・震災のすぐあとから、
身内や友人知己たちが被災したしるべをたずねて、
引きもきらず神戸へやってきた。
新聞のたずね人欄はいつもびっしり満杯。
人々は背も曲がるほどの荷を背負うて、
港から、不通の駅から、船で、あるいは徒歩で、
神戸へやってきた。
私の友人もまた、その中にいたのだが、
天保山からの船の中で、
(神戸へ入るには海路という方法が楽だった)
若い女性に誰を尋ねて行くのか、と聞いたそうだ。
<え~、オジなんですけど、
オバと二人なので、どうしてるかと思って>
彼女が背負うのははちきれそうなリュック。
<何を持って来られましたか>
<お米と野菜、缶ビール・・・
水やガス出ますか?ダメって聞いたけど、
わからへんよって、おにぎりも持ってきています>
みんな情の濃い見舞客であった。
しかもそれは日曜日だけではなかった。
人々は不通の線路を歩いて、次の日も次の日も続いた。
産経新聞の辛口コラム「斜断機」には、
「小生は地震と火事の凄まじさより、
正直いって、被災者同士が炊き出しの協力をし合ったり、
近縁の人が大きな荷物を担いで、
救援物資を被災者に届けたり、
近所の人たちが家と食と水を分け合って同居したりの、
温かさ以上の人間の本来の優しさみたいなものを感じ、
驚いた。
核家族化の極限まで進んだ東京圏では、
こんなシーンにお目にかかることができるか心配である。
助けてくれるのが、飼い犬と飼い猫だけしかいなかった、
ということにならないよう、
個人の自立ばかりでなく他者とのふだんの絆を持とうと、
考えなおしたしだい」
全国からボランティアが神戸めざしてやってきた。
個人で、また団体で。
企業ごとに、友人同士で。
次々と被災地に入ってきた。
労力提供のボランティアだけではなく、
医師も看護師も薬剤師も、
そのほか、通訳、マッサージさん、大工さん、
いろんな職能ボランティアが訪れた。
日本史の中で空前絶後だった。
早くから被災者の周辺へ入り、被災者の支えとなった。
日本にはいままでそんな歴史はなかったので、
人々は面食らったけれども、
すぐそれを受け入れた。
ボランティア元年といわれるが、
それも開明的な市民の多い、
阪神間と神戸だったからではないか。
人々は新聞で、
首相がテレビによって地震の第一報を知った、
ということにびっくりする。
それならわれわれ一般庶民と変わらないじゃないか。
政府直結の情報網はないのか。
一瞬にして民家が崩壊し、
高速道路が壊れ、
火の手があがり、
死者は増え続けた。
そのニュースを国民よりおそいスピードで、
政府や閣僚が知ったということに衝撃を受ける。
我々が信頼していた政府がそんなにトロい、
鈍くさいものであったのか、
これではあまり信用ならぬと、
認識の革命が起きた。
行政はアテにならへん、
何でも自分でやらなあかん。
そこへ何か、
私たちにできることがあったら、
手助けしたい、という人たちが次々あらわれる。
手をさしのべてくれ、
支えもしてくれる、無償の奉仕。
なれないうちは当惑するが、
<あっ、こういう人間のありかたもあるのか。
人間ってこういうこともできるのか>
と開眼する人もある。
それに触発されて、被災者同士、
相互扶助でたすけあうようになる。
今まで挨拶もしなかった隣近所と、
給水に並んで口を利き合うようになる。
高校生たち、茶髪の兄ちゃんたちが、
救援物資を運ぶのに懸命になっていた。