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オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレーの肖像」は芸術に対する人間の幻想を見事に表現している。美しい青年グレーの肖像は青年の代わりに年をとるばかりではない。青年の魂を具現化し、婚約した女優に平然と別れを告げると、肖像は残酷な表情となる。絵画が本人より本人を表現しているというのである。実際にはありえないことだが、この小説を馬鹿馬鹿しいと言い得ないことが、大多数の人々は、極論をいえば芸術という言葉に、このような幻想を持っていることの証明である。
写真が一般に普及するまではこのような観念は一般的であった。すなわちすぐれた絵画は対象の外見を表すばかりではなく、作者の内面あるいは対象の内面をも表すことができるというものである。当時の人たちがこのような観念を抱くのには無理からぬものがある。ニューヨークのメトロポリタン美術館にレンブラントの自画像がある。レンブラントの顔の皮膚は生きているようで、血液が流れていると思わせる見事な表現である。
現代人はもちろん、当時の人でさえ実際にレンブラントを知らない人にとっては、この画が本当にレンブラントそっくりかどうかわからない。しかしこの画の人物はあたかも生きているように見える。このような作品の画ける者は少ない。だから多くの人が絵画に単なる似せ絵を越えた魂の表現として抽象化したとしても無理はない。こうして芸術を内面の表現としてとらえる特殊な観念は生まれた。
だが事態は写真が発達すると一変した。現代の写真の高度な技術を使えば、より多くの人がレンブラントに負けないような表現が可能になった。もちろん誰にでもできるというのは、正確に言えば間違いである。しかし写真の普及は圧倒的に多くの人に高度な表現を可能にした。しかも油彩に比べればはるかに少ない労力しか要しない。絵画が貴重であったのは絵画しか目で見たものを保存するという技術が他に存在しなかったからである。
それゆえオスカー・ワイルドの時代にはドリアン・グレーの肖像は真実味があったのである。その間違いを写真が客観的に間違いであると証明したのにもかかわらず、観念だけが生き残った。写真が珍しかったころ、迷信深い人たちは写真をとられると魂が奪われると恐れたという。姿を忠実にとらえた写真に魂が移ると考えたのであろう。この発想は優れた絵画に魂が宿るという考えと根底で同じである。つまり芸術に作者の精神の発現を見るのは写真が魂を奪うという同次元の発想である。