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私はなぜこれを書くか。それは多くの人が芸術という言葉に幻惑されているからである。単に幻惑されるばかりではない。芸術という観念が流布することによって、芸術のために生きるという、ありもしないことに惑わされて「芸術家」を志し、多くの若者が、あたら有意義であるべき人生を浪費することがあるからである。
芸術という言葉は美しい。それゆえに糊口をしのぐだけの仕事に就くよりは、芸術のために一生を過ごしたいと思うのである。だが彼らの言う芸術とは本当にあるのだろうか。
二葉亭四迷は小説「平凡」で「文学の毒にあてられた者は必ず終に自分も文学に染めねば止まぬ。」と書いた。多くの若者は純粋芸術の毒にあてられた。そして人生を棒にふった。オーブリー・ビアズリー、竹久夢二、そして廃刊となった平凡パンチの表紙をかざった大橋歩を見るが良い。
彼らは世俗で大衆に好評を博した。しかし正統な美術史には登場し得ない。それは彼らが純粋芸術の理念とはほど遠く、世俗のニーズに迎合したからである。世俗のニーズこそが芸術の力の源泉ではないか。そして芸大を出て日展の「先生」となる者は何者かと。
素直に見るが良い。日展の絵画のどこが面白い。なぜ彼等は何百時間も労力を費やしてあのようなつまらぬ物を描くのか。それは日展という権威にすがるからである。芸術家は権威を否定する、というのが一般的通念である。しかし権威を否定する者が最も権威にすがるのである。人は自分に素直になるがよい。
現代の芸術の評価は大衆が行う。CDが売れる、映画の興行が記録を作る。全ての評価は大衆がする。そんな世俗を軽蔑して日展の選考委員に媚びるものは芸術の毒にあてられた者である。あたら貴重な青春を浪費するがよい。