田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫
・「泣いていらっしゃるばかりでは、
困ります
お返事はどうなさるの」
妹尼に責められて浮舟はいった
「今はとてもお返事など、
できそうもありません
気分がたいそう悪いので、
しばらくしてよくなりましてから、
お返事申しあげます
昔のことが何も思い出せません
少し気持ちが落ち着きましたら、
今日のお手紙にあることも、
思い当たることが出てくるかも
しれません
今日のところはこのまま、
お帰り下さいまし」
浮舟は手紙を妹尼に押しやる
妹尼は仕方なく、
小君に話した
「物の怪のせいでしょうか
普通のご様子でいらっしゃる時がなく、
ずっとわずらっていらっしゃいます
尼姿になっていらっしゃることでも、
あるし行方をお捜しの方が、
おいでなら、これは面倒な事と、
お世話しながら心配しておりました
案じた通りになりましたね
薫大将さまのことも、
私どもは初めて耳にいたしました
今になって思うと、
まことに恐れ多くて・・・
お返事はないそうでございます
常からお具合悪くて、
お便りを頂かれていっそう、
お心が乱れたのでしょう
いつもに増して、
人心地もないご様子です
そうおっしゃって下さいまし」
妹尼は山里に似つかわしい、
食事など用意していたが、
少年はそれどころではなく
子供ごころに落ち着かず、
「どうかひと言だけでも、
お返事頂けませんか」
妹尼はそのまま浮舟に伝えたが、
浮舟は返事をしない
小君にひと言でも洩らせば、
それはたちまち、
せっかく得た心の平安が、
崩壊することになるだろう
やがては薫との縁が復活し、
俗世に引き戻され、
愛や嫉妬や呵責の果てしない、
煩悩の闇に落ちてしまう
浮舟にとって薫の手紙は、
なつかしくはあるものの、
反面、怖ろしかった
「私を世間の嗤い者に、
して下さるな」
という、
ひややかな怒りの手紙
もとよりその状況を、
作り出したのは浮舟であるが・・・
そしてその責任はすべて、
匂宮が負うべき性質のものであるが、
浮舟にも全く責めはないとは、
いえない
少なくとも浮舟は、
匂宮といる時に、
「青春」を知り、
「陶酔」を知ったのだから
浮舟は薫に責められ、
それに応じようとして、
死で償うことを思い立った
それは成功せず、
再び生き返ったけれど、
浮舟は生きながら俗世と、
縁を絶ったのだった
(どうか阿弥陀仏さま、
わたくしに力をお与え下さい
小君とひと言話して、
お母さまのことを聞きたい
薫さまにもう一度お目にかかりたい
ともすれば崩れ落ちてしまう、
弱いわたくしの心を取り直す、
勇気と力をお与え下さいまし」
浮舟はそう思い続け、
黙って涙を流していた
妹尼は仕方なく、
小君のところへ行って、
「これでは、
ただもうありのままに、
はっきりせぬご様子を、
お伝え下さるしか、
ございません
ここは都から遠いと申せ、
またきっとお立ち寄りくださいませ」
といって取りなした
小君は長居するのもへんだし、
帰ることにした
人知れず姉を恋い慕い、
一目でも見たいと思っていたのに、
ついに会えなかったのが、
残念で心を残しながら帰った
薫は待ちかねていた
しかし小君の持ち帰った情報は、
薫を失望させた
会いもせず、
人づての言葉もなく、
手紙の返事さえないとは
薫は不可解で、
雲をつかむような気持である
期待していただけに、
落胆はひどかった
(その昔、
宇治に浮舟を隠し据えて、
おいたように誰かほかの男が、
ひそかにかくまっているのでは?)
という疑いが萌した
そのころ浮舟は、
ようやく身を起こし、
端近ににじり出ていた
山の端に月が出ていたから
薫は、
「法の師と
たづぬる道を
しるべにて
おもはぬ山に
踏みまどふかな」
という感懐を洩らした
法の道から恋の山に踏みまどうた、
というが、浮舟はあべこべに、
恋の山に踏みまどうて、
法の道に入ったのである
(やっと心が決まった
いいえ、これからもまだまだ、
悩みや迷いが多いかもしれない
でもやがてはみんな、
なつかしくいとおしいものに、
思える日が来るかもしれない)
浮舟が月を仰いで、
清らかな微笑みを浮かべたことを、
京の薫はどうして知ろうか・・・
(了)
・妹尼は少年がたいそう可愛くて、
浮舟に似通っている気もするので、
「ご姉弟じゃないの
お話したいことがおありでしょう
お部屋に入って頂きましょう」
といった
(いいえ、会うまい
私が生きているとも、
思っていないでしょうし、
それに情けない尼姿に、
面変りしているのを、
見られるのは恥ずかしい)
浮舟は思って、
妹尼に打ち明けた
「いつまでも隠し立てして、
水くさいとお思いでしょうね
情けないありさまで倒れていた、
いきさつは世にも珍しいことと、
ご覧になりましたでしょうけれど、
わたくしはそれで、
すっかり記憶も失いました
どんなにしても、
過ぎ去った昔のことが、
思い出せません
ただ母が・・・
わたくしのことを、
あれこれ心配してくれた母が、
まだこの世に生きておいでだろうかと、
そのことばかり心から離れず、
悲しい折がございます
この子の顔は、
小さい頃見た心地がしますのも、
なつかしゅうございますけれど、
今となっては、
この子たちにも生きていると、
知られないままこの世を終わりたい、
と思います
母だけは会いたいと切に思いますが
この僧都さまがおっしゃっている人には、
どうしても知られたくない気持ちで、
いっぱいです
何とか人違いとでもおっしゃって、
隠して頂けませんかしら」
「それは難しいことでしょう」
妹尼はいった
「僧都のご気性は、
聖という中にも、
とりわけ真正直で、
ありのままの方ですから、
すっかりお話していられるに、
違いありません
隠しても、
あとでわかってしまうでしょう
いいかげにあしらえる、
ご身分の方でもありませんし」
などと言い騒ぎ、
人々は浮舟のことを、
「ほんとに剛情な方ね
こんな剛情な方は知りません」
と言い合い、
母屋の御簾の側に几帳を立て、
小君を招じ入れた
小君は何といっても幼いので、
こちらから姉に呼びかけるのも、
恥ずかしく、
「もう一通ことづかっているお手紙を、
さし上げたいのですけど、
僧都は確かにこちらにいられる、
とお教え下さったのに、
こんなことでは困ってしまいます」
少年は伏し目になっていう
妹尼はいじらしくなって、
「賢いお子ねえ
お手紙のあて先の方は、
ここにおいでになるようなの?
私たちまわりの者も、
合点しかねているのですから、
もっとおっしゃいませ
大将殿がお使者に選ばれて、
頼りになさるだけのわけが、
あるのでしょうから」
などというが、
小君は黙っている人に向かって、
手応えがないのが不安だった
また姉がやさしみを、
見せてくれないのにも、
不満がある
「ただこのお手紙を、
人づてではなく、
じかにお渡しせよといわれて、
お持ちしました
ぜひ渡したいのです」
妹尼は同情して、
浮舟を説得する
「素直になさいませ
いくら何でも人情味のない、
なされかたです」
と言い聞かせ、
几帳のもとに浮舟を押し出した
浮舟は半ば呆然として、
坐っていた
小君は几帳の向こうの人を、
姉と悟った
とてもほかの人とは思えない感じ
それで几帳のそばへ寄って、
薫の手紙を渡し、
「お返事を頂いて帰りたいのです」
といったが、
ひと言も発しない姉のよそよそしさが、
不可解で情けなく、
今は早く帰りたかった
妹尼は手紙を開いて、
浮舟に見せた
昔のままの薫の筆跡、
薫きしめた香りの、
深くしみたゆかしさ
薫の手紙には、
「何とも申し上げようもない、
気持ちでいます
あなたはさまざま、
ひどい仕打ちをして、
罪を重ねてこられた
匂宮のことは措くとしても、
黙って身を隠し、
私にも親にも無断で出家し、
僧都に身許を明かさなかった
あんなに愛していた私に対し、
実にひどい仕打ちじゃありませんか
しかし僧都のお弟子になった、
あなたですから、
僧都に免じてお許しします
今はぜひ、
身を急に隠した衝撃の夜の、
思い出話だけでも共にしたい、
と思っております
あなたに会いたい、
このせかれる心、
われながら怪しからぬほどです
思うことを充分に書ききれません
この子はお忘れになったでしょうか
私はこの子を、
行方知れずのあなたの形見として、
側において心の慰めとしています」
などと情こまやかな手紙だった
こんなにこまごまと、
書いてあるのでは、
人違いとごまかされない
といって、
昔とすっかり違った尼姿を、
見られたら身のおきどころのない、
恥ずかしさを何としよう
さまざま思い乱れ、
浮舟は泣いてしまった
(次回へ)
・小野では、
遣水のほとりに飛び交う蛍を、
浮舟はぼんやりながめていた
いつもははるか遠くまで見渡せる谷を、
松明の灯もおびただしく、
行列が行く
なみなみならぬ貴人の一行であろう
尼君たちも端近に出て、
松明の動きを見た
「どなたでしょうね
昼に横川へ引干(海藻を乾かしたもの)
をさしあげたお返事に、
『大将どのがおいでになって、
急にご接待することになったので、
ちょうどよかった』
とあったけれど、
それではあのご一行は、
大将さまでしょうか」
妹尼はいう
「大将さまといえば、
当今の女二の宮の婿君で、
いらっしゃいましたね」
他の尼もいい交わし、
まことに世間離れした田舎であった
(薫さまのご一行だ!)
浮舟は直感する
宇治にいた時、
こんな山路を踏み分けて、
薫は通ってきた
浮舟はやるせなく、
阿弥陀仏を念ずることで気を紛らせ、
ひとしお無口でいた
このあたりに珍しい顕官の行列の灯を、
尼たちは見えなくなるまで見送った
薫は小君と呼ばれる少年を、
小野の山荘への使いにやろうと、
思っていたが供も多く、
人目について不都合だった
その翌日、
改めて小君を小野にやった
気ごころ知れた家臣、
二、三人を付け、
いつも宇治に連れていった随身を、
添えた
人のいない時小君を呼んで、
薫はいった
「亡くなったお姉さまの顔は、
覚えているかい
今は世に亡き人とあきらめていたが、
本当は生きているのだそうだ
人には知らさないでおこうと思うが、
お前が行ってたしかめておくれ
お母さんにはまだ知らせないで、
確実なことがわかるまでは
意外なことだから、
驚いて騒ぎ立てすると、
隠しておきたい人にも知れてしまう」
早くも口止めする
小君は幼な心にも、
浮舟の死が悲しかったので、
生きていると聞かされ、
思わず嬉し涙が出た
兄弟は多かったが、
この姉を美しい人と思い、
慕っていたから、
死に別れたのを悲しみ続けていた
「わかりました」
と返事をする
小野では翌朝はやくに、
僧都から手紙がもたらされた
「昨夜、
大将殿のお使いで、
小君がそちらへ参られましたか
事情をうかがって、
私としては、
よかれと思ってしたことが、
かえって悪かったかと、
気おくれしています
と姫君にお伝えください」
妹尼は何ごとだろうと驚いた
浮舟のもとへ行き、
その手紙を見せると、
浮舟は読むなり赤くなった
(薫さまが事情をお話しになった?
わたくしの身もとも境遇も、
すっかり僧都さまに知られた?
尼君はどんなにお恨みになることか)
と思うと返事のしようもなく、
うつむいている
「どうぞ打ち明けて下さい
このお手紙はどういう意味?
いつまでも他人行儀に、
打ち明けて下さらないのは淋しい」
妹尼は恨み、
いきさつがわからないので、
気をもんでいるところへ、
来客があった
「横川より僧都のお手紙を持って、
参った者がおります」
といって案内を乞う
「こちらへ」
と伝えさせると、
たいそう綺麗な品のいい少年が、
美しい衣装をつけて歩いてくる
簀子縁に丸い敷物を差し出すと、
少年は簾のもとにひざまずき、
妹尼が直接少年に会って、
僧都の手紙を受け取った
ひらいて見れば、
「入道の御方に
山より」
とあって僧都の名前が書いてある
浮舟は、
「自分当てではない、
人違いです」
と言い逃れる余裕もなかった
身のおきどころもない思いで、
部屋の奥に引きこもり、
誰にも顔を合わせない
妹尼は、
「ほんにまあ、
困りますねえ」
とこぼしながら僧都の手紙を見た
「今朝横川に、
大将殿がお見えになり、
あなたのご様子を、
お尋ねになりましたので、
一部始終をくわしく申し上げました
あなたに深いご愛情を持っておられた、
お方の心にそむいて、
みずぼらしい山里びとの中で、
出家なさいましたこと、
これは仏の賞でたまうことではなく、
かえってお叱りを受けるかも、
しれません
大将殿のお話をうかがい、
私は驚き、心配になりました
この上はどうにも仕方ないこと、
もともとのあなたと、
大将殿の契りを大切になさって、
大将殿の愛執の罪が消えるよう、
お心に応えておあげなさいませ
たとえ還俗なされましても、
仏縁を頼って生きていかれるが、
よろしかろうと存じます
詳しくはお目にかかって、
申し上げましょう
とりあえずは、
この小君がお話申しあげられる、
ことでしょう」
間違いはない
僧都ははっきり書いている
薫の来たこと、
浮舟に還俗をすすめること
しかし浮舟以外の人には、
何のことかわからない
妹尼は浮舟に、
「このお子はどういう方?
今になってもまだ、
隠し立てなさるなんて」
と強く責めた
浮舟が外を向くと、
小君がいた
この子は最期と思い決めた、
夕暮れにも、
もう一度会いたいと思った子であった
同じ家で暮らしていたころは、
たいそう腕白で憎らしかったけれど、
母がとても可愛がって、
宇治へも時々連れて来たので、
少し大きくなってからは、
姉弟互いに仲がよくなった
小君を見ると、
浮舟はほろほろと涙が落ちた
(次回へ)
・僧都は薫の依頼が迷惑で、
当惑する
「手前が山を下りるのは、
今日明日に差支えがございます
月が変りましたら、
ご案内いたしましょう」
そういわれては、
薫も押してとはいえない
「それではよろしく」
と立たねばならなかった
だが薫は、
そのまま帰るつもりはない
かの浮舟の異父弟の少年を、
連れて来ている
浮舟は弟を見て、
心を動かされるのではあるまいか
今は僧都に対する思惑も、
生じていた
自分を案内するのを拒む僧都も、
弟なら引き受けるかもしれぬ、
と思うのであった
薫は少年を呼び寄せ、
「じつはこの子のことですが」
と僧都にいった
「この子は、
そのひとに近しいものです
これを使いにやりたいと思いますが、
お手紙を一筆頂けないでしょうか
誰ということは書かず、
捜している者が、
いるというぐらいのことを、
先方にお知らせ頂けないでしょうか」
僧都は率直な人であるから、
社交辞令で気安くうけ合わない
「手前がその手紙を、
したためますことは、
罪を作る手引きを、
しそうな気がします
せっかく仏道修行に、
いそしんでおられますのに、
煩悩を起させるのも、
法師の身として、
いかがかと存じます
このうえは、
ご自身、小野に出向かれて、
しかるべき処置をお取りになれば、
よろしゅうございましょう」
薫は四角四面の挨拶に、
思わず微笑する
そうして諄々とくどく
「罪を作る手引き、
と仰せられますのは、
私が出家したかの女に、
相も変らず俗情を寄せることを、
ご懸念なんですね
そう思われるとまことに、
恥ずかしいのですが、
私は昔から道心が深うございまして
こんな俗人のまま、
今日まで過ごしてきたのが、
不思議なくらいです
幼時から出家を志しながら、
母宮(女三の宮)が、
私一人を頼りにしていられるのが、
世を捨てられぬ絆に思え。
ぐずぐずしておりますうちに、
官位も高くなり社会的責任も生じて、
身の進退もままにならぬように、
なりました
ですが、形の上では俗人とはいえ、
心ではいつも出家したつもりで、
おります
心持ちの上では聖に劣らぬつもりです
せっかく得度した人の心を、
乱すような重い罪を得ることなど、
どうして考えましょう
決してそんなことはいたしません
ただ、哀れな親の嘆きを見るにつけ、
かの女がどんな風に暮らしているのか、
事情を聞き、
ありさまを見て、
親を安心させ慰めてやることが、
できたら・・・と思います
そうすれば私も嬉しく、
安心できましょう」
僧都は薫の謹厳な面持ちや、
口ぶりで薫に共感したらしく、
大きくうなずいて
「なるほど
まことにさもあろうと存ぜられます
ご殊勝なことでございます」
といった
日が暮れてきた
今から帰るとすれば、
小野に泊るのが好都合であるが、
事情もわからないまま、
訪ねていってもどうしようもあるまい
そう思って、
薫はそのまま帰ることにした
僧都は浮舟の弟に目を止め、
「かしこげなお子ですな」
とほめた
薫はすかさずいう
「よい子でしょう
この子に托して、
あなたから様子を知らせてやって、
頂けませんか」
僧都はついに、
手紙をしたためて渡した
薫の仲立ちはためらわれるが、
浮舟の弟ならと、
気が動いたのだった
僧都は少年に、
「時々は横川へも、
遊びにおいでなさい
あなたと私は縁のないことも、
ないのだよ」
と言葉をかけた
浮舟は僧都の仏弟子であるから、
その縁をいったのだが、
少年は何のことかわからない
少年は僧都の手紙を受け取って、
薫の供に加わった
小野にさしかかった
(次回へ)
・薫は叡山に着き、
いつものように経典や仏像の供養をした
その翌日、
横川(よかわ)へ僧都を訪れた
僧都は思いがけぬことと、
恐縮している
薫は僧都と格別親しい仲では、
なかった
それがこのほど、
一品の宮(明石中宮の女一の宮)の、
ご病気を僧都が奉仕して、
お癒ししたので、
薫も僧都を尊崇する心が、
ひとしお篤くなり、
僧都を頼ろうと契りを深めた
顕官である薫が、
わざわざ訪ねてきたので、
僧都は心をこめて接待した
供の者たちが休息に散って、
あたりが静かになったころ、
薫は僧都に聞く
「小野のあたりに、
お家をお持ちでしょうか」
「ございます
まことに粗末な住居ですが、
手前の母の老尼を、
住まわせております
小野でございますと、
手前が山籠りしております間は、
夜中でも見舞ってやれます」
「あの辺りは、
人家が多かったのですが、
今はさびれているようですが」
薫は声を低める
「こんなことをお尋ねしては、
不審にお思いに違いありませんので、
申し上げにくいのですが・・・
かの山里に、
私が世話している者が、
身を隠していると耳にしました
それが確実なら、
事情もお話ししようと、
思っていたのですが、
その者はあなたの仏弟子となって、
戒を授けられたと聞きました
それは本当でしょうか
まだ年も若く、
親も生きておりまして、
私が死なせたように、
いわれたりしているのです」
僧都は意外な展開に呆然とする
(やはり想像したとおりだった
普通の身分と思えない人に見えたが、
なみなみならず愛していた女性に、
違いない・・・)
と思い、
浮舟を尼にしてしまったことが、
不安になって返事に思案した
(少し、早まったか)
という悔いも浮かぶ
しかし薫の様子は、
確かなことを知っているらしく、
なまじ隠さぬほうがよい、
無理に隠し立てすれば、
具合の悪いことになろうと、
僧都は思い、
「もしやそのかたは、
私も不審に思っておりました、
お人のことでございましょうか
小野におります尼たちが、
初瀬に詣でて帰る途中、
宇治院にとどまりましたところ、
母尼が発病しまして、
私を呼びに参りましたので、
出向きますとそこで、
奇怪なことがございまして」
と浮舟発見のいきさつを語り、
「親も危ないと申しますのに、
私の妹尼はこの救った女性を、
必死に看病いたしました
このひとも死人同様ながら、
わずかに息は通うておられ、
弟子などを呼び加持をいたしました
手前は母尼の病を助け、
念仏しておりましたので、
そのひとのありさまは、
くわしく見ませなんだが、
事情を考えますれば、
魔物がたぶらかしてお連れした、
と推察されたのでございます
介抱して京へお連れしてのちも、
三月ばかりは、
死人同様でいられました
手前の妹の尼になっております、
これが一人娘を亡くして、
悲しみにくれておりましたところ、
同じような年ごろの美しいひとを、
見つけて観音さまのお授けと、
喜びまして、一心に看病したので、
ございます
手前も山を下りて、
修法してさしあげたところ、
意識を取り戻されたのでございました
しかし本人はまだ魔物が、
身から離れぬ気がする、
とりつく物の怪からのがれて、
極楽浄土を願いたい、
といろいろお願いなさいましたので、
手前が出家をおさせ申したので、
ございます
右大将どのとかかわりのあるお方とは、
夢にも思わぬことで、
ございました
尼どもが世間に知れて、
面倒なもめ事に巻き込まれても困るから、
黙っておりましたのですが」
薫は夢心地である
涙があふれてくる
死んだと思った浮舟は、
生きていた
僧都は薫の思い入れ深いさまを見て、
(ここまで思いつめているひとを、
出家させてしまった・・・
この世での僧尼は朽木が死者も同然
この方の悲しまれるのも、
無理はない
罪深いことをしてしまった)
と思うが
「魔物にとりつかれなさったのも、
そうなるべき前世の因縁
さだめしご身分高いお生まれの、
かたでしょうな
それがどういう手違いで、
あんな身の上におなりに、
なったのでしょう」
いまは素直に答える薫であった
「一応は皇族の血筋の人なのです
ふとしたことから、
かかわりを持ったのですが、
これほど落ちぶれてよい人ではなく、
しかるべく遇するつもりでいました
それがある日、
ふっと姿を消してしまったのです
確かなことはさっぱり、
聞き出せませんでした
いま、お話を伺って、
尼になったのもよいことではないか、
心の平安を得られたのは、
そのひとにとってよかったのでは、
と思えるようになりました」
薫は続けて、
「こういうお頼みは、
ご出家の方にはまことに、
不都合にお思いかもしれませんが、
小野のお宅へご案内頂くわけには、
参りますまいか
尼すがたになった今でも、
語りあいたいと思うのです」
僧都は躊躇する
かしらを下ろし、
世に背いて出家したといっても、
法師でさえ愛欲の心失せぬ者も多い
まして迷い多く、
情にほだされやすい女の身としては、
どうであろうか
せっかく尼となったあのひとを、
またも煩悩に迷わせることになったら、
それこそ罪作りであろう
(次回へ)