「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「わたしの震災記」 ⑳

2023年01月31日 09時18分03秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・あの直後から何日か、人々は夢見心地だった。
余震の続く何日か、人々は思いやりを示し合った。

大地の怒りにおびえおののく、
微小な存在の人間たち。

お互いがそう思い、
いたわり合おう、思いやりを示し合おう、
そうして一緒に大地の怒りに堪えよう、
そう思っているようだった。

それは被災者同士でも同じだった。

神戸の友人で、
活断層上のマンションで地震に遭い、

<まるで洗濯機の中へ入れられてるみたいだった>

といった女の子は、
ワンちゃんだけをリュックに入れて背負い、
九死に一生を得た感じで逃れたが、
玄関のはきものをとりにゆくひまがなく、
裸足であった。

同じマンションから逃れた近くの人が、
それでは怪我をするからと、
今にも倒壊しそうなマンションへ危険を冒して戻り、
彼女の履けそうな靴を持ちだしてくれたそうだ。

救出されたものの、
腰を打って戸板で病院へ運ばれた友人は、
ごったがえす患者たちと共に待合室の片隅で寝かされていた。

通りすぎる人たちが、
次々に飴玉一つ、ミカン一つ、
というふうに恵んでくれる。

もちろん見も知らぬ人々である。

<どこ悪うしとって?
あ、腰打ったん。
大丈夫やわ、それより体力つけなあきません。
おあがりなさい>

といってくれる。

友人は好意に甘え、
片端から口に入れたといっていた。

避難所では朝から何も口にしていない人が多かった。
午前五時四十六分の地震発生と同時に避難したのだ。

場所によってすぐ、
<ローソン><イカリスーパー><ダイエー>へ走って、
食料や水を入手した人もいるが、
老人幼児を抱えた人々はどうしようもなかった。

自動販売機は停電で使えず、
倒れたり売り尽したり。

市はやっと十二時に避難所へ食料を運び、
給水車を出すが、あまりにも少ない。

そういうとき、不思議なことが起きていた。

人々は紙コップの水を分け合い、
おにぎり一個を半分ずつに割って分け合った。

一緒に被災した仲間やもん。
そういわなくても自然に譲り合ったのである。

余震におびえながら、
避難所の寒さ、飢えに苦しみながら、
一体感を共有した。

地震の翌日、奇跡的に倒壊を免れた、
芦屋市のガソリンスタンドの店主から、芦屋署に、

<二千リットルのオイルがあるので、
緊急車両用にどうぞ>

と提供の申し出があった。

やはり翌日の十八日、
西宮の酒造会社「菊正宗酒造」は、
<宮水>を住民にふるまった。

これは酒の仕込みに使う名水である。

宮水は戎さんのお宮である西宮神社の水、
というところからそう呼ばれるが、
この宮水によって灘の銘酒が生まれるのである。

西宮神社一帯で湧く、

「カルシウムやリンなどを豊富に含んだ純度の高い硬水」

「酒の仕込み以外では昔からつきあいのある、
神戸市内の喫茶店に出しているだけ、
大切な水だが当分は出しつづけます」

と菊正宗さんはいう。

工場は断水で操業できないが、
菊正宗さんはいう。

「地域に貢献するのが企業の役目」

と無料提供している。

(大阪読売新聞)

半壊の市場の中の菓子屋さんは、
在庫の菓子を人々に無料で配っていた。
これはテレビで見た。

一週間目ぐらいから、
食料はかなりゆたかに配られるようになったものの、
皆はあたたかい食べ物に飢えていた。

ライフラインがまだ整備されず、
水、ガスは出ないのだ。

神戸元町の南京町。

<あったかい豚まん買うてよ>

一週間目から中華料理店の集まる南京町で、
元気な声があがる。

豚まんを蒸すせいろから白い湯気が立ち、
人々は思わず立ち止まる。

ガス・水道が止まっては料理なんかできない。
しかし電気はきている。

<やったろ。
わしらにできることは料理を作って売るしかない>

<店を開けてもうかるわけやないけど>

お客さんは、
今何よりほしい「活気」を求めてやってくる。

(産経)






          



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「わたしの震災記」 ⑲

2023年01月30日 14時21分11秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・震災孤児たちは何人にのぼるのだろう。

人間の子供たちは身寄りに引き取られ、
施設に引き取られてゆく。

が、犬や猫たちは飼い主たちとめぐり合いを果たせぬまま、
風に吹き立てられる木の葉にも似て町をさまよう。

神戸の町ではそのころ、
美しい猫や犬が毛並みの色艶を失い、汚れて、
ビニール袋のゴミをあさっているさまが語られていた。

動物嫌いの人は保健所へ連れていけばいいと主張するが、
動物好きな人々は決まって、涙をためて話すのだった。

「沈思する猫の眉間にある悲傷」 (佐藤 雪)

その頃「総理府も動いた」(『阪神大震災』読売新聞社刊)

「世界の目がある。虐待の非難を避ける措置を」

そう指示されても県の動物衛生係りとしては、
動きようがない。

県としては犬を捕獲すれば、
狂犬病予防法で二日以内に処分しなければいけない、
建前となっている。

しかし震災で傷つき、
飼い主を失って町をさまよう犬を捕まえて、
殺すことはできない。

「後方支援に徹した」という。

そのせいでか、ペット避難所が一部の人々に、
「人の救出もままならないのに」
と非難されつつも、活動できたのであろう。

大阪の団体「あいのカエル」は、
西宮戎神社境内に、三百五十匹の犬、猫、兎など。

「共同ネットワーク」は、
東灘の本山交通公園に救護テントを。
六百五十匹を里親へ。

能勢の動物シェルター「ARK」
(アニマル・リフュージュ・カンサイ)では、
犬百一匹、猫七十一匹を保護した。

ペット救援本部に届いた救援金は、
一億八千万円に達したそうである。

イギリスからも二千万円届いた。

平素、日本人の動物愛護姿勢に批判的なイギリスだが、
今回ばかりはちがった。

イギリスのマスコミは、

「震災の中、日本は懸命に動物を救った」

と報じたそうである。

こんどの大震災は痛恨にみちた教訓をのこした。
とにかく天災のスケールが大きかった。
<度が過ぎていた>

かねての想定が片端からはずれた。

高速道路は落ち橋は壊れ、
消火栓から水は出ず、交通はマヒしてしまった。

そこまでは震度五を想定していたから、
見通しをあやまったということもできる。

しかし住宅様式が変って、
人々はマンションというコンクリート塊に、
住むようになった。

これが壊滅したとき、
つるはしやとびぐちでは片づけられないということ、
わかっていたかしら?

人命救助には、
大規模土木工事に使うような、
大型機材の調達が必要とされる時代になった。

こういういたましい発見や、
教訓を上手に活かさなければ。

私が講演で訴えたように、

<大地震を経験するたびに、人々は温かくなっていった。
震災を知る、たびに人間はやさしくなっていった>

というふうであってほしい。

大震災のあと、みんな謙虚だった。

被災しなかった人はどうかして役に立ちたいと思い、
お金や寒中のこととて着る物を小包にしてせっせと送った。

救援物資は全国から(海外からも)続々送られた。

それらの小包をボランティアたちが仕分けするのに、
どんなに労力と時間がかかったことだろう。

惨状が新聞やテレビで報道されるにつれ、
人々の善意もふくれあがっていった。

第二国道で<救援物資>という幕を張って走っていたトラックに、
少女たちはかけよってきて、

<私たちは〇〇中学の二年生です。
神戸へはいま入れないと聞くので、
すみませんが、どこでもいいから、
避難所の人にあげて下さい>

と紙袋を渡した。

運転手さんは承知して、
積荷とッショに救援ボランティアに届けた。

紙袋の中には缶入りジュース十本と、
ノート五冊が入っていたそうである。

<たしかに届けたぜ。あの少女(こ)らにいいたい>

と運転手さんはいっている。






          



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「わたしの震災記」 ⑱

2023年01月29日 13時25分37秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・芦屋のタローは震災で飼い主の老夫婦の手を離れる。
妻(74)は死亡、夫(79)は重傷で入院中。

タローは壊れた家のそばを離れようともせず、
帰ってくる飼い主を待っている。

新聞のカラー写真では白と茶色、
焦茶も混じった雑種らしい犬。

近所の人がみかねて傘や布団で仮小屋を作ってやって、
配給の食料の残りを与えているそうな。

里親の申し込みは十分チェックして、
七割ほど成立したということだ。

衰弱して点滴で生きていた犬が、
犬好きのお嬢さんにもらわれて、
すっかり元気を取り戻したという話や、
はじめは仔犬をという里親の希望だったが、
母犬も共に飼っていただけませんかと、
避難所のボランティアの人に頼まれ、
一応、連れて帰った人が、
もう二匹とも可愛くて、どちらも手放せない、
といった話など私を楽しませた。

犬の餌代にと義援金が、
被災ペット避難所に送られてくるという話も嬉しかった。

飼えないから安楽死させて下さい、
と持ち込む飼い主もいたようである。

避難所ではそれを断り、
里親をさがすからと引き取った。

また全国から猛烈に要望されたのは、
純血種の高級犬だった。
繁殖業者たちらしい。

動物ボランティアたちはそれらを厳しくチェックする。
ほんとうにペットを愛し、世話の出来る人、
犬好き、猫好きな人に無償で、
ということになっている。

ペットの里親さがしは首都圏にまで拡げられた。
話がまとまってたくさんの犬が東京へ空輸された。

私の東京の知人にも、
被災犬を引き取って下さった方がいる。

ご多聞にもれずその犬も震災ショックで、
沈んであまり鳴かない犬だった。

それでも追い追い、
引き取り家庭の家族の愛情に馴染んでいった。

ある夜、知人が遅く帰宅すると、
その靴音を聞きつけ遠くから鳴いた。

はじめて犬(あいつ)の声を聞いたなあ、
と知人は気付いたそうである。

<やっとこれでウチの犬になった、と思いましたよ>

やはりペット避難所から犬をもらってきた人の投書。
京都のA・Nさん。主婦(64)
(新聞には記名してあるがこれも頭文字で)

「あなたの愛犬、私が育てます」というもの。
(1995・2・25 大阪朝日)

「先日、神戸市東灘区から、
柴犬らしいメスのワンちゃんをいただいてきました。
『ミカンちゃん』と名づけられていました。
避妊手術も済んでいて、避難所では、
ボランティアの人たちが手厚い世話をしていました。
避難所に来たときは、
ノミ取り首輪をつけていたそうです。
年齢はわかりませんが、毛並みから二、三才とのことです。
歯がカットしてあります。
私は、きっとあなたが震災直後に、
安楽死させるかどうか、悩まれた末、
歯をカットしてもらい、
人に噛みついても大丈夫なようにして、
放されたのではないだろうかと思うのです。
東灘区から京都のわが家まで長い長い車の旅でしたが、
とても元気で食欲もあり、散歩も喜んでしています。
おとなしいワンちゃんで、
私たち家族はとても気に入っています。
一年でも十年でも、大事に大事にお預かりいたします。
どうかご心配なく、ご自分たちの幸せへ向けて、
一日も早く立ち直って下さることを祈っています。
いつかお返しできる日がくるまで・・・」

世間の犬好きはこの投書にきっと心が熱くなったと思う。
京都のA・Nさん、ありがとう。

柴犬<ミカンちゃん>の顔も目に見えるようだ。
私はこの投書も忘れられない。

それでも避難所へ収容された犬・猫はいい。
彼らを捜し求めている飼い主とめぐりあえるチャンスもある。

彷徨して迷子になる犬・猫もあわれだが、
捜し続ける飼い主もせつないことであろう。

避難所の伝言板や町角の焼け残った建物の壁に、
飼い主は手作りのチラシを貼る。

「三毛。三才。前足が黒い。連絡乞う、TEL〇〇番」
添えられた猫のイラスト。






          


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「わたしの震災記」 ⑰

2023年01月28日 09時44分34秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・遺体は増えつづけ、
とどまるところを知らない。

コンクリートジャングルに生き埋めになるというのも、
新しい災厄で、
阪神大震災がその最初の例ではなかろうか。

もし早くから削岩機、鉄線鋏、チェーンソー、
大型ジャッキ、ハンマー、バール、ショベル、つるはし、
そんなものがうんと揃い、
人海戦術であとからあとから人員が補充できれば、
救える人がもっとふえたかもしれない。

このとき、海上自衛隊は県の出動要請を待っていた。

船乗りを陸へ上げて人命救助を、と思った。
しかし県は、海上自衛隊のことは思いつかなかった、
といわれる。

やっとのことで船乗りは陸へ上がったが、
彼ら海自の隊員は陸上自衛隊より更に丸腰だった。

素手でコンクリート塊に挑んだ。

陸上自衛隊は救出に道具が必要なことを知り、
それを県に求めた。
費用は県負担だった。

しかし知事の決裁には五十か所ほど廻らないといけない。
結局資材が届くまで四、五日かかってしまった。

(『阪神大震災』 読売新聞社刊)

とじこめられ応答のあった人も、
半日、一日たつうちに声がしなくなってゆく。

足が挟まれて動けない妻は火の手が迫ったとき、
<逃げて!>と夫にいい、
閉じ込められた祖母は幼い孫に、
<はよ逃げなさい>といったという。
<皆に可愛がられるんやで>

七十余念前の関東大震災にも、
そんな話は伝えられていた。

私の忘れられないのは、
俳人・大曲駒村(おおまがりくそん)の『東京灰燼記』
にある話である。

親友の大学生同士、
神田三崎町の下宿で地震にあった。

<僕>は外へ抛りだされて助かったが、
友人は埋まってしまった。
<僕>は二本の梁に押された友人の体を、
引っぱり出そうとするが、力が及ばない。
人は危ないから逃げろという。
隣家が傾いて、いつこちらへ落ちてくるかわからぬ。
しかし<僕>は友人を助けたさに何十分かわからぬが、
夢中で瓦を剥ぎ、屋根板をむしった。
そのうち火がきた。
万事休すと<僕>は声をあげて泣きだした。
そのときには着物は火の粉で焼けていた。
友人は握っていた手を静かに<僕>から離した、
というのである。
<僕>は友人を見殺しにして逃げた。
<僕>は友人の最後に握った手のぬくみを忘れない。

という話である。

私たちはみずから手を離した友人の、
<人間の尊厳性>を忘れないであろう。

人間は何と悲しいことをくりかえし、
生きているのだろう。

災害は手に負えないほど膨張しつづけていった。
遺体はふえにふえ、
お寺の本堂、学校の体育館、病院の廊下にあふれた。

検死の医師も警官も不眠不休だった。
棺が不足した。

葬儀場は処理不能で、
ずいぶん遠くまで頼まねばならなかった。

霊柩車も全国から動員されてきた。

そういうときに<動物が危ない>と、
動き出した人がいた。

<人が埋まっているのに>と白い目で見られながら、
被災ペットを集めて収容する。

ペットの救援本部は数か所作られた。

飼い主からはぐれた犬は四千匹、
猫は四千八百匹といわれる。

負傷した犬や病む猫も収容された。
獣医さんもボランティアで手当てをした。

新聞の震災記時にはペットの話もよく出た。

十九日ぶりに救出された、
東灘区のゴールデンリトリバー「デュック」
母と娘二人の世帯に飼われていた。

長女は震災で亡くなったが、
遺品さがしで母と妹が瓦礫の山を掘っていたとき、
犬の鳴き声を母は聞いた。

地震の時いくら呼んでも返事しなかったのに。

消防署員や大阪府警機動隊員ら、
三十四人がかけつけ、
二方向から掘り進んでくれた。

投光機が照らす中を、消防士が指示する。

<犬の名を呼んで元気づけてやって!>

母娘は代わる代わる呼んだ。

デュックは小さい声で鳴きつづけていた。
四時間かかって消防士が瓦礫の中から救い出し、
毛布に横たえた。

母娘がデュックにほおずりすると、
寒風の中、見守っていた近所の人たちから拍手が起った。

(1995・2・6 神戸)

写真ではおとなしそうな、
気の弱そうな犬だ。

四十四日間閉じ込められて助けられたのは、
東灘区のハッピー。

地震で倒壊した家を三月二日、
取り壊すことになって、
鉄の爪が板や梁をつかみあげ、めくった。

<おやあ、犬がおるで>

の叫びに飼い主はてっきり死骸だと思い、
ビニール袋を持って飛んできたが、
少しは痩せていたものの、
柴犬と紀州犬の血のまじった白い雌犬ハッピーは、
わりに元気に出てきた。

飼い主(63)はいじらしさと可愛さに、
顔がクシャクシャになってしまった。

地震のあとすぐ、幾度も名を呼び、
倒壊した家の中を捜したのだが見つからず、
あきらめていたのだった。

どこからか流れる水を飲んで生きのびたらしい。

(『大震災日記』 夕刊フジ編集局)






          


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写真は、26日(水)雪の降った日、
小二の孫(男児)が作った雪だるま。
だるまの体をなしていませんが・・・

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「わたしの震災記」 ⑯

2023年01月27日 09時25分08秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・災害対策本部が生田署に移された、
その間も各警察署には救いを求める人々が殺到していた。

地震直後の西宮署にかけこんできた男性、

<生きているんです。たすけてください>

生き埋めになった妻子。
受付の高柳巡査は男性について走る。
 
途中、ほかの住民から、
<うちも助けてほしい>とすがられるが、
<各自で対応して>と答えざるを得ない。

崩れた家の中に母親と幼児二人、

瓦礫のすき間に入って、
母子を助けることができた。

幼児を抱き上げると腕に幼児の震えが伝わる。

<うれしかった>と。

(1995・2・16 神戸夕刊)

午前六時半、越木岩交番(西宮)の小西巡査は、
傾いたマンションから、十人の男女を、
次々背負って助け出す。

七時二十分、刑事一課の斎藤警部補は、
中須佐町の倒壊家屋から一人を救出、
土ぼこりが立ちこめる中を、
<のこぎりとバール!>と住民に叫ぶ。

必死に手作業で掘りすすむ。

やっと老夫婦が生還したのは、
正午をまわっていた。

周囲から喚声があがるが、
すでに七人の遺体が並べられていた。

斎藤さんは<非力ですまん>と思ったという。

午前九時、川添交番の藤田巡査は、
倒壊家屋から十一人を引きずり出していた。

だが八人が死亡していた。

自分の家族も心配になってきた。
しかしたしかめるすべもない。

今は一人でも助けようと、
自分に言い聞かせていた。

仁川の土砂崩れの現場では、
救出作業が続いていたが、
三十四人が死亡。

それでもなお無線から絶え間なく、
救助要請と遺体発見の声がひびく。

(同)

いったい幾人死んでいるのだ、
と警察は思ったことだろう。

災害の大きさに比べ、
いかにも警察力は手薄だった。

しかし警官たちが力の及ぶかぎり、
懸命に職務を遂行したことを、
私たちは覚えておきたい。

消防士たちもそうだった。

一軒二軒の火事ならともかく、
八方から上る火の手に対処の仕方はない。

長田では地震発生後、八時間たったときには、
十七件の火災が発生していた。

ポンプ車が出動するが壊れた家が道路を塞ぐ。
長田は燃え続ける。

応援が来れば消せる、
それも全国的な応援が。

消防庁は指示した。

しかし、水道のポンプ場は停電、
地震で水道管はずたずたになり、
配水池は干上がってしまった。

消火栓からは水が出ない。

消防は何をしている、
早く火を消せ。

罵声を浴びながら消防士たちは防火水槽をさがし、
ホースを延ばして放水しようとしたとたん、
狭い通路の奥の文化住宅一階からどっと火が噴き上がる。

命からがら逃げた。

すでに手をつけられる段階ではなかった。

それでも力のかぎり消火しようとし、
生き埋めの人を救おうとした。

灘消防署の東消防士は、
つぶれたビル三階にとじこめられた夫婦を、
救出しようと隣の建物の壁を壊して入った。

コンクリートを叩いては鉄筋を切り、
切っては叩く。

せつない手仕事だが一刻をいそぐ。

手の豆が破れ、ハンマーの握りは血にまみれる。
やっとの思いで三十センチの穴を開け、
強力ライトをさしこみ、

<光がわかりますか>かすかな夫の返事。

十時間後に救出された夫がまずいったのは、
<妻は救出できますか>

むずかしい、といわれて、

<お母さん、すまん>夫は泣き出した。

ほかに六名、すべて遺体で出た。

(1995・3・4 大阪朝日)

消防士たちも、
体力の限界ぎりぎりまでがんばっていた。

住民たちもそうだった。
家が壊れて家族や近所の人と、
避難先の小学校へ着いた新聞記者のTさんは、

<怪我をしていない男性のかた、
生き埋めの人を掘りだしますから、
救助にご協力ください>

とのハンドマイクの放送を聞いて、
すぐ走っていった。

十人あまりの男性が走ってきたという。

倒壊した民家から皆で必死にひきずり出す。
見ず知らずの男同士、しかも身内を亡くし、
家を失った人もいるというのに。

みな心を合わせて救出作業に当たった。
五人のうち三人までが遺体だったが。

(1995・1・27 産経)






          


(次回へ)

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