聖なる書物を読んで

現役JW29年目

イエスに倣い穏やかな思いを保つ

2019-06-16 | ものみの塔
今日のものみの塔研究記事。

ずいぶん久しぶりの更新になってしまいました。このところ、あんまり書く気力が出なくて。

ワークブックの方も、聖書通読も、見てはいるんですけど・・・なんというか、自分の考えと組織の教理との隔たりがだんだん広がってきてしまっていて、もう突っ込む気にもなれなくなってきているというか・・・組織への興味がホントに薄れて来たなぁと思う今日この頃です。

これ、改訂版がきっかけですね、たぶん。こんなお子ちゃま聖書をクソ真面目に学ぼうなんて気にはなれませんよ・・・(言葉が悪くてすみません)。でもって、こんな聖書を推奨するキリスト教組織に心底嫌気がさしたんだと思います。

だったら、こんな組織やめちゃえよ、って話なんですが・・・先月の奉仕報告もゼロで出したんですけど、何の音沙汰もなく。

まぁ・・・6節「自分にできることを道理にかなった範囲で行なったあとは、問題をエホバにゆだねることができる」ということなので、そうしようかなとw。(組織の神に信仰なんてないけど、創造者であり全能者である神は信じてます)

では、記事への突っ込みです。

4節。「自分の死の記念式を制定した時」
イエスは死の記念式なんぞ制定してない、というのが今の自分の考えです。

で、イエスが最後の日に頻繁に祈ったのは、穏やかな思いを保っていられなかったからですよね。平静でいられなかったからですよね。この書き方だと、イエスは常に穏やかで平静だったみたいに勘違いさせられるなぁ。
聖書の訳し方にもよるんでしょうけど、イエスってそんなにいつも穏やかな人だったとは思えないんですよね・・・怒ったり、叱りつけたり、ちゃぶ台返しもしてるしw。
でも、神に祈ることは穏やかな思いでいる助けになると、自分も思います。

6節。「イエスに従う人は皆、サタンから攻撃されるので、信仰を必要としています」
よくわからないけど、なんか変。まぁ、信仰は大盾に例えられてるから、攻撃をかわすものなんでしょうけど・・・こう書かれると、ストレスとなる問題ってすべてサタンのせいみたいに感じさせられる。
サタンのせいであって自分が悪いわけではない、って考えるようになるのも問題だよね。楽だけど。

あと、上にも書いたけど、エホバにゆだねる、って、かなり都合の良い教理ですよね。結局、問題解決のために最低限のことしかしなくなる、そんな気もします。楽だけどw。
どうするのが良いかわからない時とか、あわてないで待ったほうがいい時とか、いろいろ状況があるので一概には言えないですけど。

8~10節。「イエスは熱心に伝道した」
これって単純に、何かに没頭してれば問題を忘れられるってことじゃないんですかね。別に伝道じゃなくても、仕事でも趣味でも勉強でもなんでもいいんじゃないかと思ったのは自分だけかしらん?
それに、イエスは別に、穏やかな思いを保つために伝道したわけじゃないだろうし・・・なんかこれ、伝道強要するために無理やりこじつけてる感がひどくて、わけわかんないよ。

13節。「自分は完全でしたが、不完全な友の支えを感謝しました」
間違ってないんだろうけど、こういう書き方もなんかイヤだ。イエスが不完全な友を見下してるみたいに感じる。こういう言葉選びによって、イエスの人格を引き下げようと印象操作してるのかな。

14節。「良い友は、エホバに忠実であり続けるよう助けてくれます」
いやいや、どんな時にも愛し続けてくれて苦難の時にも兄弟のように助けてくれるのが真の友じゃなかったっけ? あれ? 良い友と真の友は違うのかな? 組織にとって都合の「良い友」のことですかねw。(←わざとらしい嫌味です)

「良い友を作る最善の方法は、自分が良い友になることです」
これは納得です。でも会衆に限定するのは良くないです。良い影響を与えてくれる人、助けになってくれる人、会衆外にもいっぱいいますよ!

ということで、つたない突っ込みでした。

あなたは宣教を十分に行なっていますか

2019-06-08 | ものみの塔
今週のものみの塔研究記事。

これだけネットが普及し、欲しければだれでも聖書が手に入る今の日本で、そもそも宣教をする必要が本当にあるのかどうかが疑問です。

この終わりの日(終わりの時代、になったんだっけ?)には、この業は天使が率先してるわけだし。

永遠の命のために正しく整えられた人(改訂版では、永遠の命を得るための正しい態度を持つ人)は、エホバが引き寄せられるわけだし。

そうじゃない人は、ネット見て眉をひそめるだろうしw。

宣教がもろ刃の剣みたいになっちゃってて、宣教することでエホバの証人についてネットで調べられて敬遠される原因になっちゃってる気もします。

でも組織としては信者を獲得するため、あるいは繋ぎ止めておくため(もしくは服従させるため)に、宣教を強調せざるを得ないというジレンマ。

もう宣教奉仕には出ない自分には、今回もどうでもいい記事ではあるんですが・・・いくつか突っ込みます。

5節。ギター弾きの例え。
なんかピンとこないと思ったら、これ、末端信者にとっては例えになってないですよ。宣教(ギター)ではお金もらえませんもん。宣教を生活の糧にしちゃダメですよねぇ・・・所詮、寄付で生活してる人が考える例えなんて、こんなもんです。

9節。パウロの模範。
パウロは独身で、イエスから直接任命されたにもかかわらず、生計を立てるための仕事をしていた時は、安息日ごとにしか宣教してなかったんですよ。これを模範にするなら、家族の頭は生計を立てるためにきちんと働き、休日は家族のために用いるべきなんじゃないかなと。

13節。生活をシンプルに。
信者の生活に口出ししてないで、まずは、世界本部をもっともっとシンプルにしていただきたい。あれが自分の宗教の総本山です、なんて、胸張って言えないですよ。いったいいくらかかったんだか・・・もし今、自分が学んであの世界本部見せられたら、めっちゃ引きますね~~~信者になってなかったと思います。
だいたい、真面目な信者は、もうこれ以上無理だって言うくらいシンプルな生活してますよ。そういう信者に感情移入することもないんでしょうね、これ書いた人は。鬼だね。

16節。奉仕の進歩。
この組織は、適材適所、という言葉の意味をもっと良く考える必要があると思います。営業が苦手な人だっているんです。個々の才能の違いを無視して、同じような兵隊になるよう訓練しようとしたって、上手く行くはずないですよ。

会衆で思いやりを示しましょう

2019-05-25 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事です。

まず主題ですが、「会衆」と限るあたりはパウロみたいだな~とw。

主題の聖句はペテロ①3:8からですが、このペテロ①もペテロが書いたことになってるけど、内容的にも言葉遣いもパウロ派で、他の疑似パウロ書簡に勝ってパウロ的だと言われている。
例えば、おとなしく、国家権力には従え、召使いは主人に従え、妻(女)は夫(男)に従え、若者(子供)は年長者(親)に従え、などなど。

本当にイエスはこんなこと教えたんだろうか、と最近は疑問に思います。

では。

2節。「周囲の人々に影響されてしまうことがあります。この終わりの時に、多くの人は他の人の気持ちを考えず、『自分を愛するもの』となっています」

あれ?会衆内の話をしてるんだよね? 思いやりを示すのが難しい理由の第三がこれ? 周囲の人々って会衆の人たちのことかと思ったよ。普通のエホバの証人って、そんなに世の人と交わってないよねぇ・・・。
だいたい、これじゃまるで、世の人はすべて思いやりがない、みたいに感じるよ。そんなことないでしょ。まぁ、こう書くことで、世と交わるな、自分たちは世の人たちとは違うんだ、と暗示にかけようとしてるんでしょうけど。

3節(8節も)。「イエスはエホバとそっくりな性格をしています」

そっくり、って。間違ってないんだろうけど・・・変。なんか抵抗を感じる表現。改訂版と同じニオイ。国語レベルを下げることで万人受けを狙ってるのかもしれないけど・・・逆効果なんじゃないかなと思う。

5~7節。「ご自分に仕える人たち」

4節では、エホバは「わたしたち」に思いやりを示してくださる、と書いてるのに、5節以降は「ご自分に仕える人たち」に思いやりを示される、とすり替わってる。相変わらず、組織のエホバ神はちっさい神だよね。ご自分に仕える人にしか思いやりを示さないんだね。まさに組織にふさわしい神w。
本当の神(自分は存在すると思ってます)は、ご自分に仕えない人にだって思いやりも愛も示してくださってるのに。自然の恵みも贖いも。

8~11節。イエスの手本でこんなこと書かれてもね。だれも真似できないでしょ。なんじゃこれ。

「エホバとそっくりな性格をしていました」。努力はできるけどね・・・そっくりは無理でしょ。(←拘ってるw)。
「心を読むことができました」。心理学でも勉強しろと?
「人々が直面する問題を実際に経験しました」。同じ経験をするのは不可能でしょ。
「奇跡を行なった」。できるかっ! まぁ、同情し、助けたいと思って、自分に出来ることをする、ってことぐらいは努力したいかな。

12節。「イエスが涙を流したのはなぜでしょうか。親しい友を亡くして悲しかっただけではなく、マルタやマリアの悲しみに胸を打たれたからです」

この解釈はピンとこないです。自分はこんな単純な理由だけじゃないと思ってます。以前の記事(ヨハネ11章)で書いたので、興味ある方はブログ内検索してみてくださいませ。(リンク貼れなくてすみません)

13節。「イエスの思いやりから多くのことを学べます」

強引でしょ。確かに、王としてのイエスの素晴らしさは学べましたけど・・・この論点って、主題に合ってる? ずれてね? 

14節。「エホバとイエスの手本について考えると、もっと思いやりを示したいという気持ちになります」

こんな風に人の気持ちを強制するのって、思いやりじゃないと思うんですけどね。

15~17節は、エホバとイエスに倣う点で、特に会衆の長老に当てはめてます。まるで、長老がエホバやイエスでもあるかのように・・・組織は、長老に思いっきり重い荷を背負わせたいようです。
逆に考えれば、長老をそれだけ祀り上げて、会衆の成員には長老への絶対服従心を起こさせる、というのが目的なのかもしれません。

こわいこわい。

18節は、実際に「病気の人、高齢の人」にあてはまる姉妹が、『これ、自分のことだから注解できないわ(注解じゃなくてコメントだよ~)』って言ってましたよ。そう感じる人、多いでしょうね。ホント、思いやりのない文章です・・・。

19節は良かったと思います。「関心を払いながらも、あまり立ち入った質問をしないように」とあるけど、もっと具体的だったら尚良かったかな。

20節。次の記事では、宣教で思いやりを示すことを考えるそうです。今回が会衆内だったんだから、次回は会衆外で良いと思うんだけどなぁ・・・

エホバの声に聴き従いましょう

2019-05-19 | ものみの塔
久しぶりにものみの塔研究記事に突っ込みます。

改訂版が出て、引用されている聖句の言葉が違っちゃってるのは、まぁ置いとくとして。
・・・でも「是認した」と「喜ぶ」とじゃ、ずいぶんな違いだと思うんですけどね・・・もとは「喜ぶ」だから、まぁ良くなったと思うことにします。
・・・「聴き従いなさい」と「言うことを聞きなさい」も、違うっちゃ違うよね・・・もとは「聞け」だから、もっと違うけど。

今回の記事も、結局言いたいことは、救われたいなら組織(=エホバ)のために気を散らすことなく働けよ、ということですかね。

イエスに聴き従う人はこうします、ああします、こうすべきです、ああすべきです・・・等々。

イエスは、そんな風に雁字搦めになっている当時の民衆を、宗教指導者たちから救おうとしたのに。それが神の愛と憐れみだったのに。

なのに、組織のタイムリーwな指示に従うならエホバは祝福する、犠牲を払う人をエホバは愛される・・・と。

これじゃ、当時の宗教指導者と同じだよ。神の名を辱めているのは、間違いなくこの組織だよ。

・・・全体的な突っ込みになってしまいましたが、以下ひとつだけ突っ込んどきます。

16節。「反対者たちが広めているうそによって、エホバのお名前やエホバの組織が非難されるのではないかと心配になることもあるでしょう」

まず、神のみ名と組織を同列に置くなと言いたいところですが・・・最近は、「エホバ」っていうのはこの組織の神の名なんだ(創造者なる唯一神とは別の偶像神)と思うようになってきたので、これはこれでいいかな、なんてw。

「反対者たちが広めているうそ」って、具体的に何なんでしょうね。具体的には書けないんでしょうね。信者が興味を持って調べて、真実を知っちゃったら、藪蛇になっちゃいますもんね。

以上、つまらない突っ込みですみません。記事がつまらなかったものですから・・・(言い訳w)

エホバに喜ばれる柔和な人になりましょう

2019-04-21 | ものみの塔
今日のものみの塔研究記事。

柔和を求める=柔和な人になるように努力する、これは大事なことだと思います。自分も培いたいと思っています。

で、期待して記事を読み始めたんですが・・・柔和な人というのは、謙遜、従順、温和、勇気という特質を発揮している、ということが言いたいらしい、ということは分かりました。モーセとイエスを例にして。

要約すると、謙遜になってエホバに従順に従い、試練にあっても温和な態度で勇気を示す人が、柔和な人ということかな。

相変わらずエホバ=組織になっちゃってる点を除けば、言ってることは良いと思うのですが・・・いまいち、柔和という特質自体がどういうものなのか、はっきりしないです。温和とどう違うの? そもそも特質ではないのかな?

さて、突っ込みです。

2節。「わたしたちはモーセほどの障害に直面することはないでしょう」。

そりゃね、統治体やべテル家族の面々はそう思うのかもしれないですけど、モーセより大変だと感じてる信者がいないと思ってる時点で、感情移入できてないよね。障害だと感じる事柄もその重さの感じ方も人それぞれだし、比べられるもんじゃないと思うよ。

9節。「エホバの訓練を受け入れたからです。・・・・エホバは40年かけてモーセを教え・・・」。

これは組織の見解であって、実際に聖書に書かれてることを越えてるよね。それとも改訂版には、そんな風に書かれてるのかしらん? 今のところまだ読む気がしないんで、読んで確かめたいとも思いませんけども・・・

12節。「ハナニヤ、ミシャエル、アザリア」。

前回は本文にシャデラク、メシャク、アベデネゴって書いてたのに、そっちの名は今回は脚注に。以前、ヘブライ名の方を大事にしよう、とか言ってたことを、今回は思い出したのかなw。

14~17節。例に出てくる日常的なストレスの原因と、イエスの最期の晩のストレスを同列に並べられても・・・全くピンとこないよねぇ・・・ズレズレだよねぇ。
まぁ、ものすごく大きな事柄(自分が贖いとなること)を思えば、細かいストレス(弟子たちの言い争い)なんか取るに足りないよ、ってことは学べるかな。(不謹慎ですみません。・・・だって、こんな比較されたら、そんな感じになっちゃうもん)

23節。「エホバに守っていただくには努力が必要である」。

努力が必要なのは分かります。でもこういう書き方をされるとねぇ・・・神はわたしたちに、条件付きの愛しか示してくださらないように感じちゃいますね。懐のちっさい神になっちゃいますよね。 




忠誠を保ちましょう!

2019-04-13 | ものみの塔
今日がレット氏の特別集会かな? 神戸だっけ? 今週のものみの塔研究記事は、その集会の中で扱うのかな? 

人間の忠誠の問題。神が悪を許しておられる理由の1つでしたっけ・・・

ん~~~どうなんだろうなぁ・・・この教理、神は愛である、という真理と矛盾するように感じるんだよなぁ・・・まぁ、此の世に悪がある事自体、神の愛と矛盾することになっちゃってるんだけど。
だから、なんとか理由を探して、こじつけた教理なんだろうなぁ。

ヨブが忠誠を保ったのは、サタン云々関係ないよねぇ。
う~ん・・・人間に何かを証明してもらわなきゃいけない神・・・なんだかなぁです。そのために神は私たち人間を用いてくださってるんだ、っていうと、なんだか聞こえはいいけど。

忠誠は自分と神との問題で、サタンも報いも関係ないと思うんですよねぇ。

結局、組織が言いたいことは、組織への忠誠を保ちましょう! ってことですよ。
組織の規則に従順に従う(=エホバに忠誠を保つ)ことで、サタンという敵のエホバへの中傷が嘘であることを証明でき、エホバに喜んでもらえて大きな報いが得られる、と。
いわば、人間の持つ神への愛を利用して、組織に従わせようとしてるだけ。

さて。突っ込みを少し。

1節。学校でやる祝祭日の祝いは、単なる習慣だと思うので、やっても神への忠誠は保てると思います。クラスメートへの伝道も、してもしなくても忠誠とは何の関係もないと思います。仕事で上司から不正直で違法なことをするように言われたら、これはもう神への忠誠の問題じゃなく、犯罪です。
こういう時は具体例を出す組織。個人の良心の問題を規則化してますね。ヤな感じです。
で、5節で、エホバへの愛は完全で傷も欠陥もないものでなければならい、そうした愛を示して初めて忠誠を示せると書いた後に、またこの3つの例を出す。愛があるならこうすべきだと。
良心を働かせる隙間もありません。

6頁の写真(13~15節)。行動となると相変わらず例に出るのが、ポルノとお金や物。きっと、べテル家族の一番の関心事なんでしょうw。偏ってるよね。

今回は突っ込みにくかった。あまりにアホみたいな記事だったので。
こんな記事ばかり読んでたら、だんだん頭が変になっていくんじゃないかなぁ・・・

集会に出席するのはどんな人ですか

2019-04-06 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事。

記念式だけではなく、毎週の集会にも出席するようにと圧力をかける記事です。

謙遜で学ぶ意欲のある人は集会に行く、勇気がある人はどんなことがあっても集会に行く、神とみ子と兄弟姉妹を愛している人はそれを表すために集会に行く、とのこと。

つまり集会に出席しない人は、謙遜さがなく、勇気もなく、愛もない人間だ、と思わせることで、そういう人に見られたくなかったら、ちゃんと集会に出席しろと言ってるわけです。(いわゆる世の人たちは、集会に出席していないから、そういう人たちなんだ、という刷り込みにもなってる)

ま、いつもの脅し記事ですね。

集会の内容に魅力があれば、来るなって言われても行くと思うよ。

以前(1~2年前)よく一緒に奉仕してた開拓者の姉妹も、特に最近は集会に行ってもちっとも励まされることがない、行くのが習慣になってるから行ってるけど・・・とぼやいていた。

こんな記事を毎回研究させられるんじゃ、行きたくもなくなるよね。純粋に聖書だけを学ぶ集会にすればいいのに・・・・いや、そんなことしたら、組織の教理が矛盾だらけだってバレちゃうかw。


さてツッコミです。

3節。「集会に出席する主な理由は、それが崇拝の一部だからです」。

組織はこう規定してるけど、こんな風に規則化して、それを守ることが義であるとするやり方を、イエスは非としたんだよね。規則を守ることではなく、日々の生き方で神と隣人を愛していることを示していくように、と。
組織が信者を集会に出席させたい理由は、信者を組織に縛り付けて洗脳し、組織に依存しなければ生きていけない精神状態にすることだと思うよ。 

6節。「できるだけ多くの人がイエスの死の記念式に出席するよう、招待活動に励んでいます」。

イエスは、ご自分に信仰を持っている近しい弟子たちだけと、最後の晩餐を祝われた。裏切り者のユダを去らせた後に。・・・だから、信仰を持たない一般人を招待するのはちょっと違うんじゃないかと。
この組織は、記念式の意義を大切にするよりも、一般人が組織に入る(集会に出席する)きっかけを作るために記念式を利用しているように思える。

7節。「イエスが謙遜にも、贖いとして命をささげてくださった」。

なんか変。イエスが謙遜な方だったことは分かるけど・・・ん~~この違和感の正体はなんだろう。

9節。「病気になるかもしれません。・・・そのような中、勇気を示して集会に出席している兄弟姉妹がいます」。

病気になったら休むのが基本でしょ。こんな風に書くから、インフルエンザでも出席する迷惑な信者が出てきちゃうんだよ。これは、出席可能な慢性病の場合だよね。
パウロの例を出したのも、集会に出席することが「神に忠実に仕えていること」だ、と刷り込みたいだけでしょ。

10節。「エホバの過分のご親切の恩恵を受けてほしいと願っている」。

そう願うなら、記念式よりもまずは聖書研究(今は聖書レッスンw)でしょ。記念式に出れば、その恩恵を受けられるってわけじゃないんだから。なんか考え方が本末転倒だよねぇ・・・まぁ、組織に引き入れること=過分のご親切の恩恵を受けること、になっちゃってるからしょうがないのかぁ。

12節。「エホバを賛美する1つの方法は、集会で心をこめてコメントすることです」。

コメントw。「注解」なんて言葉を使ったら、組織と歩調を合わせなさい、って叱られちゃうかしらw。
これも組織が決めた規則。コメントして、これでエホバを賛美できた、と思うも良し。コメントしなくたって、エホバを賛美できなかった、なんて落ち込む必要もない。
この組織は、エホバを賛美する方法を決めようとする(奉仕だの集会だのコメントだの)けど、神への賛美の仕方は人それぞれで良いと思う。

15節。「不活発になっている仲間を助けたい」。

大きなお世話だと思います。放っときましょう。戻るにしても離れるにしても、自身で行動を起こすまでは。
少なくとも自分は今のまま放っといて欲しいです。まだまだ考えたいことがいっぱいあるので・・・(ちなみにまだ奉仕報告は出してるので、現役です)


集会出席は、信者にとっての重荷になってること、組織は分かってるんだと思います。変化に富んだ内容にしようと、ビデオを多用して頑張ってるようだけど、質はドンドン落ちてく一方で。
週中の集会は、家でビデオ見てるのと変わらない感じだし・・・まぁ、近いうちに週一になるんじゃないかと。
そうすれば王国会館ももっと少なくてすむし、群れの奉仕の集会があれば、奉仕の訓練はできるしね。

天で治める王について簡素な式から学べること

2019-03-29 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

今週、来週と、記念式関連の記事です。どちらも挿絵が表象物に関するものではないんですね。以前はもっと、パンと葡萄酒が強調された挿絵が用いられてたと思ったんですけど。記事(招待状も)の内容も「集まること」自体に主眼が置かれているようです。

記念式に関しては、自分的には、やってもやらなくてもどっちでもいいと思ってます。もしやるのなら、いつやってもかまわないと思うし、表象物はみんなが食べるべきだと思ってます。
やらないのなら、日々の食事の時に、イエスの犠牲を思う祈りを個人的にするだけでもいいし、食事の交わりで何人か集まった時にでも、同様の祈りをすればいいと思ってます(特にパンと葡萄酒がなくても)。

理由として一番大きいのは、イエスがどんな形であれご自分の死を記念する式典を制定したとは思えないことです。

イエスは、「今がそうです。真に礼拝する者が霊と真理において父を礼拝する時です。それに父は、このようにして父を礼拝する者を求めておいでなのです。霊なのです、神は。だから神を礼拝する者は霊と真理において礼拝すべきです」(田川訳 ヨハネ4:23,24)と言われた。そのイエスが、律法を終わりにしたのに、新たに記念式を制定するはずないと思うんです。どんなに簡素な式であっても。

逆に、「記念として行なえ」と2度も繰り返して書いてるのは、あのパウロ(コリント①11章)です。
そして福音書でこの言葉を書いてるのは、ルカだけ。でもこのルカの聖句も、22:19の「わたしの記念として~」から20までは、パウロの言葉(コリント①11章)を受けての、後の挿入だと言われている。
ヨハネは6章で記念式の内容にあたることを書いてる(この部分も後の挿入かもしれない)だけ。

ちなみに、マタイとマルコは「契約の血」、ルカとコリント①が「(血による)新しい契約」。「新しい」と書いてるのはルカとパウロ(ルカは後の挿入だろうけど)。こうなると、いわゆる「新しい」契約というものもアヤシクなってくる。後のキリスト教ドグマなんだろうな、と。(新たな真理の解明?w)

エホバの証人の記念式には、いつも違和感を感じていた。
なんで晴れ着なの? 記念写真なの? パンの焼き方や葡萄酒の質にまで拘るの? 目的が違ってない?・・・・まぁ、年に一度のお祭りだと思えば、こんなもんかな、なんて自分なりに納得してみたりしてた。
でもね・・・なんだかなぁでした。目の前を通り過ぎるだけのパンと葡萄酒も含めて。

さて。

やっとこ記事にツッコミます。

とにかく今回は、簡素、簡素、簡素としつこいです。簡素なんだから、どんな状況にあっても式を取り行なえ、という圧力(脅し)です。これのどこが愛なんでしょうね。

5節。「(イエスは)自分の死を記念するために手の込んだ式を行なうことを求めたりしませんでした。自分に過度の注意を引こうとしなかったのです」。
読んでて腹が立つ。イエスをなんだと思ってるんだろ。ま、偉い人はみんなこんな事するのが当たり前だと思ってる人が書いた文章だから、しょうがないか。自分たちはそうしてる、っていう自覚があるから出て来た文章だとすれば、まだ救いはあるかな。・・・と良い方に解釈しておこう。

9節。「彼ら(投獄されてる兄弟たち)を擁護するために意見を述べることができるかもしれません」。
なんだこれ。ロシアに手紙攻撃したことを正当化したいんかな。それとも、もっとやれってか? 意見を述べることができる、なんて今まで言ってたっけ? 
だいたいこれだけじゃ、具体的に誰が誰にどうしろってことなんだかさっぱり分からないよ。だからみんな勘違いして、それぞれが勝手に解釈して、勝手なことして、互いに裁きあうことになるんだよ。

18節。「記念式はやがて行なわれなくなります」。
「やがて」になりました。ちょっと前までは、今年が最後かもしれない、とか、来年はないかもしれない、みたいなこと言ってませんでしたっけ? 都合の良い言葉ですね・・「やがて」。
でもまぁ、組織の言うことに惑わされて、一喜一憂するのはバカらしいことだと、多くの信者は分かっているようです。仲間たちと楽しい毎日が過ごせれば、それに越したことないと。

どうすれば心を守れますか

2019-03-23 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

定期的に扱われる、サタンの考え方(世の娯楽)を避けなさい、の記事ですが・・・・・突っ込む気にもならないほど薄っぺらい内容です。ないようがないようw。

でも、研究記事にこういう風に書かれると、世が提供するものはすべて避けなければいけません、どんな映画もテレビもサタンの考えが入っているから見るなんてもってのほかです、みたいな雰囲気になるんだよね。

昔の自分も、この組織の考え方に影響されて、ほとんどのものを避けていたという・・・今思うとバカだったなぁと。

映画もドラマも、基本、勧善懲悪ですよね。小説も漫画もアニメもゲームも。

自分が体験することのできない、世界、人生、出来事(良い事も悪い事も)などを疑似体験して、様々な考え、感情、思いを知ることができる。特に子どもたちにとって、それって大事なことだよね。

普通に放送されてるもの、普通に見たり読んだりできるもので、クリスチャン的に避けなければならないものなんて、ほとんどないんじゃないかなと思う。(アメリカのものは知らないけど)

というか、あまりにヒドイものは見たくもないと思うので、それぞれが良心で判断すればいいと思う。


さて、突っ込みます。
 
6節。ソロモン王が、悪い交友(異国の妻たち)というサタンの罠に嵌って、エホバから離れたってあるけど・・・この組織のやり方(排斥)からしたら、箴言も伝道の書もソロモンの歌も聖書から取り除かないといけないよねw。

9節。人生の主な目的は財産を築くこと、というのがサタンが広めてる考えの1つだとあるけど・・・となると組織の上層部の方たちはみなさん、サタンにやられちゃってるってことですかねw。
お金持ちになる人もいればそうならない人もいますが、ってなんだろね、このイヤラシイ書き方。上層部の方たちはみなさん、お金持ちにこだわってらっしゃるようでw。(厭味ったらしくてすみません~)

15節。聖書に神の考え方が記されている、という点。今のところ、パウロの書いた手紙に関してはアヤシイと思いますw。でも、それが神の考え方ではないとしても、学べることはホントにいっぱいあると思ってます。

16節。ブロードキャスティングで神の考えを取り入れることはできません。組織の考えを取り入れたい方にはお勧めです。


ちゃんと読んでないので、手抜きの突っ込みですみません。

集会でエホバを賛美する

2019-03-15 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

組織が前進wしたことにより、「注解」じゃなくて「コメント」になり。
「注解」という言葉も、最初に聞いた時は仰々しいなって感じたけど・・・「コメント」ねぇ・・・信者のみなさんはコメンテーターになるってことかぁ・・・なんだかなぁ。
こういう変化って、いわゆる世に迎合してることにならないのかしらねぇ。

自分としては、まず、この組織の集会でコメントすることが、本当に神への賛美になるかどうかが疑問です。
ならないでしょ。腐敗してますもんね、この組織。

それに、組織の出版物に基づいた、組織にとって都合のよいコメントしかできないんじゃ、だんだんコメントするのもメンドクサく(バカラシク)なっちゃいますよ。
しかもそれが、洗脳するために求められてるコメントだ、って気が付いちゃったらね。

危ない、危ない。
集会でのコメントは、組織崇拝(洗脳)への第一歩です。


さて、本文への突込みを少し。

5節。「アポロのように雄弁なコメント」「パウロのように説得力あるコメント」「2つの小さな硬貨を寄付したやもめ」
こんな風に、人に優劣つけてる文章を書いといて、「エホバは・・・わたしたちを温かい目で見てくださってる」って言われてもね。エホバを賛美したい気持ちになんて、ならないですよ。

20節。「ささやかでも心のこもったプレゼントを持っていくなら、喜んでくださいます」
組織の神エホバは、こういうことを喜ぶ神なんだね。これ、人間同士ならわかるけど・・・。
自分の思う神は、食事会に招いてくださる時は、「何にも持ってこなくていいよ、たっくさん食べ物はあるから、思う存分美味しいものを楽しんでいってね」っていう神なんですけどね・・・。

この記事、神の気持ちを分かった風に書いてるけど・・・なにげに、神をディスってるよね。

みなさんがコメントしてくれないと集会が成り立たないから、頑張ってコメントしよう!
でいいんじゃないかしらん。