今年の「風の盆」のおり鏡町の沢田カメラで販売されていた、数量限定の福袋を購入した。
そこに入っていたのは、沢カメの老主人の手作り思われる詩の書いた小さな色紙飾額と35年前の越中八尾観光協会発行の小冊子「民謡 おわら」であった。
冊子は全面カラー印刷の20ページ程度のもので、表紙は上新町通りで女性の踊り手3人がポーズをとっている。今ならこのような踊り方はしないだろうと思いながらよく見ると、上新町商店街の雪洞に銘酒城ケ山の字が見える。そうのようなお酒は今まで知らなかったので今もあるのだろうかと疑問に思う。
次に冊子をめくるとおわら絵師として著名な林秋冶の挿絵。彼の絵は、おわらの楽しさを今に伝えるものである意味、おわらの大変な功労者であるのだが、この絵の女性が左手を顔に向け手をかざすポーズと水色の浴衣に見慣れないものを感じていた。
次のページは恐らく聞名寺から下新町通りを写したもので、下新町の見慣れた赤い浴衣の踊り子が深い紺色の浴衣を着た地方の周りで輪踊りをした写真で、今もほぼ同じ光景である。
問題は次のページの写真で、どこの通りかわからないのだが、センターラインのある道幅の広い通りで(東町か)地方三味線と歌い手数人が座りながら、その前でおわらを踊っている鏡町女子の衣装が今の雲の衣装ではなく、左肩の染めが白黒の小さな格子模様で、太股からひざ下までの部分に白地に黒の絵が書かれている。
またページをめくると、小さな写真に上新町女子2名を写してあるのだが、こちらは現在と同じ薄いピンク地に模様の入った衣装である。
更にページを進めると、おわら踊りの写真入の解説ページがあるが、おそらく当時の保存会の衣装であろうと思われるが、こちらも若干現在と違っている。驚いたことに、女子新踊りの解説ページには、林秋冶の挿絵と同じ水色の衣装の女性が映っていた。
小さな冊子ではあるが、良く見るとこのように35年の歳月によりいろいろな部分で現在と少し変わってきていることが読み取ることができる。発行年月日が入っておらず正確には何年前のものかはわからないのだが、広告にトヨタクラウンが出ており、その車の型式から発売年月が類推できる。
さてこの冊子で最も扱いが微妙で今では考えられないものが、「風の盆」という名称で、この冊子の表題からして、風の盆の字は出てこない。おかしいと思い当時のJRポスターを見るとちゃんと「おわら風の盆」となっているのであるが、冊子の名称は民謡おわらである。当時はまだまだ全国的にご当地民謡ブームが続いていたのである。
次に同冊子の広告に目を向けると、ますのすしの「源」や和紙の桂樹舎、上新町で和紙の土産を販売している八尾民芸紙業社など、多くは現存するものであるが、当時と名前が変わっているものも見つけることができる。
それは西町の福鶴酒造の広告のところで、銘柄名が「福鶴」となっていることである。現在も「福鶴」という清酒は1種類あるのであるが、同社の現在のメイン商品は清酒「風の盆」シリーズなのである。私はこのお酒が大好きで、毎回購入するのであるが、今までこの醸造所名をとった福鶴という清酒があるのは知らなかった。 さて、冒頭に紹介した、銘酒「城ケ山」であるが、先日月見のおわらで八尾へ行ったときに明日香の正子さんに尋ねたところもう何年も前に造酒屋を廃業したとのこと。元々上新町にあったそうである。
冊子の後ろのページに「やつおのみどころ」と題したページに曳山祭、八尾の和紙、聞名寺と続いて、国宝法華経曼荼羅の本法寺の紹介があり、これも初耳であったので、今回2日目の午前中に場所を聞いて行ってみることにした。出かける前に事前知識を少し明日香で仕入れたのだが、なんでも聞名寺よりも大きくはないが、広い境内で子供の頃蟻地獄を見つけて遊んだ思い出があるとのこと。
秋の爽やかな本法寺に私がいた数時間 人一人おらず、あり地獄は見つけることはできなかった。
そこに入っていたのは、沢カメの老主人の手作り思われる詩の書いた小さな色紙飾額と35年前の越中八尾観光協会発行の小冊子「民謡 おわら」であった。
冊子は全面カラー印刷の20ページ程度のもので、表紙は上新町通りで女性の踊り手3人がポーズをとっている。今ならこのような踊り方はしないだろうと思いながらよく見ると、上新町商店街の雪洞に銘酒城ケ山の字が見える。そうのようなお酒は今まで知らなかったので今もあるのだろうかと疑問に思う。
次に冊子をめくるとおわら絵師として著名な林秋冶の挿絵。彼の絵は、おわらの楽しさを今に伝えるものである意味、おわらの大変な功労者であるのだが、この絵の女性が左手を顔に向け手をかざすポーズと水色の浴衣に見慣れないものを感じていた。
次のページは恐らく聞名寺から下新町通りを写したもので、下新町の見慣れた赤い浴衣の踊り子が深い紺色の浴衣を着た地方の周りで輪踊りをした写真で、今もほぼ同じ光景である。
問題は次のページの写真で、どこの通りかわからないのだが、センターラインのある道幅の広い通りで(東町か)地方三味線と歌い手数人が座りながら、その前でおわらを踊っている鏡町女子の衣装が今の雲の衣装ではなく、左肩の染めが白黒の小さな格子模様で、太股からひざ下までの部分に白地に黒の絵が書かれている。
またページをめくると、小さな写真に上新町女子2名を写してあるのだが、こちらは現在と同じ薄いピンク地に模様の入った衣装である。
更にページを進めると、おわら踊りの写真入の解説ページがあるが、おそらく当時の保存会の衣装であろうと思われるが、こちらも若干現在と違っている。驚いたことに、女子新踊りの解説ページには、林秋冶の挿絵と同じ水色の衣装の女性が映っていた。
小さな冊子ではあるが、良く見るとこのように35年の歳月によりいろいろな部分で現在と少し変わってきていることが読み取ることができる。発行年月日が入っておらず正確には何年前のものかはわからないのだが、広告にトヨタクラウンが出ており、その車の型式から発売年月が類推できる。
さてこの冊子で最も扱いが微妙で今では考えられないものが、「風の盆」という名称で、この冊子の表題からして、風の盆の字は出てこない。おかしいと思い当時のJRポスターを見るとちゃんと「おわら風の盆」となっているのであるが、冊子の名称は民謡おわらである。当時はまだまだ全国的にご当地民謡ブームが続いていたのである。
次に同冊子の広告に目を向けると、ますのすしの「源」や和紙の桂樹舎、上新町で和紙の土産を販売している八尾民芸紙業社など、多くは現存するものであるが、当時と名前が変わっているものも見つけることができる。
それは西町の福鶴酒造の広告のところで、銘柄名が「福鶴」となっていることである。現在も「福鶴」という清酒は1種類あるのであるが、同社の現在のメイン商品は清酒「風の盆」シリーズなのである。私はこのお酒が大好きで、毎回購入するのであるが、今までこの醸造所名をとった福鶴という清酒があるのは知らなかった。 さて、冒頭に紹介した、銘酒「城ケ山」であるが、先日月見のおわらで八尾へ行ったときに明日香の正子さんに尋ねたところもう何年も前に造酒屋を廃業したとのこと。元々上新町にあったそうである。
冊子の後ろのページに「やつおのみどころ」と題したページに曳山祭、八尾の和紙、聞名寺と続いて、国宝法華経曼荼羅の本法寺の紹介があり、これも初耳であったので、今回2日目の午前中に場所を聞いて行ってみることにした。出かける前に事前知識を少し明日香で仕入れたのだが、なんでも聞名寺よりも大きくはないが、広い境内で子供の頃蟻地獄を見つけて遊んだ思い出があるとのこと。
秋の爽やかな本法寺に私がいた数時間 人一人おらず、あり地獄は見つけることはできなかった。