花のある生活

花はあまり出てきませんが。

幽霊は「役に立つ」のか?

2016-03-05 | 読んだ本
「超常現象」を本気で科学する  石川幹人 

この本は幽霊や超能力などの「超常現象」を「本気」で科学する、という本。

この手の議題になると「幽霊がいる派」と「幽霊がいない派」に分かれて議論を展開しているものが、ほとんどだけど。

この本では「幽霊がいるか、いないか」ではなく、「幽霊が役に立つか、役に立たないか」、さらには、役に立つなら「どんな使い道があるのか?」「実用化できるのか?」までを考える、ということなのらしい。


・・・ものすごく斬新な発想だわ。

幽霊や超能力が、どのように「社会に役に立つか」、なんて考えたこともない。


「心霊スポットで幽霊が見えた」など、一般的に「霊の仕業」といわれる「金縛り」や「幽体離脱」なども、だいたい「科学」で説明がつくそうだ。

よくあるのは「心霊スポット」の廃墟と化した建物に入り、壁面に霊の怨念が出ている、などという場合。

当然のごとく、辺りが暗くなった夜、街灯の明かりも少なく真っ暗な廃墟に懐中電灯なりを持って入っていくと、壁には、おどろしい人の顔が…。


この正体は壁の模様や汚れが、ちょうど「人の顔」に見えてしまった現象。

人間は、車の正面など「人の顔に見えるもの」に、特に反応しやすいのです。

それから真っ暗な廃墟の中、「幽霊が出るかもしれない、怖いー」と恐怖を感じる状況下に置かれることで、壁の模様や汚れが「幽霊」に見えてしまった、ということ。

俗にいう「幽霊の正体見たり枯れすすき」ということか。



運勢の上がり、下がりも科学的に考察すれば、こういうことになります。

1.パチンコなどギャンブルをしていると、ツキやスランプなど「運の流れ」をしばしば体感する。

2.「運の流れ」が「何か」によって変化することを体感している。

3.運を呼び込むために念を込めるなど、独自の縁起かつぎの方法がある。

4.その方法は「いつもではないが、総じて有効である」と信じている。


結論から言えば、「科学的」には「運の流れ」というものはなく「ツキやスランプも無い」ということ。

いわゆる「ギャンブルの当たり」というのは「ランダムに出る」もので、当たりが続くときもあれば、全く当たりが出ないときもある。

この「ランダム加減」が、当たり続けているときには「ツイてる!」で、全く当たりが来ないときには「スランプだ」ということになる。


つまり「運の流れ」は錯覚に過ぎず、ツキやスランプは「ランダムに出る偶然」。

しかし、人間は「偶然」という現象を嫌い、「運・不運には何か原因がある」と原因を求める傾向にあるそうです。

だから、「金運の上がる○○」という、金運グッズなんかも流行るんですねー。


これは、あくまでも「科学」の話であり、お守りや祈りの信仰心を否定するものではありません。

私も、お守りを持ってますし、神社などでお参りにも行きますから。

お守りを持つことにより、心の安定が図れたり生きがいを持つことはいいことですし。


「超常現象」が科学で解明されてくると、どんな「未来」になっていくんでしょうね。



「この世には不思議なことなどないのだよ、関口君」 by 京極堂



本棚に何か、時々目が合ってしまうのが…。




目次

はじめに

序章  なぜ超常現象を科学するのか

幽霊は役に立つ?/エセ科学の撲滅/宗教と科学の違い/心霊研究から超心理学へ/「はん幽霊論」への招待


「反」の部 ―― 幽霊をめぐる非科学的主張に反論する

第一章  幽霊が見えた?

ホラー番組の取材/それが顔に見える理由/恐怖のカラクリ/怖い幽霊VS明るい幽霊/錯覚にも「意味」がある/「現実」とは何か


第二章  迷信とお守りの誤解と詐術

ツキとスランプの違い/原因を求める人間心理/お守りとバイアス/高いほど効く?/ご利益を調査する


第三章  夢と幽体離脱

昨晩見た夢は……/金縛りのメカニズム/夢のお告げは当たるのか/魂が体から抜け出す?/幽霊体験の精神状態


「半」の部 ―― 超能力を半信半疑で検証する

第四章  超能力と夢の中の世界

体験から実験へ/夢テレパシー実験の成果/緻密なガンツフェルト実験/体脱体験者はESP能力が高い?/超能力の個人差


第五章  それは誰のしわざか

奇術トリックと超能力者/幽霊かPKか/ポルターガイスト/こっくりさんの正体/シャイな無意識


第六章  未来がわかるとはどういうことか

SFとタイムパラドクス/予知と透視/予感実験/シンクロニシティ/幽霊と宇宙人は同じ?/主体性と因果性


「汎」の部 ―― 超常と日常を合わせて広汎に考える

第七章  「無意識」の大きな可能性

「技能」を身につける仕組み/ゾーンに入る/創造性という技能/無意識を手なずける/浮かび上がる「妙手」/超心理学の新展開


第八章  幽霊体験の社会化

波動を感じる?/「オーラ」と「共感覚」/「祈り」の効力/社会性が役に立つ/不確実さを受け入れる/これから科学はどこへ向かうか

終章  解体される超常現象

幽霊体験に創造性を、見いだす/文化以前の心理機能/生物進化の創造主/信念よりも実用性/五つの知恵


おわりに


参考文献一覧




旧約聖書を読み解く5  「ユダヤ民族だけの神」から「全世界の神」  

2015-06-07 | 読んだ本
旧約聖書を読み解く1  聖書は「歴史物語」

旧約聖書を読み解く2  ユダヤ教の成立

旧約聖書を読み解く3  本格的な一神教の誕生

旧約聖書を読み解く4  神の沈黙


ところが、今度は「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」の区別に意味がない、とする傾向が出てきます。

創世記には「人間の創造」の話が出てきますが、「男」と「女」をつくったと書かれているだけで、「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」の区別があるとは書かれていません。

しかし、ユダヤ民族の民族宗教であるユダヤ教では「神(ヤーヴェ)は、ユダヤ民族だけを守る神」であり、「ユダヤ民族は神(ヤーヴェ)だけを崇拝する」という、一神教の立場です。


ですから、神にとって価値があるのは「ユダヤ民族だけ」のはずですが、創世記ではそうなっていません。

ただ単に「神」が「人」をつくって、その「人」を「神」が祝福した、ことになっています。

「自分たちの国」があるうちは、「自分たちの国を守ってくれるか」が最大の関心事だったのですが、支配者の下で「自分たちの神を崇拝しながら生活する」という状態が続くようになると、「自分たちが置かれている屈辱的な状態を、どのようにして受け入れるか」が問題になります。


ユダヤ教は「本格的な一神教」の枠組みが出来上がっているので、救いがない状態でも「神は義である」。

そして、支配者として栄えているのは「非ユダヤ人」たちです。

そこで、ユダヤ民族は「神は『ユダヤ民族』だけでなく、『全人類』を支配している」 「非ユダヤ人」が政治的に優位にあるのは「― 神の奥深い意図によるものだ ―」と考えます。

「神が世界をつくった」のだから、「神は全世界の神」であり、「神は民族主義的」であり、「普遍主義的」でもある、だから「非ユダヤ人も神の祝福の対象になる」と。


前三~前二世紀には「黙示思想」と呼ばれる立場が出てきます。

神が「全世界の神」として認識されるようになったこと、「本格的な一神教」における「罪」の考え方が浸透して長く経ったことから、「神の活動の可能性」について思索がなされるようになります。

「この世」は、神によってつくられた世界。

しかし「この世」は、悪の状態にある。

よって、滅ぼされてしかるべき。

「この世の終わり」「終末」は、間近に迫っている。

神は「この世」を滅ぼす。

そして神は、新しい「来るべき世」を創造する。




「終末」「新しい来るべき世」の出現、というのは、「未来の様子」を神が示したので、それを報告する、という体裁になっているのが「黙示文学」。

「黙示思想」に熱心な者は「一部の者だけが救われる」という可能性に希望を託します。

未来に希望を託し、「終末」が早く実現するのを待ち望む ―― と。



それから、この「黙示思想」において新しいのは「神が一方的に動く」とされていること。

この状況の中で「人間はどうすれば救われるのか?」といったことに関心が集中し、俗流の「信仰」や「敬虔(けいけん)」その他、さまざまな「人間的試み」がなされてきました。

しかし、それらはすべて無駄で「神が一方的に『この世』を滅ぼす」とされています。


「『人間側の努力』で救いが得られるのではないか?」という、ユダヤ教での最後の真剣な試みが「エッセネ派」によるものです。

「エッセネ派」は、荒野の修行者たちで、町や村での文明の暮らしから離れ、死海のほとりで厳しい修行生活を試みます。

しかし、どんなに厳しく敬虔な生活を実行しても、結局「人が何をしても、救いは得られない」という結論に至った、と考えられるそうです。


ユダヤ教では、これ以降、無理な修行生活のようなことを試みません。

前一世紀末には、「エッセネ派の結論」ともいうべき、こうした理解がユダヤ民族全体に浸透したと考えられます。

そして、聖書では「人は何をしても救われない」「神が動くのを待つしかない」ということになった、とされています。


旧約聖書の話は、ここまで。


後一世紀前半、ユダヤ教徒としてイエスが生まれ、布教活動を始めます。

イエスは「身分や階級にとらわれず、神はすべての者を救う」と説いてまわり、当時のユダヤ教の主流「ファリサイ派」を批判したため、イエスは十字架にかけられ処刑。

処刑から三日後、「イエスが復活した」「イエスは救世主だ」と、イエスの弟子たちが布教活動を始めます。

後一世紀末、ユダヤ教から、キリスト教が分裂。


六世紀ごろ、ムハンマドが、キリスト教の天使「ガブリエル」から啓示を受けて、宗教活動を始めます。

七世紀、キリスト教から、イスラム教が分裂。


そして、現代までに至るわけです。



「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」は、全部「同じ神(ヤーヴェ)」を崇拝していることになるんですね。

創世記のモーゼの十戒では「神の名前をみだりに唱えない」とあるので、ユダヤ教では「アドナイ(主)」、イスラム教では「アッラー(神)」と呼ぶそうです。

名前の呼び方も諸説あり、ここでは「ヤーヴェ」と書いていますが、「ヤハウェ」「エホバ」とも読むそうです。


「神との友情」の中では、 

~~ 『神』  「神(God)」という言葉を書いてはいけない、「G-D」と書くべきだという者もある。 また、わたしの名前を口にするのはいいが、正しい名前でなくてはいけない、間違った名前を口にするのは冒瀆(ぼうとく)だという者もある。

だが、エホヴァと呼ぼうが、ヤーウェ、ゴッド、アラーと呼ぼうが、チャーリーと呼ぼうが、わたしはわたしとして変わりなく存在するし、間違った名前で呼ばれたからといって、あなたがたを愛するのをやめたりもしない。

だから、わたしを何と呼ぶかで争うのはやめればいい。 ~~「神との友情(上)」

と、書かれていたりもします。



さて、ここまで長くなりましたが、旧約聖書についての、まとめ。


聖書は「ユダヤ民族の歴史が語られている書物」。

しかし、「歴史物語」として見ると、聖書には別の解釈がなされた「2つの系統の物語」が存在します。

創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記・ヨシュア記・士師記・サムエル記(上下)・列王記(上下)は「申命記的歴史」と呼ばれています。

ここでは出来事が語られて、一定の善悪基準の判断がなされ、この善悪基準は「申命記」に記されている「掟集」に典型的に見られるものです。

この「申命記的掟」は前七世紀後半に編纂されたとし、「神の前で民がどのような態度を取るべきか」を示されています。


歴代誌(上下)・エズラ記・ネヘミヤ記は「歴代誌的歴史」と呼ばれています。

ここでは「理想化された歴史」が語られます。

前四世紀後半、ギリシア支配の最初の頃に成立したと考えられており、アダムから始まりダビデまでは、ほとんど系図だけで、北王国の物語もありません。

「旧約聖書」というのは、千年以上にわたり、様々な時代の預言者が伝えた「神の言葉」の記録や、神と人との関係から、人が置かれている条件についての思索の書、儀式の言葉、詩、時代小説風に書かれたもの…などを積み重ねて、「人間の理解の及ばないものになっている書物」ということらしい。


それから、聖書がこれだけ理解不能なくらいに複雑極まりないものになっているのは、民が様々な経験をし、いろんな立場を尊重するために、「一方的な見方を押し付け、過激な思想に陥らないようにするため」だったのかな、と思うのですが。

結果的には、たくさんの「宗派」に分裂してしまい、それぞれが「自分の正しさ」を主張して、争いを引き起こしたりしていますが。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3つの宗教の背景は、こんなに複雑な土台があるんですね~。





旧約聖書を読み解く4  神の沈黙

2015-06-03 | 読んだ本
旧約聖書を読み解く1  聖書は「歴史物語」

旧約聖書を読み解く2  ユダヤ教の成立


旧約聖書を読み解く3  本格的な一神教の誕生


前六世紀前半に、バビロニアがアッシリアを滅ぼし、このバビロニアに南王国が滅ぼされます。

またしても「『ヤーヴェ』が国を守らなかった」ということになります。

ですが、ユダヤ民族が「『ヤーヴェ』への崇拝」を捨てることはありませんでした。

「民は生まれながらに罪の状態にある」という、「本格的な一神教」が出来上がっているからです。

南王国の生き残った人々は「捕囚」として連行され、これが「バビロン捕囚」といわれています。


前六世紀後半、バビロニアがペルシアに滅ぼされ「バビロン捕囚」が終わります。

ペルシアの政策により自由になったユダヤ人たちの一部はパレスチナに戻り、一部はバビロンに留まりました。

すでに「ユダヤ人の独立国」はなく、ペルシアの支配の時代です。


このころ、ペルシアの命令により「聖書の編纂」が始まりました。

最初に「モーセ五書」が成立、他の文書がそこに加わるという形で、「聖書」の文書数は増えていきます。

始めの方でも書きましたが「ユダヤ教は、ユダヤ民族だけの民族宗教」です。

ユダヤ教の聖書は「神の言葉」で「律法(法律・掟)」としての権威を持ち、「一字一句も変更できない」とされました。


前四世紀後半、アレキサンダー大王の征服事業により、ペルシアは滅び、プトレマイオス朝エジプト・セレウコス朝シリアのギリシア系の王朝に支配が移ります。

当初ペルシアの命令により作られた「聖書」でしたが、その後も「律法」の権威は揺らぐことなく保ち続けます。


古代、一般の人々の「知恵」の能力は低いものだった、と考えられています。

このころ、ユダヤ民族の間である程度以上の判断ができるのは、王を中心として将軍や役人、宗教指導者の祭司だけでしたが、ときどき民衆の中から傑出した者が現れると「預言者(神から特別な能力を与えられた者)」と言われるようになります。

しかし、時代が進んでいくにしたがって人々の生活が向上していくので、民衆の「知恵」のレベルも上がります。

平和な状態が続き、生活が安定してくると、人々は「自分たちの生活程度の向上」を考えだします。


しかし、ユダヤ民族には民族全体にとって深刻な問題がありました。

それは「民は罪の状態にある」から「神は動かない」 だから「自分たちは救われていない」 「救われていないのならば、救われている状態になりたい」という問題です。

しかし、ユダヤ民族は「『ヤーヴェ』という神」を崇拝し続けるにおいて「神が沈黙している」「人に救いがない」という状態を「正当なもの」とするため、「民は罪の状態にある」とされたので、人間の側にどんな変化があっても「その人々たちが正しい」となる余地がありません。

すべてのユダヤ人が「この問題」に関心を示しているわけではありませんが、「この問題」が未解決なままであることに不満を持つ者たちがいます。


そうした者たちは、自分が納得できる何らかの基準を設けて「自分は救われている」と考える、「神の前での自己正当化」という状態が生じてきます。

その基準というのは、社会において「宗教的に正しい」とされていることを実践すること、「道徳的に正しい生活」を維持すること、俗にいう「信仰」や「敬虔(けいけん)」な態度といわれるものです。


トビト記という文書には、「わたしトビトは、生涯を通じて真理と正義の道を歩み続けた」と、トビトという人が「自分は正しい判断をしている」と語られています。

しかし、彼が自信を持って「真理と正義の道」と語っているのは、俗流の「信仰」や「敬虔」の態度を貫いてきたからで「最終的な審判者」である神を退けて、自分が「最終的な審判者」になってしまっています。


この「神の前での自己正当化の態度」は聖書の他の箇所にも認められ、「ペルシア期以降のユダヤ教の最大の課題」だと論評されています。

この問題を克服するのに聖書の「律法主義」が機能し、例外なく「神の前での自己正当化」を封じ込めるのに有効なものになっているそうです。


前二世紀初め、エジプトのアレキサンドリアで「聖書のギリシア語訳(七十人訳聖書)」が作られ、ヘブライ語で書かれたものとは別に、独立した権威をもつようになります。

前二世紀半ば、パレスチナのユダヤ民族は「ハスモン朝」という独立国家を作ります。

前一世紀、ローマが支配を拡大し「ハスモン朝」も滅亡。

パレスチナは、ローマ側に属することになりました。


バビロン捕囚以後、パレスチナ以外の地域にもユダヤ人が増え、バビロンがあったメソポタミア以外にもエジプト、ギリシア、ローマにも「ユダヤ人の共同体」ができました。

ユダヤ教は「ユダヤ民族の民族宗教」なので、ユダヤ教を信仰する者は「ユダヤ人」であり、信仰を捨てるならば、「ユダヤ人ではない」とされる一方、ユダヤ人以外から「ユダヤ教徒(改宗者)」になった、「非ユダヤ人出身のユダヤ人(プロリゼット)」が、かなりの人数いたそうです。

そして「ユダヤ人」たちは「シナゴーク」という、ユダヤ教の「集会所」を各地に作り、「シナゴーク」を中心に活動していました。

週一回、「安息日」に行われる集会では、聖書が朗読され「ラビ」と呼ばれる先生が聖書の解説をしたりします。

ですから、「ユダヤ人」たちが広い範囲に散らばって生活していても、「聖書」についての知識を共有することができました。

ユダヤ民族は、基本的にアブラハムの子孫「十二部族出身者」で構成されていますが、勢力拡大に伴い「プロリゼット」も増えていきます。

「プロリゼット」は「十二部族出身者」よりも一段低く位置づけられていましたが、世代を重ねるにつれて混じり合い、誰が「プロリゼットの子孫」か分からなくなっていきます。

しかし、ユダヤ民族の民族宗教であるユダヤ教は「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」の区別は意義あるもの、とされています。


…次に続く。


「ユダヤ民族」の定義が、血縁関係の一族だけに限らず「ユダヤ教を崇拝する者」としているところが、カギなんですね。


旧約聖書を読み解く3  本格的な一神教の誕生  

2015-05-30 | 読んだ本
旧約聖書を読み解く1  聖書は「歴史物語」

旧約聖書を読み解く2  ユダヤ教の成立



宗教についても「神との対話」の中で、こう書かれています。

~~ 『神』  いいかな、組織的宗教が成功するためには、ひとに宗教が必要だと思わせなければならない。 ひとに何かを信じさせるためには、自分自身への信頼を失わせなければならない。

だから、組織的宗教の第一の仕事は、あなたがたに自分自身への信頼を失わさせることなのだ。

二つ目の仕事は、あなたにはない回答を宗教がもっていると思わせることだ。

そして三つ目、最も大切な仕事は、その回答をあなたがたに何の疑問もなしに受け入れさせることだ。

もし疑問をもてば、あなたがたは考えはじめる! 考えれば、自らの内なる源へと戻っていく。

それでは、宗教は困る。 宗教が与える答えとべつの答えを出すかもしれないから。 だから、宗教はあなたがたに自分自身を疑わせる必要がある。 すなおに考える力を疑わせる必要がある。

宗教の問題は、それがしばしば裏目に出るということだ。 あなたがたが自分を疑わずにいられないとしたら、宗教に与えられた神についての新しい考え方も疑わずにはいられない、そうだろう?

まもなく、あなたがたはわたしの存在すら疑う ―― 皮肉なことに、それまでは疑ったこともなかったのに。 直観を信じて生きていれば、わたしについてあれこれ想像したりせず、わたしの存在をただ直観していただろう!

不可知論を作り出したのは、宗教だ。

宗教がしたことがはっきりと見える者なら、宗教には神はないと思うだろうね! 人びとの心を神への恐怖でいっぱいにしたのは、宗教だから。 かつて、ひとは輝かしい存在として神を心から愛していたのに。 
神の前にぬかずけとひとに命じたのは宗教だ。 かつて、ひとは喜びに満ちて神に手を差し伸べていたのに。 神の怒りへの不安をひとに背負わせたのは宗教だ。 かつて、ひとは負担を軽くしてくださいと神に願っていたのに! 

ひとに肉体や肉体の自然な機能を恥じさせたのは宗教だ。 かつて、ひとはその機能を生命の最大の贈り物として喜んでいたのに! 神に届くためには仲立ちが必要だと教えたのは宗教だ。 かつて、あなたがたは善と真実に生きていたら、神に届くと信じていたのに。 そして、人間に神を崇めよと命じたのは宗教だ。 かつて、人間は崇めずにはいられなかったから、神を崇めていたのに!

宗教はどこへ行っても分裂を創り出す。 それこそ、神の対極だ。 宗教は神とひととを分け、ひととひととを分け、男と女を分ける。 宗教によっては、男性は女性よりも上だ、神は男性より上だというものさえある。 それによって、人類の半分に強制される最大の滑稽な仮装が始まった。

いいかね。 神は男性より上ではないし、男性は女性より上ではない。 それは「ものごとの自然の秩序」ではない。 力をもつもの(つまり男性)が男性崇拝の宗教を創りだしたときに、そう望み、「聖なる書物」の最終版の半分を削除し、残りの半分を男性世界にモデルにあうようねじ曲げただけだ。

現在にいたるまで、女性は劣っている、霊的に二級市民だ、神の世界を教えるには「ふさわしくない」、神の世界を語り人びとを導くにはふさわしくないと主張しているのは、宗教だ。

あなたがたは、いまも子供のように、どちらの性が神によって聖職者と定められているのかと議論している。

いいかね。 あなたがたはすべて聖職者だ。 ひとり残らず、そうなのだ。

神の仕事をするのにとくに「ふさわしい」どんな階層も、どんなひともいない。

だが、あなたがたの多くは、国家と同じだ。 力に飢えている。 力を分けあうのをいやがり、ただ行使しようとする。 そして、同じような神を創りだす。 力に飢えた神だ。 力を分けあうのをいやがり、ただ行使しようとする神だ。 だが、いいかね。 神の最大の天分は、神の力を分けあうということだ。

あなたがたも、わたしのようになることだね。

『著者』  でも、わたしたちはあなたのようになれませんよ! それじゃあ、冒涜(ぼうとく)です。

『神』  そうしたことを教える方が、冒涜だよ。 いいかね。 あなたがたは、神をかたどって、神に似せて創られた。 あなたがたは、その運命を実現するためにここに来た…。 ~~「神との対話」2巻


『神』が「宗教組織」を批判しているところが驚きですが。

「神」という概念が出てきた最初の方が純粋に神を崇めていた、ということですかね。



旧約聖書に戻ります。

前八世紀後半、アッシリアの侵攻によって、北王国が滅ぼされてしまい、南王国のほうは何とか存続します。

「国が滅びる」ということは、「神が国を守らなかった」ことを意味しています。


しかし、「北王国」は滅びましたが「南王国」は存続しています。

ここからユダヤ民族の態度は、「ヤーヴェを見捨てる者」と「ヤーヴェに忠実でありつづける者」の2つに分かれました。

「ヤーヴェを見捨てた者たち」は、ユダヤ民族ではなくなります。

「ヤーヴェに忠実であり続ける者たち」は、北王国から逃げてきた人々を含め「ヤーヴェ主義」の人たちです。

南王国に残ったユダヤ民族たちは、北王国の滅亡を目の当たりにして「ヤーヴェ」が必ずしも民を守るわけではないことを見せつけられても、なお「ヤーヴェに忠実であり続ける者たち」ばかり、ということになりました。


ここでいう「一神教」が「人が神を選ぶことができる」ことを前提にしているものなら、それは「普通の一神教」です。

ここから生じたのは「人が神を選ぶことはできない」、ユダヤ民族であるならば「『ヤーヴェだけを神とする』という立場を捨てることはあり得ない」という驚くべきものでした。

これを「本格的な一神教」といいます。


南王国の人々は、「ヤーヴェだけを神とする」という立場を守り続けるうえで、ある問題に突き当たります。

それは「ヤーヴェは必ずしも民を守らない神だ」ということが、「北王国の滅亡」という事実で示されていることです。

「頼りにできない神」を自分たちの神とすることは基本的に不可能です。

しかし、南王国の人々は「ヤーヴェ主義者」なので「ヤーヴェを捨てない者たち」です。


「『頼りにできない神』を自分たちの神とすることはできない」と「ユダヤ民族は、ヤーヴェだけを自分たちの神とする」が、対立しています。

ここで、神学的な「民は生まれながらに罪の状態にある」という概念が生まれました。

つまり「頼りにできない、ダメな神」と考えるのではなく、「民の方がダメなのだ」というものです。


北王国が滅んだ(守らなかった)のは、神が悪いのではなく、民の方が悪いから。

だから「神が動かない(守らない)と考える」ことです。




一般に「罪」というと、罪を犯す、過ちを犯す、というように「悪いことをした」「問題を起こした」ことを言いますが、
ここでいう「罪」というのは「神の義を確保」するために、神の態度を正当化して「民は罪の状態にある」とするのです。

「神と民は『契約』を結んでいる」との概念から「神は義」であり、「民は罪の状態にある」とされることで、ここから神が民に何もしないことが正当化され、「民は神に何も期待できない」ということになりました…。



この辺りのユダヤ民族の「神への論理」が驚きです。

普通に考えたら、その「神への崇拝」をやめると思うけど、「ユダヤ民族ならば、この神を崇拝する」、さらには「神が国を守らなかったのは、民の方が悪いから」などという論理に行きつくのは、ちょっと考え付かないなあ。


次に続きます。




「他人に認められたい」と思うことの弊害

2015-04-06 | 読んだ本
自分を変える良い習慣 ついつい誰かの言いなりになってしまうあなたへ  ジェリー・ミンチントン 弓場隆訳


人間関係だけに限りませんが、誰でも「日々降りかかる様々な問題を解決したい」と思うのに、うまくいかないのはなぜでしょうか?

うまくいかない原因として、このような理由が挙げられています。


失敗したときに間違った教訓を学んでいる。 (ウソがばれたときウソをついたことを反省せず、次はうまく言おうと決意する)

失敗から何も学んでいない。 (同様の事態が発生すると同様の失敗を繰り返す)

不適切な解決策に頼りつづける。 (ある解決策を何度試しても徒労に終わっているのに、また同じ解決策に頼りつづける)

自滅する。 (困難な状況で過激な行動をとる。 怒りを爆発させると一時的にスッとするかもしれないが問題がさらに悪化する)

解決策を学ばない。 (物事を主体的に考える習慣がなく、不適切な対応の仕方を身に付けている)

間違った情報をもとに判断する。 (間違った情報をもとに判断することは、間違った結論につながる)

違う問題を解決しようとする。 (本質を見極めず違う問題に意識を向けても、その問題は解決できない)

問題解決を他人にゆだねる。 (自分が引き起こした問題の責任を取らず、他人に解決してもらおうとする)

問題を解決しないことで見返りを得ている。 (自分が被害者のように振る舞い、他人の支援を引き出す)


もちろん他人に支援を求めることが必要な時もありますが、まずは自分自身に問題を解決する力がなければ、問題を解決することはできません。


それから誰でも「他人に認められたい」という欲求をもっていますが、その欲求が強すぎることは問題を引き起こします。

「他人に認められたい」と、思いすぎている人の兆候は、こういうものです。


・他人に迎合するような言動をする。

・他人に反対されたら意見を変える。

・自分の言いたいことではなく、相手の聞きたいことを言う。

・他人の誤解は解いておかなければならないと感じる。

・他人を喜ばせることを念頭において自分の言動を選択する。

・他人を怒らせるのが怖いので、失礼な接し方を受け入れる。

・他人の気分を害する恐れのある言動をしない事ばかり気にかけている。

・自分の能力、知識、所有物で他人を印象づけようとする。

・自分のミスでないことも含めて、何か悪いことがあるたびに謝る。

・自分が価値のある人間であることを他人に証明するために多くの時間を割く。

・ありのままの自分を知られると嫌われることを恐れ、実際とは違う自分を演出している。



「他人に認められたい」と思いすぎると、心理的に弱い立場に置かれるので他人の感情に振り回されることになります。


「他人に認められたい」と思いすぎる唯一の理由は「自分で自分を認めていないから」。

自分で自分を認めてさえいれば「極端に他人の承認を求めることもない」ということ。


これは、「人に好かれなくてもいい」ということではありません。

「他人にどう思われるか」を不当に重視しなければ、他人の評価に一喜一憂することもない、ということです。


「自分は自分、人は人」ですからね。




目次


序 章   なぜうまく問題を解決できないのか?      

第1章   なぜ人は、他人の心を操作しようとするのか? その操作から身を守るためには

第2章   困っている人をどこまで助けていいのか?

第3章   なぜ、周囲の人に合わせようとするのか

第4章   他人に依存しなくてもすむようにするには

第5章   なぜ、多くの人は、他人の人生を支配したがるのか?

第6章   過度に他人に好かれたいと思うことの問題点とは?

第7章   他人を直したがる癖を直そう

第8章   なぜ人は、非現実的な期待を抱いてしまうのか?

第9章   なぜ人は、間違った思い込みに囚われてしまうのか?

第10章  自分の責任を受け入れることの意味




旧約聖書を読み解く2  ユダヤ教の成立

2015-03-16 | 読んだ本
旧約聖書を読み解く1  聖書は「歴史物語」


前回からの続き。

さらに「神との対話」では「アダムとイヴ」についても、このように語られています。

~~ 『著者』  たとえば、子どもの頃に、お前は罪びとだ、人間はすべて罪びとで、それはどうしようもないことなんだと教えられました。 そんなふうに生まれついているのだって。 われわれはみんな、罪のなかへ生まれてくるんです。

『神』  非常に面白い考え方だね。 そんなことを誰に教えられたのかな?

『著者』  アダムとイヴの物語を聞かされたんです。 四年生、五年生、六年生の教理問答ではこんなふうに教えられます。―― わたしたちは罪を犯していないかもしれないし、もちろん、赤ん坊は何の罪も犯していないけれど、アダムとイヴは犯した。 私たちはアダムとイヴの子孫だから、二人の罪、それに罪深い性質を受け継いでいる。

アダムとイヴは禁断の木の実を食べた。―― 神と悪魔を知る知恵を身につけた―― から、その子孫もすべて、生まれながらに神から隔てられた。 わたしたちはみんな、この「原罪」を魂に負って生まれる。 みんなが罪を分けあっています。 わたしたちが選択の自由を与えられた理由もそこにある、つまりアダムとイヴと同じことをして神を裏切るか、それとも「悪事」をするという生まれながらの性格を克服し、世界に誘惑されても正しいことをするかどうか、試されているんじゃないでしょうか。

~中略~

『神』  冷たさがわからなければ、熱さもわからない。 下降がなければ上昇もない。 左がなければ右もない。 一方を非難し、一方をほめるのはやめなさい。 それでは、真実を理解できない。 何世紀も、人びとはアダムとイヴを非難してきた。 彼らは原罪を犯したのだと言われてきた。 だが、いいかね。 あれは、最初の祝福だった。 あの出来事がなくて、善悪の分別がつかなければ、あなたがたは、善と悪の可能性が存在することすら知らなかっただろう! 

実際、アダムの堕落といわれる出来事がなければ、善悪二つの可能性も存在しなかった。「悪」はなく、誰もが、何もかもが、つねに完璧な状態で存在していた。 文字どおり、パラダイス、天国だ。 だが、それがパラダイスであることも分からなかっただろう―― 完璧さとして経験することもできなかった。 他のことを何も知らなかったからだ

アダムとイヴを非難すべきか、それとも感謝すべきか? そして、ヒトラーの場合はどうだろう? いいかね。 神の愛と神の憐れみ、神の知恵と神の赦し(ゆるし)、神の意図と神の目的は、どれほど凶悪な犯罪、どれほど凶悪な犯罪者をも包み込んでしまうほど大きい。

あなたは賛成しないかもしれないが、それはどうでもよろしい。

あなたはいま、ここで発見すべきものを学んだばかりだ…。 ~~「神との対話」2巻


このキリスト教の「原罪」というものも、なかなかイメージできないところ…。



旧約聖書に戻ります。

創世記4章は「カインとアベルの物語」、6~8章「ノアの洪水物語」、11章は「バベルの塔の物語」。

創世記の12章からは、ユダヤ民族の物語が中心に語られます。


族長のアブラハムが「ユダヤ民族の祖先」とされている。

「アブラハムの子 イサク」「その子供のヤコブ」そして「ヤコブの子供たち」の物語。


前十三世紀、ヤコブの11番目の子、ヨセフが奴隷としてエジプトに売られ、その後、父と兄弟たちもエジプトに行くこととなる。

それから、モーセが指導者になり、エジプトで奴隷状態にあった一族たちを率いて、エジプトから脱出、約束の地「カナン(パレスチナ)」に向かいます。

これは、モーセの十戒や、モーセが「海を真っ二つに割った」というところですね。


この「出エジプト」事件をきっかけにして、「ヤーヴェ(ヤハウェ)」という神を崇拝する民族宗教「ユダヤ教」が成立した、とされています。

「出エジプト」記には、神が様々な奇跡を起こして、一族たちがエジプト脱出に成功したことが記されています。

しかし脱出を喜ぶも束の間、これからは荒野で厳しい生活をして行かなければなりません。

このような中で、人々は一致協力して生活していくため、「ヤーヴェ」を自分たちの神として、崇拝していくことにします。

神は、民に「恵み」「救い」「安全」を与え、ユダヤ民族は、「この神を信頼し、忠実になる」ことを選択します。

「ヤーヴェ」は「ユダヤ民族だけを守る神」であり、「ユダヤ民族は『ヤーヴェ』という神だけを崇拝する」という図式が形成されるのが「一神教」といわれるものです。


前十二世紀、一族たちは40年の間、荒野を放浪の末、約束の地「カナン」にたどり着き、先住民のうちで味方になる者を加えて、「十二部族の連合」という体制で定住生活に入ります。

荒野での放浪生活の時代よりも生活条件はよくなりますが、隙あらば攻め込もうとする様々な勢力が周囲にいて、脅威が去ったわけではありません。

「十二部族」は同じく「『ヤーヴェ』を神として崇拝する集団」として、結束を固めていなければなりませんでした。


やがて強い指導力を持った「王」を立てて「王国」をつくります。

サウル・ダビデに続き、ソロモン王の時代には「ソロモンの栄華」と呼ばれる、軍事的・経済的・文化的繁栄をもたらし、エルサレムに神殿を建設、領土も拡大します。

ユダヤ民族は、常に厳しい状況にあったので、政治的・軍事的に団結を固めておく必要があり、「ヤーヴェ」という神だけを選ぶ、という「一神教」の状態が、ソロモンの時代までは、問題もなく維持されていました。


前十世紀、ソロモンが亡くなると、ユダヤ民族の王国は「南(ユダ)王国」と「北(イスラエル)王国」に分裂してしまいます。

南王国ではダビデ・その子供…と、ソロモン以来のダビデ王朝が続きます。

北王国では、ダビデ王朝から離れた者たちの国で、王の正統性が不安定で、何度も王朝が入れ替わります。


「国が分裂した」ということは、「民族全体の一致団結が不可欠ではなくなった」ということを物語っており、「『ヤーヴェ』という神だけを崇拝する」という形も崩れてしまいます。

南北の王朝では、「ヤーヴェ」以外の「他の神々への崇拝」も行われるようになり、「雲の神」「雨の神」である「バアル」、「豊穣の女神」である「アスタルテ」(イシュタル)(アシュラ)など、「人々の生活に直接的な利益を与えてくれる神」が崇拝の対象となりました。

集団の置かれている環境が厳しければ「一つの神だけを崇拝する」という態度が必要不可欠とされますが、生活が安定して、余裕が生じてくると「人が神を選ぶことができる」という多神教的な態度になります。

こうした「多神教的な傾向」が大きくなると、今度は「ヤーヴェだけを神とすべき」という「ヤーヴェ主義」の立場が生じてきます。

多神教的傾向は、北王国で特に顕著で「ヤーヴェ主義」の立場に立つ預言者たちが、人々を積極的に「ヤーヴェだけを神とする」という立場に引き戻そうとしました。

しかし、人々の多神教的傾向を根絶することは容易ではありません。


預言者のエリシャは、仲間のヤーヴェ主義者を王にして「ヤーヴェだけを神とする」という立場に立たない者たちに厳しい手段で臨み、多くの人が殺されたそうです。

このように「宗教的迫害」を行うものは「ある特定の立場だけが正しい」としていることで、「この論理には大きな誤解が含まれている」と論評されています。

エリシャにとっては「ヤーヴェだけを神とする」という立場が正しく、「ヤーヴェだけを神とする」という立場を選んでいない者たちは、すなわち「悪」であり「彼らを殺すのは当然だ」ということになります。


しかし、この「ユダヤ教」は、神は「恵み」「救い」「安全」を民に与え、民は「この神を信頼し、忠実になる」ことを選択する、ことで成り立っている。

神の立場からすると「ヤーヴェだけを神とする立場に立たない者たち」は、すなわち「悪」であり、この「悪い判断をしている者たち」をどうするのかは「神の判断」です。

しかし、これまでのところ「悪い判断をしている者たちが滅ぼされる」ということにはなっていないので、これは「神の判断」ではありません。

宗教的迫害は「神を否定し、自分たち人間の判断で『正しいとされること』を勝手にやっている」ことが問題だ、とのこと。


…次に続きます。


エジプトから逃げ出し、荒涼とした風景の広がる砂漠地帯で、厳しい生活の中から、「神」という概念を生み出し、ここからユダヤ教、キリスト教、イスラム教…と、宗教が成立していったのですねー。

特に旧約聖書が「イスラム教のルーツ」になっている、というのが驚きでした。





旧約聖書を読み解く1  聖書は「歴史物語」

2015-02-21 | 読んだ本
「神との対話」を読んでいると、話の背景が「キリスト教」になっているので少々分かりにくいところが出てくる。

著者はアメリカ人だし、キリスト教は「一つの神だけを信仰する一神教」だから。


日本だと「八百万の神(やおよろずのかみ)」といい、山岳信仰や巨木や岩などに、神が宿るといって祀っていたり、仏教に神道、さらには新興宗教なども交じって「多神教の国」なので、一神教がどういうものなのか、なかなかイメージできないんだよね。

それこそ日本ではクリスマスにはパーティーで盛り上がって(クリスマスはキリスト教)、お正月には神社にお参りに行ったりするようなものだから。


キリスト教がモチーフにされているものは、中世の宗教画はもちろんのこと、人気アニメのエヴァンゲリオンにいたるまで、たくさんあるので興味はあるんだけど。

しかし興味あるといっても、いきなり「聖書」を読んでも分からないし、とりあえずNHK「100分で名著」の「旧約聖書」から。

私の場合、信仰心から見ているわけではないので、理解の仕方がちょっと他と違うかもしれませんが…。



1947年以来、死海北西岸クムラン周辺の11の洞窟から800巻以上の写本巻物や断片が発見され、「死海文書」と呼ばれるこの文書群は、最古の「旧約聖書」の写本とされている。

「約」とは、「神と契約する」の意味。

ユダヤ教から受け継いだものを「旧約」、後にキリスト教独自の文書集を加えたのが「新約聖書」。


この「ユダヤ教の聖書」は、トーラー(律法)5書、ネイビーム(予言者)前編6書・後編15書、ケトゥビーム(諸書)13書、の3部に分かれており、500年以上かけて編纂され「ユダヤ民族の歴史が語られている書物」。

しかし、この「ユダヤ教の聖書」は、ただ歴史を語っているだけではなくて「律法」「掟」としての権威があり、これを遵守するもの、と定められている、とのこと。

「ユダヤ教の聖書」は、「ヘブライ語で書かれた39の文書集からなるもの」とされる。

これを「ギリシア語に翻訳」したのが、「七十人訳聖書」で、キリスト教ではこちらが「旧約聖書」と呼ばれます。


第1部トーラー(律法)には、天地創造の神話「創世記」があり、1章~2章始めには「6日間の天地創造」で、

最初に「カオス」「混沌」がある。

神は6日間にわたって世界をつくる。

1日目、光と闇、昼と夜。

2日目、水を上と下に分け、上が空ないし天とされる。

3日目、天の下の水が集められて海になり、乾いたところが地になる。

4日目、太陽と月と星がつくられる。

5日目、水の中の生き物と鳥がつくられる。

6日目、地上の生き物がつくられ、人がつくられる。 人は「神の似姿」とされ、すべての生き物を支配するとされる。

7日目、神は休む。
100分で名著から



2章~3章には「天地創造とエデンの園」で、

神が天地をつくったとき、地には草木も生えていなかった。

神は土の人形に命を吹き込んで男をつくると、エデンの園に住まわせ「善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない」と言い渡した。

次に、男のあばら骨から女をつくった。

そして、蛇が「木の実を食べるよう」女をそそのかすと、2人はその実を食べてしまう。

彼らは自分たちが「裸」であることを知り、神の足音を聞いて木々に身を隠した。

その様子から、2人が命令に背いたことを知った神は、男には労働の苦しみ、女には産みの苦しみなどを与え、「命の木の実まで食べられてはならぬ」として、エデンの園から追放した。
100分で名著から


ところで、「6日間の天地創造」と「天地創造とエデンの園」では少し話が食い違っています。

世界は一つしかありませんから、神が世界をつくるという行為は、1回であるはずなのに、上の話と下の話では、世界の創造が続けて異なった手順で書かれています。

上の話では、様々なものがつくられてから、最後に人がつくられて、男女の区別はない。

下の話では、地には草木も生えていなかったところに、男をつくり「エデンの園」に住まわせ、それから女をつくった。

それから、聖書は「権威ある書物」で聖書に書かれていることは、すべて真実である。


聖書に、このような「明らかな矛盾」があることは無視されてしまっているようで、話のつじつまを合わせるように「調和的解釈」がなされることが多いらしいです。

このように「明らかに矛盾がある物語が並べられている」ということは、「聖書がどのような書物なのかの重要な特徴を示している」と言えるのだそうです。

では、いったいどう解釈すればいいのでしょう?


これは世界を創造する際に、「人と地上の生き物(植物を含めて)の、どちらを先につくったのか」また「男女同時につくられたのか、それとも別々なのか」は、「それほど重要なことではない」「確定的な真実はない」ということを示すために「意図的に異なる話」がされている。

「聖書の権威」を否定することはできないが、「聖書に書かれていることはすべて真実、といった単純な立場を否定するべきだ」というメッセージが聖書の冒頭で示されている、ということなんだそうです。



ちなみに「生命の起源」については、「神との対話」の中では、このように語られています。

~~ 『神』  わたしはあなたがたの素晴らしい身体が永遠にもつように創った! そして、最初の人間たちは文字どおり苦痛のない身体のなかで、いま死と呼ばれているものへの不安もなしに、生きていた。

あなたがたの細胞が記憶している最初の人類は、神話のなかでアダムとイヴと呼ばれている。 もちろん、最初の人類は二人だけではなく、もっとたくさんいた。

はじめ、あなたがたの素晴らしい魂は、物質的な身体のなかで、相対的な世界で得られる経験を通して、真の自己を知る機会を得ることになっていた。 それは、何度も説明したとおりだ。

そこで物質をつくるために、猛スピードの振動(考えのかたち)の速度が落された。―― そうやって創られた物質のなかには、あなたがたが物質的な身体と呼ぶものも含まれている。

生命は、あなたがたが何十億年と呼ぶ一瞬のあいだに、一連の段階を通って発達した。 そして、聖なる瞬間がやってきて、あなたがたは海という生命の水から陸地へ上がり、今のようなかたちをとるようになった。

『著者』  それじゃ、進化論者は正しいんですね!

~中略~

『神』  息子よ、進化論者は正しくない。 わたしはすべてを―― 何もかもを―― 一瞬のうちに創った。 聖なる一瞬に―― 天地創造論者の言うように。 そして……あなたがたの言う歳月でいえば、何十億年もかかって進化の過程をたどってきた。 進化論者が主張するように。

彼らはどちらも「正しい」。 聖なる一瞬/何十億年、どんな違いがあるのか? 生命の問題については、解くことができない大きな謎もあると素直に思うことはできないのか? どうして、謎を聖なるものとしておけないのか? どうして、聖なるものは聖なるものとして、そっとしておけないのか?

『著者』  きっと、わたしたちはみな、飽くことのない知識欲の持ち主なんでしょうね。

『神』  だが、あなたは「もう知っているではないか!」 今、「話した」ばかりではないか! 

それでもあなたは本当の「真実」ではなく、「自分が理解できる真実」を知りたがる。

だから、あなたがたの目は開かれない。 あなたがたは、すでに真実を知っていると思っている! 真実がどのようなものか、もう理解していると思っている。 そこで、見聞きし、読んだことで、自分が理解できるパラダイムに当てはまることには同意し、当てはまらないことは受け付けない。 それが学ぶことだと思っている。 それで、教えに対して心を開いていると思っている。 しかし、自分にわかる真実以外は受け付けないのでは、教えに対して心を開いているとは言えない。

したがって、この本は一部のひとからは冒涜だと―― 悪魔の仕業だと―― 言われるだろう…。 ~~「神との対話」1巻 



「エデンの楽園」の話は有名ですが、「6日間の天地創造」の方は、全然知らなかったわ。

だから、一週間が7日なんですかね。

7日目「神は休む」で休日もあるし・・・。


長くなったので、次に続きます。





「シロクマ実験」って?

2013-01-13 | 読んだ本
シロクマのことだけは考えるな! 人生が急にオモシロくなる心理術  植木理恵


この本のタイトルにある「シロクマのことだけは考えるな」というのは、心理学の実験で「シロクマ実験」という記憶に関する研究がされていることから付けられています。


まずは集めた人を3つのグループに分けて、何も説明せずに「シロクマの1日を追った映像」を見てもらいます。

見終わったあとには「シロクマのことを覚えておけ」「シロクマのことは考えても、考えなくてもよい」「シロクマのことだけは考えるな」と、それぞれ「3つのグループ」に別々のことを伝えます。

それから1年後、この3つのグループに「この映像を見たことを覚えているかどうか」を確認するのです。


ちなみに「なぜシロクマなのか」というと、心理学的に「シロクマは何の象徴(シンボル)でもなく、イメージが固定されていない動物」だから。

そして1年後、最もこの映像を覚えていたグループは、なんと「シロクマのことは考えるな」と告げられたグループだったのです。


「覚えていなくてもいい」と言われると、なおさら思い出してしまう。

人間の記憶って、なんか不条理ですよね。


それなら「ずーっと記憶を保ち続けていくのか」というと、そういうわけでもなく、どれだけ衝撃的な出来事があっても、3ヶ月~6ヶ月たつと記憶率が下がり、その対象への興味が薄れて「忘れることができる」といわれています。

つまり、脳の中では「飽きた」という状態。


たとえば、コマーシャル・ソングとか、たまたま耳にした歌とか、耳について離れなくてグルグル、ループしている…なんていうときも、なかなか止まりませんよね。

ちょっとうっとうしいから、止めようと思っても止まらないのは、こういうわけなんですね~。



「人は『考える』ことなしに、『考えまい』とすることはできないからね」 byウェグナー



目次

はじめに

第1章   元気になる心理術

 忘れようと努力するほど鮮明に思い出してしまう [シロクマ実験とトラウマ克服法]

 頭が真っ白! パニクる気持ちはこう抑える [回避的コントロールの限界とパニック解消法]

 失恋した夜、「軍艦マーチ」は「中島みゆき」よりブルーな曲になる [元気回復のカギは、気分不一致効果にあり!]

 なぜ宝くじは他人に頼まず自分で買いに行きたいのか? [ウツな人に学べ! コントロール・イリュージョンとの付き合い方]

 幸せになりすぎるとかえってツライ! [ストレス・マグニチュードを下げるコツ]


第2章   頭がよくなる心理術

 なぜ上司の耳は自分の悪口だけ、よく聞こえるのか? [脱・カクテルパーティ効果でライバルに差をつけろ!]

 合コンで出会った相手とはなぜすぐに別れてしまうのか? [脱・フォールス・メモリーで人を見抜け!]

 火のない所に煙をモクモク立ててしまうのは「コトバ」 [口ゲンカは、ぜんぶ言語的隠蔽だった!]

 なぜ次男次女は「世渡り上手」なのか? [デキる人はモデリング学習の達人!]

 三人寄れば文殊の知恵は湧かない [集団的手抜きの恐ろしさ]


第3章   人をコントロールする心理術

 思いどおりに人を育てる超カンタン人心コントロール術 [調教上手はアメとムチ、ではなくアメと「ムシ」]

 カリスマホストもひそかに実践! [アメとムシ、ときどきアメ抜き]テクニック 「間欠強化でマインドコントロール!?]

 会議も相談も思うがままコントロールするにはここに座れ! [スティンザー効果で魔法の仕切り術]

 「ズバリ言うわよ」と言われたことはなぜ感動するほど当たっているのか? [フォアラー効果で占い師になれる!?]

 一度人気が落ちた芸能人が復活する㊙テクニック [アンダードッグ効果で大逆転しよう]

 
第4章   人をトリコにする心理術

 最強の人間関係を作るほめるテクニック [トクベツな人に大昇格。「ジョハリの窓」の叩き方]

 なぜ不倫カップルは長続きするのか? [心理的リアクタンスを煽って魅力倍増!]

 フシギちゃんはどうして人気者なのか? 「認知的不協和が人を夢中にさせる]

 「貢ぐから、好きになる」あの人がモテまくる本当の理由 [自己知覚理論を知ればモテモテになる!]


 おわりに

 参考文献