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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

秋山紀行 4

2008年01月10日 | 雑記
牧之が秋山郷を訪れたときに、何軒かの家の前では稲が作られはじめていたそうですが、それはいずれも陸稲(おかぼ)で、秋山郷に水田が現れるのは、明治に入ってからのことでした。今では、秋山郷から津南町、十日町市などの旧・妻有庄の南越後はコシヒカリブランド米の生産地として有名なのですが、これは昭和後期からのことです。稲(米)が作られていなかったというのは、いろいろな影響があり、単に米が食べられなかっただけではなく、米はそもそも年貢として納めるものなので、それがなかったわけです。古くは会津藩の支配地であったそうですが、藩は最後は支配下から手放しています。また藁も当然なかったわけで、秋山郷の人々は草鞋を履く習慣がなく、みな裸足の生活をしていました。家の中は藁筵(わらむしろ)がひいてあったのですが、藁は高価なので、どれもちぎれたものでした。

秋山郷には往時は15村あったそうですが、天明の大飢饉の時一村全員が餓死し、牧之が訪れたときは、人が生活している村は11村115軒です(湯本 今の切明は湯治場で村民はいないので除いています)。このうち長野県に属しているのは3村60軒、残り新潟県側となっています。性は山田、福原のみとなっていました。現在、長野県側秋山郷(栄村)の世帯数は144世帯で6集落に350人ほどの人々が暮らしていますので、人口や世帯数でみると江戸時代よりも増えていることになります。秋山郷は大正時代に入り水力発電所建設工事が起こり、津南町からの軽便鉄道が敷設され、朝鮮人労働者が多数動員され、切明に一時4000人ほどが住んでいた時期がありましたが、発電所の完成とともに、労働者は去り、軽便鉄道も廃止されました。朝鮮人労働者といえば、戦時中、松代大本営造営にあたり多数の強制労働があったことでも有名ですが、こういった事例は以外に多く、旧切明発電所においての工事が強制労働であったかは分かりませんが、身近なところでは、上田から鳥居峠を越え群馬県に入ったところにある、某電力会社管理の巨大な人造湖などもそうで、何人も工事に伴い命を落としているそうです。
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