むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

ありがとうございました

2023年02月05日 13時43分42秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・昨年の暮れから読んできました、
田辺聖子さんの「ナンギやけれど・・・」
昨日で読み終えました。

おつきあい下さってありがとうございました。

日々の生活の中、
田辺さんの書かれたものとご一緒すると、
ほんと、元気が出ます。

次回からは、
「なにわの夕なぎ」 (2006年 朝日文庫)

朝日新聞の夕刊に連載されたものです。

古い本ですが、
よろしければおつきあい下されば大変嬉しいです。






          

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「わたしの震災記」 ㉔

2023年02月04日 08時58分51秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・私が神戸の下町に住みはじめたころは、
まだ神戸ブームは起きていず、
知る人だけが知っているという、
人生の穴場の町だった。

そののちテレビドラマの舞台になったりして、
神戸が観光名所になったので、
<いつか一度行ってみたい>
と、人にいわれるような町になった。

しかしそれ以前は、ひっそりと、
いいものをふところに育てているような町だった。

私は下町の診療所裏の自宅と共に、
古い異人館にも住んでいたので、
古風な人情と、ハイカラな異国趣味を同時に知った。

モダンと古風が微妙に混ざり合って、
濃密な美味をもたらす、ふしぎな町だと思った。

そういう町だからこそ、
被災者同士いたわり合い、たすけ合う、
そしてボランティアもすんなり受容することが、
できたのではないかと思っている。

茶髪の兄ちゃんが、
避難所のトイレ掃除をごく自然にやっている。

若い女性が寒風吹きすさぶところにテントを張って、

<あついおうどんいかがですか>

友人三、四人で、材料かついで大阪から来たという。
避難所ではあったかいものが喜ばれると聞いて。

若い人が自然に、
日常感覚で手を出すようになった。

気がついたらボランティアをしていた。
そんな顔で、続々と神戸へ入ってきた。

そして自衛隊もなかなか、
きめこまかな救援活動をつづけてくれた。

晩夏の神戸を歩いた。

瓦礫の山は片づけられ、
それこそ何もないところに青空が広がっていた。

下山手通りの、美しい赤レンガの栄光教会は跡形もなく、
蒲鉾型の仮設礼拝堂が建っている。

三宮駅のサンプラザビルは解体されていた。
フラワーロードの日生ビルも但馬銀行も。

そごう百貨店は傷んだ外壁がとり払われて、
一部はもう営業をはじめていた。

そういえば宝塚も<花のみち>は崩れたけれど、
大劇場は再開した。

神戸の町には、
<がんばってや KOBE>とともに、
<フェニックス・コーベ>の看板が多くなっていた。

<WE LOVE KOBE>も。

元町商店街はわりあい損壊をまぬかれたほうで、
人通りも多く、店も開いている。

ここの鈴蘭灯、見るのは何年振りみたいな気がする。
センター街も、アーケードは失われたけれど、
店は開いていた。

タウン誌「神戸っ子」は、
神戸のおしゃれをいっぱい盛った月刊だが、
けなげにも二・三月合併号をいち早く出し、
あとはがんばって毎月出しつづけている。

神戸だけではなく、
県外にもファンの多い雑誌だ。

女性編集長の小泉さんは、

<崩れた町を見たとき、
悲しくて涙が止まらなかった。
でもどんなことがあっても神戸は離れません。
みんな、そうやと思うわ>

いまは神戸も、一種の戦国時代。

シャッターをおろしたビルの前で、
衣料品や雑貨を売る人。

プレハブでお好み焼き屋をはじめる人、
そして女たちの働く姿がやけに多い。

<ぼ~~っとしてても、しゃーないやん>

道ばたで果物や野菜を並べはじめたのも女たちだった。

<店建てかえたばっかりやってん。
けど、壊れたもん、しゃーないやん>

復興までは大変だが、
女たちのエネルギーを私は信じる。

<しゃーないやん>といいつつ、
女たちははねおき、立ち上る。

<お調子もん、いうことやろ>といったら、

<そやそや、あはは・・・>

果物屋の五十すぎたおばさんは、
青空商店街の真ん中で笑う。

うしろに焦土がひろがっている。






          


(了)

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「わたしの震災記」 ㉓

2023年02月03日 09時05分55秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・東京から来たジャズマンは、
<演奏より水汲みボランティアを>と志して、
避難所へ来たのだった。

しかし被災者のリクエストで、
小学校の体育館でミニコンサートを開くことになった。

「星に願いを」
「ムーンリバー」
「マイウェイ」・・・

人々は毛布や段ボールを敷き詰めた冷たい床に坐って、
じっと聞き入った。

すべてを失ったけれど、音楽は奪われずにある。
人々は熱い拍手をする。
ジャズマンも泣いた。

(大阪読売 1995・2・12)

私の知人のマンドリン奏者は数人の同僚と一緒に、
ボランティアで避難所の小学校を巡回した。

教室で、
「故郷の廃家」「浜辺の歌」などを弾いたら、
聞いていた被災者は涙を浮かべ、
奏者たちも涙ぐんでしまった。

演奏が終わると、
沈黙ののち、拍手の嵐がきたそうである。

<ありがとう、ありがとう・・・>と心からいわれ、
奏者たちの方が、<こちらこそありがとう>
といわずにはいられなかった。

温かいものが通い合い、
結局、再起するバネは人に囲まれる温かさであろう。

<えらい目に遭うたけど、
しゃーないやん、またやり直さな>

と神戸の友人たちはいう。

<空襲のときでも、立ち上ったんやもん。
長田の焼け跡見て、もう空襲とおんなじや、思たわ>

と空襲経験者の彼女はいい、

<それでも今は、よその町へ行けば物資はあるし、
ボランティアの人も来てくれてやし、
空襲よりずっと分がええわ。
今やったら、また一からやったる、いう気はある>

そういう肝太き女たちでさえびっくりさせられたのは、
神戸市の暴力団山口組が、
近隣の人々に救援物資を無料提供したことだ。

庭先の井戸水を汲んでくれる。
カップラーメン、ウーロン茶、パン、毛布。

<おおげさなことはできひんけど、
できることはしょう思てな>

と親分はいったよし。

(1995・2・5 『サンデー毎日』)

あんた貰たん?とその女性に聞くと、

<貰たら、出ていけ、いわれへんやんか>

その町の人々は暴力団の邸が町内にあるのを、
かねて迷惑がっていたのだ。

しかし突然の大地震は浮世の区分をとびこえ、
人間同士の連帯を親分に痛感させたのだと思いたい。

見てきた人の話では、
むらがる人々に三下が整理券をくばっていたとのこと。

大震災を経験してなお、
人々は神戸を離れたくないという。

一ヵ月ほどたってのアンケートである。
(1995・2・16 産経)

産経新聞社は大阪市大・生活科学部の、
宮野道雄助教授の研究グループの協力を得、
アンケート調査をした。

特に被害の大きかった長田区、中央区、東灘区の、
三百十世帯に対するもの、
大半が家屋に被害を受け、
しかも四世帯に一人の割合で死傷者が出ているのに、
九割近くが<神戸を離れたくない>というのだ。

その理由は、<神戸への愛着>が圧倒的に多い。

明るくて遊び好き、おいしいもん好き、
新しいもん好き、(それが神戸ファッションの原動力)、
そんな町だった、そしてこれからもそういう町にしたい、
と思っているに違いない。

私は神戸の下町に十年住んだ。

神戸はモダンでハイカラ、と思われているけれど、
根っから人情は熱く、古風な人肌のぬくみを持っている。

それを知って私はびっくりしたものだ。






          


(次回へ)

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「わたしの震災記」 ㉒

2023年02月02日 09時11分57秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・震災のすぐあとから、
身内や友人知己たちが被災したしるべをたずねて、
引きもきらず神戸へやってきた。

新聞のたずね人欄はいつもびっしり満杯。

人々は背も曲がるほどの荷を背負うて、
港から、不通の駅から、船で、あるいは徒歩で、
神戸へやってきた。

私の友人もまた、その中にいたのだが、
天保山からの船の中で、
(神戸へ入るには海路という方法が楽だった)
若い女性に誰を尋ねて行くのか、と聞いたそうだ。

<え~、オジなんですけど、
オバと二人なので、どうしてるかと思って>

彼女が背負うのははちきれそうなリュック。

<何を持って来られましたか>

<お米と野菜、缶ビール・・・
水やガス出ますか?ダメって聞いたけど、
わからへんよって、おにぎりも持ってきています>

みんな情の濃い見舞客であった。

しかもそれは日曜日だけではなかった。
人々は不通の線路を歩いて、次の日も次の日も続いた。

産経新聞の辛口コラム「斜断機」には、

「小生は地震と火事の凄まじさより、
正直いって、被災者同士が炊き出しの協力をし合ったり、
近縁の人が大きな荷物を担いで、
救援物資を被災者に届けたり、
近所の人たちが家と食と水を分け合って同居したりの、
温かさ以上の人間の本来の優しさみたいなものを感じ、
驚いた。
核家族化の極限まで進んだ東京圏では、
こんなシーンにお目にかかることができるか心配である。
助けてくれるのが、飼い犬と飼い猫だけしかいなかった、
ということにならないよう、
個人の自立ばかりでなく他者とのふだんの絆を持とうと、
考えなおしたしだい」

全国からボランティアが神戸めざしてやってきた。
個人で、また団体で。
企業ごとに、友人同士で。
次々と被災地に入ってきた。

労力提供のボランティアだけではなく、
医師も看護師も薬剤師も、
そのほか、通訳、マッサージさん、大工さん、
いろんな職能ボランティアが訪れた。

日本史の中で空前絶後だった。
早くから被災者の周辺へ入り、被災者の支えとなった。

日本にはいままでそんな歴史はなかったので、
人々は面食らったけれども、
すぐそれを受け入れた。

ボランティア元年といわれるが、
それも開明的な市民の多い、
阪神間と神戸だったからではないか。

人々は新聞で、
首相がテレビによって地震の第一報を知った、
ということにびっくりする。

それならわれわれ一般庶民と変わらないじゃないか。
政府直結の情報網はないのか。

一瞬にして民家が崩壊し、
高速道路が壊れ、
火の手があがり、
死者は増え続けた。

そのニュースを国民よりおそいスピードで、
政府や閣僚が知ったということに衝撃を受ける。

我々が信頼していた政府がそんなにトロい、
鈍くさいものであったのか、
これではあまり信用ならぬと、
認識の革命が起きた。

行政はアテにならへん、
何でも自分でやらなあかん。

そこへ何か、
私たちにできることがあったら、
手助けしたい、という人たちが次々あらわれる。

手をさしのべてくれ、
支えもしてくれる、無償の奉仕。

なれないうちは当惑するが、

<あっ、こういう人間のありかたもあるのか。
人間ってこういうこともできるのか>

と開眼する人もある。

それに触発されて、被災者同士、
相互扶助でたすけあうようになる。

今まで挨拶もしなかった隣近所と、
給水に並んで口を利き合うようになる。

高校生たち、茶髪の兄ちゃんたちが、
救援物資を運ぶのに懸命になっていた。






          


(次回へ)

写真は越冬中の夏の花、
ハイビスカス、ペンタス、ブライダル・ベル

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「わたしの震災記」 ㉑

2023年02月01日 09時05分44秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・西宮の被災者F・Kさん(女性 68歳)は、
余震にそなえて懐中電灯を求めるため、
倒壊した家や塀の瓦礫などにつまずきつつ、
阪急沿線の夙川に沿って歩いていた。

阪急線は線路が飴のようにねじれ曲がり、
悪夢のようだった。

道のかたわらで、
普段なら二百円くらいの焼きそばを、
千円で売る人がいた。

通りがかりの主婦が怒って、

<ようそんな高うに売れるねえ、このバチ当り。
はよ帰りぃ、帰りぃ>

と一喝する。

F・Kさんも怒ったがむなしく、口惜しい思いだった。

このエピソードの夙川というのに注意。
夙川は西宮の中でも風光の美しいところで、
阪神間人間の愛する名所、
そしてこの辺を徘徊出没するのは、
良識ある中産階級、というのが定説。

いくら困窮しても、
<盗泉の水は飲まぬ>プライドがあるのを、
この焼きそば屋は知らぬとみえる。
土地勘のないやつであろう。

くだんの主婦もF・Kさんも、地震があったばっかりに、
こんな心情柄劣な連中に、美しい夙川を汚されて、
と悲憤したことであろう。

この話は実はあとのほうに比重がある。

F・Kさんは夙川公園までやってきた。
すると大きなリュック姿の若い女性四・五人がかけよってきて、

<こんなにひどいとは思いませんでした。
おむすびを作ってきました。パンも、水も・・・>

若い彼女らが泣いている。
あたたかいおむすびだったという。

聞けば名古屋を暗いうちに発ってきたとのこと。
F・Kさんはこらえていた涙があふれ、
お礼の言葉が出なかった。

これはF・Kさんが大阪朝日新聞(1995・8・21)に、
半年たって投稿した文章である。

「半年前の真心今なお支えに」というタイトル。

F・Kさんはいう、

「今も彼女たちの優しさが心の支えになっている。
まともな暮らしと心安らぐ日はまだ遠いけれど、
うれしかったことだけは胸にとめ、
つらかったことは早く忘れ去りたい」

私の知人、四十五の男、
尼崎に住んでいて地震の被害はなかった。

新聞やテレビを見て、
何か、被災者の役にたちたくてたまらなかった。

ただし老親に加え、義理の仲の老人を養う身で、
そんなに経済的に余裕があるわけではなく、
震災後はじめての日曜日は二十二日だった。

朝早くから自転車に乗って、

<なんや、そら、タダで働くやつ、
ボランティアちゅうもんやって、
ちょっとでもエライ目に会うたん、
手助けしよか、思て>

家に余裕のあるのは、
<〇〇の湧水>という清水ペットボトル二本と、
奥さんが<持って行けば>と出してくれた、
買い置きの青いビニール袋十枚だった。

それを自転車に積んで出発した。

どこへ行っていいか分からぬので、
いちばん近い避難所へ飛び込み、
水とビニール袋を世話人に渡し、
あと指図されるまま、救援物資の衣類の仕分けに、
一日働いて帰ってきたという。

いちばん原初的なすてきなボランティアではないか、
と私は思った。






          


(次回へ)

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