毎日のできごとの反省

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西洋文明も模倣である

2020-04-18 00:37:54 | 文化

 現在の西洋文明も模倣から始まった。それは当然である。文明は過去あるいは同時代の先進の文明の模倣から始まる。現代ヨーロッパ文明は古代ギリシア、ローマ時代、あるいはアラビア文明の模倣から始まった。分かりやすいのが絵画である。キリスト教絵画である。ダビンチなどのような立体的写実的がギリシア時代からヨーロッパで連綿として続いてきたかのように考えるのは、単純明白な誤りである。

 中世のヨーロッパなどは世界の文明の片田舎であった。文明の中心はペルシア帝国などのイスラム国家であった。ヨーロッパは神聖ローマ帝国などと言っているが、それは古代ローマ帝国などの古代文明の地域をゲルマンなどの蛮族が侵入して蹂躙した後の残骸である。西洋史の歴史書にもローマ帝国の復興などと言っているが、かつてローマ帝国の中心があった地域に、この地域に侵入した別のいくつかの民族が新しい帝国を建てただけのことである。

 ローマ帝国の復興を呼号したのは、ローマ帝国こそヨーロッパ地域の正当な支配者であると考えられていたからに過ぎない。つまりローマ帝国の再現と称することによって自らの支配の正統を主張していたのである。ヨーロッパ地域におけるかつての最大の帝国であったローマ帝国とは、この地域の正当な支配者を意味していた。このことは支那大陸で、王朝を倒した異民族が、漢民族王朝皇帝を名乗ったことと酷似している。清朝崩壊は、滅満興漢、すなわち満洲族王朝を倒して漢民族王朝を再建することを呼号して行われた。そして一瞬だが、袁世凱は皇帝を称した。

 いにしえのヨーロッパのキリスト教絵画は、東洋風の平面的な描写であった。これには、偶像崇拝が嫌われていたため、故意に写実的な表現をしなかった、という説があるが、小生にはそうは思われない。ルネッサンスの時期を経て、現在のような立体的写実的な絵画に生まれ変わったのだが、西洋絵画の立体的な表現は、ギリシア・ローマの写術的な彫刻の模写から始まったのである。ルネッサンスとは文明復興とも訳される。つまり古代ギリシア・ローマ文明を我らヨーロッパ人は取り戻すのだ、という宣言である。

 ここに巧妙な嘘がある。これではあたかも連綿として続いてきたギリシア・ローマ文明の末裔であるヨーロッパ人自身が、かつての古代ヨーロッパ文明を取り戻す、という嘘である。古代ギリシア・ローマのヨーロッパ人と現代ヨーロッパ人にはほとんど民族のDNAは繋がっていない、異民族に等しい。現代ヨーロッパ人は古代ギリシア・ローマ人の文明を模倣して、あたかもその末裔であるように振舞っているだけである。ルーマニア、というのはローメニアンすなわちローマ人の末裔を呼号する名称だそうだが、実態は不明であろう。

 だからルネッサンスとは文明の遅れたヨーロッパ人が古代文明の成果を取り入れて、イスラム世界のくびきから脱しようとして立ち上がった運動である。例えば文学の方面では、古代ギリシア・ローマの古典はアラビア語に翻訳されていて、それをドイツ語、フランス語などのヨーロッパの言語に翻訳することからルネッサンスは始まった。

 ギリシア・ローマの古代文明はアラビア語圏のイスラム世界に継承されていたのである。だから当時のヨーロッパ人はアラビア語を理解しなければ、先端技術を取り入れることはできなかった。現代のアジア諸国の多くでは、自らの言語で書かれた科学技術書がなく、多くの場合英文の書物を読まなければならない。煎じ詰めて簡単にいえば、当時のヨーロッパはそうした文明後進地域だったのである。

 ヨーロッパはアラビア語を通してそれを模倣したのである。現代数学に使われている数字はアラビア数字であることなどは、その象徴である。皆様、何故「アラビア」数字が「ヨーロッパ」人に使われているのかこれで理解いただけたでしょう。その後アラビア語からの翻訳ではなく、ギリシア・ローマの公用語たるラテン語やギリシア語から直接ヨーロッパの言語に翻訳されるようになった。その残影は、既に生きた言語ではなくなったラテン語を、今でもヨーロッパ人は教養の素地として大切にすることに表れている。西欧系の言語では、今でも新語を造語する際に、ラテン語をベースとしていることが多い。

 繰り返すが、西洋文明はギリシア・ローマ文明の模倣である。それは恥ずべきことではない。文明の継承は模倣から始まるからである。そして私は、ルネッサンス以後現代に至るまで、ヨーロッパの文明の発展は、ギリシア・ローマ文明の創造に匹敵する恐るべきものがある、ということを認めるのにやぶさかではない。

 日本でも江戸時代に関孝和が微分積分を発見していた、ということを称揚する説があるが、関孝和の計算は数値計算手法であって、微分積分に必要な零や無限大と言った極限値の概念がなかったから、正確には微分積分に限りなく近づいていたとまでしか言えないそうである。それでも日本人の知的興味とその成果は、非ヨーロッパ民族としては秀でたものがあったことは自負してよかろう。明治維新で、西欧文明を奇跡的に早く吸収したのは、そのベースがあったからである。その意味でも模倣は文明の継承と創造であって、僻目で見るべきではなかろうと思う。



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