この表紙の絵は1977年マスネのオペラ「ノートルダムの軽業師」のポスターです。
今日は1268年頃書き留められたフランス中世の伝説をもとに、100年前
アナトール・フランスが書いた事で広まった「聖母と軽業師」という短編小説に
基づいた話を書きます。
従妹の父親が生前「この本は読んでおきなさい」と言っていた謎の本。
私の婚家の身内は誰一人知りませんでした。
従妹の父親の一周忌も終わり、彼女はこの本を手元に置いておきたいと思った。
一人は運よく手に入れる事ができた。
残る一人は東京に上京の際に、自分自身の強い意志のもとに早稲田・神田神保町を捜した。
彼女は私にとって何か心の糧になればと思い、その本を薦めてくれた。
そして私もその話を聞いて、読んでみたいと申し出た。
ついに上京2日目に神保町でなんと2冊get!
そして私の手元に一冊のぼろぼろの本がやってきた。
それがこの本↓首を曲げて見てね♪
昭和9年印刷、定価20銭、根性で本の形態を留めてるような。。。
どういった経緯でこんな古い本が残っていたのだろう?と、思わせる本デス。
*あらすじ*
主人公バルナベは街から街へと流れていく軽業師。
定住する事も出来ない軽業師は、最も蔑まれる職業だった。
大きな布を広げ、陽に輝く銅の珠(たま)を6つ、逆立ちになったまま両脚で
宙に投げたり受け止めたり。
頸が踵に触れる程仰向けに反り、体を一つの輪の様にして、その姿勢で12本
の小刀を使う軽業をして銅貨・銀貨を投げてもらい暮らしの糧にしていた。
だがバルナベはとても貧しかった。
立派な業を見せるには太陽の熱と光が必要だった。
冬になると陽は閉ざされ、寒さと飢えに苦しみ、ただじっと耐えていた。
バルナベは富や境遇の不平等、隣人の妻を羨む事は一切なかった。
ただ正直に神を畏れ、聖母マリアを非常に信心している善人だった。
教会に行き、マリア像の前に膝まづき祈りを捧げる事を欠かしたことはなかった。
飢えながら寝る場所を捜し、身体を曲げ悲しげに歩いている時、
一人の修道僧に出会う。
バルナベは修道僧に
★「軽業師も毎日食べる物に事を欠かなければ、世界中で一番結構な職です。」と言うと、
修道僧は
★「僧の職より他に一番結構な職と云うものはありません。」と答える。
そこでバルナベは自分の言葉を修道僧に素直に詫びる。
その修道僧は学もなく貧しい軽業師だが、話をしていく内にバルナベの純朴さに
打たれ修道院に入る事を勧め、バルナベは軽業師の職を捨て、悦んで神に奉仕する身となる。
そこには写本の製作や挿画、歌を創る者、薬草の育成、祭壇の彫刻を彫る僧達がいた。
だが、日を追うごとにバルナベは自分の無学と単純さを嘆き、悩み苛んでいった。
ある日、修道僧達が一人の無学な僧の話をしていた。
その僧は「アヴェ・マリア」と云う言葉しか唱えられず、僧達から蔑まれていた。
無学な僧が死んだ時に「Maria]の5文字を表す5凛の薔薇の花が出てきた。
その事で無学な僧が、実は高徳であったのが分ったと云う話をバルナベが知った。
その時からバルナベは自分が聖母に出来る事を悩み続け、やっと一つの道に辿り着いた。
その日から人けのない時に礼拝堂で聖母のために軽業をし続けた。
毎日、礼拝堂にこもるバルナベを怪しむ僧が、中の様子を伺うと
そこには軽業を一心不乱にやっているバルナベがいた。
驚愕した僧達は修道院長に告げ口をし、バルナベを礼拝堂から引き摺り出そうと
した時、祭壇から聖母が降りて来て、聖母の青いマントでバルナベの汗を拭いた。
その有様が3人の僧に見えたと云う伝説です。
この伝説はヨーロッパではオペラで上映されたり、本として読まれたり、
最近では童話にもなっているものでした。
こてこての宗教色の強いものと感じると思います。
私はこの「聖母と軽業師」を読んだ時、一番心を捉えたのがバルナベが初めて
修道僧と会った時の★この対称的な会話です。
バルナベは無学ですが「どう生きるのが自分にとって最良なのか」を無意識に
感じ取っていたと思うんです。
方や修道僧は「どういう手段で生きるのが最良なのか」と思い巡らしている
ように見える。
誰もがが「生きる事の意味」で突き当り、深い穴のような苦悩を抱え喘ぐ過程を、
軽業しか出来ず最も蔑まれた職業のバルナベと高い地位の僧の対比させる事で
「どう生きるのが自分にとって最良なのか」を浮き彫りにしている作品だと思いました。
私のこの解釈が正しいとは限りませんが、何故かこの短編集を読んで
心がすっとした事は確かです。
感覚で生きている私には、船で例えると錨のようなものを得た感じです。
この本に導いてくれた貴女と亡き父上に感謝いたします。ありがとう!
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