・衣更えの季節となった。
今までは妻の仕事として、
夏の装束を紫の上が、
源氏に贈っていたが、
今年は花散里が、
衣装を新調する。
賀茂祭の日も、
源氏はつれづれである。
女房たちに、
「里下りして、
祭見物に行くがよい」
といった。
五月雨のころは、
ましてぼんやり沈んで過ごした。
十日あまりの月の明るい宵、
息子の夕霧がやってきた。
村雨が通って、
風に灯も消え、
空は暗い。
「お淋しいことでしょう」
と夕霧がいうのへ、
「一人住みというのは、
わびしいものだ。
しかし深山に入って、
仏道に入るときには、
こんな風に体を慣らしておくと、
心も澄み切っていいだろうと、
思う」
夕霧は父の傷心を、
痛々しく見守っている。
「昨日のように思われますが、
一周忌ももうすぐになりました。
法要はどのようにお考えに、
なっていられます?」
と夕霧は聞く。
「世間並みでよい。
あれがかねて発願して、
描かせておいた極楽曼荼羅など、
この折に供養することにしよう」
「お形見ともいうべき、
お子が一人もいらっしゃらないのは、
残念でございます」
「私はあれだけではない。
他の人々との間にも、
子供運は薄かった。
私の宿縁のつたなさだろう。
その分、
夕霧は子宝に恵まれたから、
家門を繁栄させてくれるだろう」
源氏はことさら、
昔ばなしはしない。
夕霧はその夜泊まった。
夏の盛り、
源氏は涼しい部屋で、
池の蓮を見ている。
露の玉は涙かと思われ、
そのままうつつなく、
日は暮れてゆく。
ひぐらしの声は華やかに、
庭の撫子の花を、
一人見たとて、
何としよう。
風の音も物淋しい秋になると、
法要の準備で、
やや気も紛れる。
(よくも今日まで、
長らえたことよ)
源氏は我ながら思う。
一周忌の命日には、
人々は精進して、
曼荼羅の供養をした。
十月の時雨は、
ひとしお気が滅入る。
紫の上よ、
夢にさえ見えぬ紫の上の魂よ。
世間は五節の舞いで、
華やかに浮きたっている。
夕霧が童殿上する、
若君二人連れて挨拶に来た。
かわいい少年たちである。
少年たちについて、
母方(雲井雁)の叔父にあたる、
青年たちも共に来た。
若々しいさわやかな青年たち。
世の中は、
悲嘆に沈む源氏を取り残して、
次の世代へと移りつつ、
あるようであった。
紫の上の死後一年、
源氏はやっとの思いで過ごし、
(いよいよ世を捨てる時が来た)
と決心した。
この世にあわれは尽きないが、
出家の準備をはじめた。
仕える者たちにも、
身分に応じて形見を分けた。
女房たちは、
それと察して年が暮れるのを、
心細く悲しく思う。
源氏は、
取りのけてあった、
昔の女人たちからの文を、
みな破らせた。
ふと紫の上の文字に視線が落ち、
思いは須磨と京に別れていた、
あのころのことに戻った。
(女々しい。
わが思いも共に煙になれ)
源氏は紫の上の手紙を、
みな焼かせた。
その煙を見つつ、
涙にくれ心はまどう。
雪が降り、
すっかり積もってしまった。
やがて心ぼそい、
大晦日がきた。
この日は、
鬼やらいの日である。
明石の中宮が、
源氏の慰めにと、
二條院に置いていかれた、
三の宮が元気に、
「鬼やらいだ。
鬼は外、福は内」
と走り回っていらっしゃる。
この愛らしいお姿を見ることも、
もうできなくなる。
この世の愛欲や煩悩から離脱し、
恩愛を断って、
あらたなる旅立ちへ向かうのだ。
旧い自分は死に、
荘厳な浄土を欣求して、
ひたすらいそしむ新しい自分が、
生まれるのだ。
紫の上との死別以来、
月日は物思いのうちに過ぎた。
わが世も今年も、
今日でいよいよ尽きる。
年が明ければ、
源氏は世を捨て、
出家する心組みである。
雪は降り積もる。
迷い多かりし源氏の生涯を、
浄めるかのごとく、
雪は降り積もる。
暗い空を舞う雪を眺める、
源氏の眼は澄んで、
おだやかに、
光があった。
(満開だった桜が散って)
・源氏は、
つれづれなるままに、
女三の宮のもとへ出かけた。
若宮も、
女房に抱かれて共に、
六條院へおいでになる。
こちらの薫君(柏木の子)と、
一緒に走り回って、
遊んでいられる。
尼宮は経を読んでいられた。
お供えの花に、
夕日が映えて美しかったので、
源氏は、
「春の好きだった人が、
いなくなって今年は、
花を見る気もしなかったが、
花は仏の飾りのためのような、
気がします・・・
そういえば、
対の山吹は見事に咲いていますね。
花やかできれいです。
植えた人が亡くなったとも、
知らず例年より美しく、
咲いているのがあわれです」
としみじみという。
尼宮(女三の宮)は、
なにごころもないさまで、
「そうでございますか。
わたくしは日々、
勤行にいそしんで、
花が咲こうが散ろうが、
気にもとめませんで、
物思いもなく過ごしております」
と答えられる。
源氏は、
ほかにいいようもあろうに、
思いやりのないお言葉よ、
と興ざめ、味気ない思いをする。
思えば、
紫の上は、
こんなふうの、
ちょっとしたことでも、
人を傷つける言葉などは、
口にしなかった。
あの折、かの折、
時々につけて機転も利き、
才気あふれ、
それでいて温かくやさしかった心、
それからそれへと、
思い続けていると、
またしても涙があふれる。
夕暮のしっとりした時分なので、
源氏はそのまま、
明石の上の部屋を訪れた。
長らく顔出ししなくて、
不意だったから、
明石の上は驚いたが、
こころよく自然に迎え、
身のとりなしも上品である。
やっぱりすぐれた人だ、
と源氏は思うが、
心ない人を見れば、
亡き人が思いだされ、
すぐれた人を見れば、
また亡き人とくらべてしまう。
こちらでは、
源氏は昔がたりをする。
かくも悲しんでいる源氏が、
明石の上はいたわしかった。
明石の上の言葉は、
ゆきとどいて思慮深い。
まことに大人の手ごたえを、
感じさせる人である。
源氏は彼女を相手に、
話していると、
心が落ち着き違和感がない。
源氏は彼女には何を話しても、
理解してもらえそうな気がして、
昔からの死別の悲しみを、
打ち明けるのであった。
藤壺の宮、
紫の上・・・
「夫婦だったから、
あわれをおぼえるのではない。
幼いときから育て、
何十年と共に暮らし、
あまりにも共有した、
思い出が多すぎる・・・」
(このまま、
ここに泊まろうか)
と思いながら、
やはり自室へ帰った。
明石の上にも、
感慨はあったであろう。
源氏自身、
(こんなに心が寄り添っていながら、
もう夜を共に過ごす気になれないとは、
私も変ったものだ・・・)
とつくづく思った。
自室でいつものように、
念仏読経をした。
(次回へ)
・新春となったが、
源氏の心は悲しみに閉ざされて、
年賀の人々と会う気もしない。
紅梅はちらほらと咲きかけ、
美しい風情だったが、
管弦の遊びもなく、
人々は濃い喪服を着て、
常とは打って変った新春。
源氏は、
紫の上が亡くなってから、
ずっと二條院にこもっている。
紫の上が亡くなって、
淋しい一人寝になると、
源氏は張台(寝台)から、
遠く離れて女房たちを大勢、
宿直させた。
源氏は彼女たちを相手に、
紫の上の思い出話や、
昔のことなど話すのであった。
源氏は俗世への執着が、
次第に薄れて、
仏道に入る心が深くなっている。
それにつけても、
昔のあの、
朧月夜の尚侍の君との、
実りのない恋、
朝顔の斎院への片思いから、
紫の上を苦しめたことが、
いとおしく辛かった。
(朧月夜とのことは、
一時の気まぐれだった。
女三の宮の時は、
兄帝、朱雀院への義理で、
のっぴきならぬ立場に立たされ、
やむを得なかった。
とはいうものの、
なぜ彼女を裏切るようなことを、
してしまったのだろう。
あの人は聡明だったから、
嫉妬や憎悪をふりかざして、
私を悩ませたろせず、
二人の愛情を信じてくれた。
しかし、
どんなときも、
この先どうなるのだろうと、
心を痛めたにちがいない・・・)
たとえひとときでも、
自分の所業で紫の上を苦しめた、
と思うと源氏は自責と、
悔しさで胸がいっぱいになる。
女房たちも、
みな古くから仕えている人々で、
あったからあの折この折の、
事情を知り、
紫の上の苦悩も見ていて、
そんな話をする女房もいた。
それからそれへと、
記憶をたどり、
源氏は夜もすがら思い返していた。
源氏は悲しみを紛らせようと、
いつものように手や顔を洗い、
勤行する。
源氏はもし自分が出家したら、
まわりの女房たちが、
どんなに淋しがるだろうかと、
あわれになる。
こうして源氏は、
近しい女房たちに囲まれ、
ひっそりと暮らしている。
上達部や親王がたが、
たえず見舞いに来られるが、
源氏は対面しなかった。
「ここ幾月か、
私は放心して、
自分で自分がわからなかった。
そんな醜態を人々にさらして、
世の物笑いになりたくない」
といって、
夕霧にさえ御簾越しに話す。
あれほど、
来客を歓待し、
人に会うのを喜んだ源氏は、
今や、全く人が変ったように、
人ぎらいになってしまった。
春は深くなり、
二條院の庭は、
昔に変わらず花が咲くが、
それを愛でた人はもういない。
源氏はもう、
花も見たくない。
胸痛むからである。
「おばあちゃまがおっしゃったから」
と三の宮は、
紅梅と桜を大切に世話して、
いらっしゃる。
明石の中宮は、
御所に上がられるとき、
「お父さまの、
お淋しい時のお慰めに」
と三の宮を、
二條院に置いて行かれた。
二條院の庭は、
春の花の好きな紫の上が、
次々に咲くようにと、
いろんな花を植えておいたので、
常に匂いに満ちていた。
紅梅、
山吹、
桜、
藤、
「ぼくの桜が咲いた」
三の宮は得意そうにいわれる。
源氏は三の宮が慰めであった。
「宮とこうしてお話出来るのも、
あと少しです。
やがてお目にかかれなく、
なってしまうのです」
源氏が涙ぐみながらいうと、
「おばあちゃまとおんなじことを、
おっしゃるのですね。
縁起悪い」
と宮は伏し目になって、
涙をこらえていらっしゃる。
(次回へ)
・紫の上の側近く仕えた人々は、
みな夢うつつのように、
ぼんやりして、
頼りになる者もいない。
源氏は心を取り直して、
葬儀の指図をした。
昔も悲しい死別には、
たくさん遭ってきた。
しかし、
自身、手を下して、
葬儀の差配をするのは、
初めてであった。
しかも最愛の人の・・・
過去にも未来にも、
二度とこんな辛い思いは、
しないだろうと源氏は思う。
その日、
葬送が行われた。
いつまでも、
亡骸をとどめておくことは、
できないのだ。
はるばると広い鳥辺野の、
野辺送りであった。
人や車がいっぱい立ち並んで、
いかめしい儀式だった。
その中を、
紫の上は煙となって、
たちのぼっていった。
源氏は宙を踏む心地で、
人にたすけられて歩む。
(もろともに死んだ。
あれが息絶えたとき、
自分もまた死んだ。
私の人生は終わった)
源氏はそう思いつつ、
よろめきあゆむ。
そのさまを見て、
あんなに尊い身分の方が、
とみな泣く。
源氏は昔、
夕霧の母、葵の上を、
亡くしたときのことを覚えている。
あのときは今より、
正気が残っていた。
葬送の野に、
月が出ていたことを覚えている。
しかし、
今宵は涙のために、
もはや何も目に入らぬ、
無明の闇。
亡くなったのは十四日で、
野辺送りは十五日の明け方。
日が明るく昇り、
あたりをくまなく照らす。
源氏は、
かくも明るい世の中に、
生きる気はしない。
紫の上に死におくれて、
いつまで生きられようか。
出家したいと思うが、
妻に死なれて心弱くなった、
と噂されるのもわずらわしく、
(ここ当分を過ごして)
と思う。
夕霧も忌にこもって、
朝夕、父の側を去らず、
心からなぐさめた。
定めの四十九日の法事も、
何につけ悲しいばかり。
源氏は寝ても起きても、
涙の乾く間はない。
いつ夜が明け、
いつ日が暮れたかも、
おぼつかなかった。
すべてに恵まれた身の上、
のように見えながら、
何度幼いころより、
死別生別を重ねてきたことか。
母君、
祖母君、
父帝、
そして夕顔、
葵の上、
藤壺中宮、
仏は世の無常を知れ、
とおさとしになったのだ。
かのひとを失って、
もはやなんのこの世に、
思い残すことがあろうか。
すぐさま世を捨て、
出家したいが、
こうも悲しみに心乱れていては、
仏道修行も難しいであろう。
どうかこの嘆きを、
少しは忘れさせたまえと、
源氏はひたすら念じる。
御所をはじめ、
弔問は数多くあったが、
源氏は、
出家の決心を固めているので、
何ごとも耳に入らず、
目にも止まらなかった。
親友の大臣からも、
心こめた見舞いがあった。
源氏は丁重に返事をし、
礼を伝えた。
亡き紫の上は、
不思議なほど、
どんな人にも慕われ、
敬愛され、
好意を持たれたひとであった。
側近く仕えていた女房の中には、
悲しみのやり場がなく、
尼となろうとする者もいた。
冷泉院(源氏の実子)の后の宮、
(亡き六條御息所の姫君)からも、
お文が届けられた。
「亡きかたは、
春がお好きでいらっしゃいました。
ものみな枯れ果てる秋の、
野辺の侘びしさをお厭いに、
なったのでしょうか。
まことにその通りに思われます」
源氏はくり返しそれを眺め、
風雅を解する、
たしなみ深い人、
今はこの宮だけが、
残っていらっしゃると思う。
源氏の身辺から、
そういう存在は、
一人ずつ消えてゆく。
(了)
36、
・紫の上は、
明石の中宮のお生みになった、
宮たちの中でも、
とりわけ自分が手元でお育てした、
三の宮と女一の宮が可愛かった。
この宮たちのご成長を、
見ずにこの世を去るのは、
名残り惜しい気がされる。
三の宮は今年五つになられる。
紫の上は気分のよい時に、
あたりに人のいないころ、
「わたくしがいなくなりましたら、
宮さまは思いだして下さいますか」
とおたずねすると、
「おばあちゃま、
どこへいらっしゃるの?
ぼくは御所の主上よりも、
中宮さまよりも、
おばあちゃまが大好き。
いらっしゃらなくなったら、
いやだよ」
涙をためていられる。
紫の上は微笑みつつ、
「大きくなられたら、
この二條院にお住みになって、
紅梅と桜は、
花の季節には忘れず、
眺めてお楽しみになってね。
時には花を仏さまにも、
お供え下さいね」
やっと秋になって、
いくらか涼しくなり、
紫の上は少し気分を取り戻した。
中宮はもう、
御所へ帰らなければならなかった。
紫の上は、
お引き止めしたいのであるが、
また主上も待ちかねていらして、
お使いがひまなく来るので、
そうも出来ない。
中宮が紫の上の、
お見舞いに東の対から、
おいでになった。
風が荒々しく吹く夕暮れ。
紫の上は、
前栽の景色を見ようとして、
起き上がって脇息に寄っていた。
源氏がやって来た。
「おお、今日は起きているね。
中宮のお顔を見ると、
気分がよさそうだ」
と嬉しそうにいった。
(ほんの少し気分がよいのを、
ご覧になると、
こんなに喜んで下さる。
もし、わたくしが亡くなったら、
どんなにお嘆きになるかしら)
源氏を置いて逝くのが、
紫の上は悲しかった。
「でももう、
だめです・・・
わたくしね、
萩の花の露を見ています。
ほら、風に乱れて散っていきます。
あんな風に命の露も」
源氏は耐えられなくなり、
「死ぬときはもろとも。
あなたを先立たせて長くは、
生きられない」
「お母さま、
花の露なんて、
さびしいたとえを、
おっしゃらないで下さいまし」
中宮は紫の上にすがって、
泣いていられる。
源氏のもっとも身近な女人たち、
紫の上、明石の中宮、
どちらも劣らぬこよない佳人、
この美しさをそのままに、
みんなで幸福に、
千年も生き長らえることが、
出来たらと思うが、
しかし、花の命を、
取り止めることは出来ぬ。
「どうぞもう、
あちらへおいで下さい。
気分がたいそう苦しくて。
横にならせて頂きます・・・」
紫の上は中宮にいい、
几帳を引き寄せて臥したが、
そのさまがいつもより、
弱々しげなので、
「お母さま、
どうなさいました。
しっかりなすって・・・」
中宮が紫の上の手を取って、
泣く泣くご覧になると、
消えゆく露のように、
紫の上は絶え入った。
臨終と見えたので、
たちまち、祈祷誦経の使者たち、
寺々へ立てられる。
邸内はざわめいた。
以前にもこうして絶え入って、
蘇生したことがあったので、
今度も、
物の怪のしわざではないかと、
夜もすがら祈祷したが、
その甲斐もなく、
夜の明けるのを待たず、
紫の上は亡くなった。
(御所へ帰らないでよかった。
お母さまのご臨終に、
おそばにいられたのだもの)
中宮は涙ながらに、
紫の上との契りの深さを、
あわれに悲しく思われた。
誰も彼も正気でいる者はない。
女房たちは呆然としている。
源氏はまして、
どうしていいかわからない。
乱れる心を鎮めるすべもなく、
夕霧がそばへ来たのを、
几帳のかげに呼んで、
「とうとうこんなことに。
この年来、
あんなに望んでいた出家のこと、
叶えさせずにしまったのが、
いとおしくて。
僧たちはもう帰ったらしいが、
それでも残っている僧に、
この人に仏の功徳を、
授けて頂いて、
暗い冥途のみちの、
光にしてやりたい・・・
髪を下ろすように、
いってくれないか」
そういいつつ、
源氏自身も死んだようになって、
悲嘆にくれ心は破れて、
涙が止まらない。
尤もなことだと、
夕霧は同情した。
夕霧は、
源氏よりもまだしっかりし、
僧たちに指図をした。
(次回へ)