ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

微妙

2019-05-28 12:14:10 | 日記
トランプ大統領の乗った車を見た。
乗ったヘリのドアが閉まるのも離陸も見た。

でも本人は見ていない‼
(微妙な自慢だ。)

「考えること」について

2019-05-28 02:00:30 | コラム
(「考えること」について考える機会があったのでこれはじっくり考えなければならないと考え、そして考えたものをまとめてみようと考えた。)


かつて「2番じゃ駄目ですか?」という言葉が話題となった、あの事業仕分けにおける困難の一つには「考えない人に考えることの重要性を説く」というほぼ不可能に近い点があったのではないかと思う。そういった場合、学者や研究者などの「考える人」は最後の手段として「有用性」を根拠として挙げることとなる。あの時私は学校教育で「考えること」を教えてこなかった長年のツケが回って来たのではないかと思ったものだ。

なぜ「考えること」は重要なのか。一つには社会とのかかわり方、人とのかかわり方がより良くなるからだ。考えなしの無鉄砲な人のする行動はニュースを見ればすぐにわかるだろう。煽り運転などはそのわかりやすい例だ。誰かの配慮に欠けた言動がどれほど周囲を傷つけ当惑させるか、不用意な発言一つで利害に大きな影響が出る等は誰しも経験があるのではないか。考えなしの人の大きな特徴の一つに人の話を最後まで聞かない、聞いていられないというのがある。これは見事なまでに比例している。もちろん考えなしの人でも礼儀上の観点から最後まで聞いている人もいるだろうが、たいていは最後まで我慢できないようだ。そしてやたらと大声を出す傾向にある。一方で熟慮は後先を考えた慎重な行動や思い遣りのある言動となって実を結ぶ。

社会のかかわり方を考える上で忘れてはならないのが、流されない、騙されない人になる事がある。「それは本当か」「正しいのか」こうした問いを常に自らの中に持ち続けることは自分自身にとって、また社会の健全性を保たせる上で大きな意味を持つ。フェイクニュースが広がる時代に生きる私達ならば注意深く考えなければならない。「イルカの大量死は大地震の前触れ」「千葉の化学工場で爆発があり有毒ガスが拡散中」災害時にこうした怪しげなデマをSNSやメールに乗せて「考えなしに善意で」広めた人の存在は記憶に新しい。

しかしもっと考えなければならないのが世の中の動きや仕組みを見つめることだろう。
「大学出の人間が嫌われるのは世の中の仕組みを見つめ直して既存のものを壊すから。だから大学は危険なことを教える所なんですよ。」大学に入学早々、学部長はこのように新入生である私達に言った。それが学生を発奮させるための意図を含んでいたにしてもやはり真実だろう。権力者にとって最も都合がいいのは情報や既存の仕組みに疑いを全く持たず鵜呑みにする人間である。世の中を構成する一つ一つを見つめ直し検証して発言する人間が多数いることは、少なくとも手間が掛かり厄介だ。ジョージ・オーウェルは『1984』の中で、考えることが罪である管理社会の恐怖を描いた。その中で新しい世代(子供たち)を、自分の頭では何一つ考えない一方で党の言うことにまったく疑いを抱かない暴力的な恐ろしい存在として描かれている。

「でも、文化人類学にあるような、僻地のかまどの向きの研究にどのような意味があるのか」との意見もあるかもしれない。何もその研究者もかまどの向きだけを研究している訳ではない。かまどの向きに至るまでに、まずその地域の歴史や文化、社会構成や気候を知る作業がある。その過程での知識や研究が一般社会で「役に立つ」ことも無論ある。そうした研究者でもなければ僻地の文化を知ろうとする人はいないかもしれないのだし。

しかし大事なのは損得でない、純粋な「知りたい」はとても強いということだ。それは欲や偏見の目から自由である度合いが高い。「知りたい」から調べて考えているうちにその研究がとても大きなことに繋がっていることもある。

詳細は忘れてしまったが私の友人は「手ぬぐいの柄の余白について」を修士論文のテーマにしていた。初めてテーマを聞いた時は呆気にとられたが友人の懇切丁寧な説明を聞くと、それは湯川秀樹の中間子論にも繋がる非常に大いなるテーマであること、(湯川秀樹まで広がらなくても)日本人のものの考え方を知る事に繋がる意義ある研究だということが素人の私にもわかってきた。当たり前だと思われている、疑問にすらされていないことを掘り直して検証し、もう一度そのありようを浮かび上がらせる。それは社会で日本人が、自分が、対象がどこにいるのか、どういう存在なのか、特徴は何なのか、今まで言われているような日本人像は本当なのか等を問うことになる。つまり既存を問い直し、時にそれまでの常識を覆して社会を変えることにもなるかもしれないのだ。確かにある人々にとっては危険なことだろう。

しかし「考えない人」はそれに何の意義があるのかがわからない。「それ、大事なの?」「うんうん、だから結局は社会の役に立つって話でしょ。」そうした言葉であっさり片付けられてしまう。「どう大事なのか」「なぜ大事なのか」を自らに問うことはしない。だから最後には大勢の考えに流されてしまうことになる。大勢の考えと自分の考えとに違和感があることを何となく感じても、それを表明することができない。曖昧なままだから。自分の考えは何か、自分が何者かを説明できない、つまりそういう人の話は説得力がないのである。

考えることの重要な理由のもう一つの答えは、自分自身に向かうものだ。考えることでより良く生きられる、より自分の人生を生きることができる。誰しも人生で困難に立ち向かわなければならない時がある。そうした時、ただ感情的になって騒ぐだけでは何も解決しない。問題は何か、どうすれば解決できるのか。そうした事に一つ一つ取り組み、乗り越える。そのための力が「考えること」だ。人生における武器といっていい。それから忘れてはならないのが人生を豊かにする窓の役割だろう。考えることによって人生の新たな窓が開かれ、新しい世界に常に触れることができる。「考えること」で私達は無限の世界と繋がっている。