抗し難い自己告白の魔力をひっさげてルソーが「告白」を著して以来、宗教上、政治上の理由で従来自己を公にすることは禁じられていた世界が急速に変容して行きます。それは文学のみならず、音楽、絵画など芸術のあらゆる分野に広がって行きましたが、自然の模倣から始まった西洋文明にとってそれは陥りやすい罠でもありました。自己告白は自己主張を生み、その先にあったのは退廃・空虚な世界観であるとは当時からゲーテがベェートーベンの第5交響曲から聞き分けていたという主旨を、小林は「モーツゥアルト」の中で述べています。小林自身は、「私小説」とは「Xへの手紙」にて早くも決別しましたが、その後は批評という形で自己を語るスタイルに変容して行きます。小林は私小説で、告白を止めたのではく、さらに巨大な歴史の中に自己を置き、己の視点で他者をも自己の中に存在するものとして扱い、歴史を、対象をあたかも「思い出すように」扱う姿勢で自己表現をして行きました。
学生の頃「一ツの脳髄」「女とポンキン」などの小林の初期創作を好んで読んだ時期があり、小説と自意識の扱いというものについて考えたのですが、年々その気持ちは薄れています。一方「私小説」は単に分類上、「純文学」として名前を変えて細々と生き残ってはいますが、私は小林以降の作品は全く読まなくなってしまいました。
タブー視されていた自己告白は自己主張の陥穽に落ち、ついには自己満足の世界の内で完結してしまっている現在、村松真理の「ピクニック」は新たなる動機を持って台頭してきている、そんな予感を持たせてくれる作品に仕上がっています。この文を書くにあたり再度読み直してみましたが、ストーリーを辿ることよりも、今回はより注意してその細頸なニュアンスを読み取ろうとしましたが、文章が持つ力と感覚は更に大きく響いてきました。
八尾では前夜祭がはじまり、風の盆が秒読みとなっています。
マリンタワーは1961年の建設で当時はもっとも高い灯台であったそうです。
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関帝廟
三国志の関羽運長は信義に厚く、武勇に秀でおり、大変魅力的に描かれているが、現在は商売の神様として、中華街で信仰の対象となっています。三国志は劉備玄徳、諸葛孔明、孫堅など登場人物がいづれも魅力的ですが、三国志演義では悪者として扱われている曹操に対する評価が近年上がってきています。やはり三国志中の真の英雄は曹操なのですが、曹操の的な一面までも正当化しようとする動きは、おかしく、ある意味、悪意ある意図を感じます。
8月の盛夏の日、北鎌倉駅から円覚寺を見て、東慶寺に向かう。円覚寺の堂々たる大僧堂を見た後なので、東慶寺は余計こじんまりとした印象の寺であるが、かつては尼寺であった為か小さな寺ではあるが、どことなく温かみのある、封建時代にあっては数々の女人救済を発願した威厳さと落ち着いた佇まいが今も残っている。
この東慶寺に小林秀雄の墓所がある。受付で場所を聞くと、すぐに墓所の位置図を見せてくれた。29歳の頃より鎌倉に居住した小林が晩年近くに友人の紹介で墓所を取得し、こちらを小林家累代の墓と定めたのだが、他に西田幾多郎や鈴木大拙など多くの文人が眠る寺でもある。
参道を進み、左折して少し行った右側に小林家と小林の字で書かれた銘石があり、その斜め後に墓石の石造りの五輪塔がある。こちらは生前小林が関西の骨董店で見つけ、長く自宅の庭に置いていたものである。昭和58年の「新潮」小林秀雄追悼号に小林が自宅のテラスに置かれた椅子に腰掛けて、犬と遊んでいるいる写真が載っているが、その背景に芝の庭の縁の部分、植え込みの前に、恐らく家側がら見ると庭の正面に、この五輪塔が置かれていることになる。戦後骨董店で見つけたときから、小林はこの塔を墓石にするつもりでいたが、毎日、庭に置き眺めていたところをみると、この石塔をどれだけ気に入り、愛していたかが想像できるものである。この五輪塔は鎌倉時代初期のものと見られ、現在の箱型の墓石が普及してきたのは江戸中期からなのであるが、かつては墓石を作ることができる階層の人々にとっては一般的な形のもので、小林家の墓石近くにも五輪塔を唐櫃に持つ家が見かけられた。五輪塔は宇宙の根源要素として、上から空、風、火、水、土を体現したもので、日本では空海の密教思想の流れを汲むもので、その後宮本武蔵が五輪書を書き著すなど、多くは宗教的、精神的意味合いも有していた。
さて、こちらの五輪塔は多くの武将の墓として用いられたものと比べ、大変小さなもので、いかにも骨董店の店先にありそうな大きさなのだが、あまり大きな墓石はこの東慶寺には似合わない。若い頃から教祖の文学と言われ、その後は批評の神様と呼ばれるなど半ば生前から神格化されていた巨大な思考と思想から見ると、儚げないような大きさの墓石であるが、小林の思索の足取りを辿れば、決してそれは想像できないものではない。 「もののあわれ」に関する小林の解釈で、本居宣長の「敷島のやまとこころを人問わば、朝日に匂う山桜花」についての解説があるが、この中で宣長が言いたかったのは山桜ではなく、その小さな花そのものであるという。又、山桜の花が美しいのは花と葉が同時に開くことであるとも言う。小林の美学は徹底している。
「願わくば花の下にて春しなむそのきさらぎのもちづきの頃」 西行に関する文章の中で、西行最後の場面として描写した小林であったが、それは又自分の願いであったに違いなく、その願いは時代を超え、25年前の3月1日、病室に飾られた桜の枝の蕾が開いたその日、小林秀雄は80歳の生涯を閉じました。
東慶寺を出て右折し、そのまま長い登り坂を建長寺へ向かう。建長寺手前の売店で水を買い小林秀雄の旧宅の場所を尋ねるが、知らないという。ただもしかしたら八幡宮の後ろの山の方ではないかとのこと。建長寺は鎌倉五山の筆頭で、臨済宗の総本山としての風格と格式のある寺で、特に寺院内の額に掲げられた「天下禅林」の言葉が印象に残る。建長寺を出て左折するとやがて坂は緩い下り坂になるが、ジリジリと真夏の太陽が容赦なく降り注ぐ。鎌倉方面へ向かう海水浴と観光客を乗せた車の渋滞が続いているが、古都散策か歩く人の数も多い。目的の場所はすぐに判った。判ったというよりもここら辺りでないかと思い、街道からわき道に入ったのだが、入ってすぐのところにある瀟洒なお宅でご夫人がちょうど庭の手入れをしていたので声を掛けると、そこをまっすぐ行って左に登って○軒目だと教えてもらう。礼を述べしばらく歩いて行くと、暑い中、彼女が後ろから走ってきて、「今は○○さんの表札になっています」との事。丁寧に礼をいい、その通りに進むと道はかなり急勾配になり、足に力が入る。
こちらの旧宅は小林自身に山の上の家と呼ばれ、石垣の上に建つ邸宅であるが、塀で巡らされ中は見えない。この地には、昭和23年小林46歳の時から昭和51年、74歳の時まで住んでいた。かつてこちらの庭に五輪塔があり、体力上の問題で、鶴岡八幡宮の下へ転居後、東慶寺に移すことになるが、いずれも石段の上に五輪塔がある。どことなく東慶寺の山門と山の上の家は似ていることが判る。又、この坂道は大変な急坂で、若い頃ならまだしも、70過ぎた方の足には相当負担であったに違いない。そう思いながら、坂道を下り、鶴岡八幡宮に向かう。山の上の家時代は、東京への往復はもっぱら北鎌倉駅を利用していたようであるが、寺社に囲まれたこの地を歩くのは気持ちが良い。
鶴岡八幡宮へは、通常鎌倉駅からのコースだと、こちらも急階段を上ることになるが、今回は上の道から直接本殿に入るコースなので下るだけで楽である。途中、実朝が暗殺された時、公暁が隠れていた大銀杏を見るが、現在の銀杏は何代目のものなのか。銀杏はすぐに大木となるので、当時のままの木だとすると小さすぎると思いながら、石段を降り、八幡宮を左折する。小林の転居先住所は同じ鎌倉市雪の下であるが、こちらは全くの平坦な地で、鎌倉駅にも歩いて10分もかからない程で着く距離のところにある。
食にも大変なこだわりがあった小林秀雄ですが、まだ貧乏学生だった頃、毎日納豆をおかずにしていた時期があり、安い納豆ではあるものの、その中でも多少は値段は高いが自分が納得する味の店で納豆を買い続け、かき回す回数も一番納豆がおいしいのは30数回と決めそのとおり実行していたそうです。そんな食通の小林が鎌倉で通っていた店は那須良輔氏によると、うなぎは由比ガ浜の「つるや」、鮨は「大繁」、天ぷら「ひろみ」、そして小料理屋は「なか川」(いずれも小町通り…現在もあります)だったそうです。朝9時に北鎌倉を出て、鶴岡八幡宮前の晩年の小林邸があった場所を確認すると、時間はちょうどお昼時だったので、そのまま小町通りの「なか川」へ。こちらの店は現在はたまご焼きが有名で、お土産として販売もしていますが、旬の魚などの食材を丁寧に料理してあり、近年の観光客相手の店ではなく、長年地元の人々を相手にしてきただけのことはある料理でした。カウンターで料理をしていたマスターは、かつては小林にさんざんやっつけられたはずの人ですが、素直ないい味付けので料理に人柄が出ているようです。小林は、どんな店でもおいしい店かそうでないか、玄関を見れば判ると言っていたそうですが、その理由がおもしろく、前述の那須良輔氏の小林秀雄の回想(好食相伴記、新潮小林秀雄追悼記念号昭和58年)によると、「食欲ってもんのはね、最も低級な欲望なんだ。最も原始的な欲望なんだ。それをごたいそうに頭で飾り立てたような店がうまいわけないじゃないか」と話されていました。
今回、北鎌倉から鎌倉駅まで小林秀雄が日常歩いていた道を見てきましたが、山の上の家の前には扇ケ谷、佐助にも住んでおり、元々、母親の療養の地として東京から鎌倉に来たのですが、その後も住み続けます。そんな鎌倉の魅力は何だったのか。同時代に里見 、久米正雄、川端康成、永井龍男、大佛次郎など文士が鎌倉に集まっていたということもありますが、一番はやはり実朝かな、とも鶴岡八幡宮の大銀杏の横を眺めながらふと思いました。