういうふうに、自分の内を見、相手の内を斟酌(しんしゃく)するという段階は、先程の腹立ったけどちょっと我慢するというよりも、もう一つ上じゃ。相手の内と自分の内を見る。ここまで来れば、中等より上じゃ。もう、人間として見て、中の上は来ている。

同じことやられて、どう思うか、自分がどう反応するか、考えてみることじゃ。殴り返すか、泣くか、逃げるか、怒るけど我慢するか。それとも、相手の立場を考えて自分に非がないかどうか振り返るか。どれに値するか、よく考えてみなさい。最後まで来れば、人間として見て中の上じゃと思うてもよい。じゃが、まだ、これよりもっと上の人がいる。

今までの人で、最後の人は、心の段階が高くて、相手を見るだけの余裕があるけれども、もっと大きな人が出て来るんじゃ。(そういう人は)愛の塊と、慈悲の塊とも言うてもよい。(それは)縁があって、人生の途上で自分と出会う人を、何とかして良くしてやりたいと思っている人じゃ。こういう人は、何とかして相手を向上させたいと思っている生来の教育家じゃ。こういう人なら、怒るでもなく泣くでもなく、相手を、人につかみかかって殴るような人を、どうすればもっと立派な人に出来るか、色々と斟酌(しんしゃく)するじゃろう。

そして、相手を見て、これは注意をした方がいいと思えば注意をするし、たしなめたほうがいいと思えばたしなめるし、黙っておいてやったほうがいいと思えば黙っておる。あるいは、場所を変えて話をするというような人もおる。まあ、相手をよくしてやろうと思うタイプじゃ。先程の、一日に何かあったかも分からんと思ったり、自分に非があったかも分からんと思ったりする人と、相手をもっと向上させようと思うとる人となると、まあ、これでまた、心の段階がちょっと違うんじゃ。この辺まで来ると、上の下は来ておるじゃろう。

もっとすごいのがいる。上の中ぐらいじゃ。まあ、王仁三郎だったらどうしたかじゃ。そもそも、わしが殴られるようなことはなかろうが、しかし、警官隊に殴られたわけじゃから、似たようなもんじゃ。で、王仁三郎だったらどうか、殴られてどうなるかというと、ダイナマイト千五百本で本部全部ぶっ飛ばされて大本が潰(つぶ)されたわけじゃから、そりゃ、頬っぺた殴られるよりは、だいぶ痛かったぞよ。わしも監獄にもぶちこまれたから、これは頬っぺたよりも、よっぽど痛かったのう。

そこで、わしはどうしたかじゃ。わしの場合だと、真実は真実、本物は曲げられん。この世的な結果は、神の御心(みこころ)のままにと、こういう心境じゃ。真実は真実、わしが間違っていなかったのは間違っておらん。しかし、この世的にはいろいろあるじゃろ。この世的にどう顕われるかは、神の御心のままじゃ。心乱されてはいかん、と。この程度の心境じゃろうのう。まあ、上の中ぐらいじゃのう。先程の教育家よりは、ちょっと上なわけじゃ。

教育家は一杯いるんじゃ。町の教育委員なんかつかまえれば、間違いない。で、そのような殴り方をすれば、風紀を乱すなどと言うのが一杯おる。じゃが、もっと神を知った人間になると、それだけでの判断はせぬ。ダイナマイトでぶっ飛ばされても、それを怨むでもなく謗るでもなく、真実は真実じゃ、と。わしはそう思う。じゃが、この世的にその真実がどう顕われるか。真実の顕われ方が阻まれるか、それは御心のままじゃ。これはやむを得ない、というのが、わしぐらいの考えじゃのう。

まあ、イエス様もわしもそう変わらんと思うが、イエスだったらどうかということじゃ。わしの場合は、ダイナマイト千五百本で大本をぶっ飛ばされたが、あとは悠々自適で余生を送ったわけじゃが、イエス様はもっと行った。十字架じゃ。

殴られるどころじゃない。殴られとるぞ、十字架の前に。十字架に架(か)けられる前には、殴られとるんじゃ。頬っぺたに唾をかけられとる。茨(いばら)の冠もかけられた。殴られた上に、さらに十字架につるされて、手に釘(くぎ)を打ち込まれて、わき腹を突きさされて死んだんじゃ。従って、結局、右を殴られたら、それ以上のことをされたわけじゃ。

イエスは、頬っぺた、右を殴られたら左も差し出しなさいとったけれども、頬っぺた、左どころじゃない。右の頬っぺた殴られた上、唾をかけられて茨の冠を被(かぶ)されて、そして、罪人と一緒に引きずられて十字架を負わされて、最後には殺されてしまうというのじゃから、いいこと何もなしじゃ。もう徹底的じゃ。上着も取られたら下着も取られるということだが、下着どころではない、命までも取られたわけじゃ。

こう見ると、先程の法律家の嘲笑(あざわら)いじゃないが、右殴られたら左出すという馬鹿かと言うけれども、もっと馬鹿なわけじゃ。イエス様というのは徹底的な馬鹿なわけじゃ。頬っぺた殴る人に、頬っぺただけで気が済むのか、右も左も殴らしてやる、と。それでダメなら足蹴りでもいいぞ。それで嫌ならわしの生命をやろう。お前が、それ程この世が辛(つら)く、そんなに迷っているのなら、わしの体で、生命でいいのなら、わしの生命をやろう、と。これはイエス様じゃ。王仁三郎は生命までやろうとは思わなかった。

イエス様の考えは、そういうとこじゃ。じゃから、右殴られたら左まで、もっと、生命までじゃ。で、自分は、神理を説いただけ、神の心を説いただけで何にも得とらん。(それに)全てを出したわけじゃ。まあ、自己犠牲の最たるもんじゃ。

普通はここまでは行けないだろう。頬っぺた殴られた人に、家ごと、財産ごと全部やって、そのあと、自分の生命までやってしまったわけじゃ、イエスというのは。そこまでやったんじゃ。財産も生命も、全てやる。それで、お前たちは目覚めなさいということじゃ。それほどの人が出て来て、自らの生命を捨ててまで気づかそうとしたわけじゃ。

そこまでやらなければ、人類は自分らの罪深さを気づかないということじゃ。イエス様が頬っぺた殴られたぐらいで、槍を振り回して周りの人を五、六人殺して、それで最後、戦の末に斬り伏せられて死んだというなら分かるぞ。じゃが、そうじゃなかったわけじゃ。徹底的に全部奪われた。そして、奪われた中に、全てを与えた。全てを与えて、目覚めの機会を与えようとしたわけじゃ。

これなどは、先程の教育家どころじゃない、もっとすごい。要するに、自分というのが、もうないわけじゃ。上の下の教育家ぐらいだと、まだ自分がある。自分は教育者としての立場があるから人を指導しなければならないと思うとる。王仁二郎じゃ、行雲流水(こううんりゅうすい)で、余生を悠々自適、やるだけのことはやったと思うていくのが、わしじゃ。イエス様は、ダイナマイトで、神殿ふっ飛ばされただけでなくて、肉体までふっ飛ばされるところまでいかなかったら、愛と慈悲の活動を止(や)めん人じゃ。そこまで行く人もおる。

じゃが、これは普通の人は真似しちゃあいかんぞ、普通は、こんな所へは行けんのじゃ。こういうふうに、人間の心というものを一つ取っても、いろんな状態もあるし、仕組み、作用、段階、一杯あるわけじゃ。これは、やはり、偉大な人が出て来ないと、なかなか分からないのじゃ。そのままの人間の十人に聞けば、九人以上は右の頬を殴られたら左の頬を殴られたいと思う人は、絶対にいない。上着取られて下着まで取られていいと思う人もいないじゃろう。

じゃが、そういうことを教えることで、神の世界を感ずる人はいるんじゃ。イエス様の話をしたけれども、神様というのは、ちょうど、一緒(同じ様な存在)なんじゃ。神様は、右頬を打たれる時には、左の頬を先に出しとるばっかりじゃ。分かるか、人間は神の子じゃ。神が、幸せにしようと思って創った者同士が、戦争してみたり、犯罪をしたり、他の宗教を迫害したりしとるわけじゃ。同じ神様が創った宗教じゃのに、他の宗教家を迫害したりしとる、こんなのは、もう、結局、神様自身が汚されておるのと一緒じゃ。自分が創ったもんで、自分が汚されておるんじゃ。ということは、どういうことかと言うと、神様という人は、よっぽどお人好しなんじゃ。これは間違いない。

お人好しでなけりゃ、そういうのを許せんと思う。間違った宗教家だの軍人だのは、神様が、もう潰(つぶ)してしまえばいいんじゃ。すりこぎみたいので、ゴシゴシとやって、潰してしまえば終わりなんじゃ。しかし、潰さんじゃろう。何で潰さんかじゃ。なすがままにされるということじゃ。これは、イエス様の考えと一緒じゃ、右の頬っぺた出されても抵抗しちゃあいかん。悪に抗するなかれ、左の頬っぺたも出す。

イエス様の態度というのは、神様と一緒なわけじゃ。神様は、この世の中をそのまま見れば、もうこれは閉じてしまいたいと思うぞ。わしは、地球なんか風呂敷か何かで、くるっとくるんで、宇宙のどっかゴミ捨て場か何かでポッと捨てると、一番いいと思うぞ。わしが神様ならそうする。こんなうっとうしい人間が五十億もいて、ろくな人間はいない。心ある人は、もう、ちょっとだけじゃ。あとは、皆んな、おかしいのばっかりじゃ。

しかし、それを神様は、されない。だから、どれだけ神様がお人好しかじゃ。お人好しというんじゃなくて、はっきり言えば慈悲深いわけじゃ。大仏さんの慈悲どころじゃない。もっと大きいんじゃ。まあ、そういうことじゃ。宗教の使命ということで、いろいろな話をしてきた。

そこで、最後の話に関連して、さらにお立て直しの話をしたいと思う。そういうふうに、神様は、要するに、上着を取られたら下着までも取られて、平然としておられる。右の頬っぺたを殴られたら左の頬っぺたも殴られても、平気な顔しておる。イエス様みたいに、全てを与えておられるような人じゃのう。まあ、こういう世界のなかで、わしらは、まあ、平然とまた生きておるわけじゃ。泥棒してのう。

神様が人がいいものじゃから、右の頬っぺた殴られてまだ何にも言わないと思うて、左の頬っぺた殴ってみたり、上着取られて黙っておると思うて下着も取ってみたり、唾かけてまだ怒らんと思うて、茨の冠かけてみたり、それで、まだ怒らんと思うて十字架に乗せてみたり、それで引きずらしてみてまだ怒らんと思うたら、今度は槍で突き剌してみたり、そういうことをするのが、人間じゃ。

しかし神様は、それを黙って、耐えておられるんじゃ。神様も耐えておられるんじゃ。こういう世の中を見ると、結局、わしら宗教家、あるいは、地上の心ある人々のやるべきことは、わしは一つじゃと思う。それは、神様がそんなふうにお人好しじゃから、神様に任しといてはいかんのじゃ。わしらみたいに、もうちょっと人間が出来とらん者が、やはり神様の代わりになって、世の中を変えて行かねばならんのじゃ。神様、じっと待っておられるから、そのままではいかん。わしらがやらねばならんのじゃ。親分が黙っておる時には、子分が頑張らなければならん。そうして、わしら子分の仕事が何かと言えば、これがお立て直しじゃ。

わしの言葉を読む人はちょっと考えてみなさい。お前さん方が、もし神様だったら、この地上を見てどう思うか。さっき言ったように風呂敷に包んで投げたくなるだろう。わしでもそう思う、じゃから、神様の目から見ておかしいと思うものは、やはり直していかねばならん。わしは、そう思う。で、立て直しじゃ。じゃ、神様の目から見て、おかしいものは何じゃ。今見て、あの世がないなんて言うとる人は、皆んな、間違うとるのう。

こういう人は、日本人で七割ぐらいじゃ。七、八割は、皆んな間違っておる。赤信号じゃ。赤信号、皆んなで渡れば怖くない、と言うんじゃろ。わしも知っとるぞ、その位は。皆んなで赤信号、渡っておるんじゃ、七割、八割が。そして、信号が青になるのを待っておる人は、一、二割じゃ。これが魂を信じておる人じゃ。死後の世界を。

だから、あの世が、ある、ないって、あるに決まっておる。あの世の霊がしゃべっておるんじゃから、これを信じないのは、おかしいわけじゃ。非常におかしい。まあ、立て直しの第一は、ここからじゃ、あの世の存在、魂の存在を知らすということが、第一じゃ。

お立て直しの二番目は、人間に、正しい価値基準、これを教えてやるという事じゃ。何が正しくて、何が正しくないか、善悪、正邪が分からん。これを教えてやる。これが、お立て直しの二番目じゃ。

お立て直しの三番目は、この世の中をユートピアにしていくことじゃ。神の国と言うてもいい。天国と言うてもいい。この地上を、天国にしていくための努力、それが神様に報いる道じゃ。神様も、したい放題されて、じっと黙っておられるわけじゃ。自分の畑を荒らされ放題、畑に入って来て、トマトを盗む子供などは、本当は捕まえてお尻でもパンパンしたいんだけども、黙って盗むままにしておられる。やはり、わしら番人が、盗ませないようにする、そういう悪のない平和な楽園を築かねばならん。

だから、お立て直しの基本は三本じゃ。第一本は、あの世があって、魂があるということを、全員に知らす必要がある。二番目は、正しさ、正邪の基準を、はっきり教える。これは正しくて、これは違っているというのを、教えねばならん。三番目は、皆んなで、楽園を造ろうじゃないか、この三つじゃ。これがお立て直しじゃ。これが、わしだけじゃなくて、お前さん方の使命でもあろう。

お前さん方は、身命を賭して、死ぬまでの間、この三つを、全部達成は出来なくとも、出来るところまでやって行きなさい。それから後のことは、後に出る人が、また継いでいくじゃろう。

以上で、わしの話は、終わりじゃ。王仁三郎も、陰ながら、お前さん方の応援をしとるから頑張りなさい。まあ、困ったときには、また、わしを呼びなさい。何かと相談にものろう。うーん、以上じゃ。


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2 コメント

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はじめまして (barso)
2019-02-07 11:25:05
イエスの「右の頬を打たれたら・・・」の言葉で検索していたら、
貴ブログにたどり着きました。
内容が多岐にわたっていて、とてもいいブログですね。
さっそく「ブックマーク」させていただきました。

小生は元キリスト教信者で、いまは精神世界に関心を持っている者です。
ブログは人生のことや言葉の面白さなど、雑多な話題を扱っています。

それで、お願いは、今度の土曜2月9日に投稿予定の拙記事に
こちらの記事から抜粋引用させていただけないでしょうか。


参考情報として、以下のように「註」の部分で出したいのですが。
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●大本教の二大教祖の一人・出口王仁三郎は、こう言っている。(部分抜粋)
「縁があって人生の途上で自分と出会う人を、何とかして良くしてやりたいと思っている人は、怒るでもなく泣くでもなく、人につかみかかって殴るような人を、どうすればもっと立派な人に出来るか、色々と斟酌(しんしゃく)するじゃろう。わしの場合だと、この世的にどう顕われるかは、神の御心のままじゃ。心乱されてはいかん、と。この程度の心境じゃろうのう」
https://blog.goo.ne.jp/goodwonderland/e/98507f41cee3fd9d8d55bb6de8a553ab
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