田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫
・玉蔓がご機嫌を損じたのを見て、
源氏はやや真面目になり、
「ほんとを言いますと、
小説、物語というのは、
神代からこの世にあることを、
書き残したものです。
正史といわれる日本紀などは、
ほんの社会の一部分に過ぎないのだ。
小説の中にこそ、
人間の真実が書き残されている。
小説というものは、
誰かの身の上をそのまま書くのではない。
うそもまこともある。
いいことも悪いことも書く。
ただ、この世に生きて、
人生、社会を見、
見ても見飽きず、
聞いて聞き逃しにできぬ、
心一つに包みかねる感動を、
のちの世まで伝えたい、
と書き残したのが小説のはじまりです。
そこでは善も悪も誇張してある。
しかし、それらはみなこの世にあることです。
外国の小説でもみな同じです。
小説をまるでうそだ、作り物だ、
ということはできない」
「ええ・・・」
玉蔓は源氏を見つめてうなずく。
真面目に説いてくれる源氏の言葉を、
彼女は何一つききもらすまいと、
目を見張って聞いていた。
源氏は玉蔓に近寄ってささやく。
玉蔓は顔をそむけて、
「小説にしなくても、
こんな珍しい仲、
噂で広まってしまいます」
「おっしゃる通り。
親が子に恋するなんて。
しかし親不孝の罪は仏もお許しになりません」
玉蔓はやっと言った。
「そんな親心は仏さまも驚かれましょう」
源氏はひるんで、
それ以上の手出しは出来ない・・・
紫の上も、
明石の小さな姫君にねだられるまま、
小説類を集めていた。
「小さな姫に、
あまり恋愛小説などは、
読ませない方がいい。
恋のかけひきや手管など、
おぼえさせることはない」
源氏の言葉を玉蔓が聞いたら、
どう思うであろう。
自分に言うのとは違うと、
恨むかもしれない。
源氏は玉蔓を、
理性も情趣も兼ね備えた、
男と太刀打ちできる女にしたい、
と考えている。
しかし、明石の小姫は、
それこそ世間の風にも当てず、
雲の上人として、キズ無き珠として、
育てたいと願っていた。
紫の上も、
いまは姫君の教育に、
心くだく年ごろになっていた。
昔の小説には、
継母の意地わるさを書いたものが多いので、
源氏は注意してそれらを、
姫君の目にふれないようにしていた。
源氏は姫君を、
悪意も邪念も知らぬ、
天女のようにけだかい女人に育てたかった。
源氏は息子の夕霧の中将を、
紫の上に近づけていない。
自分の犯したあやまちを、
息子が繰り返すのを懸念している。
しかし、小さい姫君とは、
仲良くさせていた。
たった二人の兄妹だし、
自分亡きあと、
夕霧の庇護に任せなければならないので、
情愛を深くしておいてやらねばならぬ、
と考えて小さい姫君の御簾の内へ、
夕霧が入ることを許していた。
けれども紫の上の女房たちの詰所へは、
入るのを許さなかった。
夕霧は実直な性格の青年なので、
源氏は将来も妹のことを任せていけるだろう、
と安心していた。
姫君も夕霧になついていた。
ままごとをしましょうと、
姫君にまつわられて、
夕霧は相手をしていたが、
思いはいつとはなく、
引き裂かれた恋人、雲井雁に移る。
(おばあさまのもとで、
あの人とこんなことをして遊んだっけ・・・)
思えば幼なじみであった、
雲井雁への失恋の痛手は、
まだ癒えていない。
(次回へ)
・こういう明石との往来が、
いつかは紫の君の耳にも、
入らずにはいないだろうと、
源氏は思った。
他人の口から聞いて不快になるよりは、
やはり自分から告白しておかねばなるまい、
と源氏は決心した。
明石の君のことは、
それまで決して紫の君にいわなかった。
「小さい姫が出来てね、明石に・・・
三月の半ばだった。
人生というのは皮肉なものだ。
子供が欲しいと思うあなたに出来なくて、
思いがけぬ明石に出来たりする。
それが残念だ。
それに女の子だから、
張り合いもなくてね。
まあ、そうはいってもうち捨てるわけにもいかない。
いずれ京へ呼び寄せて、
あなたにも見せよう。
憎まないでおくれ」
源氏がさりげない調子でいうと、
紫の君は顔を赤らめた。
「まあ、わたくしが憎むなどと。
そんな意地悪に見えます?
もしそうなら、
わたくしに憎しみや意地悪を教えたのは、
どなた?」
とかわいく恨んでいった。
「全くだ。
誰が教えたのだろう。
しかしあなたが意地悪だなどとは、
むろん思いもしない。
子供が出来たといっても、
それは成り行きのこと。
私とあなたの仲の真実や、
愛の深さは二人がよく知っていること。
これにまさる何物もこの世にはないのだよ。
子供は形になって現れるから、
大きな意味があるように、
人は錯覚する。
しかし目に見えない、
手でつかめない愛が二人に在るほうが、
人生の意味は大きい。
それに比べれば、
子供など問題ではない。
私は、愛、というものをそう考えている」
源氏は心ざま深い男だから、
子供を持てない紫の君の傷心を、
思いやることができる。
世の心浅い粗暴な男の論理や、
思考とはずっと違っていた。
源氏の言葉で紫の君は、
別れ別れに住んで、
源氏が恋しかったあの日々を思いだす。
あの愛と信頼が真実であれば、
どんな浮気もいっときのたわむれにすぎない、
と思われる。
「明石の方は、どういう方なの?」
紫の君は、
聞きたくもあり、聞くのも怖かった。
源氏がよくいえば悲しいし、
悪くいっても源氏のために悲しかった。
「上品で趣味のいい人だった。
しかしあんな物淋しい荒磯でめぐりあったのだから、
珍しく思えたのかもしれない」
紫の君は、
(聞かなければよかった)
と悲しかった。
自分は源氏と別れ住んで、
あけくれ嘆き侘びていたころ、
この人はいっときのたわむれにしろ、
ほかの女人に心うつしていた、
と思うと恨めしかった。
思えば恋人は一心同体なんて嘘だ。
明石の君を思っている源氏は源氏、
自分は自分。
別々のものだ、
と紫の君は背を向けてしまう。
「どんなに愛し合っていても、
所詮は孤独・・・
あなたは明石の方とご一緒に楽しく、
お暮しになればいいわ。
わたくしは一人・・・」
「何だって?
情けないことを今さら。
誰のために私が今まで海山さすらって、
苦労したと思う?
みな、あなたのため。
つまらぬことで人の怨みを買うまいと、
気をつけているのも、
ただただあなたと末長く幸せに暮らしたい、
と思えばこそ」
源氏はさまざま紫の君の機嫌をとって、
仲直りしようと努力する。
もともとおうようで、
柔らかい性質の紫の君だが、
明石の女人に関しては、
さすがに執拗な怨みや嫉妬をもっているらしい。
やがて五十日の祝いであった。
生後五十日目に、
すこやかな生育を祈願して、
餅を赤子の口にふくませる祝いである。
その日は五月五日にあたる。
源氏は人知れず数えて、
姫君をなつかしんだ。
男の子ならこうも気にしないのだが、
姫となると、
将来どんな尊い身分になるかしれない。
それにはきずなき玉として、
最高のかしずきをしてやりたかった。
そして五十日祝いの使者を立てた。
明石でも祝いは設けられたが、
源氏の使いがなければ、
見栄えがしなかったであろう。
源氏はさまざまの立派な贈り物に添え、
明石の君にやさしい文まで書いた。
紫の君にみせられぬような・・・
(次回へ)
・源氏と頭の中将のもとへ、
「御宿直(おんとのい)のお伽を・・・」
と人々がやってきた。
いずれも当代、
聞こえた風流男で、
弁も立つ連中なので、
頭の中将は喜んで話に引き入れた。
「中流階級の女というよりも、
たとえば草深い家の、
世間から忘れられているような邸に、
思いもかけぬ、
美しいかしこい娘がいるとか、
あるいはまた、
太った醜い老人の父親、
風采の上がらない兄などを見て、
こんな家の娘は知れたものだと、
軽蔑していたところ、
これが意外に美人で才女だったりすると、
男は心をそそられて、
お、これは・・・
とがぜん好奇心をもち、
やがて恋になったりする、
というものです」
と佐馬の頭は、
式部の丞を見ていった。
式部の丞には美人の妹がいて評判なので、
それをあてこすっているのか、
式部の丞は返事もしない。
頭の中将は、
「そうだな。
意外性、ということは、
男の恋心をそそるからね」
とうなずく。
源氏は自分からはしゃべらず、
微笑して聞くだけである。
白い衣のやわらかなのに、
直衣をしどけなく着、
脇息によりかかっている横顔は、
灯に照らされて何とも美しい。
「しかし、それもこれも、
所詮は、生涯連れ添うべき、
理想の妻を探し求めたい、
というのが願いでしてね。
いや、なかなか、
理想の妻、
なんてものはいやしませんよ。
やさしくて才気があるかと思うと、
多情で浮気者だったり。
家庭さえちゃんと守ってくれればよい、
と申しましても、
髪は耳へはさんで化粧けもなく、
なりふりかまわず働く、
という世話女房も、
味気ないものでございます。
男は仕事の場でおかしかったことや、
腹の立つことも、
つい、家に帰って、
妻にいいたい時があるものですが、
いやいや話したとて、
どうせ妻にはわかるはずもなし、
などと思って、
ひとり言をいってまぎらせてる、
などというのも、
ぱっといたしません」
佐馬の頭は源氏や頭の中将、
といった貴公子よりはずっと年上であり、
その豊富な経験を披露するのが、
得意でたまらないらしかった。
「夫婦というのは良かれ悪しかれ、
一生別れずに扶け合い、
添い遂げてこそ縁も深く、
ゆかしく思われるのです。
それもちょっとしたことで、
拗ねて尼になってしまい、
あとから後悔して、
泣き顔で短くなった髪をさわってる女、
などというのは軽率なものです。
夫に愛人ができたといって、
すぐつんけんする女も困ったもの、
おだやかにそれとなくいう怨みごとは、
可愛くていいのですが、
角を出してたけり狂うと、
男もあとへ引けなくなってしまいます。
そのへんを賢い女ならば、
心得ていますがね」
佐馬の頭がいうのへ、
頭の中将は同意して、
「そうだね、
聡明な妻なら、
だまって耐えて長い目で、
夫を見ているだろうね」
といったのは、
自分の妹(源氏の正妻)を思い浮かべてのこと。
しかし源氏は聞いているのかいないのか、
言葉をはさまないので、
中将は物足りなかった。
佐馬の頭は、
「もう、何でございます。
お二方のような貴人はともかく、
私どもでは、
身分も容貌も才気も問いません。
片寄った性格でなければ、
そして、まじめで素直な人柄であれば、
生涯の妻と定めたいと思います。
じつは昔、
この理想にほぼ似通った妻がございましてね。
家事も手抜かりなく、
まじめでしっかりした働き者で、
容貌はまあ、自慢できませんが、
何より私にぞっこん惚れていた女でして・・・」
「ほんとの話なのか」
頭の中将はいい、
みんな笑った。
「ほんとでございます。
ぶさいくな女ですが、
私に嫌われまいとして化粧にも気をつけ、
来客が参りましても、
夫の恥になっては、
と陰にかくれるように、
つつましくふるまって、
私の世話などもよくしてくれました。
しかしただ一つ、
やきもちで困りました。
ちょっとほかの女に色目を使った、
といっては邪推し、
たけり狂って言い合いになり、
私の指にかみついたりするのです。
私も腹が立ち、
それから切れるの別れるのと大騒動、
こらしめのつもりで、
しばらく女の家へ行きませんでした。
加茂の臨時祭りの調楽が、
御所であった夜です。
退出が遅くなりましてね。
おまけに霙の降る寒さです。
朋輩はみな帰るべき家庭があるのに、
私一人、
御所の宿直室で眠るのもわびしいし、
色好みの女たちのところへいくのも、
気ばかり張って寒い目にあう、
結局、その女の所しか、
行き先はないのです。
暖かくて、
おいしいものが食べられて、
『お帰りなさい』
といってもらえるようなところは・・・
で、少々きまりが悪かったのですが、
まいりました。
すると、
暖かそうな柔らかい綿入れの着物を暖めて、
寝るばかりに用意して待っているのです。
私、少し得意でございました。
ところが、です。
かんじんの本人は、
父親の邸へ出かけて留守。
召使いたちが留守番をしている。
憎らしいではありませんか。
女の方は、
私が今後絶対に浮気しない、
他の女に目もくれぬ、
と誓うなら元通りになってもよい、
というのです。
話し合いが長引いているうちに、
女は心労で寝込んで亡くなってしまいました。
あんな女に冗談は通じないものですね。
今思うとかわいそうなことをした、
と思います」
「惜しいことをしたねえ。
そこまで自己主張できる女、
というのはあり難いもので、
貴重な存在なのに・・・」
頭の中将は話に興が乗ったのか、
「たよりない女、
おとなしすぎる女、
というのも困ったものだよ。
一つ私の話をしよう。
以前のことだが、
私がひそかに囲っていた恋人があった。
(頭の中将の恋人は夕顔)
はじめは遊びのつもりだったが、
長く馴染んでいる間に、
別れがたい気になってね。
父親もなく、
頼る人もない身の上なので、
私一人によりすがっているから哀れで、
可憐だった。
女の子も生まれた。
(将来登場します~玉鬘姫)
いつまでも面倒を見るつもりだったが、
向こうにしてみれば、
来たり来なかったりの私の態度に、
さぞ不安もあったろうと、
今になってみればわかるけどね。
そのうち、
私の妻の実家で、
この女の存在を知って、
ひどいことをいって脅かしたそうだ。
いや、私はあとで聞いて知った。
かわいそうに女は一人、
くよくよ思い悩んで、
撫子の花を使いに持たせてきたりしてね・・・」
「ほう、どんな手紙だったんだ?」
源氏は聞いた。
(次回へ)
・方違いと称して源氏が訪れた紀伊の守の邸は、
川の水を堰き入れて涼し気な邸である。
田舎風に柴垣などめぐらし、
夏草の繁みに蛍など飛び交って、
いかにも涼しかった。
酒を少し飲んで、
かりの居場所にしつらえた、
寝殿の一隅で休んでいると、
奥の方で女たちのささやきが聞こえる。
紀伊の守の父、伊予の介の年若い後妻の一行らしい。
女の衣ずれの音がして、
しのび笑いなどしている。
源氏はそっと立っていって、
襖障子のかげで耳をすました。
女たちは母屋にいて、
ひめやかに話している。
「まじめぶっていらして、
お年のお若いのに、
もう立派なところの姫君を、
北の方にしていらっしゃるなんて、
つまらないわね」
「わかるもんですか。
かげではお忍びの恋人がいくたりもおあり、
という噂よ」
自分のことだ、と源氏は思った。
女たちは「秘めた相手」の名をあげはじめた。
当っているのもあり、
当らぬのもある。
源氏は「あの人」の名が出ないかと、
心のつぶれる思いをした。
それは六条御息所(ろくじょうみやすんどころ)
ではないのだった。
源氏自身でさえ、
その名を発せられない、
ある高貴な女人である。
こんなにうかうかした噂話を喜んでするようなら、
女あるじのその北の方も、
少し見劣りする人柄かもしれない。
しかし、源氏は、
その北の方がまだ娘時代、
親が宮仕えさせたいと希望していたという、
噂を思いだし、どんな女か見たいと思った。
父親が早くに亡くなり、
宮仕えどころか、
今は親子ほど年のちがう、
一介の受領(諸国の長官)、
の後妻になってしまったのを、
その女はどう思っているのであろうか。
美しい夏の夜は更けていった。
給仕に出た少年が可愛いので、
目をとめていると、紀伊の守が、
「幼くして父を亡くしましたので、
姉につながる縁でここに来ております。
殿上童など望んでおりますが、
父も亡く、つてもないので、
うまくいかないようです」
源氏は軽く、
「その人たち、どこにいるのだね」
と聞いた。
「下屋に下らせました」
紀伊の守は答えた。
酒がまわったとみえ、
供人はみな、濡れ縁に伏して寝静まった。
源氏は落ち着いて寝ていられない。
北の障子の向こうに人の気配がするので、
心ひかれてそっと起き、
立ち聞きした。
あたりは、あやめも分からぬ闇。
「お姉さま・・・どこなの?」
さっきの給仕の男の子の声が聞こえる。
「ここよ・・・お客さまはもうお休み?」
という澄んだ声は、
少年によく似ているので、
これが例の女人か、
と源氏はうなずいた。
少年はひそひそと、
「ええ、廂の間で。
噂どおり、光るばかりの美しい方でした」
「そう・・・
昼間だったら、
そっと拝見するんだったけれど」
「ああ、暗い。
じゃあ、ぼくはここで寝ます」
少年はいい、
灯をかきたてたりしているらしく、
ぽっと明るくなる。
深沈とあたりは静まり、
濃い闇ばかりが邸うちにたれこめている。
源氏は障子の掛金をはずした。
向こうの部屋からは幸いにも鍵はかかっていない。
几帳で灯を遠ざけている。
唐櫃らしいものがいくつか、
それに女の着物、
こまごました道具がある中を、
そっと歩いてゆくと、
小さなかさで臥せっている女がいる。
女は寝入っていて、
うすい衣を顔にかけていたのを、
そっとはぎとられたが、
女房かと思い、しどけないままでいた。
女は夢ともうつつともわからない。
女房ではないことがわかって、
声をあげようとしたが、
男の袖が顔にふれて、
声にならなかった。
源氏は声を低め、
「出来心と思われるかもしれませんが、
・・・そうではないのですよ。
年ごろ、ずっとあなたを思っていたのです。
決してあさはかな心持ちではないのです」
としめやかにいう。
女は騒ぎ立てることも出来ず、
とっさに動転しながら、
「お人違いでございます」
というのもかすれがすれ。
源氏は小柄な空蝉の体を難なく抱き上げ、
障子口までやってきた。
と、向こうから女房がやってくるのに、
ばったり出会ってしまった。
あっ、という源氏の声と、
たきこめられた彼の衣の香に、
女房は一瞬に事態をさとった。
並の男なら女主人のために、
力をこめて押しとどめることも出来たが、
高貴な身分の源氏では、
あながちな振る舞いも出来ない。
人に知られても、
女あるじのためにはよくないことだった。
おろおろしてついてゆくと、
源氏は静かに母屋の寝所に入り、
女をおろして襖障子をしめ、
「明け方お迎えに来るように」
と言い捨てた。
空蝉は外の女房が何と思うであろうかと、
身を切られるように切なく、
はずかしかった。
源氏のものなれた態度は、
いままで何度もこうした経験を経た、
恋のてだれであることを示している。
自分もそういう女の一人と思われたのかと、
空蝉は誇りを傷つけられて、
心は熱くなった。
こんな運命になってしまったことを、
空蝉は悲しく、憂く辛く思い、
涙がこぼれる。
「なぜそう泣くのです。
人生って、思いがけぬ運命が時には、
待ち受けているもの、
と、こんなふうにお考えになれませんか?
あなたはもう、
男や女の情趣をお汲み取れるお年頃だ。
そんな泣き方は、
何も知らぬ、
ばかな年若い娘のすることですよ」
だが空蝉の泣くのは、
情趣を解しないためではないのだ。
わが身の来し方の拙い運命が、
思いだされたからだった。
「まだわたくしが、
親の家にいる娘の身でありましたら、
今夜の契りにも夢を持てたのでございます。
でも今は、
わたくしは夫ある身ですもの。
どんな夢も思い描けないのです。
せめて、みんな、お忘れ下さいまし・・・」
空蝉のとぎれとぎれの言葉は、
真実のひびきがあったから、
源氏は絶句した。
「手紙をさしあげたいが・・・
これからどうやって連絡すればいいのだろう?
忘れられない人になってしまった・・・」
鶏が鳴き出し、人々が起きだしたらしく、
邸内はざわめいてくる。
もう抜け出す刻であったが、
人妻である空蝉とは、
再び会える機会があるかどうかは、
知るよしもなかった。
(次回へ)
<ももしきや 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり>
(宮居の古い軒端に
しのぶ草は 生い茂る
私がしのぶのはそのかみのこと
しのびても あまりある
思い出は尽きせぬ
なつかしや かの栄華
荒れはてた宮居の
昔の思い出)
・いよいよ、
百人一首の掉尾を飾る順徳院のお歌となった。
「ももしき」は宮中をさす。
「しのぶ」は忍草と思い出をしのぶにかけている。
順徳院は後鳥羽院の第三皇子、
建久八年(1197)のお生まれ、
修明門院重子がおん母。
その異母弟の皇子は兄君より、
才気があって活発明朗でいられた。
和漢の学に長じ、
父院に似て歌才に恵まれ、
歌学者でもあられた。
父君の後鳥羽院としては、
おとなしいばかりの兄皇子より、
自分似で文武に秀でた弟皇子のほうが、
お可愛かったのであろう。
ついに土御門帝を譲位させ、
弟皇子を即位させられて、
これが順徳帝。
土御門帝は十六歳で退位させられた。
その昔の、鳥羽・崇徳の頃の、
争いを見るようであったが、
土御門院は温厚なおかただけに、
内心は面白くないと思われただろうが、
色にもお出しにならなかった。
ただ若くして退位させられた我が子の悲運を、
おん母の承明門院は悲しまれたにちがいない。
さて、
父君の後鳥羽院が討幕の志を持たれたとき、
その最大の協力者は、
順徳帝であった。
お二人は味方の公家や武士を語らい、
着々と謀をすすめられる。
しかし承久の乱は、
後鳥羽院らのあっけない敗退によって、
新しい時代を迎えることになった。
幕府の力が天皇より強くなったことを、
天下に知らせたのだ。
幕府の戦後処理は果断で容赦なかった。
後鳥羽院は隠岐へ、
順徳院は佐渡へ流された。
順徳院はこのときまだ二十五歳、
おん母の承明門院は悲しみのあまり、
尼となられる。
土御門院はこの乱に無関係で、
幕府の咎めもなかったが、
父君と弟君が流されたのに、
われ一人都で安閑と暮らすわけにいかないと、
みずから志して土佐へ、
やがて阿波へ移られた。
小さい若宮を都に残されて。
やがて幕府は傍流の皇族から、
後堀河天皇を立てた。
順徳院は佐渡で、
二十年の間、悶々と暮らされた。
幕府は後鳥羽院同様、
最後まで順徳院のご帰京を許さなかった。
この歌は、
さながら佐渡での幽閉中のお作のようであるが、
もっと早く健保四年(1216)、
院が二十歳のときのお作。
『続後撰集』雑に「題知らず」として見える。
父院と心合わせ、
討幕の謀に若き血を燃やしていられたころの、
感懐であろう。
佐渡ではあけくれ、
仏道のご修行に専念なさっていたが、
まさかこのまま、ということはあるまいと、
一縷の希望にすがっていられた。
隠岐の父院ともまれまれに、
かすかなお便りを交わし合っていられた。
十年後、まず土御門院が、
十八年後、後鳥羽院が、
それぞれの遷幸先で崩じられた。
順徳院の崩御は仁治三年(1242)、
四十六歳であった。
都では、順徳院、土御門院、
それぞれの母君がこの知らせに、
どれほど悲嘆されたかわからない。
どちらもお手元に、
孫宮を育てていられたが、
折も折、後堀河帝の皇統が途絶えた。
次の天皇は幕府の指示を待たねばならぬ。
修明門院(順徳母)承明門院(土御門母)、
二人の祖母君は、
それぞれもしやわが孫が、
と心ときめきしていられた。
やがて東国の使者が京へ駆け入り、
声高く呼ばわった。
「承明門院のおわします御所はどこだ!」
かくて、
土御門院の忘れ形見の皇子が皇位につかれ、
長く皇統を伝えられることになる。
幕府としては、
討幕の中心だった順徳院の皇子を、
皇位に据える気にはなれなかったろう。
定家は、
百人一首の冒頭に、天智・持統と、
御父子のお歌を置き、
末に、後鳥羽・順徳と再び御父子のお作を据えて、
百人一首を締めくくった。
しかも後鳥羽・順徳両院には、
ほかに優艶な、あるいは典雅なお作も多いのに、
両者とも、やるかたない憂憤をうちに秘めた、
悶々たる述懐のお歌である。
定家は敢えてそのお作を採ることによって、
志成らず孤島で余生を送られることになった、
お二方の悲運を痛哭し、
恭順のまことをあらわしたかったのでは、
なかろうか。
華麗に、
のびやかにくりひろげられた百人一首は、
やがてしめやかな悲愁のうちに、
静かに閉じられる・・・
(最終回)
今日で「百人一首」読み終えました。
おつきあい下さったみな様、
ありがとうございました。
明日からはまた、
別の田辺聖子さんの作品を、
読んでいきたいと思っております。
よろしくお願いいたします。
梅雨末期の集中豪雨のニュースが、
連日、報じられて、心が痛みます。
どうぞ被害がこれ以上出ないようにと、
願うばかりです。