むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

7、ワラワラ様 ②

2022年11月30日 09時00分59秒 | 田辺聖子・エッセー集










・こんどの台湾の旅は、
主催者の団長・田崎さんがしばしば訪台して、
これは美味と思うものをあげ、
また現地の食通の人々の情報も集めて作った、
よりぬきのメニューであった。

それで、レストランもあれば大衆食堂も屋台もあって、
バラエティに富んだ日程となったのである。

屋台といえば、
私は新開地の串カツの屋台を贔屓にしているが、
ここの串カツは、ちゃんとしたレストランで食べるより、
美味しい。美味しいから贔屓するのだ。

吹きさらしの屋台は、
寒風吹きすさぶ寒い晩などとくに美味である。

そういう晩は、夫は、

「串カツ食いに行こう!」と叫ぶ。

道の角っこにその屋台はあり、
中年のおじさんと婆さんの二人がせっせと揚げている。

客は無言でカウンターの前に立って注文して、
食べると金を払って出て行く。

戸はないから吹きさらしの夜は、
身も凍るばかりであるが、
串カツは揚げたてで、
熱燗は舌を焼くばかりだから、
客を見ていると、みな数百円の散財である。

揚げたての串を、
ジュッとソースの箱につけて、
コップになみなみとつがれた熱燗をぐっとあおる、
こういうことを覚えるとこまる、
というほどの美味である。

しかしよくしたもので、
一方では、ちゃんと正装して、
予約して食べに行きたい一流レストランの美味も、
私は知っているのだ。

台湾の旅は、
その両方が日程の中に入っていたので、
私は、たいそう楽しみであった。

夫も行くといった。

たまたま、
私たちの友人の板野さんも行くといったので、
それがふんぎりになった。

夫は、海外旅行は初めてである。

東京へ集結して、飛行機に乗る。

板野さんは中年のサラリーマンで、
会社を休んできた。

団長の田崎さんは闊達で愉快な人であった。
かつグルメにしてグールマンらしく、
血色のいい元気そうな、つやつやした童顔に、
太り肉の頑丈な体つきであった。

あとは、中高年の夫婦何組か、
また定年記念といったふうな人、
料理研究家、レストランの旦那、といったような、
じっくりしたいい年輩の男女で、
猥雑な観光団ではない。

それもいい雰囲気であった。
ドクターが六人もいた。
みな開業医である。

臨時休診にしてきた夫は、
たちまち、それで意気高くなり、
心のやましさをどこかへ預けたように、
ハレバレしてしまった。

板野さんと三人掛けの席に坐って夫は、

「知人に、夫婦で海外旅行して、
離婚寸前までいったんがおりますねん」

「なぜですか」

「言葉もわからん外国へ抛りだされたら、
いやでも毎日、二人で顔つき合わせ、
行動を共にせんとあきませんからな。
どっちもわがままが出て、
カッとなるんでしょうなあ」

「そんなもんですかなあ」

板野さんも妻帯者だが、
今回は一人旅である。

「それは板野さんはよろしよ。
英語もフランス語も出来はるのやから。
しゃべれたり、読めたり、したら、
ケンカも起きんでしょう」

「しかしドクターはドイツ語が出来るわけでしょう?
行き先がドイツやったら、
破鏡のうき目にあわなくて済みますな」

「私らのドイツ語は戦前のやから、
船で暑いとこ渡るときに腐ってしまいました」

私も夫も、
ちょうど終戦をはさんで学生生活を送っており、
語学の話はしないことにしている。

しかし、ありがたいことに台湾は、
日本語をしゃべる人が多く、しゃべれなくても、
字を書いて見せれば人々はうなずいて、
すぐ教えてくれた。

日本人が旅行するのに、
ほとんど不自由はない国だが、
ただ戦時態勢で、外国旅行者は、
新聞週刊誌の持ち込みは禁止されている。

私は台湾がおかれている国際上の地位や、
政治的風景について語るのを止そうと思う。

語ればキリがないし、
また、それは人が政治という狭い枠に閉じ込められ、
強いられることになるからだ。

私は政治的な台湾を越えて、
もう一つ別の世界にある台湾を訪れたのである。

どの国も、政治的な面と、
それを越えた部分での面と二つあり、
私は越えた部分の方にだけ、
興味があるのである。

「国破れて山河あり」というではないか。

国が破れた、繕ったというのは人間のさかしらな知恵で、
いわば子供のお山の大将ごっこである。

しかしそれを越えた所の大地に人間は生まれ、
子供を作ったり、死んだりしている。

見よ、社会主義国も自由主義国も、
人間のすることに変わりはあるのか。

こういう乱暴なことをいうから、
私の小説は、心ある人から貶められる。

私にとって興味あるのは、
人々がその風土でどんな本音で生きているか、
ということである。

本音は、愛することと食べることに、
いちばん大きく現れる。






          


(次回へ)

写真は野森稲荷神社

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5、パリ ⑩

2022年10月11日 09時18分27秒 | 田辺聖子・エッセー集










・チーズはプリーとポンレベーというのを食べた。

私に見識があって選んだわけではなく、
持ってきたのを、指さして取ってもらったら、
そういう名前であった。

羊のチーズは異臭がしたが、
ワインに合うので、これも「結構でした」
と食べた。

私はどこへ行っても、
何を食べてもやっていけそうに思われるのは、
こんなときである。

どこの国の男と結婚しても、
うまくいったんではなかろうか、と思うと、
少し残念な気がする。

同じ日本人の男が相棒というのは、
変りばえしなくてつまらない。

尤も、相棒にいわせると、

「何をねぼけたこというてんねん、
こっちがひたすら辛抱しとるから保ってるのやないか!」

と怒り狂うかもしれないけれど。

「ラ・マレ」の料理が本格的で美味しかったので、
本当のフランス料理を食べたと思って嬉しかった。

招待側は、それをフランス語で、
レストランの給仕長に伝えて下さったので、
店の人は気をよくして記念にと、
ポスターほどもあるメニューをくれた。

私はそれを持ち帰って居間のふすまに張っておいたら、
パリっ子の友人が遊びに来て、
「おや、ラ・マレだ」となつかしがっていた。

パリ最後の夜、
これも高級レストランの「フーケ」へ行こうとして、
ホテルの人に予約をたのんだが、
行ってみると「予約は受けてない」とことわられた。

何かの手違いがあったのだろう。

「フーケ」は凱旋門を望む一流のところにある店で、
店内は時分どきだから、
着飾った紳士淑女で満員であった。

給仕が、
いまは満席だから予約がなければどうにもならない、という。

「仕方ないでしょ、
どこか、ほかで食べればいいではありませんか」

ということになった。

私たちが給仕と押し問答をしているあいだ、
いちばん手近の席の中年男女、
見るからに上流階級らしい身なりよろしき一組が、
我々を眺めてうすら笑いを浮かべていた。

この田舎者が、
という軽侮の表情が、ありありと出ている。

私だけがそう思ったのか、
と考えていたら、外へ出て、

「あの一ばん端の席にいた中年のカップルは、
いやな奴でしたな」とおっちゃんがいい、
ホトトギス氏は、

「何だかバカにしているようでした」

と憤慨していて、
人の思うことはみな一緒、
お上りさんか地元の人間か知らねども、
高級レストランへいったって当然のこと、
人間が高級になるわけではないのだ。

「私はイタリア料理のほうに魅力がありますなあ」

シャンゼリゼを歩きつつおっちゃんはいう。

「料理も人間と同じで、
素朴なところがないといけまへんなあ」

「そうね、原型をとどめず、
というのは離乳食みたいになっちゃう」

「荒々しいところが残っているのはいいですね、
フランス料理はすこし、
洗練されすぎてるのとちがいますか」

とホトトギス氏。

高級フランス料理屋で木戸を突かれた腹いせに、
我々はフランス料理のワルクチをいいながら、
シャンゼリゼを歩いた。

そしてやっと見つけたレストランで、
パリ最後の宴を張ったが、
ここは一般水準のレストランであったが、
やはりフランス料理は美味しかったのである。






          


(了)

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5、パリ ⑨

2022年10月10日 08時56分26秒 | 田辺聖子・エッセー集










・パリで待望のカキを食べたのは、
「ラ・マン」という高級料理屋、
ここにご招待されたのであって、
この度の旅でいちばん贅沢なレストランであった。

赤提灯もよいが、
私も女でありますから、
いっぺんぐらいはキチンとした、
すてきなレストランで着物を着替えて、
食べてみたい気がする。

尤も「ラ・マレ」へ行ったのは、
お昼のご招待にあずかったのであって、
店内には中小企業の社長というか、
会社の部長というか、
そういう人々が商談かたがた、
会食していた。

客より給仕の数が多いような、
本物のレストランで、
さして大きいというのではないが、
こってりと贅沢な感じ、
うすっぺらなレストランではないのだ。

招待して下さった側はパリ生活の長い人で、
大きなメニューに目を通し、いちいち説明して、
「これはどうです」とすすめて下さるのであるが、
そういう人でもワインはソムリエのすすめに従う。

ポスターほどもあるメニューの裏はいちめんのワインリスト、
とてもワインの種類をあげつらえない、という。

ましてやソムリエがぽんとあけたのをひと口飲んで、
「どうですか」といわれたときに、

「あかん、もっと冷やせ」とか、

「別のを持ってこい」とは言えないそう。

「いけない、というなら、
いけない理由をとうとうとしゃべれなくちゃ、いけません。
とてものことにそんな知識があるはずもない」

ワインは店のおじさんに任せ、
ここでは食前酒にキールを飲み、
フランボワーズ(木いちご)のジュースに、
シャンペンを入れたのを飲む。

これも戦中派ニンゲンの私には、
縁日の色付きハッカ水という感じで受け取られる。

カキはブーロンという種類であるそうだが、
まるみのある生ガキで、
氷の上に乗ってくるのを見るのは、
心おどるもの。

私はパーティがあんまり好きではないが、
それは、生ガキなんか出ていると、
卓上のそれをみんな食べたくなり、
どこまで遠慮しないといけないのか、
どのくらい自分が食べていいのか、
見さかいがつかないからである。

そうして遠慮して食べないでいると、
他の人も忘れているのか、遠慮しているのか、
いつまでも、一皿何ダースかの生ガキが残されている。

私はもう気になって、
パーティ出席者に挨拶するのも忘れ、
スピーチの言葉も耳に入らずに、
生ガキばかり見つめているということになる。

そうして不機嫌になって帰って来る、
という仕組みで、とくに冬場のパーティがいけない。

生ガキのことばかり考えて、
パーティはうわのそらになってしまう。

そのくらい生ガキ好きである。

冬になると神戸のオリエンタルホテルの上の、
レストランへ食べにいったりする。

次に出たのはスズキの料理で、
これはこってりしたソースがかかって重厚な味わい、
よく太ったスズキである。

私は魚料理というのは、
西洋の小説に教えられるところが多かった。

西洋の小説を読むと、
マスの頬の肉がうまい、とか、
スズキの肉の美味しさなどが出てくる。

日本の小説は、
魚を食べる民族にしては、
魚の美味しそうな感じが出てこない。

アユでもハモでも、
季節のいろどりのように、
淡白さを賞でられている。

あるいはその姿のよろしさとか、
香気は書かれるが、
魚の頬の肉をほじくってむさぼり食べる、
という描写はないようである。

フランス料理の美味しさは、
ソースにあるのはむろんだけれど、
私は一度フランス人が、
皿に残ったソースをパンでさらえて食べ、
あと更にパンの固まりでナイフとフォークを拭いて、
食べているのを見た。

「ラ・マレ」での話ではない。

あと、ナイフとフォークをまた使えるぐらい、
きれいにしていて、驚いたことがあるが、
こういうのは全く「舌づつみを打つ」
という言葉が実感としてくる。






          


(次回へ)

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5、パリ ⑧

2022年10月09日 08時38分14秒 | 田辺聖子・エッセー集










・冷え込みのきびしい石造りのたてもの、
日照時間の短い日々は、本当をいうと、
人間が住むのにふさわしくないのかもしれない。

パリの郊外には美しい森がいくつもあるが、
パリっ子が休みになると、
飢えたように郊外へ出かけるはずである。

コレットからサガンにいたるまで、
フランスの「愛」の女流作家は、
自然描写が好きで巧みだが、
「愛」を書くのも感覚的な天分がないと出来ないので、
おのずから、自然を愛する気持ちと、
かかわりが深いのかもしれない。

私は、ボーボワールやデュラスより、
サガンやコレットが好きである。

私はホトトギス氏に頼んで、
プランタンのデパートの書籍売り場で、
『悲しみよこんにちは』や、
『水の中の小さな太陽』の新書版を買ってもらった。

ホトトギス氏は若いだけあって、
さっさと「サガンコーナー」をみつけてくれた。
(むろんフランス語である)

サガンは町の盛り場やサロンの会話、
パーティの華やぎも好んで書くが、
同じように、森のかぐわしさ、
雨のしずく、風の匂い、
郊外のレストランの庭での食事など、
楽しそうに書いている。

コレットの自然描写は、いうまでもない。

彼女らにとっては、
肌に感じる日光の熱さは、
耳元で聞く男の甘い言葉と同じくらい、
官能的な快楽であるらしい。

ラルチーヌ母さんの神経痛に悩んでいる姿なぞ見ていると、
パリのたてものは体に悪いんじゃないかと思われる。

パリの町には足の悪い人も多く、
杖をついて歩いているが、
これはパリ在住の日本人の考察によると、
足が細すぎて体重を支えきれないのではないか、
という。

胴長、短足の方が体のためにはよいかもしれない。

さて、かんじんの食べ物は、
仔牛のクリーム煮がやさしい味であった。

ソースが濃厚でなくてよい。

あとはアイスクリームに、
カシスという野イチゴのジュースをかけたもの、
それにコーヒーという段取り。

私はここでパルミエという椰子の芽に、
マヨネーズをかけたのが好きだった。

パルミエはこのごろ、
日本でも缶詰で売っているけれど。

私たちの横の一人者はゆっくりと料理を楽しみ、
一人でワインを飲んで飽きる風もない。
充分に一人の食事を楽しんでる風情。

日本だと、レストランへ入って一人でゆっくり、
ということがない。

たいてい、食べながらテレビを見たり、
新聞を読んだりしている。

フランスの中年一人者は、
黒髪黒眼、黒い服に赤いネクタイ、
目つきの鋭い、髭のそりあとも青々した、
堅気の勤め人といった男である。

いかにも独身者、という風情が身についているのは、
食事の仕方からわかる。

女房子供が里帰りしているあいだ、
食べに来ている、というていではないのである。

「独身というのはぜいたくなんですねえ。
税金も高いですし」

とムッシュ・フランソワーズはささやいた。

高い税金を払ってでも独身でいるほうがいい、
という人は、たいてい気むずかしい人である。

よって私は、
女の独身貴族は好きだが、
男の独身貴族は当惑するところがある。






          


(次回へ)

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5、パリ ⑦

2022年10月08日 09時07分51秒 | 田辺聖子・エッセー集










・パリの下町といっても明るいところばかりでなく、
ぽつんぽつんと灯のついている暗い通りも多い。

しかしムッシュ・フランソワーズによれば、
女の一人歩きも大丈夫で、
雑多な人種がいるけれど、
物盗り強盗はざらにはなくて、
治安も風紀もいいということである。

ただ、日本でも折々ささやかれる、
若い女性の誘拐はあって、

「ウチのフランソワーズも、
よくママに注意されたそうです。
噂じゃ年間を通じて、
二百人くらいの若い娘が行方不明になっているそうですね。
中近東へ売られてる、
ということですが・・・」

西洋から見れば、
日本を含めた東南アジアの何とはない不気味さは、
東洋から見る、西ヨーロッパ、中近東の不気味さに、
通うかもしれない。

我々、日本人から見ると、
西ヨーロッパにぽっかり開いた抜け穴の口は、
地中海ふかく、中近東、アフリカにまで続いていて、
その奥は見通しもできない暗闇である。

パリは不気味な顔も持っているわけである。

それでいながらたとえば、
パリの市街の美しさは、
放射状に敷かれた小さい石の舗道にもよるが、
地下工事でそれらの敷石がめくられ、
工事が済むとまた、

「一つ一つ、
小さい石を元通りにはめこんで、
放射状に並べています」

ということである。

大きい一枚石にするとか、
アスファルトの道にするなら簡単であるが、
それをしないで、手間をかけてコツコツと、
元通りに、小石をはめこんでいく。

碁盤状に並んでいるのではなく、
放射状になっているので、
パズルみたいに大変だろうと思われるが、
断固、昔のままにするところが面白い。

日本みたいに、何でも便利にと、
能率一点張りの子供じみたことをしない。

便利なりゃいい、というものではないのだ。

郵便配達が便利だというので、
古くからあるゆかしい町名を変えてしまったりして、
何せ、することが心浅く幼稚である。

日本全国に、新町や本町なんていう、
便宜的な町名をいっぱい作っている。

建物は大きくすりゃいい、
というのでビルを建て、
会社も大きければいい、とばかり、
合併して大きくして、結果潰れたり、する。

ムッシュ・フランソワーズはインテリ青年であるから、
フランスの若い人に好んで読まれる作家を、
いろいろあげてくれた。

サガンはポピュラーになりすぎて、
学生たちはむしろ読んでいない。

「ウチのフランソワーズ」は学生らしい。
楽しい新婚生活らしい。

フランソワーズさんもムッシューも好きなのは、
マルグリット・デュラス、
これは若者に人気があり、
デュラスの本が出ると、
一応買うという青年が多いそうである。

女流作家でいうならボーボワールも人気がある、
ということだった。

食前酒がすんで仔牛のクリーム煮に、
ジャガイモのカリッと揚がったのを食べた。

ジャガイモはラルチーヌ母さんが大籠に入れて、
山のように盛って、「お代わりはどうか?」
と聞いてくれる。

ごく家庭的な雰囲気である。

荒れた手をして働き者らしいが、
ムッシュ・フランソワーズが、
「元気そうだね」というと、
神経痛が出て困る、というらしい。

母さんはふしくれて変形した手を見せ、
体具合がどうだこうだと訴えているらしい。

この人はドクターだよ、
とムッシュ・フランソワーズがおっちゃんを指すと、
ラルチーヌ母さんは目を輝かせて、
何かしゃべりはじめた。

神経痛の治療法を聞いているらしいけど、

「あんまり水を使わんほうがええ」

といったって、

「商売だからね、
水を使わないわけにはいかなくて」

ということである。

「冷えたところへカイロ当てるとええけどな。
カイロ、なんてあるやろか。
白金カイロ、パリにあるやろか」

おっちゃんは更に言葉を添え、

「あんまりいろいろクスリ服まんこと」

といつもの持論をいう。

ラルチーヌ母さんは、
私には六十五、六に見えたが、
五十そこそこということであった。






          


(次回へ)

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