旧約聖書を読み解く1 聖書は「歴史物語」
前回からの続き。
さらに「神との対話」では「アダムとイヴ」についても、このように語られています。
~~ 『著者』 たとえば、子どもの頃に、お前は罪びとだ、人間はすべて罪びとで、それはどうしようもないことなんだと教えられました。 そんなふうに生まれついているのだって。 われわれはみんな、罪のなかへ生まれてくるんです。
『神』 非常に面白い考え方だね。 そんなことを誰に教えられたのかな?
『著者』 アダムとイヴの物語を聞かされたんです。 四年生、五年生、六年生の教理問答ではこんなふうに教えられます。―― わたしたちは罪を犯していないかもしれないし、もちろん、赤ん坊は何の罪も犯していないけれど、アダムとイヴは犯した。 私たちはアダムとイヴの子孫だから、二人の罪、それに罪深い性質を受け継いでいる。
アダムとイヴは禁断の木の実を食べた。―― 神と悪魔を知る知恵を身につけた―― から、その子孫もすべて、生まれながらに神から隔てられた。 わたしたちはみんな、この「原罪」を魂に負って生まれる。 みんなが罪を分けあっています。 わたしたちが選択の自由を与えられた理由もそこにある、つまりアダムとイヴと同じことをして神を裏切るか、それとも「悪事」をするという生まれながらの性格を克服し、世界に誘惑されても正しいことをするかどうか、試されているんじゃないでしょうか。
~中略~
『神』 冷たさがわからなければ、熱さもわからない。 下降がなければ上昇もない。 左がなければ右もない。 一方を非難し、一方をほめるのはやめなさい。 それでは、真実を理解できない。 何世紀も、人びとはアダムとイヴを非難してきた。 彼らは原罪を犯したのだと言われてきた。 だが、いいかね。 あれは、最初の祝福だった。 あの出来事がなくて、善悪の分別がつかなければ、あなたがたは、善と悪の可能性が存在することすら知らなかっただろう!
実際、アダムの堕落といわれる出来事がなければ、善悪二つの可能性も存在しなかった。「悪」はなく、誰もが、何もかもが、つねに完璧な状態で存在していた。 文字どおり、パラダイス、天国だ。 だが、それがパラダイスであることも分からなかっただろう―― 完璧さとして経験することもできなかった。 他のことを何も知らなかったからだ。
アダムとイヴを非難すべきか、それとも感謝すべきか? そして、ヒトラーの場合はどうだろう? いいかね。 神の愛と神の憐れみ、神の知恵と神の赦し(ゆるし)、神の意図と神の目的は、どれほど凶悪な犯罪、どれほど凶悪な犯罪者をも包み込んでしまうほど大きい。
あなたは賛成しないかもしれないが、それはどうでもよろしい。
あなたはいま、ここで発見すべきものを学んだばかりだ…。 ~~「神との対話」2巻
このキリスト教の「原罪」というものも、なかなかイメージできないところ…。
旧約聖書に戻ります。
創世記4章は「カインとアベルの物語」、6~8章「ノアの洪水物語」、11章は「バベルの塔の物語」。
創世記の12章からは、ユダヤ民族の物語が中心に語られます。
族長のアブラハムが「ユダヤ民族の祖先」とされている。
「アブラハムの子 イサク」「その子供のヤコブ」そして「ヤコブの子供たち」の物語。
前十三世紀、ヤコブの11番目の子、ヨセフが奴隷としてエジプトに売られ、その後、父と兄弟たちもエジプトに行くこととなる。
それから、モーセが指導者になり、エジプトで奴隷状態にあった一族たちを率いて、エジプトから脱出、約束の地「カナン(パレスチナ)」に向かいます。
これは、モーセの十戒や、モーセが「海を真っ二つに割った」というところですね。
この「出エジプト」事件をきっかけにして、「ヤーヴェ(ヤハウェ)」という神を崇拝する民族宗教「ユダヤ教」が成立した、とされています。
「出エジプト」記には、神が様々な奇跡を起こして、一族たちがエジプト脱出に成功したことが記されています。
しかし脱出を喜ぶも束の間、これからは荒野で厳しい生活をして行かなければなりません。
このような中で、人々は一致協力して生活していくため、「ヤーヴェ」を自分たちの神として、崇拝していくことにします。
神は、民に「恵み」「救い」「安全」を与え、ユダヤ民族は、「この神を信頼し、忠実になる」ことを選択します。
「ヤーヴェ」は「ユダヤ民族だけを守る神」であり、「ユダヤ民族は『ヤーヴェ』という神だけを崇拝する」という図式が形成されるのが「一神教」といわれるものです。
前十二世紀、一族たちは40年の間、荒野を放浪の末、約束の地「カナン」にたどり着き、先住民のうちで味方になる者を加えて、「十二部族の連合」という体制で定住生活に入ります。
荒野での放浪生活の時代よりも生活条件はよくなりますが、隙あらば攻め込もうとする様々な勢力が周囲にいて、脅威が去ったわけではありません。
「十二部族」は同じく「『ヤーヴェ』を神として崇拝する集団」として、結束を固めていなければなりませんでした。
やがて強い指導力を持った「王」を立てて「王国」をつくります。
サウル・ダビデに続き、ソロモン王の時代には「ソロモンの栄華」と呼ばれる、軍事的・経済的・文化的繁栄をもたらし、エルサレムに神殿を建設、領土も拡大します。
ユダヤ民族は、常に厳しい状況にあったので、政治的・軍事的に団結を固めておく必要があり、「ヤーヴェ」という神だけを選ぶ、という「一神教」の状態が、ソロモンの時代までは、問題もなく維持されていました。
前十世紀、ソロモンが亡くなると、ユダヤ民族の王国は「南(ユダ)王国」と「北(イスラエル)王国」に分裂してしまいます。
南王国ではダビデ・その子供…と、ソロモン以来のダビデ王朝が続きます。
北王国では、ダビデ王朝から離れた者たちの国で、王の正統性が不安定で、何度も王朝が入れ替わります。
「国が分裂した」ということは、「民族全体の一致団結が不可欠ではなくなった」ということを物語っており、「『ヤーヴェ』という神だけを崇拝する」という形も崩れてしまいます。
南北の王朝では、「ヤーヴェ」以外の「他の神々への崇拝」も行われるようになり、「雲の神」「雨の神」である「バアル」、「豊穣の女神」である「アスタルテ」(イシュタル)(アシュラ)など、「人々の生活に直接的な利益を与えてくれる神」が崇拝の対象となりました。
集団の置かれている環境が厳しければ「一つの神だけを崇拝する」という態度が必要不可欠とされますが、生活が安定して、余裕が生じてくると「人が神を選ぶことができる」という多神教的な態度になります。
こうした「多神教的な傾向」が大きくなると、今度は「ヤーヴェだけを神とすべき」という「ヤーヴェ主義」の立場が生じてきます。
多神教的傾向は、北王国で特に顕著で「ヤーヴェ主義」の立場に立つ預言者たちが、人々を積極的に「ヤーヴェだけを神とする」という立場に引き戻そうとしました。
しかし、人々の多神教的傾向を根絶することは容易ではありません。
預言者のエリシャは、仲間のヤーヴェ主義者を王にして「ヤーヴェだけを神とする」という立場に立たない者たちに厳しい手段で臨み、多くの人が殺されたそうです。
このように「宗教的迫害」を行うものは「ある特定の立場だけが正しい」としていることで、「この論理には大きな誤解が含まれている」と論評されています。
エリシャにとっては「ヤーヴェだけを神とする」という立場が正しく、「ヤーヴェだけを神とする」という立場を選んでいない者たちは、すなわち「悪」であり「彼らを殺すのは当然だ」ということになります。
しかし、この「ユダヤ教」は、神は「恵み」「救い」「安全」を民に与え、民は「この神を信頼し、忠実になる」ことを選択する、ことで成り立っている。
神の立場からすると「ヤーヴェだけを神とする立場に立たない者たち」は、すなわち「悪」であり、この「悪い判断をしている者たち」をどうするのかは「神の判断」です。
しかし、これまでのところ「悪い判断をしている者たちが滅ぼされる」ということにはなっていないので、これは「神の判断」ではありません。
宗教的迫害は「神を否定し、自分たち人間の判断で『正しいとされること』を勝手にやっている」ことが問題だ、とのこと。
…次に続きます。
エジプトから逃げ出し、荒涼とした風景の広がる砂漠地帯で、厳しい生活の中から、「神」という概念を生み出し、ここからユダヤ教、キリスト教、イスラム教…と、宗教が成立していったのですねー。
特に旧約聖書が「イスラム教のルーツ」になっている、というのが驚きでした。
前回からの続き。
さらに「神との対話」では「アダムとイヴ」についても、このように語られています。
~~ 『著者』 たとえば、子どもの頃に、お前は罪びとだ、人間はすべて罪びとで、それはどうしようもないことなんだと教えられました。 そんなふうに生まれついているのだって。 われわれはみんな、罪のなかへ生まれてくるんです。
『神』 非常に面白い考え方だね。 そんなことを誰に教えられたのかな?
『著者』 アダムとイヴの物語を聞かされたんです。 四年生、五年生、六年生の教理問答ではこんなふうに教えられます。―― わたしたちは罪を犯していないかもしれないし、もちろん、赤ん坊は何の罪も犯していないけれど、アダムとイヴは犯した。 私たちはアダムとイヴの子孫だから、二人の罪、それに罪深い性質を受け継いでいる。
アダムとイヴは禁断の木の実を食べた。―― 神と悪魔を知る知恵を身につけた―― から、その子孫もすべて、生まれながらに神から隔てられた。 わたしたちはみんな、この「原罪」を魂に負って生まれる。 みんなが罪を分けあっています。 わたしたちが選択の自由を与えられた理由もそこにある、つまりアダムとイヴと同じことをして神を裏切るか、それとも「悪事」をするという生まれながらの性格を克服し、世界に誘惑されても正しいことをするかどうか、試されているんじゃないでしょうか。
~中略~
『神』 冷たさがわからなければ、熱さもわからない。 下降がなければ上昇もない。 左がなければ右もない。 一方を非難し、一方をほめるのはやめなさい。 それでは、真実を理解できない。 何世紀も、人びとはアダムとイヴを非難してきた。 彼らは原罪を犯したのだと言われてきた。 だが、いいかね。 あれは、最初の祝福だった。 あの出来事がなくて、善悪の分別がつかなければ、あなたがたは、善と悪の可能性が存在することすら知らなかっただろう!
実際、アダムの堕落といわれる出来事がなければ、善悪二つの可能性も存在しなかった。「悪」はなく、誰もが、何もかもが、つねに完璧な状態で存在していた。 文字どおり、パラダイス、天国だ。 だが、それがパラダイスであることも分からなかっただろう―― 完璧さとして経験することもできなかった。 他のことを何も知らなかったからだ。
アダムとイヴを非難すべきか、それとも感謝すべきか? そして、ヒトラーの場合はどうだろう? いいかね。 神の愛と神の憐れみ、神の知恵と神の赦し(ゆるし)、神の意図と神の目的は、どれほど凶悪な犯罪、どれほど凶悪な犯罪者をも包み込んでしまうほど大きい。
あなたは賛成しないかもしれないが、それはどうでもよろしい。
あなたはいま、ここで発見すべきものを学んだばかりだ…。 ~~「神との対話」2巻
このキリスト教の「原罪」というものも、なかなかイメージできないところ…。
旧約聖書に戻ります。
創世記4章は「カインとアベルの物語」、6~8章「ノアの洪水物語」、11章は「バベルの塔の物語」。
創世記の12章からは、ユダヤ民族の物語が中心に語られます。
族長のアブラハムが「ユダヤ民族の祖先」とされている。
「アブラハムの子 イサク」「その子供のヤコブ」そして「ヤコブの子供たち」の物語。
前十三世紀、ヤコブの11番目の子、ヨセフが奴隷としてエジプトに売られ、その後、父と兄弟たちもエジプトに行くこととなる。
それから、モーセが指導者になり、エジプトで奴隷状態にあった一族たちを率いて、エジプトから脱出、約束の地「カナン(パレスチナ)」に向かいます。
これは、モーセの十戒や、モーセが「海を真っ二つに割った」というところですね。
この「出エジプト」事件をきっかけにして、「ヤーヴェ(ヤハウェ)」という神を崇拝する民族宗教「ユダヤ教」が成立した、とされています。
「出エジプト」記には、神が様々な奇跡を起こして、一族たちがエジプト脱出に成功したことが記されています。
しかし脱出を喜ぶも束の間、これからは荒野で厳しい生活をして行かなければなりません。
このような中で、人々は一致協力して生活していくため、「ヤーヴェ」を自分たちの神として、崇拝していくことにします。
神は、民に「恵み」「救い」「安全」を与え、ユダヤ民族は、「この神を信頼し、忠実になる」ことを選択します。
「ヤーヴェ」は「ユダヤ民族だけを守る神」であり、「ユダヤ民族は『ヤーヴェ』という神だけを崇拝する」という図式が形成されるのが「一神教」といわれるものです。
前十二世紀、一族たちは40年の間、荒野を放浪の末、約束の地「カナン」にたどり着き、先住民のうちで味方になる者を加えて、「十二部族の連合」という体制で定住生活に入ります。
荒野での放浪生活の時代よりも生活条件はよくなりますが、隙あらば攻め込もうとする様々な勢力が周囲にいて、脅威が去ったわけではありません。
「十二部族」は同じく「『ヤーヴェ』を神として崇拝する集団」として、結束を固めていなければなりませんでした。
やがて強い指導力を持った「王」を立てて「王国」をつくります。
サウル・ダビデに続き、ソロモン王の時代には「ソロモンの栄華」と呼ばれる、軍事的・経済的・文化的繁栄をもたらし、エルサレムに神殿を建設、領土も拡大します。
ユダヤ民族は、常に厳しい状況にあったので、政治的・軍事的に団結を固めておく必要があり、「ヤーヴェ」という神だけを選ぶ、という「一神教」の状態が、ソロモンの時代までは、問題もなく維持されていました。
前十世紀、ソロモンが亡くなると、ユダヤ民族の王国は「南(ユダ)王国」と「北(イスラエル)王国」に分裂してしまいます。
南王国ではダビデ・その子供…と、ソロモン以来のダビデ王朝が続きます。
北王国では、ダビデ王朝から離れた者たちの国で、王の正統性が不安定で、何度も王朝が入れ替わります。
「国が分裂した」ということは、「民族全体の一致団結が不可欠ではなくなった」ということを物語っており、「『ヤーヴェ』という神だけを崇拝する」という形も崩れてしまいます。
南北の王朝では、「ヤーヴェ」以外の「他の神々への崇拝」も行われるようになり、「雲の神」「雨の神」である「バアル」、「豊穣の女神」である「アスタルテ」(イシュタル)(アシュラ)など、「人々の生活に直接的な利益を与えてくれる神」が崇拝の対象となりました。
集団の置かれている環境が厳しければ「一つの神だけを崇拝する」という態度が必要不可欠とされますが、生活が安定して、余裕が生じてくると「人が神を選ぶことができる」という多神教的な態度になります。
こうした「多神教的な傾向」が大きくなると、今度は「ヤーヴェだけを神とすべき」という「ヤーヴェ主義」の立場が生じてきます。
多神教的傾向は、北王国で特に顕著で「ヤーヴェ主義」の立場に立つ預言者たちが、人々を積極的に「ヤーヴェだけを神とする」という立場に引き戻そうとしました。
しかし、人々の多神教的傾向を根絶することは容易ではありません。
預言者のエリシャは、仲間のヤーヴェ主義者を王にして「ヤーヴェだけを神とする」という立場に立たない者たちに厳しい手段で臨み、多くの人が殺されたそうです。
このように「宗教的迫害」を行うものは「ある特定の立場だけが正しい」としていることで、「この論理には大きな誤解が含まれている」と論評されています。
エリシャにとっては「ヤーヴェだけを神とする」という立場が正しく、「ヤーヴェだけを神とする」という立場を選んでいない者たちは、すなわち「悪」であり「彼らを殺すのは当然だ」ということになります。
しかし、この「ユダヤ教」は、神は「恵み」「救い」「安全」を民に与え、民は「この神を信頼し、忠実になる」ことを選択する、ことで成り立っている。
神の立場からすると「ヤーヴェだけを神とする立場に立たない者たち」は、すなわち「悪」であり、この「悪い判断をしている者たち」をどうするのかは「神の判断」です。
しかし、これまでのところ「悪い判断をしている者たちが滅ぼされる」ということにはなっていないので、これは「神の判断」ではありません。
宗教的迫害は「神を否定し、自分たち人間の判断で『正しいとされること』を勝手にやっている」ことが問題だ、とのこと。
…次に続きます。
エジプトから逃げ出し、荒涼とした風景の広がる砂漠地帯で、厳しい生活の中から、「神」という概念を生み出し、ここからユダヤ教、キリスト教、イスラム教…と、宗教が成立していったのですねー。
特に旧約聖書が「イスラム教のルーツ」になっている、というのが驚きでした。