むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「今昔物語」をよみ終えて

2021年08月27日 08時47分59秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳


・こちらのブログで、田辺聖子さんが訳された古典を読んできました。

他にも田辺さんの古典訳の本はあるのですが、
この辺りで一度古典は置いて、現代小説を読み直そうと、
考えています。

コロナ禍になって1年余、
電車やバスに乗る機会も激減し、
外出といえば生活必需品の買い出し以外は全く無く、
家ごもりの生活の中で、楽しみといえば、田辺さんの本。

若い時代、私の祖母と思って読んだ主人公の歌子さん。
そして還暦時代、私の母と思って読んだ歌子さん。
そして今、後期高齢者の仲間に入った私が同年齢として、
歌子さんと肩を並べる三度目の挑戦、
昭和50年代の作品「姥ざかり」シリーズを、
読んでいこうと思います。

途中リタイアがあるかも?自信がありませんが、
まずは明日からスタートします。

ちなみに、今までお立ちより下さって、
拙いブログに「いいね」を押して下さったみなさま、
ほんとにありがとうございました。

よろしければこれからもおつきあい下されば嬉しいです。






          


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24、美女ありき  ②

2021年08月27日 08時19分48秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・「法華経は習ったのですが、まだ、そらんじてはいません」

「難しいものなの?そらでよむって」

「いや、そんなことはないでしょうが、
何しろ自分はなまけて遊んでばかりいるものだから・・・」

「じゃ、早くお山へ帰って一生懸命習ってちょうだい。
そらでおよみになれたらまたいらして。
その時はさっきいったように、あなたのお言葉に従うわ」

僧はやっと激情を鎮め、翌朝早くその邸を出た。

それからというもの、
日も夜も法華経を暗誦するのにかかっていた。

女の面影は目にちらつき忘れる間もなく、
修行の合間に僧はせっせと手紙を書いた。

女からも返事が来た。
しかも返事につけて女は布や干飯など贈ってくる。

(おれと暮らしたい、と言ったのは嘘ではないのだな)

と思うと僧は嬉しかった。


~~~


・二十日ばかりすると、すっかり経をそらんじることが出来、
勇んで法輪寺へお詣りし、帰途、女の邸へ寄った。

その夜更け、心おどらせて女のそばへ近づき、僧はささやいた。

「約束通り、法華経をおぼえましたよ」

「待って」と女は僧の手をとどめて、

「同じことなら、お経を読むだけではなく、
もっと学識を積んだ学僧になっていただきたいの。
それでこそ、あなたを心から尊敬して、愛を誓える、ってもの。
あなたがやんごとない宮さま方や、殿上人たちにも、
敬われるお坊さまとなれば、あたしもどんなに誇らしく思うことか。
学問に没頭して、立派な学僧となって下さい。
その間の仕送りはさせて頂くし、お便りも欠かさない。
そして学問をおさめて皆に敬われる方となられたら、
その時こそ、変わらぬ契りを結びましょう。
それを承知して下さらないなら、いま殺されたっていやよ」

僧は(この女のいうのも尤もだ)と考えた。

ここまで俺のことを考えてくれるのか。
貧しい俺が、この人の仕送りで身を立てるというのも、
よい機会かもしれぬ。

僧は女と約束した。

それから三年、僧はいっそう勉学に励んだ。

あの人に会いたい、
あの人を愛したいという思いは心肝を砕くようであった。

そのやみくもな情熱を学問に傾けたので、
二年も経つと、もとより聡明な性質でもあったので、
学識はゆたかに深くなった。

仏典の論議、講演の場に出るたび、頭角をあらわして、
その学才を賞賛され、三年経つころには、見事に、
一山の学僧として讃えられるようになった。


~~~


・僧は久しぶりに邸を訪れた。

「嬉しいわ、立派におなりになって」

女は続けていう。

「かねてお経でわからないところがありました。
お訊ねしてもいいかしら?」

女は仏典の中の疑問点を問いただし、
僧はそれについて一々答えを示したので、

「まあ、ほんとに尊い学僧になられたこと。
あなたはよくせき、聡明な方なのね」

と女はほめた。

その夜、僧が女のもとへ行くと、女は拒まず、
添い臥しながら、「しばらくこうやって話をしない?」

と、あれこれ物語るうちに不覚にも僧はうとうとしてしまった。

何しろ比叡から出てきて法輪寺へ詣った帰りなので、
疲れがたまっていたのである。


~~~


・はっとして目覚め、
(思わず寝入ったな)と起き上がってみると、
何ということ、荒野のただ中に、
薄を折り敷いて寝ているのだった。

自分の衣のみがあたりに脱ぎ散らしてある。
有明の月ばかり明るく、ここは嵯峨野の野原であるらしかった。

僧が震えたのは春先の寒さばかりではない。

怖ろしさに骨の髄まで凍りそうに思われ、
ここから法輪寺は近い、そこで夜を明かそうと、
桂川を徒歩で渡った。

川水は腰まであり流されそうだったが、
辛うじて渡って震えながら法輪寺に着き、御堂に入って、

(怖ろしい目に会いました。お助け下さい)

と念じているうち眠ってしまった。

夢の中で、頭の青い小さい僧が出てきた。

(汝が今宵謀られたのは狐狸のたぐいのためではない。
われが謀ったのである。
汝は学問に身を入れずして、才智を与えよとわれを責めた。
よってわれは汝の好む女の身と変じて、悟りを開かしめたのである)

虚空蔵(こくぞう)菩薩のお告げだった。

僧は恥ずかしく悲しきこと限りなく、
叡山へ戻っていよいよ学問にはげんだ、という。

その僧はしかし、幻の美女を忘れることが出来なんだ。

煩悩も悟りを開くみちとなるが、
手の届かぬ美女の慕わしさは年ごとに積もった。

できることならもう一度、なまけ者に返って、
かの美女にいましめられたいと・・・   
年老いても幼児が母を慕うように偲んだそうな。

「いやいや、わしのことではないぞよ、この僧は」

老僧はおだやかに笑った。







          





(了)

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24、美女ありき  ①

2021年08月26日 09時41分22秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・「なまけ者を励まして、学問させる方法・・・これはむつかしい」

と老僧は微笑む。

嵯峨野の奥の夕暮れは早く、露じめりした庭に、
くちなしの花が点々と白い。

「本人がその気にならねば・・・というて、
その気にならぬから、なまけ者なのでな」

学識あって有徳の老僧は都の人々から慕われ、
嵯峨野のささやかな僧坊を訪れる人が多い。

老僧は勤行の合間に、人々の話を聞いてやるのだった。

「ふむ、お手前の息子どの、仏縁あって出家され、
あっぱれな善知識にと親御はお望みをかけていられるのに、
若さにかまけて遊び呆けていると?
若い時は自然そうしたものだが、
昔々、わしが叡山で修行していたころ、仲間にもそういう僧がいた。
頭はよいが、なまけ者でな、遊び人で女好き、
身を入れて仏典の勉強をするということもせぬ。
そのくせ、抜け目ない奴でな、常に法輪寺へお詣りしては、

『学才をお授け下さい、悟りを開かせて下さい』

と祈っておった。

法輪寺は虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)、知恵福徳のみ仏よ。
虚空蔵さまにすがりながら、修行することもなく、
遊びたわむれておったのよ。

ある秋の一日、いつものように法輪寺へお詣りしたが、
ついつい寺の僧と話込むうち夕暮れとなり、
急いで帰ったが西の京あたりで日はとっぷり暮れてしまった。

比叡のお山は京の町を横切ってはるかに遠い。
夜の道中は物騒なり、どこぞ泊めてもらえまいかと歩くうち、
唐門の立派な邸があり、若い下女が立っていたので、
僧は一夜の宿を乞うた。

その女はあるじに聞いてみましょうと邸のうちへ入ったが、
すぐ出て来て、『お安いことでございます。どうぞお入り下さい』

と招き入れてくれるではないか」


~~~


・小綺麗な少女が食事や酒を出してくれた。

若い僧は嬉しくそれを摂って、手を洗ったりしていると、
奥の遣戸が開いて几帳の向こうから女あるじらしい声がした。

「どなたさまですか?」

「比叡の山で修行する者ですが、
法輪寺へ詣って帰ろうとしたら日が暮れましたので、
一夜の宿をお願いした次第です」

「いつも法輪寺へお詣りでしたら、どうぞまたお立ちより下さい」

そういって女は遣戸を閉めて奥へ入った。
しかし几帳の手がつかえて、戸は締めきれずすき間ができた。

夜も更けたが僧は寝つかれない。
庭へ出て建物の母屋の前あたりをぶらついていると、
蔀に小さい穴を見つけた。

一条の光が洩れている。
僧は思わず近寄ってのぞいてみた。

空薫もののゆかしい匂いが鼻をうつ。
部屋の調度は豪奢だったが、何より目を奪われたのは、
そこにいる若い美しい女だった。

低い燭台を身近に置き、物に寄りかかって草子を見ている。
年のころは二十歳ばかり、何とも美しくあでやかで、
紫苑色の衣の裾には、つややかな黒髪が流れていた。

几帳の蔭に二人ほどの女房が寝ており、
少し離れたところには、食事を運んでくれた少女が寝ていた。

僧は美しい女あるじに血が騒ぎ、目もくらんでしまった。


~~~


・(こうしてめぐりあったのも、前世の因縁だ。
この思いを遂げないではいられない)

と心がなぎ立ち、自制出来なかった。

邸じゅうが寝静まり、女あるじも寝たと思われるころ、
さっきの少しすき間のできていた遣戸をそっと開け、
忍び足で女の側へ近寄って臥した。

女はよく眠っていた。

近寄ると、女の身にたきしめた薫りも慕わしく、
若い僧は、あたまがくらくらする。

ゆすり起こして言い寄るべきか、
しかし女は何と言うだろう、
驚いて声をあげるかもしれぬ、
厳しく拒絶して恥をかかせ、放り出すかもしれぬ、
僧は自信がない。といって自制して思いとどまることも出来ぬ。

ひたすら仏の加護を念じつつ、
そろそろと女の衣を開こうとすると、
女は目をさまして、僧をみとめ、あっといい、

「驚きましたわ、
尊いお坊さまだと思ったからお泊めしたのに、
こんなことなさるなんて情けないわ」

そうしてかたく衣の前を合わせ、許そうとしない。
僧は欲情に悩乱して苦しんだ。

しかし一片の良心と恥の感覚はあったとみえ、
騒ぎになっては邸の人々にも気づかれるであろうと、
辛うじて耐えて、女の意志を尊重した。

女はそんな様子を見て、やさしくいった。

「あなたをあたまから拒む、というのではないの。
夫に死に別れてからあたしは独り身で、
言い寄る男はたくさんいたけれど、
平凡な、見どころのない男と再婚するのはつまらない、
と思っていた。尊敬できるような男の人と・・・
あなたのようなお坊さまを敬ってかしずく暮らしをしたい、
そう思っていた。だから、いやだ、というのではないわ。
でもあなた、法華経をそらでおよみになれる?
それなら、あなたと睦み合うことも出来るんだけど」






          


(次回へ)

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23、捨てられた妻  ②

2021年08月25日 08時42分30秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・その男は今、乞食のように落ちぶれてさすらっているという。
妻はどうかして男を見返してやりたかった。

もとの夫に妻を捨てたことを後悔させ、詫びさせたかった。
妻はそのころ成上りの金持ちの男に求婚されていた。

愛はなかったが、もとの夫に張り合いたいために応じた。
妻は美々しい邸に、美しい衣装をまとって、
何不自由ない暮らしを送る身となった。

しかし妻の心は晴れない。

いつか、もとの夫に復讐してやりたい。
そのことばかりが、生きる支えだった。

もとの夫との間に出来た一人息子も、
やがて実の父のあとを追うように出家して、
比叡山で修行する身となっていた。


~~~


・ある日、かねて言いつけておいたように、
邸の下人が注進に来た。

「どうやらお申しつけの坊さんらしいのが、
お布施を勧進するとて、門口でお経をよんでいます。
汚い風の乞食のような坊さんです」

妻はその僧を座敷へ上げ、ご馳走を並べさせた。
僧は合掌して、敬虔に頭を垂れる。

やはりもとの夫だった。
やつれて老け、むさくるしくなっているが、
もとの夫に違いなかった。その姿は乞食と変らなかった。

「お久しぶりね」

妻は勝ち誇って言い、簾を上げさせた。

「私を覚えている?
あなたが昔、捨てた妻よ。
あなたが私の前で乞食のように食べ物を乞う、
みじめな姿が見たかったのよ。
捨てられた私は、どう?
今はこんな邸の、女あるじなのよ・・・」

男は目を上げて、もとの妻を見た。

その目には静かな慈愛の色があるだけで、
妻の期待したような狼狽も屈辱も驚きもなかった。

「奇特のお志、尊く存じます。
後世のためのご供養、まことに殊勝なお振る舞い、
ありがたく頂きます」

男はそういうと膳の食事をあまさず食べ、
合掌して静かに去った。

これが長年夢見て来た、夫への復讐だったのだろうか。
妻は呆然とする。

夫はもう、次元の違う世界へ飛翔してしまっていた。
嫉妬も憎悪もない、広大無辺の仏の真理の世界へ。


~~~


・その後、比叡山で修行している、出家した息子が、
妻のもとへやって来て、泣く泣く告げた。

「父上は、仏道修行のため震旦(しんたん 中国)へ、
渡られるそうです。震旦は万里の波濤の果て、
生きて再び帰れるとは思われぬからと、
私のもとへ、会いに来て下さいました。
お前はこのお山でよくよく修行して、
行い、学問、怠ることなく勤めよ、と。
私は泣きながら、お山のふもとまでお送りしました。
月の明るい夜でした。父上は、『早くお帰り』とおっしゃって、
霧の彼方へ去っていかれました」

妻はつぶやいた。

「私を許して下さったろうか・・・」

「お心にかけておられました。
幸せでいるように、仏のご加護を祈っている、と」

男は、いや寂照法師は七月七日に、
河尻(淀川川口)から九州へ向けて船で発った。

そして八月二十五日、肥前の国、松浦から、
唐土へ向けて出発したといわれる。

妻は急いで男の装束を仕立て、
贈ろうとしたが、男は河尻から発ったばかりだった。

まだ今からなら肥前までには追いつけようと、
妻ははなむけのそ贈り物に歌を添えて送った。

<着ならせと思ひしものを旅衣 たつ日を知らずなりにけるかな>

(あなたが着慣れて下さるように、
そして無事にお帰りになったら、
また私のもとへ来慣れて下さるようにと、
心をこめて裁ちましたこの旅衣、お立ちになる日を知らず、
遅れてしまって・・・どうかお手もとに届きますように)

男はその装束を手にし、歌を返してきた。

<これやさは雲のはたてに織ると聞く たつこと知らぬ天の羽衣>

(天の羽衣は縫い目もなし、裁つこともないと聞くけれど、
これがそうなんだね。あなたが作ってくれた天の羽衣、
私は喜んで身にまとって、入宋するよ)

殿は、震旦でいよいよ修行され、霊験あらたかに、
人々の帰依も深く、かの地の皇帝から、
円通大師の号をたまわるほどの大徳となられました。

北の方でございますか?
北の方のその後は伝わっておりませぬ。

けれどもお歌は勅撰の撰集に「詠み人知らず」として、
載せられているのでございます。

風で御簾があおられ、老尼の肩も花吹雪で白くなった。


巻十九(二)






          


(了)

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24、捨てられた妻  ①

2021年08月24日 08時56分58秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・「もともと愛し合っておられたご夫婦でした。
それはそれは仲のよいご夫婦、
それに殿のほうは学問の家のお生まれで文才に長け、
歌詠みでもあられて、慈悲深く心やさしいかた、
北の方も心ざますぐれた女人でいられました。
それがどうしたことか、殿はいつからとなく、
別の若い女人を愛してしまわれました。
中年になって踏み迷う恋の闇路の煩悩は、
なかなか深うございます・・・」

語るのはお話上手の老尼である。
月に一度か二度、北山の草庵から出て来て、
都のさるお邸へうかがうが、邸の女人たちは、
世間広い老尼の物語る話を喜んで聞くのだった。

桜の花びらが御簾の外へ吹きためられて、
縁は白くなっている。


~~~


・「殿はもう、若い女のほか、誰も目に入られませぬ。
その女人は、盛りの若さが輝くばかりで、
しかもこの上なく美しく愛らしかったと申します。
北の方の嫉妬は日ごとに深くなってゆきますが、
殿はそれさえ、お心にとめられません・・・」

この男は宮仕えしていましたが、
やがて三河守に任ぜられ、
任国へ下向しなければいけなくなり、
男は愛人を連れて行きたいと思った。

「あの女を連れて行くのですか?」

男の妻は屈辱感にうちひしがれた。

「あの女と私を一緒に連れて行くとおっしゃるの?」

「すまん。あの女とは別れられない」

男は本心から妻にすまないと思いつつ、

「お前が許せないと思う気持ちは分かるが、
こればかりはどうにもならない。こらえてくれ」

「あの女と一緒に行くくらいなら、私は都に残ります」

妻は悲しみと嫉妬に心荒れて叫んだ。

「もうお別れだわ、別れましょう、私たち」

「お前、そう簡単にいうが、
夫婦というものはそんな浅い契りではないはずだよ。
おれたちの間には子供もいることだし、
お前に対する気持ちは変っていない。
長い目で見てほしいのだよ」

「変っていないのなら、どうしてあの女と別れられないの、
もし心変りしていないというなら、その証拠に、
今すぐあの女を放りだして下さい!」

「それが出来るならこんな苦しみはしない。
お前も大切に思っている、しかし、正直なところ、
あの女とも別れられない・・・」

夫の率直さは妻をよけい傷つけた。

妻は苦しみ、夫も苦しみ、
その苦しみは二人を結びつけることにはならず、
却って二人の心を離れさせてしまう不毛の苦しみだった。

妻は自分の未練を自分で断ち切るように夫と別れた。
夫は若い愛人を妻として、任国へ下っていった。


~~~


・妻のそれからの歳月は地獄の苦しみだった。

嫉妬と怨嗟にあけくれ、
幾度、夢の中で別れた夫と愛人を呪い殺したことだろう。
嫉妬が女の毎日の仕事になった。

そのうち、不思議なうわさが聞こえてきた。
あの女は任国に着いてしばらくして重い病にかかり、
死んでしまったというのだ。

妻は陰湿な喜びをおぼえて、思わず暗い笑みを洩らした。
いい気味だ、と思った。

嫉妬の念が届いて、女をとり殺したにちがいない、
そう思ってもうしろめたくはなかった。

ところがそのあとのうわさを聞いて妻は衝撃を受けた。

男は世の無常を感じて出家したというのだ。
そこまだあの女を愛していたのか。
世を捨てるまで思いこんだのか。

妻の嫉妬はいよいよ物狂おしく深まった。

夫は任地の館を出奔し、京へ上って僧になったと。
名も寂照(じゃくしょう)とあらため、
修行にいそしんでいるそうな。

妻はそれを聞いて、いよいよ男が憎かった。
男はもともとまじめいちずな人間であるのを、
妻はよく知っていた。

そのいちずな男をそこまで思いつめさせた女も憎ければ、
女のために道心をおこした男はなお憎かった。






          


(次回へ)

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